「でも、他人から親友になるのは難しくても、お友だちから親友になるのはそんなに難しいことではないと思いませんか?」

 まるで自社の製品を売り込む営業マンみたいに、ヨルは饒舌に続けた。

「ヨルはあくまで、みなさんが北村さんを『友だち』だと認識する魔術をかけるだけです。あとは、北村さんが誰と仲を深めるかを選択すればいいのです」
「つまり......親友になれそうな人を十日間で探せってこと?」
「そのとおりです」
「代償は?」

 ヨルの表情が引き締まる。

「悪魔が人間の願いを無条件で叶えるはずがないよね? あとで寿命とか魂をくれって言われたら......」
「まさか! ヨルがそんなゲスい悪魔だと思っているんですか?」
「しっ、知らないよ。悪魔と会ったのははじめてなんだから」
「ひどい偏見です。ヨルはこれまで、何人もの方と契約をしてきましたが、みなさん満足されていましたよ」
「他にも僕みたいな人がいたってこと?」
「人間の願いなんて、たいてい決まっていますからね。ご心配なら、一筆書きますよ」

 ヨルは部屋に転がっていたボールペンを手に取ると、契約書に文字を書き綴る。そこには、

『北村太一の命や、身体に関わるような代償は求めない』と記されていた。

「これ、信用していいの?」
「そのための契約書です。他になにか、懸念はありますか?」

 ヨルから差し出されたボールペンを握り、僕は起こりえそうな最低最悪の事象について考えを巡らせる。僕の大事な人......大事なもの......。
 部屋をぐるりと見渡したが、どれも大して価値を感じることができないものばかりだ。
 結局、『コパンには手を出さないこと』とだけ書き加え、ボールペンを置いた。

「コパン? 外国の方?」
「僕に懐いている野良猫」
「なるほど。猫ちゃんは可愛いですよね。では、この条件で契約をしていただけますか?」
「最後にひとつだけ。君はどうして僕と契約がしたいの?」
「人間が好きなんです」
「へ?」
「これじゃあ、理由になりませんか?」

 意外な返答に、僕は唸る。

「いや、べつに」

 趣味趣向は人それぞれだ。
 僕は契約書を手に取り、最初からゆっくりと読み直した。
 堅苦しい文章で書かれているが、大雑把に要約すれば以下のとおりだ。

 ①契約期間は、八月十一日から二十日までの十日間。
 ②契約期間中、このF県藤島市民(十万一千四五四人)が北村太一の『友達』となる。
 ③契約終了時に、北村太一はヨルに代償を支払う。
 ④契約に関することは、口外してはならない。
 ⑤途中で契約を解除することはできない。

 やはり、「代償」という文字を見ると、ボールペンを持つ手に力がこもる。
 十万人の友達というのは、悪魔と契約を交わすリスクを負ってまで、叶えることなのだろうか。
 あとからどんな代償を請求してくるかわかったものじゃない。
 引き返せ。今すぐこいつを部屋から追い出すべきだ。
 いや、でもこの孤独な人生を変えるチャンスなんだぞ、これは。
 契約書を前に、僕の心の天秤はぐらぐらと揺れていた。
 相手は得体の知れない悪魔だ。悪魔というのは、大抵人間を破滅に向かわせる。
 人間が好きだなんて口ではのたまうが、本心かどうかもわからない。いや、嘘の可能性の方が高いだろう。

 だけど......。

 彼女は、こんな僕に手を差し伸べてくれた存在なのだ。
 仕事も失い、身を案じてくれる家族も、声をかけてくれる友達もいない......ゼロの僕に。
 そもそもヨルが訪ねてくる直前、僕は死のうとしていたじゃないか。
 台所で握った包丁の柄の感触は、いまだ手のひらに残っている。
 友達が欲しい。僕を友達だと言ってくれる人が欲しい。
 そんな願いを、この悪魔は叶えてくれるというのだ。
 この契約は、地獄に垂れた蜘蛛の糸なのかもしれない。
 神様が僕を救ってくれないなら、悪魔に縋ってもいいじゃないか。

 ゆらゆらと揺れていた心の天秤が、ガクンと傾いた。

 ボールペンを握りしめ、契約書に『北村太一』とサインをする。
 書き終えた途端、契約書の隅から黒煙があがり、またたく間にオレンジ色の炎に包まれた。
 最後にボッと火花を散らすと、灰も残さず燃え尽きてしまった。
 ヨルはパチパチと小さな拍手をし、上機嫌に微笑む。

「これで契約完了です」
「は、はあ」

 思っていたよりも、呆気ない。
 契約の証に、刻印などが浮き出ているんじゃないかと体をまさぐってみたが、なんの変化もなかった。
 今更ながら、騙されているんじゃないかという疑念が湧いてくる。こんなに必死で思案したのに、実はドッキリでした! なんてオチだったら、それこそ舌を噛んで死にたくなりそうだ。
 けれど、戸惑う僕とは対照的に、ヨルは楽しそうに微笑を浮かべている。

「あの、これから僕はどうすれば」
「契約開始日は明日からですので、それまでは自由にしていてください」
「そう」
「ヨルは荷物を取ってきます」

 彼女はすっくと立ち上がり、玄関に向かった。黙って見守っていると、ドアを開けて外に置いてあったのだろう、白いキャリーケースを室内に運び入れる。

「なにしてるの?」
「これからお世話になるので、その準備をしようかと」

 平然と言ってのけるヨルを、ぽかんと見つめ返す。

「まさかとは思うけど、この部屋で生活するつもり?」
「えっ! だめなんですか?」

 ヨルは驚いたように目を丸くする。

「当たり前だよ! 僕は、その、男だし!」
「ヨルはこんなに可愛いのに?」
「可愛いから余計問題が......って、そういうことじゃなくて」

 動揺で、僕の声は上ずっていた。

「まさか断られるなんて思ってもいませんでした。今までの契約者さんは、すんなり部屋に住まわせてくれたのに」
「日本人の心理を突かないで」

 特に僕はそういう言葉に弱いのだ。

「お金くらい悪魔の力で出せるんじゃないの?」
「ニセ札を刷るような大罪を犯したくはありません」
「悪魔の倫理観がわからないよ」
「北村さんに追い出されたら、ヨルは宿無しになってしまうんです。それでもだめですか?」

 ヨルは赤い瞳を潤ませて、僕をじっと見つめてくる。この様子では本当に行き場がないのかもしれない。悪魔の懐事情に詳しくはないが、契約を結んだ以上、見て見ぬふりは出来ない。

「うちは汚いけど、それでもいいの?」
「はい! 我慢します」

 一言余計だ。
「じゃあ、好きにどうぞ......」
「ありがとうございます。北村さんはお優しいですね」

 ヨルは大して意識せず口にしたのだろうが、滅多に他人から褒められたり、感謝されることがない僕にとっては、たまらなく嬉しい言葉だ。
 自然とにやける口元を手のひらで隠し、誤魔化すように咳払いをした。

「ちょっと換気させてもらいますね。さっきから鼻がムズムズするんです」
「ああ、うん」

 ヨルは立ち上がると、カラリと窓を開けた。「わあ、いい天気になってきましたね」と無邪気に喜ぶ彼女は、こうしてみると普通の女の子にしか見えない。
 ワンピースの裾から伸びる生白い足に、つい目がいってしまう。
 十日間もこの部屋で一緒に過ごすなんて、やっぱり軽薄じゃなかっただろうか。
 友達はもちろん、彼女いない歴イコール年齢の僕にとって、同棲なんて刺激が強すぎるかもしれない。
 って、何を考えてるんだ僕は。相手は悪魔なんだぞ。
 さっきまで恐怖していた相手に、やましい思いを抱くなんて。自分の頭をゴツンと小突く。
 それより、女の子と一緒に暮らすなら部屋を掃除しなければ。さすがにこんなところで生活をさせるわけにはいかない。
 僕はのっそりと立ち上がる。と、その直後、心臓に突き刺すような痛みが走った。

 激痛に呻き、胸を抑えたままうずくまる。

 なんだこれ?

「北村さん、大丈夫ですか!?」

 ヨルが駆け寄ってきたが、彼女に返事をする余裕もない。床に体を打ち付けるようにして倒れたのが自分でもわかった。
 僕の意識は、そこでぷっつりと途切れた。