寒い。
ぶるりと体を震わせ、目を閉じたまま手探りで掛け布団を探す。それでも毛布の感触は見当たらず、代わりにペチンと何かにぶつかった。
なんだ。眼鏡じゃないし。スマホでもない。人っぽい……人?
寝起きの頭で状況整理したあと、勢いよく体を起こした。
「あれ、今日は早起きじゃん」
ベッドに腰掛け、スマホをいじっていた渡会と目が合う。
ボヤける視界の中、先程ぶつかった場所を見ると、渡会が手を置いていた。
顔じゃなくて良かった。いや、手も良くないけど。
「……ごめん、手……当たった」
眠気を押し切って、乾いた喉から言葉を絞り出す。渡会は首を傾げ、思い出したように笑った。
「あぁ、全然痛くないから大丈夫」
「なら良かった……えっと、おはよう」
「ん、おはよう。声と寝癖やばいから洗面所行ってきな」
渡会はニコリと微笑み、眼鏡を渡してくれた。
やけに機嫌の良い彼を背に、床に足をつくと、柔らかい感触が肌を伝った。掛け布団、こんなとこにあったのか。
寝相は悪くないと思っていたけれど、知らない間に落としていたようだ。そう思って顔を上げれば、他の三つのベッドが目に入った。全員掛け布団を床に落としている。
なんで? 室内はそんなに暑くないのに。
洗面所に向いた足を止め、異常な光景を見つめる。そんな俺に気づいた渡会は、聞きたいことを汲み取ったようでニヤッと口角を上げた。
「寒かったら起きるかなって」
「マジでないわ」
朝食の待つ大ホールへ向かうエレベーターの中。守崎は弱々しく首を振った。堀田と仲里も、遠い目をして頷いている。
「いいじゃん。昨日と違って自分で起きれたんだし」
全員の掛け布団を剥ぎ取った渡会は、得意げな顔で鼻を鳴らした。
「もっと、こう、あんじゃん。起こし方ってやつがさ〜……」
「どうせ、日置だけ優しく起こしてやったんだろ」
仲里は肩を落とし、堀田は訝しんだ目を渡会に向けた。
「俺もみんなと同じだけど」
「え? 撫でられたり、くすぐられたりして起きたんじゃねーの?」
俺の反応に、堀田は目を見開いた。
なんでそうなるんだ。
同意を求めるために渡会を見ると、フイッと目を逸らされた。
やったのか、俺が寝てる間に。
「こいつ、日置が拒否しないから好き勝手やってんだよ」
守崎が溜め息交じりに口を開いた。
「そーだよ。多少は嫌がらないと、いつか痛い目みるぞ」
「度が過ぎてキスとかしかねないんだから」
続けて堀田と仲里も忠告してくる。
「それはまだやってない」
ちょっと待って。〝まだ〟ってなんだ。渡会とキスする予定はありませんけど。パッと口を押さえれば、渡会は「うそうそ」と笑った。もっと笑えるような嘘をついてほしい。
会話が途切れた瞬間「ポーン」と音が鳴り、エレベーターのドアが開いた。
空腹を刺激するいい匂いに誘われ、大ホールへ入る。朝食はバイキング形式のようで、何種類もの料理が用意されていた。
「皆さんおはようございます! 今日が修学旅行最終日です。最後まで怪我なく楽しく学びましょう」
今日で学年主任の挨拶ともお別れ。寂しいもんだな。
マイクの音が切れると同時に、生徒たちは真っ先に料理が集まるテーブルに飛びついた。
「俺らも行こ」
堀田の声に続けて席を立つ。
プレートを手に料理を眺めれば、お腹がぐぅと鳴った。
パンもあればご飯もある。洋と和が入り混じったメニューだった。
(昨日の朝は和食だったから、今日は洋食にしよう)
自然と伸びた手で、もちもちのロールパンをトングで挟む。あとはコンソメスープとスクランブルエッグと、デザート……。野菜も取り、綺麗に彩られたプレートに含み笑いが溢れる。
席に戻ると、四人はすでに揃っていた。
「今日ってどこ行くんだっけ」
バターの蓋を開けながら堀田が口を開く。
「アレじゃね、なんかの神社みたいな」
「午前中だけだよな」
仲里はオムレツを口へ運び、守崎はフレンチトーストをつついた。
「なんか、着付け体験もするとか書いてあった」
着付けか、あんまり食べすぎたらまずいかな。
渡会の一言に思考を巡らせたあと、ためらいもなく料理に手を伸ばした。帯に締め付けられる苦しさより、空腹でよろよろになる苦しさのほうが嫌だ。
「おみくじ、誰が一番運が良いか試そうよ」
「いいね、じゃあ最下位はあっちでアイス奢りな」
仲里の提案に、守崎が乗っかった。運すら味方につけてしまいそうな四人に勝ち目など見えないが、せめて最下位は免れるようにそっと祈りを捧げた。
「それ、美味しそう」
デザートの夏蜜柑ケーキを頬張っていると、渡会がプレート上で半分に欠けたケーキを指差した。
「食べる?」
蜜柑とスポンジのバランスがちょうどよくなるよう、フォークに乗せて差し出す。
渡会は、差し出されたケーキを見て目をまたたいた。シェアは無理なタイプだったようだ。フォークを下ろせば、パシッと手首を掴まれる。
「ありがと」
手首ごと引き寄せた渡会はケーキを口に含んだ。
「おいしい?」
首を傾げると、ニコリと笑みが返ってくる。
幸せそうな渡会を横目に、残りのケーキを口へ運ぶ。同時に、学年主任の声が聞こえてきた。最終日だからか締めの挨拶は少し長かった。
部屋に戻り、ベッドの上で満足に膨れたお腹を落ち着かせる。
「今日着付けあるならセットしよ」
ベッドでくつろぐ俺と違い、守崎はせっせとヘアアイロンやスプレーをテーブルの上に広げた。ノーセットでも全然いいと思うのに、インスタ職人たちは、それだけでは物足りないらしい。
手際よく髪を遊ばせる彼らを眺めていると、渡会が隣に腰掛けた。
「日置もやろ」
「えー……やんなきゃダメ?」
「ダメ」
「上手くできるか分かんないんだけど」
「やってあげる……ヘアオイルとか、かゆくなったりしないよね?」
渡会は優しく俺の髪に触れた。なんだか美容室に来たみたいだ。
セットと言うからオールバックとかホストみたいな盛り盛りヘアを想像していたが、襟足を跳ねさせたり、センターパートにするくらいだった。
時間はさほどかからず、仕上げにスプレーをかけられる。ヘアオイルの甘すぎない爽やかな香りは、とても好みだった。
「はい、お疲れ様でした」
渡会に軽く肩を叩かれ、顔を上げた。鏡に映る自分は、いつもよりスッキリして見える。
これがイケメンの力。
足りないのは俺の顔面の力。
「いらっしゃい! ほな、好きなもの選んでや〜!」
元気なおじさんに迎えられ、色とりどりの着物が並ぶ部屋へ通された。
着物ってこんなに種類があるんだな。
華やかな色の列に圧倒される中、陽のかたまりの四人は、ショッピングモールへ来たかのように物色していた。派手な色の着物に盛り上がる彼らを背に、栗色のシンプルな着物を手に取った。無難が一番である。
懸念していた帯は、もちろんキツかった。締め付けに耐えながら、慣れない草履を履き、先に着付けを終えた四人が待つ街道へ出た。
細かい刺繍が施されたものだったり、ツートーンで揃えられたものだったり、彼らは見事に着こなしている。セットした髪型も相まってモデルのようだ。
女子の準備を待つ間、行き交う通行人の視線が刺さる。着物を身につけた集団がいるのだからその反応も頷けるが、ほとんどの視線は隣に立つ渡会たちに向けられていた。
「芸能人?」
「撮影やない?」
中学生くらいの女の子たちは、歩きながらずっと目線を四人に固定していた。ブレない視線は、一種のパフォーマンスのように見える。
しばらくして、男子より華やかな彩りの着物を身につけた女子が姿を現した。普段着られない服装にテンションが上がっているのか、あちらこちらでスマホ片手に記念撮影をしている。
点呼確認を終えた担任に続き、神社を目指す。生徒を引き連れる白い着物の背には、鶴の模様が描かれていた。
「集合写真撮るよ〜」
本殿の前に着くと、担任が手を挙げた。その声に全員が身だしなみを整える。
「日置こっち向いて」
隣から降ってきた声に顔を上げる。俺の頭に手を伸ばした渡会は、器用に風で乱れた髪を整えてくれた。こだわりがあるのか、微調整まで抜かりない。
彼が満足するまでの間、ふわりと風がそよぎ、ヘアオイルの香りが顔周りを包んだ。
「俺、このヘアオイルの匂い好き」
ポツリと呟く。
渡会は手を止め、覗き込むように小首を傾げた。
「へぇ、俺がいつも使ってるやつ……好き?」
「好き」
頬を緩めて笑うと、渡会の表情が固まった。髪から手を離した彼は、終わりを示すようにパッと顔を逸らす。カメラマンの合図に、俺も前へ向き直った。
撮影間際、ちらっと窺った渡会の耳は、ほのかに赤く色づいていた。
「じゃあ一時間後、ここに集合ね〜」
撮影後、担任は手を振って生徒を見送った。
参拝に向かったり、出店にお土産を買いに行ったり、着物の集団があちこちに散らばる。
「おみくじ引きに行こ」
仲里が赤く存在感を放つ鳥居を指差した。
草履で砂利を踏みならし、奥社を目指す。夜に来たら怖そうだけど、昼間の神社は日の光も掛け合わさって神秘的だった。
奥社に到着すれば、早速お目当てのおみくじコーナーへ向かった。
ジャラジャラと音を鳴らし、一人ずつおみくじの入った筒を振る。俺の順番が回ってくると、ギュッと両手を握った。
神様。小吉くらいでお願いします。
精一杯の祈りを込めて筒を振る。出てきた数字は三一番。三一の引き出しを開け、一番上ではなく、上から二番目の紙を取り出した。
「まだ待って。せーので見よ」
最後の堀田が筒を抱えて振り返った。
待ち時間がもどかしい。なんだか緊張もしてきた。
五人揃って輪になると、仲里が小さく声を上げた。
「せ〜の……」
バッとおみくじを開く。
末吉。
普通だ。正しい順番は分からないけど、多分普通。
「日置が一番下っぽいな」
まあまあな結果に胸を撫で下ろせば、スマホで運勢の順番を調べていた守崎が、哀れみの目を向けてきた。なんとなくそんな感じはしてた。
奢り確定に苦笑を漏らし、手元のおみくじをじっくりと眺めた。健康運、勉強運、末吉らしくまあまあな内容だった。一番盛り上がるのは、やっぱり恋愛運。
〝近い内に待ち人来たり〟と書いてある。本当かよ。
「渡会の見して」
「いいよ」
隣で大吉のおみくじを広げる渡会の手元を覗き込む。案の定、だいたいプラスな事しか書いていない。
恋愛運はどうだろう。心配無用人生花道万々歳、とかかな。
流れるように恋愛運へ目を向ける。そこには思っていたような文字はなかった。
己を信じて進むべし。
意外にも、鼓舞するような一文が記されていた。
渡会が攻略困難な人間なんて、この世にいるのだろうか。神様も、たまにはイケメンに試練を与えるらしい。
粗方おみくじに目を通せば、おみくじ掛けに足を向けた。破けないように慎重に結び、念のため、平穏な日々を願って手を合わせた。
「あ。アイスある」
堀田の声に振り向くと、そこにはソフトクリームやジェラートを売っているレトロなキッチンカーがあった。
「みんな何がいい?」
財布を取り出し、四人を窺う。
「あ、奢りは冗談だから」
メニューを眺める守崎が首を振った。すっかり奢る気でいた俺は、残金を確認する手を止めてポカンと口を開いた。
まぁ……いいか。奢らなくていいなら、それに越したことはない。
拍子抜けのまま窓口に向かう。定番の抹茶ソフトクリームをスルーして無花果のジェラートを頼んだ。
「日置も食べる?」
本殿へ戻る途中、隣を歩く渡会から抹茶ソフトクリームが差し出された。喜ばしいことに、シェアしてくれるようだ。
「ありがとう。俺のもよかったら」
「ありがと」
交換するように自分のジェラートも差し出す。
ソフトクリームを一口含むと、抹茶とバニラの香りが口の中に広がった。
あまりの美味しさにもう一口だけ貰おうと口を開けば、草履に足を取られ、こけそうになった。その勢いで照準を誤ったソフトクリームは、口の端に当たった。短い舌を伸ばしてみるが届かない。
ティッシュなど持っていない。さすがに借り物の着物で拭うわけにもいかない。
一人でパニックになっていると、隣から伸びてきた手が頬を拭った。そのままクリームのついた指を目で追えば、渡会はためらいもなく口に含んだ。
「……大丈夫な感じ?」
バグった脳は変な質問を飛ばした。
「あ、ごめん。嫌だった?」
渡会は焦ったように眉を下げる。その反応に首を横に振った。
そういえば、テーマパークの時もケチャップのついた口元を拭ってくれた。弟だっているし、自然と体が動いてしまうのだろう。
ホッとした表情を浮かべた渡会から、ジェラートを受け取る。俺もいびつな形になってしまった抹茶ソフトクリームを渡した。
少し溶けだしたジェラートを口にすると、なぜかさっきよりも甘く感じた。
「疲れた~!」
「足いて~」
「ねみー」
仲里と堀田と守崎は、ゲッソリとした表情でバスの座席に腰を沈めた。着物はとうに脱がれ、慣れ親しんだ制服に変わっている。
長かった修学旅行も、あとは新幹線に乗って帰るだけ。過ぎ去っていく街並みを眺めていると、寂しさがこみ上げてくる。
「寂しい?」
俺の心情を見透かしたように渡会が声をかけてきた。
「ちょっとね、楽しかったから」
「それは……良かった」
渡会は優しい声で微笑んだ。
「お土産を購入する生徒は、素早く時間内に購入してください。トイレに行っておくことも忘れずに! では一旦解散!」
学年主任の一声で列が乱れ、生徒の波が駅構内に流れだす。
「俺、お土産見てくるけど、みんなどうする?」
駅内を指差せば、反応は二手に分かれた。
渡会と堀田は「俺も行く」と手を挙げ、仲里と守崎は「トイレ寄ってから行く」とこの場を離れた。
さっそく渡会と堀田と一緒に、駅地下のお土産コーナーへ向かう。
八つ橋、抹茶バウムクーヘン、わらび餅、いろんなお土産品がショーケースに並んでいる。
悩みながら着々と増えるお土産。また一つ腕に紙袋を下げると、遠くから名前を呼ばれた。ショーケースから顔を上げた先に、渡会と堀田が手招きしている姿が見えた。
「試食していいって」
彼らの元へ駆け寄ると、渡会は爪楊枝に刺さったどら焼きのような欠片を差し出してきた。隣の堀田はすでに食べたらしく、モグモグと口を動かしている。
受け取りたいけど両手が紙袋で塞がっている。お土産を床に置こうとすれば、渡会の声がそれを制した。
「口開けて」
どうやら、食べさせてくれるらしい。
素直に口を開ければ、渡会はもう片方の手を添え、落ちないように入れてくれた。
「どう?」
「美味しい」
きな粉みたいな味がする。
「つかさお兄ちゃん僕も〜」
「ボクもー」
うしろから揶揄する声が飛んできた。
振り返ると、仲里と守崎が立っていた。手にはお土産の袋をぶら下げている。合流する前に買ってきたようだ。
というか〝つかさ〟って……。
「弟の真似やめろ」
隣の渡会は眉間に皺を寄せていた。
全員苗字で呼び合うから、たまに下の名前を聞くと分からなくなる。俺の名前も朝の事件がなければ……思い出したら恥ずかしくなってきた。
嫌な記憶を振り払うように店員へ向き直る。
「先程試食でもらったのと、あと……チョコレート味もください」
「ありがとうございます〜」
店員は手際良く箱を紙袋に詰め、会計時、一緒に何かを渡してきた。
「これ、おまけね!」
「あ、ありがとうございます」
店員の手には、まねき猫のキーホルダーがぶら下がっていた。ゆらゆらと揺れるそれは、時折シャランと鈴の音を鳴らした。
キーホルダーを握りしめ、両腕には大量の紙袋。さすがに買いすぎた。
「持つよ」
渡会が俺の腕から紙袋を抜き取る。
息をするように気遣いを見せる彼には頭が上がらない。何から何まで、渡会様様である。
エスカレーターに差し掛かり、リュックを背負い直せば、手の中で貰ったキーホルダーが音を鳴らした。
思い立って渡会の制服をクイッと引っ張る。
「手出して」
「え、なに」
渡会は少し怖気づきながらも、手を差し出してくれた。その上に、まねき猫のキーホルダーを乗せた。
「これ、弟さんにあげる」
「日置が貰ったんじゃないの?」
「俺すぐ失くしそうだし……貰ってくれない? つかさお兄ちゃん」
試食時のやりとりを思い出してニコリと微笑む。
渡会は予想外だったようで、パチリと目をまたたいた。それでも、すぐにキーホルダーをポケットにしまい、俺の頭を掻き撫でた。せっかくセットしたのに。
「普通に呼んでよ」
渡会はポツリと呟いた。
「渡会?」
「下の名前」
「紬嵩」
言われるまま口にした。
目の前の彼は、みるみるうちに頬を赤く染める。
「…………やっぱまだ苗字で」
そう言い残すと顔を背けてしまった。
まだってなんだよ。
キスといい、名前といい、今後の予定に勝手に組み込まれている。渡会の不思議な思考に眉を顰めると、広場のほうから学年主任の声が聞こえてきた。
「時間も押してるので、素早くホームに移動してくださーい!」
切羽詰まった声に腕時計を見る。発車時刻まで、数分しか残っていなかった。
駆け足で向かえば、すでに新幹線が到着していた。乗車口には担任が立っており、生徒一人一人に切符を渡している。
「座席は中で調整して、とりあえず乗っちゃって」
押し込まれるように乗車し、切符の番号が示した座席へ向かった。
「いらっしゃい〜」
「なんだかんだ日置と隣になるのは初めてかも」
俺の席は仲里と堀田の間だった。修学旅行中はほとんど渡会の隣だったから、なんだか新鮮に感じる。
「揃ってない班がいたら報告しに来て〜、あとお昼のお弁当も持って行ってね」
担任は歩きながら指差しで生徒を数えていた。車内はざわざわと騒がしいが、乗り遅れた生徒はいないようだ。
「また幕末弁当かな」
堀田は初日の言い間違いを、自分の持ちネタにしたようだ。したり顔を浮かべる彼に、笑って首を振る。
「いや、さすがに違うでしょ」
「俺取りに行ってくる」
仲里は席を立ち、車両の後方へ向かった。その背中を見送ると、堀田がトントンと肩を叩いてきた。
「修学旅行楽しかった?」
「うん。正直パシられるかと思ってたから、普通に楽しくてびっくりした」
「なわけないじゃん。俺らそんなふうに見えてたの?」
「喋ったことなかったし」
「んー……まぁ、そうか」
堀田は頬を掻き、困ったように笑った。
終わりよければ全て良し。グループ決めの時間に、声をかけてくれた堀田には感謝しかない。
「誘ってくれてありがとう」
「発案者は俺じゃないけど、どういたしまして〜」
発案者? 中学の繋がりで堀田が誘ってくれたのだと思ったけど、違うのか。
「それってどういう──」
「なー! 見ろよ、肉!」
俺の問いは仲里の声にかき消された。
まぁ、楽しかったし何でもいっか。
仲里から焼肉弁当を受け取ると、空になっていたお腹を満たした。
昼食を終え、家族に到着時間を送ろうとチャットアプリを開く。そこには一件のメッセージが届いていた。
『イケメンたちのインスタアカウント教えて』
送り主は池ヶ谷だった。
予想はしていたけどやっぱりか。断られたって入れておこうかな……一応聞いてみるか。
「杏……じゃなくて、鹿のところで会った中学の同級生がインスタのアカウント知りたいらしいんだけど、教えてもいい?」
まずは両隣の堀田と仲里に声をかけた。
「池ヶ谷だろ? 俺はいいよ」
「んー、俺は教えてもいいけどフォロバはしないかも。よく知らないし」
二人に頷き、今度はうしろの席の守崎と渡会に同じ質問をした。
「俺はパス」
「あ〜……俺は教えていいよ」
即答で返してきた守崎に対して、渡会は少し迷ってから頷いた。
席に座り直し、さっそく池ヶ谷にメッセージを打った。その数分後、高速の土下座をするウサギのキャラクターのスタンプが送られてきた。そして、俺はすっかり家族に連絡することを忘れていたのだった。
「皆さんお疲れ様でした! ここで解散ですが、修学旅行は帰るまでが修学旅行です。寄り道せずに気をつけて帰ってください! それでは解散!」
「「「さようなら〜」」」
駅構内に生徒の声が響く。
終わってしまった、修学旅行。イマイチ実感が湧かない。
駅の出口へ向かう生徒を眺めていると、堀田がスマホから顔を上げた。
「俺、迎え来てるから帰るけどみんな平気?」
堀田の問いかけに、守崎は電光掲示板を見上げた。
「俺は電車で帰るから、もう行く」
「あ、俺も」
同じ路線の仲里も、守崎に続いて手を挙げた。
「俺は迎え来るのもう少しかかるから待ってる」
家族には、先程思い出して連絡したばかり。あと三十分は待たないといけない。
最後に渡会に視線が集まると、彼はニコリと笑った。
「俺も。電車の時間遅いから」
三日間付かず離れずだった俺たちは、ここで解散することになった。堀田は駅の出口へ、仲里と守崎はホームへ向かった。
三人を見送り、隣を見上げる。
「電車の時間あとどのくらい?」
「十分くらいかな」
「乗せてこうか?」
「いや、最寄り駅に迎え来てもらってるから大丈夫」
「そっか」
渡会に頷けば、周りを見回した。
とりあえず座りたい。慣れない環境で三日間過ごした体は、思ったより疲れていた。
ゴロゴロとキャリーケースを引きずり、空いていたベンチに腰を落ち着ける。そして、まだ直接伝えていなかった礼を口にした。
「修学旅行、いろいろ手伝ってくれてありがと。コンタクト取れた時とか、風呂の時とか、迷子の時とか、あと、お土産持ってくれたりとか……」
三日間の迷惑事をあげればキリがない。段々と声が尻すぼみになっていく。
罪悪感に目線が床に落ちると、柔らかい声が耳に届いた。
「気にしなくていいって、こっちこそグループ入ってくれてありがとう」
疲れを感じさせない爽やかな笑顔だった。
そんな彼に、自然と俺の表情も緩んだ。
「渡会とは、一番距離が縮まった気がする」
「……そう」
「最初なんか冷たかったし」
「え……あ、あれは挨拶の仕方が分からなくて、緊張してたし……」
慌てて弁解する渡会に「冗談だよ」と笑った。
その時、駅内の放送が響いた。
渡会はあと十分と言っていたけれど、ホームまでの距離を考えると、もう向かったほうが良いのではないか。
「もう行く? 余裕あったほうがいいし。改札まで送るよ」
ベンチから重い腰を持ち上げた。足を踏み出しても、すぐ隣に並んでくると思っていた渡会は来ない。
振り返ろうとした瞬間、引きとめるように手首を掴まれた。
「ど、どした?」
意図の汲めない渡会の行動に体が固まる。
振り向いた先の彼も、気難しい表情を浮かべていた。
「日置さ……旅館で眼鏡取りに行った時のこと、覚えてる?」
眼鏡? 渡会の言葉に記憶を巡らせる。
眼鏡を取りに行って。
こけそうになって。
渡会に抱きとめてもらって。
何でもするって、口走って──。
「……お、覚えてるけど」
このあとに何を言われるのか分からない恐怖で声が震えた。
なんだろう……実は修学旅行で仲良くしていたのはドッキリでしたとか? 来週からは何でも言いなりになれよとか?
渡会を見つめたまま、ぐるぐると考える。この三日間が楽しかったからこそ、それが全部偽りの優しさだと知ったら引きこもりそう。三年くらい。
「日置をグループに入れようって言ったの、俺なんだよね」
俺の心配を知ってか知らずか、渡会が口を開いた。堀田に聞けなかった質問の答えは、ここで返ってきた。
「……そ、そうなんだ」
「一人が可哀想だとかそういうのじゃなくて……ちょっとはあったけど」
渡会の視線がスッと横に逸れる。
「一緒のグループになったら、日置のこと知れるかなって」
俺の手首を握る手に力が入る。
「修学旅行で日置の面白いところとか、気が利くところとか……その、可愛いとこも、いろいろ知れて嬉しかった」
渡会の頬と耳が、どんどん赤く染まっていく。
待って。なんかこの流れ、おかしくない?
甘くなっていく雰囲気に、気持ちがふわふわしてくる。
「あんまり触れるつもりはなかったんだけど、今さらだけど……ごめん」
「いや、俺も嫌じゃなかったからそのままにしてたというか……」
そう口ごもると、渡会は俺の目を見て優しく微笑んだ。
さらに甘くなっていく雰囲気に溺れそうになる。
てか、これって……この流れって…………。
「もし日置が良かったらだけど」
俺はただ言葉を待つしかなかった。
「俺と、友達になってほしい」
え?
「ト…………トモダチ?」
人間と分かり合えた宇宙人みたいな返しをしてしまった。
いや、だってそうでしょ。
告白の流れだったじゃん。
どうして期待している自分がいるのかは分からないけど、雰囲気的に告白だった。百人中百人が告白判定をくだすくらいには告白だった。
これが口コミで「勘違いさせてくる」と言われていた渡会の実力か。
えっと、何だっけ、友達か……友達…………、
「ごめん……」
思わず言葉が口を衝いた。
渡会は悲しそうに眉尻を下げている。
「ちがっ! ごめんって、そういうごめんじゃなくて! えっと、もう勝手に友達だと思ってたから、それのごめん」
もう何を言っているのか自分でも分からない。
そもそも、友達ってどこからが友達? 今まで「友達になろう!」で友達になったことがないから分からない。
変な汗が止まらないでいると、渡会は俺の手をギュッと握った。何度も繋いできた手。安心するような大きな手。
混乱していた脳が少し和らいだ。
「そう言ってもらえて嬉しいけど」
「……うん」
「なんて言うか……例えば、日置が遊びたいってなったら一番に誘ってほしいし、困った時は一番に頼ってほしい」
「あぁ、そういう……」
なるほど、それが友達か。
一呼吸置き、気持ちを落ち着かせる。
「えっと、友達よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
渡会は今までで、一番輝いた笑顔を浮かべた。それにこたえるように、俺も笑顔を返す。
再び、駅内放送の音が聞こえてくる。人の波も、どんどんホームに向かって流れだした。
「じゃあ、またね」
「うん。またね」
渡会は名残惜しく手を離し、キャリーケースを引きずって改札へと歩きだした。改札を通ったあとも、時折こちらを振り返って機嫌良さそうに手を振ってくる。俺も手を振り返し、渡会の姿が見えなくなるまで、その場で見送った。
迎えの車が到着するまで、あと二十分。熱った体を冷やすために、外へ足を向けた。
二年に進級してから約三ヶ月、新しい友達ができた。
ぶるりと体を震わせ、目を閉じたまま手探りで掛け布団を探す。それでも毛布の感触は見当たらず、代わりにペチンと何かにぶつかった。
なんだ。眼鏡じゃないし。スマホでもない。人っぽい……人?
寝起きの頭で状況整理したあと、勢いよく体を起こした。
「あれ、今日は早起きじゃん」
ベッドに腰掛け、スマホをいじっていた渡会と目が合う。
ボヤける視界の中、先程ぶつかった場所を見ると、渡会が手を置いていた。
顔じゃなくて良かった。いや、手も良くないけど。
「……ごめん、手……当たった」
眠気を押し切って、乾いた喉から言葉を絞り出す。渡会は首を傾げ、思い出したように笑った。
「あぁ、全然痛くないから大丈夫」
「なら良かった……えっと、おはよう」
「ん、おはよう。声と寝癖やばいから洗面所行ってきな」
渡会はニコリと微笑み、眼鏡を渡してくれた。
やけに機嫌の良い彼を背に、床に足をつくと、柔らかい感触が肌を伝った。掛け布団、こんなとこにあったのか。
寝相は悪くないと思っていたけれど、知らない間に落としていたようだ。そう思って顔を上げれば、他の三つのベッドが目に入った。全員掛け布団を床に落としている。
なんで? 室内はそんなに暑くないのに。
洗面所に向いた足を止め、異常な光景を見つめる。そんな俺に気づいた渡会は、聞きたいことを汲み取ったようでニヤッと口角を上げた。
「寒かったら起きるかなって」
「マジでないわ」
朝食の待つ大ホールへ向かうエレベーターの中。守崎は弱々しく首を振った。堀田と仲里も、遠い目をして頷いている。
「いいじゃん。昨日と違って自分で起きれたんだし」
全員の掛け布団を剥ぎ取った渡会は、得意げな顔で鼻を鳴らした。
「もっと、こう、あんじゃん。起こし方ってやつがさ〜……」
「どうせ、日置だけ優しく起こしてやったんだろ」
仲里は肩を落とし、堀田は訝しんだ目を渡会に向けた。
「俺もみんなと同じだけど」
「え? 撫でられたり、くすぐられたりして起きたんじゃねーの?」
俺の反応に、堀田は目を見開いた。
なんでそうなるんだ。
同意を求めるために渡会を見ると、フイッと目を逸らされた。
やったのか、俺が寝てる間に。
「こいつ、日置が拒否しないから好き勝手やってんだよ」
守崎が溜め息交じりに口を開いた。
「そーだよ。多少は嫌がらないと、いつか痛い目みるぞ」
「度が過ぎてキスとかしかねないんだから」
続けて堀田と仲里も忠告してくる。
「それはまだやってない」
ちょっと待って。〝まだ〟ってなんだ。渡会とキスする予定はありませんけど。パッと口を押さえれば、渡会は「うそうそ」と笑った。もっと笑えるような嘘をついてほしい。
会話が途切れた瞬間「ポーン」と音が鳴り、エレベーターのドアが開いた。
空腹を刺激するいい匂いに誘われ、大ホールへ入る。朝食はバイキング形式のようで、何種類もの料理が用意されていた。
「皆さんおはようございます! 今日が修学旅行最終日です。最後まで怪我なく楽しく学びましょう」
今日で学年主任の挨拶ともお別れ。寂しいもんだな。
マイクの音が切れると同時に、生徒たちは真っ先に料理が集まるテーブルに飛びついた。
「俺らも行こ」
堀田の声に続けて席を立つ。
プレートを手に料理を眺めれば、お腹がぐぅと鳴った。
パンもあればご飯もある。洋と和が入り混じったメニューだった。
(昨日の朝は和食だったから、今日は洋食にしよう)
自然と伸びた手で、もちもちのロールパンをトングで挟む。あとはコンソメスープとスクランブルエッグと、デザート……。野菜も取り、綺麗に彩られたプレートに含み笑いが溢れる。
席に戻ると、四人はすでに揃っていた。
「今日ってどこ行くんだっけ」
バターの蓋を開けながら堀田が口を開く。
「アレじゃね、なんかの神社みたいな」
「午前中だけだよな」
仲里はオムレツを口へ運び、守崎はフレンチトーストをつついた。
「なんか、着付け体験もするとか書いてあった」
着付けか、あんまり食べすぎたらまずいかな。
渡会の一言に思考を巡らせたあと、ためらいもなく料理に手を伸ばした。帯に締め付けられる苦しさより、空腹でよろよろになる苦しさのほうが嫌だ。
「おみくじ、誰が一番運が良いか試そうよ」
「いいね、じゃあ最下位はあっちでアイス奢りな」
仲里の提案に、守崎が乗っかった。運すら味方につけてしまいそうな四人に勝ち目など見えないが、せめて最下位は免れるようにそっと祈りを捧げた。
「それ、美味しそう」
デザートの夏蜜柑ケーキを頬張っていると、渡会がプレート上で半分に欠けたケーキを指差した。
「食べる?」
蜜柑とスポンジのバランスがちょうどよくなるよう、フォークに乗せて差し出す。
渡会は、差し出されたケーキを見て目をまたたいた。シェアは無理なタイプだったようだ。フォークを下ろせば、パシッと手首を掴まれる。
「ありがと」
手首ごと引き寄せた渡会はケーキを口に含んだ。
「おいしい?」
首を傾げると、ニコリと笑みが返ってくる。
幸せそうな渡会を横目に、残りのケーキを口へ運ぶ。同時に、学年主任の声が聞こえてきた。最終日だからか締めの挨拶は少し長かった。
部屋に戻り、ベッドの上で満足に膨れたお腹を落ち着かせる。
「今日着付けあるならセットしよ」
ベッドでくつろぐ俺と違い、守崎はせっせとヘアアイロンやスプレーをテーブルの上に広げた。ノーセットでも全然いいと思うのに、インスタ職人たちは、それだけでは物足りないらしい。
手際よく髪を遊ばせる彼らを眺めていると、渡会が隣に腰掛けた。
「日置もやろ」
「えー……やんなきゃダメ?」
「ダメ」
「上手くできるか分かんないんだけど」
「やってあげる……ヘアオイルとか、かゆくなったりしないよね?」
渡会は優しく俺の髪に触れた。なんだか美容室に来たみたいだ。
セットと言うからオールバックとかホストみたいな盛り盛りヘアを想像していたが、襟足を跳ねさせたり、センターパートにするくらいだった。
時間はさほどかからず、仕上げにスプレーをかけられる。ヘアオイルの甘すぎない爽やかな香りは、とても好みだった。
「はい、お疲れ様でした」
渡会に軽く肩を叩かれ、顔を上げた。鏡に映る自分は、いつもよりスッキリして見える。
これがイケメンの力。
足りないのは俺の顔面の力。
「いらっしゃい! ほな、好きなもの選んでや〜!」
元気なおじさんに迎えられ、色とりどりの着物が並ぶ部屋へ通された。
着物ってこんなに種類があるんだな。
華やかな色の列に圧倒される中、陽のかたまりの四人は、ショッピングモールへ来たかのように物色していた。派手な色の着物に盛り上がる彼らを背に、栗色のシンプルな着物を手に取った。無難が一番である。
懸念していた帯は、もちろんキツかった。締め付けに耐えながら、慣れない草履を履き、先に着付けを終えた四人が待つ街道へ出た。
細かい刺繍が施されたものだったり、ツートーンで揃えられたものだったり、彼らは見事に着こなしている。セットした髪型も相まってモデルのようだ。
女子の準備を待つ間、行き交う通行人の視線が刺さる。着物を身につけた集団がいるのだからその反応も頷けるが、ほとんどの視線は隣に立つ渡会たちに向けられていた。
「芸能人?」
「撮影やない?」
中学生くらいの女の子たちは、歩きながらずっと目線を四人に固定していた。ブレない視線は、一種のパフォーマンスのように見える。
しばらくして、男子より華やかな彩りの着物を身につけた女子が姿を現した。普段着られない服装にテンションが上がっているのか、あちらこちらでスマホ片手に記念撮影をしている。
点呼確認を終えた担任に続き、神社を目指す。生徒を引き連れる白い着物の背には、鶴の模様が描かれていた。
「集合写真撮るよ〜」
本殿の前に着くと、担任が手を挙げた。その声に全員が身だしなみを整える。
「日置こっち向いて」
隣から降ってきた声に顔を上げる。俺の頭に手を伸ばした渡会は、器用に風で乱れた髪を整えてくれた。こだわりがあるのか、微調整まで抜かりない。
彼が満足するまでの間、ふわりと風がそよぎ、ヘアオイルの香りが顔周りを包んだ。
「俺、このヘアオイルの匂い好き」
ポツリと呟く。
渡会は手を止め、覗き込むように小首を傾げた。
「へぇ、俺がいつも使ってるやつ……好き?」
「好き」
頬を緩めて笑うと、渡会の表情が固まった。髪から手を離した彼は、終わりを示すようにパッと顔を逸らす。カメラマンの合図に、俺も前へ向き直った。
撮影間際、ちらっと窺った渡会の耳は、ほのかに赤く色づいていた。
「じゃあ一時間後、ここに集合ね〜」
撮影後、担任は手を振って生徒を見送った。
参拝に向かったり、出店にお土産を買いに行ったり、着物の集団があちこちに散らばる。
「おみくじ引きに行こ」
仲里が赤く存在感を放つ鳥居を指差した。
草履で砂利を踏みならし、奥社を目指す。夜に来たら怖そうだけど、昼間の神社は日の光も掛け合わさって神秘的だった。
奥社に到着すれば、早速お目当てのおみくじコーナーへ向かった。
ジャラジャラと音を鳴らし、一人ずつおみくじの入った筒を振る。俺の順番が回ってくると、ギュッと両手を握った。
神様。小吉くらいでお願いします。
精一杯の祈りを込めて筒を振る。出てきた数字は三一番。三一の引き出しを開け、一番上ではなく、上から二番目の紙を取り出した。
「まだ待って。せーので見よ」
最後の堀田が筒を抱えて振り返った。
待ち時間がもどかしい。なんだか緊張もしてきた。
五人揃って輪になると、仲里が小さく声を上げた。
「せ〜の……」
バッとおみくじを開く。
末吉。
普通だ。正しい順番は分からないけど、多分普通。
「日置が一番下っぽいな」
まあまあな結果に胸を撫で下ろせば、スマホで運勢の順番を調べていた守崎が、哀れみの目を向けてきた。なんとなくそんな感じはしてた。
奢り確定に苦笑を漏らし、手元のおみくじをじっくりと眺めた。健康運、勉強運、末吉らしくまあまあな内容だった。一番盛り上がるのは、やっぱり恋愛運。
〝近い内に待ち人来たり〟と書いてある。本当かよ。
「渡会の見して」
「いいよ」
隣で大吉のおみくじを広げる渡会の手元を覗き込む。案の定、だいたいプラスな事しか書いていない。
恋愛運はどうだろう。心配無用人生花道万々歳、とかかな。
流れるように恋愛運へ目を向ける。そこには思っていたような文字はなかった。
己を信じて進むべし。
意外にも、鼓舞するような一文が記されていた。
渡会が攻略困難な人間なんて、この世にいるのだろうか。神様も、たまにはイケメンに試練を与えるらしい。
粗方おみくじに目を通せば、おみくじ掛けに足を向けた。破けないように慎重に結び、念のため、平穏な日々を願って手を合わせた。
「あ。アイスある」
堀田の声に振り向くと、そこにはソフトクリームやジェラートを売っているレトロなキッチンカーがあった。
「みんな何がいい?」
財布を取り出し、四人を窺う。
「あ、奢りは冗談だから」
メニューを眺める守崎が首を振った。すっかり奢る気でいた俺は、残金を確認する手を止めてポカンと口を開いた。
まぁ……いいか。奢らなくていいなら、それに越したことはない。
拍子抜けのまま窓口に向かう。定番の抹茶ソフトクリームをスルーして無花果のジェラートを頼んだ。
「日置も食べる?」
本殿へ戻る途中、隣を歩く渡会から抹茶ソフトクリームが差し出された。喜ばしいことに、シェアしてくれるようだ。
「ありがとう。俺のもよかったら」
「ありがと」
交換するように自分のジェラートも差し出す。
ソフトクリームを一口含むと、抹茶とバニラの香りが口の中に広がった。
あまりの美味しさにもう一口だけ貰おうと口を開けば、草履に足を取られ、こけそうになった。その勢いで照準を誤ったソフトクリームは、口の端に当たった。短い舌を伸ばしてみるが届かない。
ティッシュなど持っていない。さすがに借り物の着物で拭うわけにもいかない。
一人でパニックになっていると、隣から伸びてきた手が頬を拭った。そのままクリームのついた指を目で追えば、渡会はためらいもなく口に含んだ。
「……大丈夫な感じ?」
バグった脳は変な質問を飛ばした。
「あ、ごめん。嫌だった?」
渡会は焦ったように眉を下げる。その反応に首を横に振った。
そういえば、テーマパークの時もケチャップのついた口元を拭ってくれた。弟だっているし、自然と体が動いてしまうのだろう。
ホッとした表情を浮かべた渡会から、ジェラートを受け取る。俺もいびつな形になってしまった抹茶ソフトクリームを渡した。
少し溶けだしたジェラートを口にすると、なぜかさっきよりも甘く感じた。
「疲れた~!」
「足いて~」
「ねみー」
仲里と堀田と守崎は、ゲッソリとした表情でバスの座席に腰を沈めた。着物はとうに脱がれ、慣れ親しんだ制服に変わっている。
長かった修学旅行も、あとは新幹線に乗って帰るだけ。過ぎ去っていく街並みを眺めていると、寂しさがこみ上げてくる。
「寂しい?」
俺の心情を見透かしたように渡会が声をかけてきた。
「ちょっとね、楽しかったから」
「それは……良かった」
渡会は優しい声で微笑んだ。
「お土産を購入する生徒は、素早く時間内に購入してください。トイレに行っておくことも忘れずに! では一旦解散!」
学年主任の一声で列が乱れ、生徒の波が駅構内に流れだす。
「俺、お土産見てくるけど、みんなどうする?」
駅内を指差せば、反応は二手に分かれた。
渡会と堀田は「俺も行く」と手を挙げ、仲里と守崎は「トイレ寄ってから行く」とこの場を離れた。
さっそく渡会と堀田と一緒に、駅地下のお土産コーナーへ向かう。
八つ橋、抹茶バウムクーヘン、わらび餅、いろんなお土産品がショーケースに並んでいる。
悩みながら着々と増えるお土産。また一つ腕に紙袋を下げると、遠くから名前を呼ばれた。ショーケースから顔を上げた先に、渡会と堀田が手招きしている姿が見えた。
「試食していいって」
彼らの元へ駆け寄ると、渡会は爪楊枝に刺さったどら焼きのような欠片を差し出してきた。隣の堀田はすでに食べたらしく、モグモグと口を動かしている。
受け取りたいけど両手が紙袋で塞がっている。お土産を床に置こうとすれば、渡会の声がそれを制した。
「口開けて」
どうやら、食べさせてくれるらしい。
素直に口を開ければ、渡会はもう片方の手を添え、落ちないように入れてくれた。
「どう?」
「美味しい」
きな粉みたいな味がする。
「つかさお兄ちゃん僕も〜」
「ボクもー」
うしろから揶揄する声が飛んできた。
振り返ると、仲里と守崎が立っていた。手にはお土産の袋をぶら下げている。合流する前に買ってきたようだ。
というか〝つかさ〟って……。
「弟の真似やめろ」
隣の渡会は眉間に皺を寄せていた。
全員苗字で呼び合うから、たまに下の名前を聞くと分からなくなる。俺の名前も朝の事件がなければ……思い出したら恥ずかしくなってきた。
嫌な記憶を振り払うように店員へ向き直る。
「先程試食でもらったのと、あと……チョコレート味もください」
「ありがとうございます〜」
店員は手際良く箱を紙袋に詰め、会計時、一緒に何かを渡してきた。
「これ、おまけね!」
「あ、ありがとうございます」
店員の手には、まねき猫のキーホルダーがぶら下がっていた。ゆらゆらと揺れるそれは、時折シャランと鈴の音を鳴らした。
キーホルダーを握りしめ、両腕には大量の紙袋。さすがに買いすぎた。
「持つよ」
渡会が俺の腕から紙袋を抜き取る。
息をするように気遣いを見せる彼には頭が上がらない。何から何まで、渡会様様である。
エスカレーターに差し掛かり、リュックを背負い直せば、手の中で貰ったキーホルダーが音を鳴らした。
思い立って渡会の制服をクイッと引っ張る。
「手出して」
「え、なに」
渡会は少し怖気づきながらも、手を差し出してくれた。その上に、まねき猫のキーホルダーを乗せた。
「これ、弟さんにあげる」
「日置が貰ったんじゃないの?」
「俺すぐ失くしそうだし……貰ってくれない? つかさお兄ちゃん」
試食時のやりとりを思い出してニコリと微笑む。
渡会は予想外だったようで、パチリと目をまたたいた。それでも、すぐにキーホルダーをポケットにしまい、俺の頭を掻き撫でた。せっかくセットしたのに。
「普通に呼んでよ」
渡会はポツリと呟いた。
「渡会?」
「下の名前」
「紬嵩」
言われるまま口にした。
目の前の彼は、みるみるうちに頬を赤く染める。
「…………やっぱまだ苗字で」
そう言い残すと顔を背けてしまった。
まだってなんだよ。
キスといい、名前といい、今後の予定に勝手に組み込まれている。渡会の不思議な思考に眉を顰めると、広場のほうから学年主任の声が聞こえてきた。
「時間も押してるので、素早くホームに移動してくださーい!」
切羽詰まった声に腕時計を見る。発車時刻まで、数分しか残っていなかった。
駆け足で向かえば、すでに新幹線が到着していた。乗車口には担任が立っており、生徒一人一人に切符を渡している。
「座席は中で調整して、とりあえず乗っちゃって」
押し込まれるように乗車し、切符の番号が示した座席へ向かった。
「いらっしゃい〜」
「なんだかんだ日置と隣になるのは初めてかも」
俺の席は仲里と堀田の間だった。修学旅行中はほとんど渡会の隣だったから、なんだか新鮮に感じる。
「揃ってない班がいたら報告しに来て〜、あとお昼のお弁当も持って行ってね」
担任は歩きながら指差しで生徒を数えていた。車内はざわざわと騒がしいが、乗り遅れた生徒はいないようだ。
「また幕末弁当かな」
堀田は初日の言い間違いを、自分の持ちネタにしたようだ。したり顔を浮かべる彼に、笑って首を振る。
「いや、さすがに違うでしょ」
「俺取りに行ってくる」
仲里は席を立ち、車両の後方へ向かった。その背中を見送ると、堀田がトントンと肩を叩いてきた。
「修学旅行楽しかった?」
「うん。正直パシられるかと思ってたから、普通に楽しくてびっくりした」
「なわけないじゃん。俺らそんなふうに見えてたの?」
「喋ったことなかったし」
「んー……まぁ、そうか」
堀田は頬を掻き、困ったように笑った。
終わりよければ全て良し。グループ決めの時間に、声をかけてくれた堀田には感謝しかない。
「誘ってくれてありがとう」
「発案者は俺じゃないけど、どういたしまして〜」
発案者? 中学の繋がりで堀田が誘ってくれたのだと思ったけど、違うのか。
「それってどういう──」
「なー! 見ろよ、肉!」
俺の問いは仲里の声にかき消された。
まぁ、楽しかったし何でもいっか。
仲里から焼肉弁当を受け取ると、空になっていたお腹を満たした。
昼食を終え、家族に到着時間を送ろうとチャットアプリを開く。そこには一件のメッセージが届いていた。
『イケメンたちのインスタアカウント教えて』
送り主は池ヶ谷だった。
予想はしていたけどやっぱりか。断られたって入れておこうかな……一応聞いてみるか。
「杏……じゃなくて、鹿のところで会った中学の同級生がインスタのアカウント知りたいらしいんだけど、教えてもいい?」
まずは両隣の堀田と仲里に声をかけた。
「池ヶ谷だろ? 俺はいいよ」
「んー、俺は教えてもいいけどフォロバはしないかも。よく知らないし」
二人に頷き、今度はうしろの席の守崎と渡会に同じ質問をした。
「俺はパス」
「あ〜……俺は教えていいよ」
即答で返してきた守崎に対して、渡会は少し迷ってから頷いた。
席に座り直し、さっそく池ヶ谷にメッセージを打った。その数分後、高速の土下座をするウサギのキャラクターのスタンプが送られてきた。そして、俺はすっかり家族に連絡することを忘れていたのだった。
「皆さんお疲れ様でした! ここで解散ですが、修学旅行は帰るまでが修学旅行です。寄り道せずに気をつけて帰ってください! それでは解散!」
「「「さようなら〜」」」
駅構内に生徒の声が響く。
終わってしまった、修学旅行。イマイチ実感が湧かない。
駅の出口へ向かう生徒を眺めていると、堀田がスマホから顔を上げた。
「俺、迎え来てるから帰るけどみんな平気?」
堀田の問いかけに、守崎は電光掲示板を見上げた。
「俺は電車で帰るから、もう行く」
「あ、俺も」
同じ路線の仲里も、守崎に続いて手を挙げた。
「俺は迎え来るのもう少しかかるから待ってる」
家族には、先程思い出して連絡したばかり。あと三十分は待たないといけない。
最後に渡会に視線が集まると、彼はニコリと笑った。
「俺も。電車の時間遅いから」
三日間付かず離れずだった俺たちは、ここで解散することになった。堀田は駅の出口へ、仲里と守崎はホームへ向かった。
三人を見送り、隣を見上げる。
「電車の時間あとどのくらい?」
「十分くらいかな」
「乗せてこうか?」
「いや、最寄り駅に迎え来てもらってるから大丈夫」
「そっか」
渡会に頷けば、周りを見回した。
とりあえず座りたい。慣れない環境で三日間過ごした体は、思ったより疲れていた。
ゴロゴロとキャリーケースを引きずり、空いていたベンチに腰を落ち着ける。そして、まだ直接伝えていなかった礼を口にした。
「修学旅行、いろいろ手伝ってくれてありがと。コンタクト取れた時とか、風呂の時とか、迷子の時とか、あと、お土産持ってくれたりとか……」
三日間の迷惑事をあげればキリがない。段々と声が尻すぼみになっていく。
罪悪感に目線が床に落ちると、柔らかい声が耳に届いた。
「気にしなくていいって、こっちこそグループ入ってくれてありがとう」
疲れを感じさせない爽やかな笑顔だった。
そんな彼に、自然と俺の表情も緩んだ。
「渡会とは、一番距離が縮まった気がする」
「……そう」
「最初なんか冷たかったし」
「え……あ、あれは挨拶の仕方が分からなくて、緊張してたし……」
慌てて弁解する渡会に「冗談だよ」と笑った。
その時、駅内の放送が響いた。
渡会はあと十分と言っていたけれど、ホームまでの距離を考えると、もう向かったほうが良いのではないか。
「もう行く? 余裕あったほうがいいし。改札まで送るよ」
ベンチから重い腰を持ち上げた。足を踏み出しても、すぐ隣に並んでくると思っていた渡会は来ない。
振り返ろうとした瞬間、引きとめるように手首を掴まれた。
「ど、どした?」
意図の汲めない渡会の行動に体が固まる。
振り向いた先の彼も、気難しい表情を浮かべていた。
「日置さ……旅館で眼鏡取りに行った時のこと、覚えてる?」
眼鏡? 渡会の言葉に記憶を巡らせる。
眼鏡を取りに行って。
こけそうになって。
渡会に抱きとめてもらって。
何でもするって、口走って──。
「……お、覚えてるけど」
このあとに何を言われるのか分からない恐怖で声が震えた。
なんだろう……実は修学旅行で仲良くしていたのはドッキリでしたとか? 来週からは何でも言いなりになれよとか?
渡会を見つめたまま、ぐるぐると考える。この三日間が楽しかったからこそ、それが全部偽りの優しさだと知ったら引きこもりそう。三年くらい。
「日置をグループに入れようって言ったの、俺なんだよね」
俺の心配を知ってか知らずか、渡会が口を開いた。堀田に聞けなかった質問の答えは、ここで返ってきた。
「……そ、そうなんだ」
「一人が可哀想だとかそういうのじゃなくて……ちょっとはあったけど」
渡会の視線がスッと横に逸れる。
「一緒のグループになったら、日置のこと知れるかなって」
俺の手首を握る手に力が入る。
「修学旅行で日置の面白いところとか、気が利くところとか……その、可愛いとこも、いろいろ知れて嬉しかった」
渡会の頬と耳が、どんどん赤く染まっていく。
待って。なんかこの流れ、おかしくない?
甘くなっていく雰囲気に、気持ちがふわふわしてくる。
「あんまり触れるつもりはなかったんだけど、今さらだけど……ごめん」
「いや、俺も嫌じゃなかったからそのままにしてたというか……」
そう口ごもると、渡会は俺の目を見て優しく微笑んだ。
さらに甘くなっていく雰囲気に溺れそうになる。
てか、これって……この流れって…………。
「もし日置が良かったらだけど」
俺はただ言葉を待つしかなかった。
「俺と、友達になってほしい」
え?
「ト…………トモダチ?」
人間と分かり合えた宇宙人みたいな返しをしてしまった。
いや、だってそうでしょ。
告白の流れだったじゃん。
どうして期待している自分がいるのかは分からないけど、雰囲気的に告白だった。百人中百人が告白判定をくだすくらいには告白だった。
これが口コミで「勘違いさせてくる」と言われていた渡会の実力か。
えっと、何だっけ、友達か……友達…………、
「ごめん……」
思わず言葉が口を衝いた。
渡会は悲しそうに眉尻を下げている。
「ちがっ! ごめんって、そういうごめんじゃなくて! えっと、もう勝手に友達だと思ってたから、それのごめん」
もう何を言っているのか自分でも分からない。
そもそも、友達ってどこからが友達? 今まで「友達になろう!」で友達になったことがないから分からない。
変な汗が止まらないでいると、渡会は俺の手をギュッと握った。何度も繋いできた手。安心するような大きな手。
混乱していた脳が少し和らいだ。
「そう言ってもらえて嬉しいけど」
「……うん」
「なんて言うか……例えば、日置が遊びたいってなったら一番に誘ってほしいし、困った時は一番に頼ってほしい」
「あぁ、そういう……」
なるほど、それが友達か。
一呼吸置き、気持ちを落ち着かせる。
「えっと、友達よろしくお願いします」
「うん、よろしく」
渡会は今までで、一番輝いた笑顔を浮かべた。それにこたえるように、俺も笑顔を返す。
再び、駅内放送の音が聞こえてくる。人の波も、どんどんホームに向かって流れだした。
「じゃあ、またね」
「うん。またね」
渡会は名残惜しく手を離し、キャリーケースを引きずって改札へと歩きだした。改札を通ったあとも、時折こちらを振り返って機嫌良さそうに手を振ってくる。俺も手を振り返し、渡会の姿が見えなくなるまで、その場で見送った。
迎えの車が到着するまで、あと二十分。熱った体を冷やすために、外へ足を向けた。
二年に進級してから約三ヶ月、新しい友達ができた。