僕をきつく睨みつけてくる彼女は、もう僕の知っている冬花ではなかった。
きっと彼女にとっても、僕はもう他人なのだろう。
ふふふ、と頭上から笑い声が降ってくる。視線をあげると、ヨルは楽しそうにベッドの上へ寝そべり、冬花のショルダーバッグの中を漁っていた。
少しの間があって、ヨルが中から取り出したのは――果物ナイフ。鋭利な先端が、ぎらりと鈍く光る。
それを見た冬花の表情が強ばる。
「ヨルちゃん、やめてよ」
「最初から、僕を殺すつもりだったの?」
冬花は僕にゆっくり顔を向けると、無言で懇願するように首を振る。それが嘘なのか、本当なのか。僕にはわからない。
無言で探るように互いを見つめる僕たちを、ヨルは嘲笑する。
「ねえ」
僕らは同時にヨルを見上げた。
「あなたたちは、まだ友達?」
愕然とした。
この十日間の出来事は、すべて記憶に残っている。
だが、悲しいほどに、僕はもう冬花に対して『他人』以上の感情を持つことはできなかった。
冬花にとっても、もう僕は他人なのだろう。僕を疎ましげに見上げる彼女の視線は、痛いほど辛辣だ。僕は冬花を組み敷いたまま、ごくりと唾を飲み込む。
「......どっちが死ぬべきだと思う?」
冬花の瞳が、揺れる。
細くて白い喉が、ごくりと唾を飲み込む。
そうだ。僕らは、もう友達なんかじゃなかった。
冬花と初めて出会ったあの日――。
見ず知らずの彼女を介抱し、挙げ句、家まで送ろうとした僕の好意。
今ならわかる。あれは、ヨルによって創られたものだったのだ。
その証拠に、僕は今、彼女に対して微塵の好意も抱くことができない。
僕が一生働いても手に入れられないような金を手にし、大勢の友人たちと共に過ごす、華やかな生活。
さらに、僕が喉から手が出るほど欲している『友達』を『スペア』だと言い切って。
いつかの朝。帰宅途中に、彼女の家の庭で目が合ったシーンが蘇る。
冷たい視線。嫌なものでも見るような、あの目......。
それは今も変わらない。
僕を見上げる冬花の目は、汚物でも見るような、嫌悪感で満ちている。
――気持ち悪いと言い放った岡田へ向けた視線と同じだ。
何様だよ。
ようやくわかった。僕は彼女のことが最初から嫌いだったんだ。
そして、きっと彼女も僕のことが嫌いなのだ。
冬花の首に、そっと両手かける。形の良い唇が、「まって」と動く。両手で僕の胸を乱暴に叩き、両足で蹴り上げようとする。
そのすべてが憎たらしかった。
締め上げる指の力が、どんどん強くなる。
誰か、止めてくれ。
嫌だ。こんなこと、したくない。でも、誰も僕らに気づいてくれない。
冬花は声にならない悲鳴をあげ、ガリガリと爪で僕の手の甲を引っ掻いた。
陸にあがった魚のように、冬花は体をばたつかせる。遠くなっていく意識の外側で、ヨルの哄笑が響く。
僕は一生懸命、彼女の命を奪おうとしている。
きっと、僕は今、悪魔になっているのだ。
今からでも遅くない。この手を離して包丁で自分の胸を刺せ。
誰かを手に掛けるなんて、そんな恐ろしいことをするな。
同時に、もう一人の僕が笑う。
いやいや。この女のために死ぬなんて馬鹿げている。
冬花の首を締め上げながら、必死に彼女との出会いから、楽しかった思い出を振り返る。けれど、手のひらからこぼれ落ちる砂のように、何の感情も湧かず、味のしないガムを延々と噛んでいるような虚無感に襲われる。
ああ......友達を、殺してしまう。
――どれだけの時間が経ったのだろう。
ふと気づくと、冬花の動きは止まっていた。
恐る恐る彼女の顔を覗き込むと、冬花は苦しそうな表情を浮かべたまま、息絶えていた。
「冬花、ちゃん」
体をつついても、彼女の体は人形のように重たくなっていて、ぴくりともしない。その瞳には涙が滲み、頬を伝っている。
殺した......。
僕が? 僕がやったのか?
とんでもないことをしてしまった。
「うわあ!」
情けない悲鳴をあげ、僕は彼女の体から飛び退く。これは現実か? 悪い夢を見ているんじゃないか?
自分が恐ろしくてたまらない。自然と涙がぼろぼろと溢れてくる。冬花の亡骸にすがりつき、「許して」と泣いた。そんな自分が滑稽で、さらに涙が滲む。
「北村さんが悪いんじゃないですよ。やらなきゃ、やられていたんです。仕方ないです」
一部始終を見ていたというのに、ヨルの声は明るい。まるで、コメディドラマでも見終わった子供のようだった。
それがあまりにも憎たらしくて、僕は冬花を抱きしめたままヨルを睨みつける。
「面白かったですよ、北村さん」
「......悪魔なんかと契約をした僕が間違ってた」
「親友を二人作っておくべきでしたね。だから、色んな人と遊びに行ったら? と言ったのに」
「どうせ、十日がすぎれば他人に戻る魔法のくせに」
「それは北村さんの努力不足です」
「なんだと」
ヨルはぴょんとベッドから降り立ち、動かない冬花を見つめる。彼女の頬を愛おしそうに手で優しく撫でると、
「北村さんにとって、友達ってなんですか?」
「えっ?」
唐突な問いかけに、言葉が詰まる。
僕にとっての友達?
なんだ? 僕は、友達に何を求めていたんだ?
「夢を見過ぎなんですよ、北村さんは」
「......夢?」
「うふふ。十日間ありがとうございました。北村さんがどうであれ、ヨルは楽しかったです」
「うるさい。僕は、お前のことなんか大嫌いだ」
「そうですか。残念です。でも、ヨルと北村さんは、冬花さんを殺した悪友ですね」
僕は目を見開く。
「さようなら、北村さん」
その言葉とともに、ヨルは僕の目の前から姿を消した。同時に、抱きしめていたはずの冬花の亡骸も煙のように消えてしまった。
無機質な病室に、僕は一人取り残された。
得体のしれない悔しさと、腹立たしさ。記憶の中の冬花への愛情がまぜこぜになって、心がズタズタに引き裂かれたようだった。
「ああああああ」
叫び声をあげ、無茶苦茶に壁を殴る。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。とんでもないことをした。ああ!
やがて、騒ぎを聞きつけた看護師がやってくると、
「北村さん、うるさいですよ!」
そう言って、僕を厳しく叱咤した。
そこには親しみはない。すべてが僕にとっての他人になっていた。
僕は冬花のショルダーバッグを引き寄せる。
祈る気持ちで中を見ると......そこには、酒と僕への見舞いの品だとわかる果物が入っていた。
――ナイフは、このため?
これほど虚しいのに、記憶の中の冬花は、僕を愛おしそうに見つめるのだった。
きっと彼女にとっても、僕はもう他人なのだろう。
ふふふ、と頭上から笑い声が降ってくる。視線をあげると、ヨルは楽しそうにベッドの上へ寝そべり、冬花のショルダーバッグの中を漁っていた。
少しの間があって、ヨルが中から取り出したのは――果物ナイフ。鋭利な先端が、ぎらりと鈍く光る。
それを見た冬花の表情が強ばる。
「ヨルちゃん、やめてよ」
「最初から、僕を殺すつもりだったの?」
冬花は僕にゆっくり顔を向けると、無言で懇願するように首を振る。それが嘘なのか、本当なのか。僕にはわからない。
無言で探るように互いを見つめる僕たちを、ヨルは嘲笑する。
「ねえ」
僕らは同時にヨルを見上げた。
「あなたたちは、まだ友達?」
愕然とした。
この十日間の出来事は、すべて記憶に残っている。
だが、悲しいほどに、僕はもう冬花に対して『他人』以上の感情を持つことはできなかった。
冬花にとっても、もう僕は他人なのだろう。僕を疎ましげに見上げる彼女の視線は、痛いほど辛辣だ。僕は冬花を組み敷いたまま、ごくりと唾を飲み込む。
「......どっちが死ぬべきだと思う?」
冬花の瞳が、揺れる。
細くて白い喉が、ごくりと唾を飲み込む。
そうだ。僕らは、もう友達なんかじゃなかった。
冬花と初めて出会ったあの日――。
見ず知らずの彼女を介抱し、挙げ句、家まで送ろうとした僕の好意。
今ならわかる。あれは、ヨルによって創られたものだったのだ。
その証拠に、僕は今、彼女に対して微塵の好意も抱くことができない。
僕が一生働いても手に入れられないような金を手にし、大勢の友人たちと共に過ごす、華やかな生活。
さらに、僕が喉から手が出るほど欲している『友達』を『スペア』だと言い切って。
いつかの朝。帰宅途中に、彼女の家の庭で目が合ったシーンが蘇る。
冷たい視線。嫌なものでも見るような、あの目......。
それは今も変わらない。
僕を見上げる冬花の目は、汚物でも見るような、嫌悪感で満ちている。
――気持ち悪いと言い放った岡田へ向けた視線と同じだ。
何様だよ。
ようやくわかった。僕は彼女のことが最初から嫌いだったんだ。
そして、きっと彼女も僕のことが嫌いなのだ。
冬花の首に、そっと両手かける。形の良い唇が、「まって」と動く。両手で僕の胸を乱暴に叩き、両足で蹴り上げようとする。
そのすべてが憎たらしかった。
締め上げる指の力が、どんどん強くなる。
誰か、止めてくれ。
嫌だ。こんなこと、したくない。でも、誰も僕らに気づいてくれない。
冬花は声にならない悲鳴をあげ、ガリガリと爪で僕の手の甲を引っ掻いた。
陸にあがった魚のように、冬花は体をばたつかせる。遠くなっていく意識の外側で、ヨルの哄笑が響く。
僕は一生懸命、彼女の命を奪おうとしている。
きっと、僕は今、悪魔になっているのだ。
今からでも遅くない。この手を離して包丁で自分の胸を刺せ。
誰かを手に掛けるなんて、そんな恐ろしいことをするな。
同時に、もう一人の僕が笑う。
いやいや。この女のために死ぬなんて馬鹿げている。
冬花の首を締め上げながら、必死に彼女との出会いから、楽しかった思い出を振り返る。けれど、手のひらからこぼれ落ちる砂のように、何の感情も湧かず、味のしないガムを延々と噛んでいるような虚無感に襲われる。
ああ......友達を、殺してしまう。
――どれだけの時間が経ったのだろう。
ふと気づくと、冬花の動きは止まっていた。
恐る恐る彼女の顔を覗き込むと、冬花は苦しそうな表情を浮かべたまま、息絶えていた。
「冬花、ちゃん」
体をつついても、彼女の体は人形のように重たくなっていて、ぴくりともしない。その瞳には涙が滲み、頬を伝っている。
殺した......。
僕が? 僕がやったのか?
とんでもないことをしてしまった。
「うわあ!」
情けない悲鳴をあげ、僕は彼女の体から飛び退く。これは現実か? 悪い夢を見ているんじゃないか?
自分が恐ろしくてたまらない。自然と涙がぼろぼろと溢れてくる。冬花の亡骸にすがりつき、「許して」と泣いた。そんな自分が滑稽で、さらに涙が滲む。
「北村さんが悪いんじゃないですよ。やらなきゃ、やられていたんです。仕方ないです」
一部始終を見ていたというのに、ヨルの声は明るい。まるで、コメディドラマでも見終わった子供のようだった。
それがあまりにも憎たらしくて、僕は冬花を抱きしめたままヨルを睨みつける。
「面白かったですよ、北村さん」
「......悪魔なんかと契約をした僕が間違ってた」
「親友を二人作っておくべきでしたね。だから、色んな人と遊びに行ったら? と言ったのに」
「どうせ、十日がすぎれば他人に戻る魔法のくせに」
「それは北村さんの努力不足です」
「なんだと」
ヨルはぴょんとベッドから降り立ち、動かない冬花を見つめる。彼女の頬を愛おしそうに手で優しく撫でると、
「北村さんにとって、友達ってなんですか?」
「えっ?」
唐突な問いかけに、言葉が詰まる。
僕にとっての友達?
なんだ? 僕は、友達に何を求めていたんだ?
「夢を見過ぎなんですよ、北村さんは」
「......夢?」
「うふふ。十日間ありがとうございました。北村さんがどうであれ、ヨルは楽しかったです」
「うるさい。僕は、お前のことなんか大嫌いだ」
「そうですか。残念です。でも、ヨルと北村さんは、冬花さんを殺した悪友ですね」
僕は目を見開く。
「さようなら、北村さん」
その言葉とともに、ヨルは僕の目の前から姿を消した。同時に、抱きしめていたはずの冬花の亡骸も煙のように消えてしまった。
無機質な病室に、僕は一人取り残された。
得体のしれない悔しさと、腹立たしさ。記憶の中の冬花への愛情がまぜこぜになって、心がズタズタに引き裂かれたようだった。
「ああああああ」
叫び声をあげ、無茶苦茶に壁を殴る。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。とんでもないことをした。ああ!
やがて、騒ぎを聞きつけた看護師がやってくると、
「北村さん、うるさいですよ!」
そう言って、僕を厳しく叱咤した。
そこには親しみはない。すべてが僕にとっての他人になっていた。
僕は冬花のショルダーバッグを引き寄せる。
祈る気持ちで中を見ると......そこには、酒と僕への見舞いの品だとわかる果物が入っていた。
――ナイフは、このため?
これほど虚しいのに、記憶の中の冬花は、僕を愛おしそうに見つめるのだった。