暗がりの中でも、彼女の頬が赤くなっているのがわかる。その様子から、またお酒を飲んだのだと悟った。少しだけ、顔もやつれているような気がする。
 僕の表情を見て、冬花ちゃんは気まずそうに自分の頬を手で撫で、
「ちょっと、嫌なことがあって......飲んじゃってた」
 と、視線を逸しながら言い訳がましく呟く。
「携帯も昨日から失くしちゃって......ほんとバカみたい、あたし」
「そう、なの?」
 なるほど。だからずっと連絡がつかなかったのか。
 意図的に無視をされていたわけじゃないとわかって、内心ほっとする。
「どうして僕がここに入院しているって知ったの?」
「それより、なんで入院することになったの?」
 僕のほうが先に質問をしていたのに、質問で返されてしまった。不自然に感じつつも、
「ちょっと、海で溺れちゃって」
 冬花ちゃんを殺す代わりに死のうと思った。なんて、口が裂けても言えるわけがない。
「そんな。危ないよ」
「うん、次は気をつけるよ」
 僕は、ちらりとサイドテーブルに置いた携帯電話を見る。時刻は二十三時五十二分。
 もう少しで、魔術が解けてしまう。
「体調はもう大丈夫なの?」
「うん、もうすっかり」
「......そう。良かった」
 冬花ちゃんは泣き笑いのような表情をつくる。すると、見る間に彼女の目尻から涙が溢れ、そのまま頬を伝ってこぼれ落ちた。
 僕が声をかけるより先に、彼女はその場に崩れ落ちるように座り込むと、声を押し殺して啜り泣く。僕は慌てて彼女に近づき、その肩を抱き寄せた。
「冬花ちゃん、何かあったの?」
「なんでもないの。なんでも......」
「それならなんで泣いてるの」
「ごめん、あたしが悪いの」
「え?」
 冬花ちゃんの声は震えていて、はらはらと涙が頬を伝う。
 こうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎようとしている。彼女を心配する気持ちとは裏腹に、要領を得ない冬花ちゃんの態度に、少しだけ苛立ちが募る。
 ふと、背中に視線を感じたような気がして、僕は背後を振り返った。
 いつの間にか、ヨルが立っていた。
 病室の壁にもたれかかり、僕と目が合うと、面白そうに微笑む。
 何笑ってんだよ、とつい声が出てしまった。するとヨルはさらに目を細め、ポケットから何かを取り出した。見覚えのある、四角い......冬花ちゃんの携帯電話だった。
 こいつ......!
「お前が盗ったのかよ」
 思わず立ち上がると、冬花ちゃんは不思議そうに顔をあげる。そのまま、僕の視線を辿った彼女は、
「ヨルちゃん」
 その言葉を聞いた瞬間、床がぐにゃりと歪むような感覚に襲われる。
 今、なんて?
 呆然として、声が出ない。
 ヨルは唖然とする僕たちを見ると、白い歯を見せながら笑う。
「携帯、盗んじゃってごめんなさい。お二人が電話をしちゃったら、面白くないと思って」
 冬花ちゃんは状況が飲み込めないのか、目を白黒させている。
「まだわからないんですか? 北村さんは冬花さんのために、死のうとしたんですよ」
「え?」
 冬花ちゃんはそこで初めて瞬きをすると、僕にゆっくりと振り返る。
「なんで? あたしのため? どういうこと? 意味がわからない」
「......冬花ちゃん。君も、ヨルと契約をしたの?」
 はっ、と冬花ちゃんが目を見張って喉を鳴らす。それが答えだった。
 ヨルはぴょんぴょんと軽い足取りで僕らへ近寄ってくる。硬直する僕らを横目で見ながら、我が物顔でベッドに腰を下ろした。
 そのまま長い足を組むと、とても楽しそうに微笑んだ。
「お二人は十日前、市内全員の人とお友達になれる契約をしましたよね」
 全身から体の力が抜けていく。
 心臓がうるさいぐらいに、どくどくと脈打った。耳鳴りに目眩。吐き気まで込み上げてきた。
 今にも倒れてしまいそうだ。全身の毛穴から、汗が吹き出てくる。
 凄まじい勢いで、脳裏に彼女と過ごした十日間の記憶が通りすぎていった。
 宮越くんが冬花ちゃんに馴れ馴れしく話しかけていたり、同窓会で僕の元に駆けつけてくれた時......車に乗り込む冬花ちゃんへ注がれていた人々の視線。
 ――「最初から、友達なんかじゃないよ」
 岡田に言い放った、彼女の言葉。
 ――「友達は、ちゃんと選ばないとだめね」
 ああ、選ぶって。そういうことだったのか。
「消灯時間が過ぎても病室に来れたのは......」
「ヨルが協力してくれたの」
 僕は額に手を当て、サイドテーブルに体を預ける。そうしなければ、今にも倒れてしまいそうだった。
「北村くん......やけに友達が多いなって思ってたけど、そういうことだったのね」
 冬花ちゃんも納得がいったのだろう。
「ヨルが家に帰ってくるのはいつも深夜だったから、変だなと思っていたけど......北村くんの家にいたの?」
「そうです」
 ああ、冬花ちゃんの家のリビングを掃除したのは、彼女だったのか。
「でも、契約者同士が出会うなんて偶然ね」
「いや、きっと偶然じゃないよ」
 ヨルを見つめると、彼女は肩をすくめる。
「そのとおりです」
 ――『今日は夜空がとてもキレイなんです。せっかくですし、海に行ってみてはいかがですか?』
「冬花さんが、『お友達』と海で飲んでいたので」
 僕は黙ったまま、ヨルを睨みつけた。冬花ちゃんも、徐々に怒りの感情が湧いてきたのか、彼女を見つめる視線が鋭くなる。
 そんな僕たちに、ヨルはやれやれと呆れたように首を振ると、わざとらしく大きなため息をついた。
「そんなに睨まないでくださいよヨルはただきっかけを作っただけです。今回はたまたま、お二人が仲良くなっただけのこと。いつもは、こんなに上手くはいかないんですから」
「今回? ヨルちゃん......いつもこんなことしてるの?」
「はい。楽しませていただきました」
 冬花ちゃんは、唇を噛む。
「ヨル。冬花ちゃんには、なんの代償を払わせる気? まさかと思うけど」
「北村さん、正解です」
 冬花ちゃんがハッとしたように目を見開き、僕を振り返る。
「もちろん、北村さんの命って言いました」
 冬花ちゃんの表情で察しはついたが、飄々とした態度で言い切られると頭に血が上る。
「この......悪魔っ! 僕たちに殺し合いをさせるつもりだったのかよ!」
 僕の言葉で、冬花ちゃんも理解したようだった。大きな目の縁から、また涙の滴が滲む。形のいい唇からは、「ああ」とも「うう」ともつかないうめき声が漏れた。
「だからいつもはこんなに上手くいかないって言ったじゃないですか。お二人の相性が悪ければ、それぞれ別の『本当の友達』を選ばせようと思っていたんですよ」
「このッ」
「それで? どちらが死にます?」
 ヨルの赤い目が細められる。
「冬花ちゃん。なんでヨルと契約なんかしたの?」
 冬花ちゃんはかぶりを振り、頭を両手で抱え込んだ。
「前にも言ったじゃない。あたしにとって、友達はスペアでしかないの。だけど、そんなの嫌だったの」
 僕は膝を折り、彼女の背中を優しく撫でる。
「本当に、心から信頼できる友達がほしかったの。何人友達を作っても、死にたいくらい寂しかったから」
 ――「あたしね。ずっと死ぬつもりだったんだ」
 ――「あたしの人生、何もないんだもん。男とお金しかないお母さんより、何もないの」
 いつか僕に打ち明けてくれた、冬花ちゃんの本音。
「契約をすれば、親友が出来るんじゃないかって。そんな人と出会えるんじゃないかって」
「うん。......僕と一緒だね」
 冬花はふっと顔をあげる。僕たちの視線が、絡み合う。
「やっと、見つけたと思ったのに」
 ――「でも、こんなんじゃだめだなって思えてきたの。北村くんのおかげだよ」
 胸の内に熱いものが込み上げてくる。視界がぼやけて、涙が自分の意思とは関係なくとめどなく溢れて流れていった。躊躇うことなく、僕は冬花ちゃんの体をきつく抱きしめた。
 ヨルは魔術が解けても十日間の記憶は残ると言った。
 僕が冬花ちゃんに対して抱くこの気持ちは本物だ。
 ぎゅう、と互いの存在を確か合うように、僕らはきつく抱き合う。
 このぬくもりは、仮初めではない。たった一人、僕のことを特別だと思ってくれる人がいる。
 これほどの幸せを味わえたのだ。
 僕にとって最初で最後の、本当の友達と呼べる人が出来たのだから。
 彼女の記憶に、僕が本当の友達だった刻みついたままいなくなれるのなら、僕の存在は無駄ではなかったということだ。
 僕は彼女の肩を優しく叩き、時間をかけて立ち上がる。ベッドに腰掛けたままのヨルを睨みながら、枕の下から包丁を取り出した。
 冬花ちゃんは一瞬怯んだように身を反らしたが、決して他意はないと首を振って応えた。
「なるほど。北村さんにするんですね」
 ヨルはにやにやと笑みを浮かべたまま、細い足を組み替えた。
「えっ? ちょっと待って、北村くん。どういう......」
「そのままの意味。僕が死ぬ」
「北村くん! やだっ!」
 冬花ちゃんはすかさず僕に駆け寄ってくると、背後から抱きしめた。
「大丈夫。冬花ちゃんのこと、恨んだりしないから」
「そんな! ねえ、なんとかならないの? ヨルちゃん、お願い!」
「契約は絶対ですから」
 冬花ちゃんが僕の背中で咽び泣く。携帯電話を取り出して、ディスプレイを確認すると時刻は二十三時五十九分になっていた。
 あと、一分。
 冬花ちゃんの泣き声を聞きながら、僕はなんだか清々しい思いがした。
 生まれてから、ずっと誰かに疎まれてきた。
 だから自分が死ぬ時は、きっと一人なのだろうとどこかで諦めていた。
 ――落ちるところまで落ちてやれ。
 僕が落ちた先は、たしかに死という悲しい結末だったかもしれないが、僕にとって見ればそれは大団円の幕引きだ。
 ――楽しかったな。
 包丁の柄を握り締める。まさに、三度目の正直だ。
 ふと......腹の奥から微かな疑問が湧いた。

 冬花ちゃんのショルダーバッグには、一体何が入っているんだろう?
 待てよ、北村太一。
 お前は、いつから彼女に友情を抱いたんだ?

 もしや――......?
 僕自身が、友達化されている?
 ビリッと頭に電撃が走る。包丁の刃は、すでに首の皮へ食い込んでいる。熱い。ああ、痛い......。
 だめだ。考えるな。振り返るな。このまま逝くべきだ。
 見てはいけない。禁忌に触れてはいけない。知らないほうがいい。
 日付が変わる――。
「ふゆか、ちゃん」
 僕は......振り返ってしまった。
 〇時〇〇分。
 冬花ちゃんを、見てしまった。
 彼女は......笑っていた。
 ざあっと体中の血液が凍りついたように思えた。
 ああ、魔法が解けていく......。
 僕の背中に抱きつく冬花ちゃんの力には、変化が起きていた。
 必死に包丁を取り上げようとしていたのに、いつの間にか彼女の手は僕の首に絡みついていた。細い指先に力が込められ、縄のようにぎりぎりと締め上げてくる。
 プツンと自分の中で何かが切れた。
 死にものぐるいで体をよじらせ、あらん限りの力で冬花の手を振り払った。
「きゃっ!」
 その拍子に、僕の手から包丁がすっぽ抜けた。甲高い音を立てて床に転がったそれを、冬花は血相を変えて掴もうとする。
 そんな彼女の両手を掴み、強引に床へ組み敷いた。
「冬花ちゃん、どうして笑ったの?」
 月明かりに照らされた冬花の表情が、血の気を失ったように凍りつく。
 僕らの荒い息が重なり合う。僕は、組み敷いた冬花の顔をじっと見下ろしながら、自分自身の明確な心の変化に戸惑っていた。
 ――こんな女だっけ?
 あんなに愛おしく、彼女に必要とされるなら、他には何もいらないとさえ思った。
 それなのに......目の前にいる女は、一体何者だ?
 自分の脳みそが、どんどん冷たくなっていく。僕は存在を確かめたくて、彼女の手首をさらに強く締め上げた。
「痛いッ!」
 冬花は悲鳴をあげ、激しく体をしならせた。
「離しなさいよ!」