後頭部に走る鈍い痛みを感じながら、僕は目を覚ました。

「お目覚めですか?」

 視界いっぱいにヨルの顔があって、ぎょっとする。
 ああ、そうだ......。僕は悪魔契約をしたんだっけ。
 額に手を当てながら身を起こす。窓からは燦々と陽光が差していて、時間が巻き戻ったような感覚に陥った。
 気絶でもしていたんだろうか、と目元を指で拭いながら、枕元の時計を見やる。
 針は八時を指しており、思わず二度見してしまった。ヨルがこの部屋に来たのは、正午すぎだったはずだ。
 ということは、ほとんど丸一日眠っていたということになる。
 社会人になってこんなに眠ったのは初めてだ。寝すぎたせいで、体の節々も痛い。
 布団の上で呆然としていると、ヨルは僕の隣で正座をし、

「すみません。悪魔契約は、人間の精神に少なからず負担をかけるんです。最初にお伝えしておくべきでしたね」

 と、申し訳無さそうに言う。「そういうことは事前に言ってほしい」と心の中でつぶやいた。

「でも、北村さんがお休みになっている間に、お掃除しておきましたよ!」

 ヨルはえへんと胸を張る。改めて部屋を見渡すと、たしかに自分の部屋とは思えないほど、きれいに清掃されていた。
 あちこちに脱ぎ捨ててあった服や、散らばった書類、やりかけのゲームソフトなどが、あるべき場所へキチンと収納されている。
 電源ケーブルをなくしたとばかり思っていたテレビにも電源がついていて、画面にはヨルの趣味なのであろう、ホラー映画が再生されている。

「すごい。この部屋、こんなに広かったんだ」

 玄関にはゴミ袋が山積みになっていたが、あれぐらいは僕が出さなければバチが当たるというものだ。

「悪魔って親切なんだね」
「タダで居座るほど、ヨルは恩知らずじゃないです。あ、洗濯もしたいので、体調が戻っているならどいてくれますか?」

 ヨルは僕が座っているにも関わらず、強引に敷布団を引き剥がす。
 転がるようにして退くと、てきぱきと畳んでベランダに運んでいった。
 一度も日光に当てたことのない布団が、容赦なく布団叩きで殴られるたび、大量のホコリが粉雪のように舞い散る。
 ぞっとする光景だが、ヨルはとても嬉しそうだ。
 ふと見ると、テーブルの上にはコーヒーとトーストが用意してあって、ヨルに訊ねると「どうぞ」と返ってきた。
 どうやら、僕のために作ってくれた朝ごはんらしい。
 なんだかお嫁さんをもらったみたいだなと不相応なことを思いつつ、ありがたく頂戴する。
 誰かにご飯を作ってもらうのは、すごく久しぶりだ。
 少し焦げたトーストの味を噛み締めていると、心の奥があたたかくなっていく。

「ところで北村さん、ヨルの魔術はちゃんと効いていますか?」

 はっとした。
 そうだ。呑気にパンをかじっている場合じゃない。
 僕はいそいそと携帯電話を引き寄せ、画面を覗き込んだ。
 すると、今まで存在すら忘れていたチャットアプリから通知が届いていた。
 僕の携帯電話に個人的なメッセージが来ることはないので、悪用でもされたのかと不安になってこわごわアプリを開くと、

 <『雑談部屋』へ招待されています。参加しますか?>

 初めて見るポップ画面。どうやらグループチャットへ招待してくれた人がいるようだ。
 アカウント名は、職場の先輩だった。出勤初日に、緊急連絡先としてIDを伝えた覚えがある。

 でも、いきなりどうして?

 躊躇いながらも<はい>という選択肢を選ぶと、自動的にチャットルームに入室することができ、先輩から『承認ありがとう』というメッセージが届いた。
 参加者名簿を見ると、見知った社員たちの名前がずらりと並んでいる。
 立て続けに、『気軽に発言して』『ここでもよろしく』というメッセージが飛んできて、頭が真っ白になってしまった。
 なんて返信をすれば、変に思われないだろうか。「よろしくお願いします」でいいのか? それとも、他に気の利いた返しを期待されているのだろうか。
 ああ、時間が経ちすぎると、感じが悪いな。早く返さなきゃ。

 そんなことを考えている間にも、

 <『愚痴』へ招待されています。参加しますか?>
 <『日替わり班チーム』へ招待されています。参加しますか?>
 <『焼き肉食べようぜ』へ招待されています。参加しますか?>

 次から次へとグループチャットからの招待が届く。
 ログをさかのぼると、職場の情報交換はもちろん、上司の愚痴からプライベートなことまで、様々なやり取りがされており、社員たちの意外な一面を垣間見ることができた。
 なかには宮越くんがオーナーとなっているチャットルームもあって、彼のカリスマ性に少しだけ嫉妬する。
 比べても仕方ないのはわかっているのだが。

 勇気を出して、『招待ありがとうございます』いう文字を打ち込んでみると、

『おう、よろしく』
『てか、なんで今までチャットに入ってなかったん? 笑』
『誰だよ、北村をはぶいたやつ』

 社員たちからの友好的なメッセージが、ずらりと並ぶ。
 その文字を指で撫でながら、僕はまだ自分が夢の中にいるような感覚に襲われた。
 ふわふわとしていて、現実感がない。本当にこれは、僕に宛てられたものなんだろうか。

「いかがでしたか?」
「うわっ!」

 突然、ヨルに耳元で囁かれて、驚きのあまり飛び上がってしまった。
 ヨルは僕から携帯電話を抜き取ると、勝手に画面をスクロールしていく。
 僕は返してとも言えず、そのままもじもじとヨルの反応を窺った。
 ヨルは一通りメッセージに目を通すと、満足そうに頷く。

「みなさん、北村さんのことをちゃんとお友だちだと思っていますね。友達化、成功です」
「友達化?」
「北村さんのことを、お友だちとして認識する人たちの総称です」

 なるほど。わかりやすい。

「これが契約の効果なんだね」

 ヨルの魔術のおかげだとわかって、少しだけ落胆する。
 悪魔の力なしでは、誰も僕に見向きもしないということは、今までの人生で嫌と言うほど思い知ったはずなのに。
 それと同時に、こんなことが出来てしまうヨルの力......本物の悪魔と契約をしたのだという事実に、今更ながら恐ろしさを覚える。
 だが、得たものは......。
 僕はテーブルに携帯電話を置いて、ふうとため息をついた。

「どうしました?」
「いや、なんか思っていたのとちょっと違うなって。友達になったんだったら、その......」
「遊びのお誘いでも来るかと思いました?」
「そこまで思い上がったことは言わない、けど」

 いや、図星だ。
 もし本当に十万人が僕の友達になったのなら、もっとわかりやすい変化が起きると思っていたのだ。職場のグループチャットに招待されたのは大きな一歩に違いないのだが、僕が求めていたのは、こういう地味な反応ではなく......。
 言葉を濁す僕に、ヨルは困ったように小首を傾げた。

「えっとですね......友達化した人間が北村さんに抱く感情は、冠婚葬祭には呼ばないけど、仕事帰りの飲みくらいなら付き合ってくれるレベルのものなんです」
「え?」
「なので、これくらいが正常な反応だと思います」
「でも、それって友達なの? 他人とほぼ変わらなくない?」
「気軽に付き合いやすい関係性だと思いますよ」
「そうかな」
「よく考えてみてください。名前も素性もわからない十万人から、いきなり親友扱いされても、それはそれで困りませんか?」

 たしかに十万人の中には、当然相性が悪い人や、犯罪に手を染めるような人だって混じっているはずだ。
 そんな人物から一方的に好意を寄せられれば、危険な目に遭うかもしれない。

「それに、十日間の記憶を友達化した人たちが忘れることはないんです。気が合いそうな方がいれば、仲を深めていけばいいのです。十日が過ぎたとき、北村さんのそばにいてくれた人こそ本当のお友だちだと思いますよ」
「......頑張っては、みるよ」

 ヨルはそう言うが、あまり自信がない。結局は自分の努力次第ということじゃないか。

「あ、そういえば! お掃除中に見つけたんですけど......」

 ヨルは思い出したように両手を叩き、部屋の隅に重ねてあった書類の束から、一枚の封筒を抜いて僕に差し出してきた。

「もしかして......中、見た?」
「いけませんでしたか?」
「いや、残しておいた僕が悪いんだけどさ」

 僕は首を振って、彼女から封筒を受け取る。中には手紙と往復はがきが同梱されていた。
 ヨルの好奇心に輝く視線に耐えきれなくて、渋々手紙を広げた。
 『藤島市立北中学校 同窓会のご案内』という見出しから始まった文面には、参加を求める一文とともに、日時と場所が記載されている。
 幹事の『野本光』という懐かしい名前を見て、学生時代の記憶が脳裏をよぎる。同時に苦々しい思いもせりあがってきて、つい顔をしかめてしまった。

「これ、今週の土曜日じゃないですか」
「そうみたいだね」
「参加しないんですか?」
「もうとっくに返答期限は切れてるよ」
「連絡してみたらいいじゃないですか。ほら、ここに電話番号が載っていますし」

 ヨルの素直な言葉が、すごく面倒だ。

「いいよ、いまさら。捨てといて」

 まだ何か言い足りなそうなヨルに、僕は封筒ごと強引に押しつける。

「行ったところで無駄だよ。どうせ話し相手なんかいないし」
「そうでしたか。すみません。余計なことを言っちゃいましたね。たしかに、友達がいない北村さんからすれば、地獄の時間ですよね」
「......いや、そうなんだけど。そこまで言われるのも複雑だよ」

 せっかく過去を忘れかけていたというのに、あの封筒のせいで憂鬱な気分になってきた。
 物言いたげなヨルの視線から逃げるように、僕は玄関に行って積み重なったゴミ袋を鷲掴みにする。

「ゴミ出ししてくるね。ヨルはゆっくりしていて」
「はあい」

 玄関ドアを開けた途端、抜けるような青空に目が眩む。
 鳴きしきる蝉の声が、これが現実だということをまざまざと教えてくれるようだ。
 重たいゴミ袋を引きずりながら廊下の端までやってくると、背後で扉が開く音が聞こえた。
振り返ると、隣の部屋に住む男がちょうど出てくるところだった。
 たしか前原という名字だったはずだ。
 年は三十代前半だろうか。ワックスで几帳面に整えられた黒髪に、シワ一つない縦縞のスーツがよく似合っている。
 僕が越してきたとき、一度だけ挨拶した覚えがある。
 それ以降、廊下ですれ違ってもろくに言葉を交わしたことはないが、いつもピンと背を伸ばして歩いている彼は、男の自分から見てもかっこいい。
 仕事の出来る営業マンとは彼のような人なのかもしれない。
 僕がじっと見つめていたからだろう。前原さんは僕と目が合うと、一瞬訝しげに目を細めた。あ、しまった。
慌てて視線を逸らそうとしたが、意外なことに前原さんは微笑みを浮かべ、

「おはよう、北村さん」

 と言って、親しげに片手を振る。

「えっ? ど、どうもお世話に、なってます」
「やだな。そんな他人行儀な。って、すごいゴミ。引っ越しでもするの?」

 前原さんは上機嫌な様子で、靴音を鳴らしながら近づいてくる。

「大掃除をしてるだけです」
「へえ。ずいぶん溜め込んだねえ」
「はあ」

 やたら親しげに話しかけてくる彼に、僕はとても困惑していた。
 それが伝わってしまったのだろう。前原さんは少し困ったように眉をひそめると、

「俺のカッコ、なんかヘン?」
「あっ、すみません。全然、そんなことはないです」
「そ」
「............」
「なあ、今日ヒマ?」
「えっ? あ、夜からは仕事ですが、それまでは、ヒマ、です」
「仕事、何時から?」
「二十二時です」
「じゃあ、十八時から飲もうよ」

 一瞬何を言われているのかわからなくて、言葉が出てこなかった。
 もしかして......飲みに誘われている?
 意識した途端、頬がじんわりと熱くなっていく。
 誰かから飲みに誘われるなんて、人生で初めてだ。
 これが――友達化!
 片手で口元を覆って、自然と溢れそうになる笑みを隠す。

「いっ、行きます! 行かせてください!」
「良かった。店はあとから......ん。そうだ。北村さんの連絡先教えてくれる?」
「も、もももちろんです」

 力みすぎて、噛んでしまった。
 だけど前原さんは気にした様子もなく、むしろ微笑ましそうに見守ってくれる。
 手早くお互いの連絡先を交換すると、

「じゃ、またあとで。仕事行ってくるわ」
「は、はい。頑張ってください」

 彼はゆるく手を振ると、僕を追い抜いて歩き去っていった。
 遠ざかっていく足音を聞きながら、僕はその場に立ち尽くす。
 携帯電話を買ってずいぶん経つが、個人の電話番号を登録したのは初めてだった。
 前原さん......無愛想に見えたが、きっと友達には優しいのだろう。すごくいい人そうだ。
 一緒に飲みに行くのは緊張する。でも、もしかしたら『本当の友達』になれるかもしれない。
 考えただけで宙を踏むような気持ちなって、僕は足取り軽くゴミ出しを終え、口笛を吹きながら部屋へ戻った。

「ヨル! 友達化ってすごいね!」

 玄関ドアを開けるなり、テーブルの前で体育座りをしていたヨルの下へ駆け寄る。
 細い手を取って、ぶんぶんと振る。

「どうしたんですか、北村さん」

 興奮する僕に驚いたのか、ヨルはぱちぱちと目を瞬かせた。

「前原さんから、飲みに誘われたんだ。こんなこと人生で初めてだよ!」
「前原さんがどなたかは存じませんが、おめでとうございます」
「ありがとう。ヨルのおかげだよ!」

 そのまま勢い余って彼女の体を抱きしめようとし、寸前のところではっと我に返った。
 飛び退くように手を放して、後退りをする。

「ごめん! ちょっと調子に乗りすぎた」
「いえいえ。北村さんが喜んでくれたのでしたら、ヨルも嬉しいです」

 ヨルは屈託のない笑みを浮かべ、僕の手を両手で包み込んでくれた。
 浮かれていたが、ヨルの指の冷たさに驚いて、僕は反射的に手を引っ込めた。
 そんな僕を、ヨルは少しだけ寂しそうに小首を傾げて見つめ返してくる。
 感じ悪いことをしてしまったな。

「......っていうか、たかが飲みに誘われたくらいで喜ぶなんてどうかしてるよね」

 気まずい空気を紛らわせたくて、自嘲気味に言うと、

「そんなことはありませんよ。前原さんが『本当のお友達』になってくれるといいですね」
「だけど上手に飲めるかな? 僕、プライベートで人と飲んだことなんて、ほとんどないし」
「飲みに上手いも下手もないと思いますよ。楽しめばいいのです」
「そういうもの?」
「はい。それに、まだ一人目です。ダメで元々ですよ」

 諭すように、ヨルは僕の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
 なんだか子供扱いされているようにも感じたが、不思議と嫌な感じはしなかった。

「ありがとう。頑張ってくるよ」
「はいっ」
 そのとき、携帯電話が震えた。画面を確認してみると、前原さんから『今日ここで!』というメッセージと一緒に、海岸近くの居酒屋の情報が送られてきた。
 見覚えのあるお店だ。このアパートからも歩いていけるほど近い。
 この程度のやり取りなんて、普通の人たちからすればただの日常なんだろう。
 それでも、僕にとっては大きな変化だ。
 前原さんは僕の人生を変えてくれる人かもしれない。
 三十分もかかって、『こちらこそ、よろしくおねがいします』という、当たり障りのないメッセージを送信すると、どっと疲れが襲ってくる。
 でも、きっと今夜は楽しい時間を過ごせるに違いない。

 × × ×

 前原さんが予約してくれた居酒屋は、赤ちょうちんが軒先に下がっていて、なかなか味わいのある店だった。
 友達がいない僕にとって、居酒屋というのはあまり馴染みがなく、ぴったりと閉じられた引き戸越しに聞こえる声を聞いただけで、緊張で心拍数があがっていく。
 できれば店先で待ち合わせをしたかったのだが、少し前に前原さんから『先に入ってるから』というメッセージが携帯に届いていた。