地獄のような日々を過ごす毎日は、もう散々だった。
私だけがひどい目に遭わなければいけないの?
神様は私だけに不幸を与えるの?
どうしてこんなに――。なんであんなに――。
そこで、私は一つの考えが頭に浮かんだ。
『記憶喪失になって、もう一度新しい人生としてやり直したい』と。
今まで生きてきた記憶を失くせば、新しい人生を歩めるのではないかと。
今まで苦しみ、悲しみ、時には嬉しく、楽しいと感じたこと。すべての記憶を失うことができたら、もう一度、私は私でいられるんじゃないかと思ったんだ。
途中は悲しく残酷な物語だと思えば、最期はハッピーエンドに終わらすことができるような、幸せな人生を歩みたい。
そんな都合の良い、物語のようなことが起こればいいなんて、起こるはずもない奇跡を願っていた。
――私が、私を忘れることができたら。
「わたしは……だれ?」
今度こそ、透明な世界にいる私に手を差し伸べて救い出してくれるのは、誰ですか。
「わたしは……だれ?」
私は、目が覚めると病院のベッドで眠っていた。
何が起きているのか状況を理解できず、日差しが強い窓の外をぼーっと眺める。
私を見ながら、女性と男性、そして女の子が今にも涙を流しそうな表情をしているのが目に入った。
「美雨、美雨! お母さんよ。もう大丈夫だからね、美雨……」
「ごめんな、お父さんたち、美雨の辛さに気づいてあげられなくて……」
「お姉ちゃん……っ」
みう……?
お母さん? お父さん? お姉ちゃん……?
この人たちは何を言っているのだろうと、そう疑問に思った。
涙を流しているこの人たちの、この世の終わりかのような絶望した顔を見るのは、数分後、医者の言葉を聞いたときだった。
「綾瀬美雨さん、だね。美雨さん、自分のこと、分かるかな?」
「……みう? みうって……私のこと、なんですか?」
先程から何度も聞いている、みうという名前の人物。
誰のことを指しているか分からなかったけれど、どうやら私のことみたいだ。
――どうして私ら自分のこと、分からないの……?
「美雨さん、この人たちのことは分かるかな?」
「……わからない、です」
私は首を横に振りながら、そう答えた。
すると目の前にいる人たちみんな、青ざめた表情をした。
「ご家族の皆さん、大変言いづらいのですが……。美雨さんは、記憶喪失になっているようです」
キオクソウシツ。その言葉が頭の中でもう一度再生された。
記憶喪失とは、自分や身内の名前や関係性、物事を忘れてしまうこと……だと思う。
――私は記憶喪失になっているの?
だけど、なぜだろう。悲しむことができない。反対に、少し胸が高鳴ってしまうのはどうしてだろうか。
「美雨……っ、お母さんのこと、覚えてないの!?」
取り乱す女性を、男性がなんとか落ち着かせる。女の子は、ずっと泣き続けたままだ。
この人たちがきっと、私の家族なのだろう。すぐには理解できないけれど、何となくそう思った。
「あまり、美雨さんのことを刺激させないほうがよろしいかと思います。記憶は何かをきっかけに思い出すこともありますが、無理に思い出させようとすると逆効果です」
「じゃあ、美雨は一生思い出せないかもしれないんですかっ……!」
「まだ分からないです。そのまま永遠に思い出さない方も多いですが、突然記憶が戻る方も少なくありませんので。それでは、私は失礼します」
女性医師はそう言って、病室を後にした。
私はベッドから体を起こし、目の前にいる人たちの顔を一人一人見ていく。
だけど何も感じない。初めて会った人にしか思えないのだ。
「美雨……っ」
「えっと……お母さん、お父さん、なんですよね? あと私の妹?」
「お姉ちゃん……!」
女の子は、私に抱きついてきた。涙が洋服に染み付いて、それを見ると心が苦しくなった。
私は女の子のことを、優しくそっと抱きしめ返した。
「えっと、名前は?」
「美空だよ、お姉ちゃん……。忘れちゃったの?」
「うん、ごめんね。そうみたいだね。私……自分のことも、分からないや」
お母さんとお父さんから話を聞いて分かったことは、私は四人家族だと言うこと。妹がいて、その子は小学三年生。
そして、私は綾瀬美雨という名前で、年齢は高校一年生。
ごく普通の女子高生なのだろう。
「気になったんですけど、私、何でここの病院で寝てたんですか? 何で記憶喪失になってしまったのかなって、気になって……」
そう言うと、お母さんたちは一斉に暗い顔を浮かべた。
何か気に障ることを言ってしまっただろうか、と不安になる。
「それはまだ知らなくていいと思うわ、美雨。お母さんたちは、美雨が無理に記憶を思い出さなくてもいいと思ってるの」
「もちろん、まだお父さんたちを本当の家族だと思うのは難しいかもしれないけど、慣れてほしい」
お母さんとお父さんが心配そうに私の頭を撫でながら、そう言った。
『美雨が無理に記憶を思い出さなくてもいい』。
そう言ってくれるのは嬉しいけれど、私はどうして記憶を失ったのか興味がある。
――二人が教えてくれないのなら、自分で探すしかない。頑張って思い出すしかない。
「……はい、ありがとうございます」
「敬語もやめてね、本当の家族なんだから」
「あっ、はい……じゃ、なくて、うん」
何だかお母さんとお父さんの笑みが少しだけ怖く感じたのは、気のせいだろうか。
まだ家族だとハッキリ分かっていないから、きっとそれのせいだろう。
私は念の為、今日から一週間入院することになった。
気分転換に病院の外へ行き、辺りを見渡した。
景色を見れば、もしかしたら何か思い出せるかも、と思ったからだ。
「うーん……」
だけど、何もピンと来なかった。
お母さんたちが言うのは、私は小さい頃からここの病院へよく通っていたということ。
昔からここの病院へよく行っていたのであれば、きっと景色に慣れているはずだと思ったけれど、期待外れだ。
「はぁ……」
「ねぇ、きみ、ここの病院に入院してる?」
突然、背後から声が聞こえた。
振り返ると、同い年くらいの男の子が不思議そうに私を見つめていた。
突然のことで何て答えればいいか分からなかった私は、とりあえず頷いた。
「そうだよね。俺も入院したばかりなんだ。年も近そうだから、声掛けちゃったんだ、ごめん」
――この人も、最近入院したのかな。
仲間がいるような気持ちになって、私はどこか嬉しくなる。
「なんて名前?」
突然に名前を聞かれて、目をぱちくりさせてしまう。
でも答えない訳にはいかなかったので、私は口を開いた。
「えっと、綾瀬美雨……?」
「え、なんで疑問形なの」
「……私、記憶を失ってるんです。自分の名前は教えてもらったけど、全く思い出せなくて」
「まじか」
男の子は手を口に当てて、すごく驚いた顔をした。
その途端にびゅーっと肌寒くなる風が横切る。
重たい前髪で隠れていた男の子の瞳は、私を映している鏡のようだった。
「俺も記憶を失ってるんだよね」
これが、私とあなたの、不思議な出会いでした。
まさか同じ病院で、同い年で、同じく記憶を失っている子に出会えるなんて思ってもいなかった。
端から見たら記憶喪失なんて分からないんだな、と少し安心した。
「俺は藤間 晴人。この近くの高校に通ってるらしいんだけど、まぁ当然、記憶を失ってるから分からないんだよな」
「そう、なんだ……。私も、自分のことも、家族のことも思い出せないの」
「俺も同じ」
何だかあまり話が弾まない。――藤間くんは私と同じように、初対面の人と話すのが苦手なのかな。
藤間くんは空を見上げながら、呟いた。
「俺、早く記憶を取り戻したいんだ」
「……え?」
「早く記憶を取り戻して、学校に復帰したい。家族のことも、自分のことも思い出したい。綾瀬はそうじゃないの?」
私はその返答に迷ってしまった。
藤間くんの真剣な気持ちがとても伝わってくる。何もかも記憶を取り戻して、記憶を失う前の生活に戻りたいんだろう。
でも、私は正直――。
「こわいの」
「え?」
「記憶が戻るのが、怖い。どうしてか分からないんだけどね、私の心が、戻ってほしくないって叫んでる気がするの。記憶がなくなったままの私でいてほしい、って」
私は記憶を取り戻したくないと思っている。
きっとこれは、記憶を失う前の私からのメッセージだ。
「でも本当にそれでいいの?」
「……っ」
「前の綾瀬は、幸せな毎日を過ごしてたかもしれないだろ? それに、忘れられたご家族も、友達も、綾瀬自身もかわいそうだ」
そう言われたら、私は何も言い返せなくなった。
藤間くんの言う通りだったから。
「記憶を失う前、私は何があったんだろう……」
「じゃあ、見つけてみようよ」
「……見つ、ける?」
「あぁ。二人で、お互いの記憶を取り戻してみよう。新しいスタートだと思ってさ」
もちろん、私は怖かった。自分の前の記憶を取り戻すのが。
でもこの人と一緒なら。――藤間くんと一緒なら、どうしてか分からないけれど、きっと大丈夫だと思えたんだ。
私は力強く頷いた。
「うん、記憶、見つけてみる」
「よし、改めてよろしく、綾瀬」
「よろしくね、藤間くん」
私は、ううん、私達は、記憶を取り戻すことを決心した。
「まずはどこの高校に通ってるかだよなー」
「うん、そうだね」
「綾瀬は聞いてないの?」
「聞いてないかな。親と会話したんだけど、何だか本当の親って思えなくて。ちょっと怖くなっちゃったんだ」
それにあの両親の笑顔を見ると、なぜか肩が震えてしまった。どうしてかは分からないけれど。
藤間くんはうんうん、と頷きながら「俺も何となく分かる」と答えた。
「そういえば藤間くんはどうして自分が記憶喪失になっているか聞いているの?」
「あぁ、何か、電車のホームに足を滑らせて転落しちゃったみたいなんだ。それで間一髪電車に轢かれずには済んだけど、頭を打っちゃって」
「そう、なんだ」
藤間くんは親から色々聞いているんだ。なのに私は自分のことを何も知らない。
早く思い出さないと、って考えると胸がぎゅっと苦しくなった。
「私は聞いたけど……まだ教えてくれなかったの」
「まだって?」
「まだ知らなくていいって言われちゃったの。でも私のことを考えて言ってくれてるのかなと思うと、喉に言葉が詰まっちゃって……」
私が思い出すと、つらい思いをしてしまうかもしれないから。
きっとそう考えて、お母さんたちは私に言わないでいようと思ったんじゃないかな。
「そっか。でも、もし記憶を取り戻したら、いつかは事実を知ることになる。だから知りたいと思っているなら、やっぱり聞くべきなんじゃないかな」
「……うん、そうだよね」
「きっと勇気がいると思うけど、両親に本音を伝えることは大切だよ」
藤間くんに私の心の気持ちを代弁してもらったようで、何だか自分が恥ずかしくなる。
お母さんたちに気持ちを伝えないと、と改めて思う。
「綾瀬はいつまでこの病院に入院してるの?」
「えっと、一週間かな」
「本当に! 俺もそう。俺たち似た者同士だなぁ、綾瀬がいてくれて良かった」
そんな台詞を照れずにサラッと言う藤間くん。
――そんなこと言われたら、言われた私のほうが照れちゃうよ。
なんて気持ちを心に閉まった。
「じゃあ私がどこの高校に通っていたか、後でお母さんたちに聞いてみるね。教えてくれるといいんだけど」
「大丈夫、だって自分の両親だろ? 娘のことは大切に思っているに違いないって」
「……うん、そうだね。色々とありがとう、藤間くん」
私がそう言うと、藤間くんは「礼なんていらないから」と答えた。
少し藤間くんの頬が赤く染まって見えたのは、きつね色の空が広がる夕焼けがとても美しいからだろうか。
私は藤間くんに「おやすみ」と言って、病室へ帰った。
病院はご飯や就寝の時間が決まっていて時計を見て行動しないといけないから、少し体が疲れてしまう。
「あっ、美雨!」
「どこへ行ってたんだ?」
お母さんとお父さんが心配そうに、私の顔を覗き込んだ。
確かに、いきなり目を覚ました娘がどこかへ行ってしまっていたのだから、そりゃあ不安にはなるだろう。
私は反省して、二人へ向かって頭を下げた。
「ごめんなさい、ちょっと景色を見に外へ出てたの」
「……そうか。でもお父さんたちは美雨が心配なんだ。もう勝手に病室からは出ないでくれ」
「え……」
予想外の言葉に、私は唖然としてしまう。
それってもうずっと病室へ居ろと言っているのだろうか。
それはおかしいと思ってしまった。いくらなんでも過保護すぎる気がする。
「で、でも、心配しないで。私はどこにも行かないし。ただ病室のお庭に行くくらいだめですか?」
「うーん……」
「ねぇ、パパ、お姉ちゃんがかわいそうだよ」
私が気持ちを伝えても頷いてくれなかったが、美空ちゃんがそう言うと、お父さんの顔が先程よりもパッと明るくなった。
――なんだろうか、私と美空ちゃんに、少し差がある気がしてしまうのは。
「そうだな。美雨もきっと退屈だろうし。お父さんたちは毎日美雨のお見舞いに来るけれど、それ以外は庭くらいなら行って構わない」
「……ありがとう」
何とか納得してもらえたものの、私は内心、心から安心できなかった。
お父さんたちに私の本音を伝えても、分かってくれなそうな気がしたから。でも美空ちゃんの言葉には顔色を変えるくらい、私との差がある。
どうしてだろう。それがずっと気になってしまって、夜はなかなか眠ることができなかった。
ベッドから体を起こし、うーんと背伸びをする。
カーテンを開けると、昨日と同じくらいの眩しい日差しが目に入った。
「気持ちいいなぁ」
今は七月らしく、毎日三十度を超える暑さが続いているけれど、私は晴れが好きだ。
太陽は、人の心までぽかぽかにできるから。太陽を見ると、私はすごく元気になれる。
『雨は――大嫌い』
その言葉が脳内から聞こえて、頭がズキン、ズキンと痛くなる。
雨は大嫌い。そう言ったのはたぶん――私。
少しずつだけど記憶が戻っているのかもしれない。なんとなく、だけど。
「失礼します」
コンコン、とドアを叩く音が聞こえた。
見ると昨日の女性医師が私の部屋に足を踏み入れていた。
「美雨さん、おはよう。私は美雨さんの担当医師のトウマといいます」
「あ、は、はいっ」
――あれ。この人の苗字のトウマ、って藤間くんと一緒だ。
ふと気がついて思う。漢字は分からないけれど、同じ苗字だなんて偶然だなぁ、と思った。
「美雨さんは高校一年生で、雲ヶ丘高校に通ってるんだよね」
「くもがおか、高校……?」
「もしかして、ご両親から聞いてないのかな」
「……はい」
トウマ先生が言うには、雲ヶ丘高校と言うのはここの近くの名門校らしい。
もしかして私、結構優等生だったのだろうか、なんて思う。
「美雨さんはお母さんやお父さん、妹さんの四人家族だよね。まだ思い出せてはいない状況かな?」
「はい。自分のことも分からないし、家族のことも思い出せなくて。何だかすごく申し訳なく感じちゃって」
トウマ先生は「そうだよね」と少し悲しげに呟いた。
「無理に思いだそうとしないで、ゆっくりでいいからね。記憶が戻るかもしれないし、戻らないかもしれない。でも美雨さんは美雨さんなんだから、自分のことを一番に大切にしてね」
「……はい、ありがとうございます」
何だか雰囲気が優しくて穏やかで、素敵な先生だ。トウマ先生が私の担当医師で良かったと思う。
『記憶が戻るかもしれないし、戻らないかもしれない』
この言葉を聞いて、私は少し不安になった。もし思い出せなかったら、また人生をやり直すしかないから。
――きっと、大丈夫だよね。そう心から強く思った。
「何かあったら、遠慮なく言ってね」
そう言って、トウマ先生は部屋から出ていった。
お母さんたちはまだお見舞いに来ないから、それまでやることがない。だから私は真っ先に庭へ向かった。
外の空気は美味しくて、やはり気温は暑いけれど、とても気持ちのよい朝を感じられる。
「あ、綾瀬」
「藤間くん……! おはよう」
私とほぼ同じタイミングで、藤間くんも庭へ来た。私の座っていたベンチの隣に腰を掛ける。
――当たり前だけど、何だか距離が近くてドキドキしちゃう。
「俺、通ってる高校分かったよ」
「えっ、私も。藤間くんはどこ?」
「雲ヶ丘高校ってとこらしい。この近くの共学校で――」
「ちょ、ちょっと待って。私も雲ヶ丘高校って言われたの……!」
お互い目を合わせて、何度か瞬きをする。
信じられないことに、私たちは通っている高校も同じだったのだ。
クラスまでは聞かなかったからわからないけれど、もしかしたら私たちは――。
「記憶を失う前、知り合いだったかもな」
そう。私たちは記憶を失う前、知り合いだった可能性があるのだ。
確かに私は藤間くんと話すのがとても楽しい。藤間くんも私がいてくれて良かった、と言ってくれた。
自分で言うのもどうかと思うけれど、気が合っているのは確かだ。
「そっか……。綾瀬と友達だったかもな」
「うん、そうだね。藤間くんと友達だったら、学校生活も充実してるだろうなぁ」
「そうかな。俺なんか、いてもいなくても変わらないと思うけど」
それはどこか私の胸にズシン、と響いた。
重くて苦しい、マイナスな言葉。だけど私の心にとても響いた。
「……そんなこと、ないよ。藤間くんがいてよかったって、思ってるよ」
「そうかな。そう言ってくれるとちょっとだけ、自分の居場所を保てる気がした」
「居場所?」
「うん、居場所。自分は綾瀬の隣にいていいんだって、思える」
私の隣にいていい……?
――って、何だかその言葉、告白に聞こえちゃうんだけど!
もちろん、友達って意味だよね。それは分かっているのに自惚れてしまった。顔から火が出そうなほど恥ずかしい。
「う、うん。もちろん、私は藤間くんのこと大切な友達だと思ってるよ」
「俺も。まぁ、もしかしたら記憶を失う前も友達だったかもしれないけど」
「あははっ、そうだね」
もしかしたら、じゃなくて、きっと私たちは記憶を失う前も友達だったと思っている。
分からないけれど、何だかそんな感じがする。藤間くんと話していると、あたたかい気持ちになるから。
「記憶、戻るかなぁ……」
「あぁ、大丈夫。俺も綾瀬もきっと記憶が戻るよ」
私はその言葉に深く、強く頷いた。
時が経って、入院してから一週間。
とうとう私と藤間くんは退院日が来て、同じ病室の人たちに挨拶をし、家に帰宅することになった。
お世話になった病院だから何だか寂しい気持ちもある。
「美雨さん、元気でね」
「トウマ先生……!」
高い位置に結んであるポニーテール。トウマ先生はいつ見ても美人だし、かわいい。
それに私の担当医師で、とても優しく接してくれた。トウマ先生で良かったと心から思っている。
「ありがとうございました。トウマ先生もお元気で」
「うん、ありがとう。何か記憶のことで変化があったら、電話でもいいから教えてね」
記憶――。
そう、私はまだ何一つ記憶を取り戻すことはなかった。
強いていうならあの晴天の日、記憶の断片を見たくらいなのだから。
「綾瀬!」
記憶を取り戻すことができていなくて気分が陥っていたときに、藤間くんが駆けつけてくれた。
藤間くんの隣には、お母さんらしき女性が微笑んでいる。
「あなたが、美雨ちゃん?」
「は、はいっ。綾瀬美雨といいます」
「はじめまして、晴人の母親です。美雨ちゃんのことは晴人からお話を伺ってました。同じ記憶喪失のお友達ができた、って」
「母さん。そんな話いいって」
藤間くんのお母さんはお上品で、すごく美しい感じの雰囲気だ。
それに藤間くんとお母さんは、やはり本当の親子なんだな、というのが分かる。でもそれに比べて私は、まだお母さんたちのことを家族だと思えていない。
私ってすごく最低なんだなと思うと、胸がズキンと傷んだ。
「美雨ちゃんも、晴人と同じ雲ヶ丘高校なのよね。晴人のこと、よろしくね」
「いえ、こちらこそ……!」
ぺこっとお辞儀すると、藤間くんは少し顔を赤くしていた。
もしかして、熱でもあるのだろうか。でも体調は特に問題なさそう。
――お母さんとの会話に、照れているのかな。
藤間くんのかわいいところを発見できて、なぜか胸がほっこりする。
「じゃあ美雨、帰ろう」
「あっ、うん。藤間くん、また明日ね」
「また明日、学校でな」
本音はもう少し藤間くんと話していたかったけれど、お父さんに強引に車に乗せられて、帰ることになった。
家は想像していたより大きかった。庭もあるし、二階建てで部屋も広い。
お金持ち、というほどではないけれど、一軒家よりは大きいと思う。
「ここが、私の家……」
「そうよ、美雨。美雨の家なんだから、ゆっくりくつろいでね」
家のなかに足を踏み入れると、何だか懐かしい香りを感じた気がした。それが何かは分からないけれど。
きっと私は、安心できるこの家が好きだったんだろう。
「お姉ちゃん、今日はお姉ちゃんのタイイン日だから、ママがすごいお昼ご飯を作ってくれたんだよ」
「すごいお昼ご飯?」
私が聞き返すと、美空ちゃんは無邪気な笑顔で頷いた。
「うん、ママの、手作りカレー! お姉ちゃん好きだったでしょっ」
「私が、好きだったカレー……」
思い出そうとしても、やはり思い出せない。それがとても虚しくて、罪悪感に包まれた。
お母さんは美空ちゃんの頭を優しく撫でた。
「美空、お姉ちゃんが退院して嬉しい気持ちは分かるけれど、あんまり刺激させないであげてね。お姉ちゃんも頑張ってるのよ」
「はーい……。でも、美空、前みたいにお姉ちゃんとお話したいよ」
今にも泣き出してしまいそうな、うるうるした瞳で見つめられて、何も答えられなくなった。
私は記憶を取り戻すのが怖い。その考えは前も今も変わらない。
だけど取り戻さないと、こうやって私のことを大切に考えてくれている人たちが傷ついていく。
――そんなのは嫌だ。
「ありがとう、お姉ちゃん、記憶取り戻すから待っててね」
藤間くんと一緒に記憶を取り戻して、また元の生活に戻れるよう頑張ろう。
そう、改めて思った。
「さ、気分転換に、美雨のお部屋へ行きましょう」
私の部屋は、何も色のない部屋だった。
壁も、床も、勉強机も、棚も、ベッドも、カーテンも、何もかも真っ白。
ううん、白というより透明のような感じだ。
――どうして、こんなに透明なものばかりなんだろう。
「美雨は透明の空間が好きだったのかしら」
「……私の好きな色じゃないの? だって、全部透明だし」
「そうだなぁ。お父さんたち、美雨の好きなものとか、聞いてあげられてなかったからなぁ……」
どうしてだろう。また、お母さんたちが不思議に感じる。
親は子供の好きなものとか、嫌いなものとか、把握しているのが当然だと思っていたから。
私、もしかして反抗期で、お母さんたちのこと苦手だったのかな。
そう思って、あまり深くは考えないことにした。
「……高校三年生の教科書?」
ふと、机に置いてあった高校三年生の教科書が目に入った。
私って高校一年生だよね。どうして二学年先の教科書がここにあるのだろう、と不思議に思った。
「美雨は頑張り屋さんだったんだよ。それに優等生。高一や高二の勉強はもう完璧みたいで、高校三年の勉強に取り組んでいたんだ」
「そう、なんだ」
私が優等生で、頑張り屋。そんなの想像できなかった。
でもこれだけを見たら、勉強しかしていないように思える。
私、本当に楽しく毎日過ごしていたのだろうか。
「よし、とりあえずここらへんにしよう。母さんが作ってくれたカレーを食べるぞ」
「やったぁ! 行こう、お姉ちゃん」
美空ちゃんに手を引かれ、私は部屋を後にした。
何か色々違和感や疑問はあるけれど、今は記憶を取り戻すことに専念して、考えないようにしようと思った。
お母さんが作ってくれたカレーはあたたかくて、すごく美味しかった。
耳に鳴り響く目覚ましの音が聞こえて、体を起こす。透明なカーテンから眩しい日差しが目に入る。
退院してまだ二日目だけど、今日は学校へ行ってみる。お母さんたちには「無理しないでね」と言われたけれど、藤間くんも行くらしいし、何か記憶を取り戻す手がかりがあればいいなと思ったから。
「おはよう、お母さん。お父さんと美空ちゃんは?」
「おはよう、美空はまだ寝てるわよ。お父さんは仕事。美雨に頑張れって伝えて、って」
「そっか。ありがとう」
お母さんは冷たい麦茶と、あたたかいご飯を出しながら心配そうに俯いた。
「本当に大丈夫なの?」
「私が学校に行くこと?」
「えぇ、まぁ……。だって美雨はこの前まで意識不明だったのよ。それなのにもう学校なんて早すぎる気がして」
お母さんが心配してくれることは、本当に嬉しかった。大事にされているんだなって分かるから。
でも私はもう決心している。記憶を早く取り戻そう、って。そのためには学校に行く勇気も必要なんじゃないかな。
「大丈夫だよ。何かあったら連絡するし。藤間くんもいるはずだから」
「……そうね。心配しすぎも良くないわね。困ったことがあったらすぐ言ってね。先生にも事情は話してあるから」
「はーい、分かった。ありがとう」
慣れない制服を着て、ローファーを履く。
やっぱり緊張はするけど、一歩踏み出した。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
蝉の声があちこちから聞こえてきて、外に出た瞬間から汗が前髪にへばりつく。
まだまだ夏は終わらないけれど、これから頑張ろうと思いながら学校へ向かった。
「……あれ、綾瀬さんだよね?」
「今日から学校に来るって本当だったんだ……」
校門に着いたとき、二人の女の子たちが私を見て話しているのを聞いてしまった。
けれど少しだけビクビクして怯えている気がするのはなぜだろう。
――頑張って、話しかけなきゃ。
「あ、あの――」
「綾瀬さんっ」
私が話しかけようとした瞬間、向こうから話しかけてくれた。
二人は顔を見合わせながら、私に向かって頭を下げた。
「ごめんなさい!!」
私は理解できず、そのまま立ち尽くしていた。
「とりあえず頭上げて」と言っても、二人は頑なに動こうとしない。
「私たち、綾瀬さんを助けられなくて……!」
「本当に、本当にごめんなさい。許してもらう気はないの」
ハッ、と気がついて思った。
――たぶん、この二人は私が記憶を失っていることを知らないんだ。
私は慌てて口を開いた。
「あ、あの、私記憶喪失なんです」
「えっ……」
「自分のことも家族のことも分からない。もちろん、あなたたちのことも覚えてなくて。私こそごめんね。お名前教えてほしいな」
二人の青ざめた表情はどこかへ飛んでいき、少し笑みを浮かべた。
「私は倉木 雪花です!」
「田中 風穂ですっ」
ボブのサラサラ髪で可愛らしい子が倉木さん、二つ結びで三つ編みしているおしゃれな子が田中さんというらしい。
二人ともすごく優しそうで、素敵な雰囲気の子たちだ。
「倉木さんたちは私と同じクラス、なんだよね?」
「うん、私たちも綾瀬さんも、四組だよ!」
「藤間晴人くんって知ってる?」
もし知っていたらいいな、と思って恐る恐る聞いてみた。
すると田中さんが少し暗い声で「うん」と答えた。
「同じクラスだよ、藤間さん」
私はものすごく驚くと同時に、嬉しかった。
藤間くんと同じクラスだったなんて信じられないけれど、やっぱり仲が良かったんだ、と安心できた。
「そっかぁ。二人は藤間くんと仲良いの?」
「そ、そんなわけない!」
「綾瀬さんこそなんで藤間さんと……」
倉木さんたちは特に藤間くんと仲良いわけではないみたい。なぜだか胸がほっとする。
それより、なんで二人は『藤間さん』なんて呼び方をしているのだろう。
「私はこの前まで入院してたんだけど、そのときに知り合ったの。たまたま同じ高校の人と出会えたんだ」
「えっ、藤間さんも入院してたの?」
二人は目を丸くして驚いている。
そっか、私だけじゃなく藤間くんが入院していたことも知らないんだ。
「そういえば藤間さんも、二週間くらい学校休んでるよね」
「うん、そうなの。……実は藤間くんも記憶喪失らしいの」
そう言うと更に二人は驚いた。
そういえば藤間くんも二週間前から学校休んでいるなら、私が意識不明になったときと時期が同じくらいだ。
そんな偶然あるのだろうか、と不思議に思う。
「じゃあ……綾瀬さんは藤間さんのこと知らない、んだよね?」
「うん、記憶を失う前のことは何も思い出せないよ」
「思い出さなくていいと思う!」
田中さんの突然の大声にビクッとしてしまう。
田中さんたちはきっと、藤間くんのことを何か知っているんだと思う。
でも私と藤間くんの記憶のこともあって、話そうとしないのだろう。
「そっか。でも私は記憶を取り戻したいんだ」
「綾瀬さん……で、でも、また苦しんじゃう」
「ちょ、風穂!」
「あっ、ご、ごめん。綾瀬さん、気にしないで」
そう言われて私は頷くしかなかった。
私が苦しんでしまう、とはどういう意味だろう。記憶を失う前、私は一体何があったのか。
それを聞きたいけれど、倉木さんと田中さんは、教えてはくれなかった。
記憶を失ってからの初めての教室は、すごく緊張した。
教室に足を踏み入れてから、クラスメイトみんなが私をジロジロ見つめてくる。
「綾瀬さん……ごめんね」
「綾瀬さん、本当ごめん」
「綾瀬さんが戻ってきてくれて良かった」
倉木さんたちと同じように、やっぱりみんな私に謝ってくる。
私は自分がどうして記憶喪失になったのか、それまでの経緯を知らない。だからこうしてクラスメイトに謝られる意味を分かっていないんだ。
「大丈夫、私はここにいるから。みんな気にしないでください」
そう言うと、クラスメイトたちは一気にホッとした表情を浮かべた。
だけど教室のドアがガラガラっと空いた瞬間、みるみる青ざめていった。
入ってきたのは背中まである髪を茶色に染めていて、化粧をしている女の子。なんていうか、クラスでのリーダーみたいな雰囲気だ。
背が高くてスタイルが良くて、たぶん女の子からも男の子からも人気だ。
私を見て動揺しているみたいだけど、そりゃあクラスメイトが記憶喪失になっているのだから当たり前だよね。
「……綾瀬さん、本当に真田さんのこと忘れてるんだね」
「でも、忘れたほうが良かったかもよ」
倉木さんたちは私たちに聞こえないように、ヒソヒソ話していた。聞こえてしまっているけれど。
――この子、真田さん、っていうんだ。
「えっと、真田さんていうんだよね?」
「そうだけど、なに」
「私のこと、分かる……?」
クラスの子たちは一斉に私のほうを見て、何だかヒヤヒヤしているように感じる。
確かに真田さんって見た目よりもクールな感じがする。
「……あんた、生きてたんだね」
「へ? ど、どういう――」
「別になんでもない。けど、あたしとは関わらないで」
真田さんはそう言って私の隣をスタスタと歩き、席に着いてしまった。
――なんでだろう。真田さん、私のこと嫌っているのかな。
『生きてたんだね』ってどういう意味なのだろう。
その意味を知りたかったけれど、やっぱり誰も教えてくれなかった。
一限目終わりの休み時間、藤間くんが登校してきた。
最初は職員室に行って教師と話をして、それから教室に来ることになったらしい。
私もきっと記憶喪失になったことを話さなければいけないんだろうな。
「藤間くん、おはよう」
「綾瀬、おはよ」
ただ挨拶を交わしただけなのに、教室中がざわついた。
倉木さんと田中さんも、心配そうに私を見つめているのが分かる。
「ねぇ、晴人」
晴人。真田さんは藤間くんの名前を呼んだ。
真田さんは少し冷たい印象があるけれど、藤間くんはとても優しい人だ。
二人は藤間くんが記憶を失う前、仲が良かったのかな。
「晴人、記憶喪失って本当なの?」
「あぁ、うん。きみは?」
「……真田美虹、だけど。本当に記憶ないんだ」
もちろん藤間くんは真田さんのことを覚えていないから、きょとんとした顔で見つめている。
「この女とはなんか知らないけど仲良いのに、つるんでたあたしのことは忘れちゃったんだね」
――この女って私のことだよね。
真田さんの発言は、ありえないと思う。藤間くんは記憶を失っているから、一生懸命元の生活に戻ろうと頑張っている最中なのに。
「あ、あの、真田さん。藤間くんにそういう冷たい言い方しないでほしいの」
「は?」
「藤間くん、きっと真田さんのこと思い出せるように頑張ってると思うの」
「そんなの知ってるし。てか、あんたなんでそんなに晴人のこと庇うわけ? 分かったようなこと言わないで」
わざと私の肩にぶつかって、真田さんは教室を出ていった。
――怖かった。真田さんはなぜか分からないけれど怖い、恐怖だと感じてしまう。
私きっと、記憶を失う前も真田さんのことが苦手だったんだと思う。
「綾瀬さん、大丈夫?」
「怪我はない?」
「うん、ありがとう。私は大丈夫だよ」
倉木さんたちが心配してくれて、少し胸があたたかくなった。
だけどどうしてだろう。何だか心にぽっかり穴が空いてしまったように感じるのは。
「綾瀬、大丈夫だった?」
「藤間くんも心配ありがとう。でも本当に大丈夫だから。それより、早く追いかけてあげたほうがいいんじゃない……?」
その瞬間、自分の言葉に胸がチクッと傷んだ。ハートの心が少しずつ削られていくように。
藤間くんは首を横に振った。
「行かないよ。俺、いまは真田のこと知らないから。綾瀬は俺を庇ってくれたんだし、綾瀬のそばにいるよ」
頭のなかに伝わるくらい、胸がドクン、ドクンとなる。頬が熱い。
藤間くんの優しい言葉が、私の脳内に響いた。
「でも、綾瀬さん、気をつけてね」
「うん、田中さんありがとう。真田さんのことちょっと苦手かも。気をつけるね」
「真田さんもだけど、藤間さんも……」
藤間くんのほうを振り向くと、爽やかな笑みを浮かべていて、それもまたドキドキする。
何かの勘違いだ。藤間くんは真田さんのような冷たい人じゃないし、人が嫌がることをしないって分かっている。
だけど少なくとも、私は藤間くんの記憶を失ったあとのことしか知らないのだ。
記憶を失う前の藤間くんのことも知りたいな、と思った。
「綾瀬さん、一緒にお昼食べない?」
「いいの? ありがとう」
お昼休み、倉木さんたちが誘ってくれてグループに入れてもらうことになった。
お母さんが作ってくれた弁当を広げると、二人はぱぁーっと目を輝かせた。
「すごい、綾瀬さんのお弁当美味しそう」
「私なんて購買で買ったパンだけだよ。手作りすごいなぁ」
「そう言ってもらえると嬉しい。お母さんは料理が好きみたいなんだ」
何気なくそう言葉を発したが、二人は顔を見合わせて少し俯いてしまった。
――何か気に障ること言っちゃったかな。
「そっか、綾瀬さん、お母さんのことも思い出せないんだね……」
田中さんの言葉に、ふと気がついた。
二人は記憶を失っている私の辛い気持ちが分かるから、心配してくれているのかもしれない。
私は二人に精一杯の笑顔を向けた。
「そうなの、もちろん悲しいんだけどね。これから思い出せていけたらいいなって思う。二人とも心配してくれてありがとう」
「……友達だから、当たり前だよ」
「前は綾瀬さんのこと、気にかけてあげられなかったから……。これからは、その分仲良くさせてほしい」
なんて優しい人たちなんだろう。そう思うと、少し涙が出そうになった。
前はどうとか関係ない。今、私は倉木さんや田中さんと友達。仲良くさせてほしいと願っているのは私のほう。
「こちらこそだよ。……あの、二人のこと名前で呼んでもいいですか?」
私にとって、記憶を失って新しいスタートを切ったときからの初めての女の子の友達。
思いきってそう聞いてみると、二人は笑顔で頷いてくれた。
「もちろん、美雨!」
「美雨ちゃんっ」
「……うん、雪花ちゃん、風穂ちゃん」
“美雨”って呼ばれただけで、こんなにも嬉しいんだ。
――雪花ちゃん、風穂ちゃんありがとう。
恥ずかしくて口に出せない言葉を、私は心のなかで強く思う。
友達って、仲間ってこんなにも素敵な関係なんだなぁと、改めて感じた。
記憶を失ったあと、初めて学校に登校してから三日経ったときのことだった。
担任に『相談室』という場所へ連れて行かれ、私は理解ができなかった。
相談室というのは学校へ行きづらかったり、先生に悩みを相談したい生徒が集まる場所らしいのだ。
保健室登校だけでなくこういうフリールームにも登校ができるって、すごくいいことだと思う。
驚いたのはそこからだ。いざ相談室へ行くと、そこにはトウマ先生が座っていた。
「えっ……トウマ先生!?」
「こんにちは、美雨さん。突然ごめんね、びっくりしたよね」
私は静かに頷いた。
――どうしてだろう。トウマ先生は病院の先生なはずなのに、何で私の学校に……?
疑問が頭に浮かぶなか、トウマ先生は優しい笑顔で微笑んだ。
「美雨さんの様子が気になったの。学校に毎日行ってるってお母さまから伺ってね。体調のことも、記憶のことも、色々聞きたいと思って。ここなら誰も来ないし、安心してお話できるの」
「そうなんですね……」
トウマ先生は私のことを心配して、病院からわざわざ来てくれたのだ。
本当に私のことを考えてくれてないと、こんな行動できないと思う。
トウマ先生が自分のことを心配してくれてると思うと、すごくうれしかった。
「学年主任の先生にも伝えてあるから大丈夫よ。美雨さん、今日はよろしくね」
「は、はい。こちらこそよろしくお願いしますっ」
トウマ先生によると、約一時間くらい、この相談室を使えるそうなのだ。
私のあとにはスクールカウンセラーと相談をする生徒たちがたくさんいるそうで、悩みを抱えている子は少なくないんだなぁと思った。
悩みがあるのは私だけじゃないと分かってものすごく安心した。
「美雨さん、あれからどうかな。何か思い出したり、記憶の断片を見たりした?」
「えっと、まだ記憶は戻らなくて。学校に来たら何か思い出すかなぁと思ったんですけど、期待外れで……あっ!」
話しているときに、私はハッと気がつくことがあった。
トウマ先生に伝えるのを忘れていたけれど、入院中のとき、少しだけど記憶の断片を見たことがあったから。
「すごく晴れていた日に、私の声が頭に浮かんだんです。『雨は大嫌い』って。どうして雨が嫌いなのかは分からないけれど、きっと前の私の言葉なんだと思います」
伝えていなかったことに怒られるかと思って心配だったけれど、そんなことはなかった。
トウマ先生は私に笑顔を向けてくれた。笑ったときのえくぼがとてもかわいらしい。
「ありがとう、教えてくれて。そうだね、美雨さんの記憶の欠片だね」
「はい……! でもそれ以降は何も思い出すことができなくて。何か少しでも思い出せたらいいんですけど、簡単には無理ですよね」
はぁ、とため息を吐いてしまったことに失礼かと思い、慌てて咳払いをする。
少しでも記憶を取り戻せたら何か変わるのだろうか。私はまた前の人生を歩むことができる?
でもそれは本当に、私が望んでいることなのだろうか。私は記憶が戻ることに少しだけ躊躇している気がする。
「美雨さんの焦る気持ちも分かるよ。私も正直困ってるの。今回みたいに、記憶喪失の子の担当になったのは初めてだから」
「えっ、そうなんですか?」
「そうなの。あと、晴人くんもだね。美雨さん、晴人くんと知り合いだったよね」
藤間くんの名前が出てびっくりする。
聞いていなかったけれど、藤間くんの担当医師も、トウマ先生だったんだ。
トウマ先生と藤間くん――。なんだかややこしくなって少し笑ってしまう。
「そうそう、美雨さんはいつもどんなときでも笑っていて。辛いことはたくさんあるだろうけど、美雨さんには笑顔でいてほしい」
「はい……!」
私には笑顔でいてほしいだなんて。どうしてそんなに優しい言葉を掛けてくれるのかな……。
あっという間に一時間が経ち、トウマ先生に挨拶をして教室へ戻った。
このクラスは比較的静か。グループはできているけれど、そのなかでしか交流がない感じ。
だけど真田さんのグループだけは派手で、休み時間は廊下で騒いでいる。私はこういう人たちとは関わりがないけれど、それでいいと思っている。
学校に来てわずか数日だけど、真田さんのことが苦手だから。
「あっ、美雨、おかえり!」
「美雨ちゃん大丈夫だった?」
「ただいま、全然大丈夫だよ。入院してたときの担当のお医者さんが来てくれて、話をしただけだから」
雪花ちゃんと風穂ちゃんが、心配そうに私を見つめる。
二人とも相談室という部屋を知らなくて、私がどこかへ無理やり連れて行かれたと思ったから、不安だったみたい。
そのときの状況が思い浮かんで、なんだか嬉しくて笑ってしまった。
「その先生って、どういう人なの?」
「うーん、私のことをとてもよく考えてくれていて、行動してくれて。この先生が私の担当医師で良かったなぁ、って思ってるよ」
「そっかぁ。きっと美雨ちゃんと似て、優しくて素敵な先生なんだろうなぁ」
風穂ちゃんはそう言ってくれたけれど、私と似ているなんてとんでもない。私は記憶を取り戻すことに抵抗があって、臆病で、心が弱くて。
――私もトウマ先生みたいになりたいな。いつか、なれるかな。
なんて、トウマ先生はトウマ先生で、私は私。それはいつまで経っても変わらないよね。
授業中だというのにそんなことを考えながら、ぼーっと黒板を眺めていた。