自分の人生は、本当にろくでもない。
いつの間にか、真っ暗な世界にいた。
右も左もわからない、暗闇だ。
それなのに、頭の中では両親からの折檻、学生時代のいじめ、今まで就職した会社での仕事のミス......嫌な記憶が次から次に湧いてくる。
どんな場面でも、僕は一人ぼっちだった。
誰かに助けを求めても、他人は僕をいないものとする。
こんなに辛いのに。こんなに泣きたいのに。こんなに不幸なのに。
だが、考えてみれば当然なのかもしれない。
だって、他人なんだから。
いつから僕は、他人に期待をしていたんだろう。
友達って......一体なんだろう?
............。
目を開くと、見覚えのない白い天井があった。
頭の奥が痛くて、堪らずうめき声をあげる。全身が気だるくて、喉もカラカラだ。
ピッ、ピッという規則正しい電子音が聞こえ、頭をもたげてみると、大きな電子モニターがベッドの脇に設置されていた。
そこから伸びる配線をたどると、僕の指先を挟むクリップに繋がっている。
四方は白いカーテンで囲まれていて、外の様子を窺うことはできないが、どうやらここが病室だということはすぐに分かった。
どうやら長い夢を見ていたみたいだ。
体をまさぐってみると、色々な管やセンサーが取り付けられている。
外れないようにゆっくりと身を起こし、ふらふらする頭を抱える。
僕は入水自殺をしようと海に入ったはず。
だが、途中でヨルが追ってきて......。
あの悪魔め。僕に何をしたんだ?
いや、それより。
今、何日目だ?
その時、人の気配がした。はっとして顔をあげると同時に、目の前のカーテンが開かれた。
一瞬身構えたが、それは若い看護師さんだった。
彼女は僕が目を覚ましているとは思わなかったのだろう。驚いたように目を瞬かせたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「北村さん、気がついたの?」
その声音は弾んでいて、友好的だった。すぐに友達化している、とわかった。
つまり、ヨルとの契約はまだ続いている。
「あなたが運ばれてきて、心臓が止まるかと思ったわ。砂浜で倒れていたらしいけど、何があったか覚えている?」
「いえ。それより、今日は何日ですか?」
「二十日だけど?」
「時間は?」
看護師さんは自分の腕時計を見る。
「十七時を少し回ったところね」
二十日の十七時。つまり、十日目の夕方だ。
契約終了まで、あと七時間しかないということになる。
「すみません。もう大丈夫です。帰ります」
「それは私たちが判断することでしょ。先生を呼んでくるから、部屋から出ないでね」
看護師さんはそう言って、慌ただしく病室から出て行った。
僕はベッドに腰をかけたまま、改めて自分の体を頭から爪先まで確かめた。
特に目立った外傷はないし、特段痛むところもない。
部屋は個室のようだ。ナースステーションから漏れる声と電子音だけが響く。
「ヨル、いるんだろ?」
虚空に向かって声をかけると、不意に僕のベッドが軋んだ。
視線を向けると、足元のベッド柵にヨルが腰を掛けていた。
彼女は、初めて僕の部屋に訪れたときと同じワンピースを着て、麦わら帽子を胸に抱えていた。
薄明かりのもと、こうして音もなく現れたヨルと対峙すると、やはりぞっとする。
体を強張らせた僕に、ヨルは鮮血のような赤い目を不気味に輝かせて微笑んだ。
「おはようございます。ご気分はどうですか」
「お前が病院に連絡したのか?」
「そうですよ。怪我がなくて良かったですね」
「白白しい」
「そんなに意地悪なことを言わないでください。内心ちょっとホッとしたんじゃないですか? 死ななくて良かったって」
「そんなこと」
ぐっと言葉に詰まる。
「ほら、やっぱり」
「違う。そんなこと思ってない」
「北村さん、ウソが下手ですね」
クスクスと笑うヨルに無性に腹が立つ。枕をひっつかんで、彼女めがけてぶん投げる。
だが、病み上がりの僕の力など、大した威力もない。投げた枕は、あっけなくヨルに避けられ、無様に床へ転がった。
「すっかり嫌われちゃいましたね。いつものことなんですけど」
ヨルは僕をからかうような口調で言いながら、ベッド脇に置いてあったキャリーケースを開く。
何をしているのだろうと訝しんでいると、中から僕の携帯電話と財布を取り出した。
「何でそれをお前が持ってるんだ。海に捨てたはずなのに」
「悪魔に常識は通じませんよ」
ヨルは飄々と言って、僕に差し出してくる。
引っ掴むようにして受け取って確かめたが、携帯電話は何事もなかったように電源が入るし、財布も中の札すら濡れていなかった。
ヨルに対してあんなに親しみを感じていたはずなのに、今はただ禍々しい存在としか思えない。にやにやと口元を歪めるヨルに構わず、携帯電話の通知を確認する。
たった一日開かなかっただけでも、だいぶ通知が溜まっていた。
主に職場のグループチャットからの通知が多く、不在着信もうんざりするほど入っている。
相手は宮越くんと主任、そして派遣のエージェントからだった。
僕が入院していることを誰も知らないので、無断欠勤したことになっているのだから、連絡があって当然。
すぐに掛け直すべきなのだろうが、気が進まない。
連絡したところで意味はないのだ。
僕は、また死ぬ準備をしなければならないのだから。
そのままぼうっと着信履歴を眺めていると、その中に冬花ちゃんの名前があってギクリとする。
だが、留守番もチャットアプリからのメッセージも届いていない。
まさかと思ってヨルを見やると、彼女は僕の視線に気づいて肩をすくめた。
「ヨルは何もしてないですよ」
「......あっそ」
少し悩んだが、僕は先に宮越くんに電話を掛けた。
数コールのあと、ちょっと眠たそうな宮越くんの声が聞こえてきた。少し寝ぼけていたようだが、相手が僕だとわかると、
『北村さん!? 昨日無断欠勤したでしょう! 主任がクビだって叫んでしましたよ』
と、声を荒げた。
「ごめん。実は今、病院なんだ」
僕がそう言うと、勢いづいていた宮越くんが息を呑んで押し黙った。やや間があって、彼は声を落としながら続けた。
『どうかしたんですか?』
「別に。ただ、もう工場は行けないかもしれない」
『もしかして入院とかするんですか? それなら見舞いに行きますよ。明日とかどうですか?』
明日。
きっと宮越くんは来ない。
ヨルとの契約は今日で終了するのだから。
彼はもう、僕と目を合わせることすらしないだろう。
『どこの病院ですか?』
「もういいんだ。宮越くん」
『北村さん、本当に大丈夫ですか? なんか、声が変ですよ』
「十日間、ありがとう。おかげで楽しかったよ」
電話の向こうで、宮越くんが不審そうな声をあげた。
だが、構わず途中で通話を切り、そのままベッドに寝転んだ。
何が悲しいのかわからない。
それなのに、僕の目尻からは涙がこぼれ出る。
僕に残された時間は、あと七時間。
冬花ちゃんに電話をしよう。
だが、再び携帯電話を握ったタイミングで医師と看護師が部屋に入室してきた。
友達化した彼らは、僕の体をとても気遣い、親身になってくれた。自殺未遂した理由を、適当に「失恋」だと告げると、カウンセラーまで紹介された。
僕はもう愛想よくすることにも疲れて、淡々と相槌を打っていた。
何でもいいから、さっさと話を終わらせてほしい。
だが、大した怪我も病気も患っていないのだからあっさり退院できると思っていたが、あまりにも能天気すぎたと痛感した。
僕の意思とは関係なく、どんどん入院手続きが進んでいき、今日は病院から出られないことを知った。
事務手続きをしているうちに、時計の針はぐんぐん進んでいく。
今日はとても大切な最終日だというのに。僕は、こんなところで何をしているんだ。
そう思うだけで、目に涙が滲んでくる。
看護師さんたちは、そんなに入院が嫌なのかと心配してくれたが、本当の理由はそんなことじゃないのだ。
死に方さえも選べない。それが、とても悲しい。
冬花ちゃんに会いたい......。
いつの間にか、悪魔はいなくなっていた。
× × ×
時刻は二十三時を回った。消灯時間はすでに過ぎ、しんと静まり返っている。
入院費は高くついたが、僕は個室で入院することにした。
どうせ使い道のない貯金なのだ。どうでもいい。
それに大部屋で入院するとなれば、友達化した同室の人たちが話しかけて来るに違いない。
今は他人と関わることがひどく煩わしい。
あんなに友達を欲していたのに、最後は一人になりたいと思うなんて皮肉なものだ。
薄闇の中、携帯電話が震える。さっきからチャットアプリの通知が止まらない。
宮越くんが主任に事情を話してくれたのだろう。職場のグループチャットは僕を心配するメッセージで溢れかえっていた。
まがい物の友情なのに。
いちいち返信する気も失せ、見なかったことにする。
唯一、派遣会社のエージェントには電話で事情を説明したが、彼女は市外に住んでいるのだろう。僕の体調を気遣ってくれたものの、声音は冷たかった。
手のかかる派遣社員だ、とでも思っているのだろう。
友達化していない人たちと話すのは久しぶりだったので、やはり世の中はこんなものかと落胆した。
たとえ冬花ちゃんを手に掛けたとしても、僕が戻る世界はどうせろくでもない。
僕は枕の下に手を入れた。硬くて冷たいものが触れる。そっと引き出すと、それは僕の部屋にあった包丁だった。
「......あの悪魔め」
ヨルの嗤い声が聞こえるようだ。
あれほど僕から死を遠ざけておいて、最後の最後にこれだ。悪魔の手の平の上で踊らされているようで気分が悪い。
だが、悔しいが病院で死ぬにはこれしか方法がないだろう。
病室のカーテンから漏れる微かな月明かりが、包丁の刃を鈍く照らしている。
柄を強く握りしめたが、現実感がない。
僕は何度、死を覚悟すればいいのだろうか。
その度に、この世に未練なんてないと改めて思う。
誰にも必要とされない世界をもう一度味わって死ぬぐらいなら、僕にとって都合のいい世界のまま終わらせたい。
包丁の刃を指の腹でなぞりながら、十日前にも僕は同じことをしていたことに気づく。
あの日から、結局何も変わらなかった。
悪魔と契約をしても、僕は僕のまま。
あと一時間もしないうちに、ヨルの魔術は消える。
ちらと、ベッドテーブルに置いたままの携帯電話を振り返った。
冬花ちゃんとは連絡がつかないままだ。
............。
死ぬ前に、もう一度だけでも話がしたい。
もし万が一......明日から彼女が僕のことを他人だと思ったとしても、僕にとって、彼女はただ一人の友達だ。
僕は包丁をサイドテーブルに置き、冬花ちゃんへ電話をかけた。
頼む、出てくれ。
もう一度、会いたい。せめて声を聞かせてほしい。
ツーツーツー。
だが、何度かけ直しても、彼女は電話に出てくれない。
もしかして、もうヨルの魔術が解けてしまったのだろうか?
いや、そんなはずはない。
ヨルは悪魔契約は絶対だと言い切っていた。裏を返せば、契約違反はできないということだ。
携帯電話のディスプレイは、二十三時五十分という時刻を指した。
もうここで、終わりにするべきか。
携帯電話を布団の上に投げ出し、ベッドの上に座り直す。どくどくと心臓が痛いくらいに脈打つ。緊張で吐き気がする。
今度こそ。今度こそ、僕は死ぬ。
痛くないといいな。どうか、すぐに死ねますように。
死ぬ前に看護師さんが通りかかったら、蘇生させられてしまうかもしれない。
いや、ヨルのことだ。そのあたりも抜かりないのだろう。
僕は暗い部屋で、ぎゅっと目を閉じる。
冷たい刃が、喉元に触れる。
と、不意に廊下からコツコツと床を叩く足音が聞こえてきた。
看護師さんか? と、咄嗟に包丁を布団で隠したのと同時に、病室の扉が開いた。
そこには、冬花ちゃんがいた。
「北村くん。こんばんは」
異様な状況に、僕は言葉が出てこなかった。
「なんでここに? 消灯時間はとっくに......」
「看護師さんに言って、通してもらった」
そんなこと出来るのだろうか。不審には思ったが、現に彼女がここにいるのだから、そうなのだろう。
異様な事態だと分かっているのに、今はそれを追求する気になれなかった。
冬花ちゃんはふらふらと覚束ない足取りで、ベッドサイドへ歩み寄ってくると、うっすらと微笑を浮かべた。大きなショルダーバッグを斜めがけにしていて、見舞い客として来るには、Tシャツと半ズボンという、ややラフな格好だ。
急いで駆けつけてくれたのだろうか。それなら嬉しいが......。
いつの間にか、真っ暗な世界にいた。
右も左もわからない、暗闇だ。
それなのに、頭の中では両親からの折檻、学生時代のいじめ、今まで就職した会社での仕事のミス......嫌な記憶が次から次に湧いてくる。
どんな場面でも、僕は一人ぼっちだった。
誰かに助けを求めても、他人は僕をいないものとする。
こんなに辛いのに。こんなに泣きたいのに。こんなに不幸なのに。
だが、考えてみれば当然なのかもしれない。
だって、他人なんだから。
いつから僕は、他人に期待をしていたんだろう。
友達って......一体なんだろう?
............。
目を開くと、見覚えのない白い天井があった。
頭の奥が痛くて、堪らずうめき声をあげる。全身が気だるくて、喉もカラカラだ。
ピッ、ピッという規則正しい電子音が聞こえ、頭をもたげてみると、大きな電子モニターがベッドの脇に設置されていた。
そこから伸びる配線をたどると、僕の指先を挟むクリップに繋がっている。
四方は白いカーテンで囲まれていて、外の様子を窺うことはできないが、どうやらここが病室だということはすぐに分かった。
どうやら長い夢を見ていたみたいだ。
体をまさぐってみると、色々な管やセンサーが取り付けられている。
外れないようにゆっくりと身を起こし、ふらふらする頭を抱える。
僕は入水自殺をしようと海に入ったはず。
だが、途中でヨルが追ってきて......。
あの悪魔め。僕に何をしたんだ?
いや、それより。
今、何日目だ?
その時、人の気配がした。はっとして顔をあげると同時に、目の前のカーテンが開かれた。
一瞬身構えたが、それは若い看護師さんだった。
彼女は僕が目を覚ましているとは思わなかったのだろう。驚いたように目を瞬かせたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「北村さん、気がついたの?」
その声音は弾んでいて、友好的だった。すぐに友達化している、とわかった。
つまり、ヨルとの契約はまだ続いている。
「あなたが運ばれてきて、心臓が止まるかと思ったわ。砂浜で倒れていたらしいけど、何があったか覚えている?」
「いえ。それより、今日は何日ですか?」
「二十日だけど?」
「時間は?」
看護師さんは自分の腕時計を見る。
「十七時を少し回ったところね」
二十日の十七時。つまり、十日目の夕方だ。
契約終了まで、あと七時間しかないということになる。
「すみません。もう大丈夫です。帰ります」
「それは私たちが判断することでしょ。先生を呼んでくるから、部屋から出ないでね」
看護師さんはそう言って、慌ただしく病室から出て行った。
僕はベッドに腰をかけたまま、改めて自分の体を頭から爪先まで確かめた。
特に目立った外傷はないし、特段痛むところもない。
部屋は個室のようだ。ナースステーションから漏れる声と電子音だけが響く。
「ヨル、いるんだろ?」
虚空に向かって声をかけると、不意に僕のベッドが軋んだ。
視線を向けると、足元のベッド柵にヨルが腰を掛けていた。
彼女は、初めて僕の部屋に訪れたときと同じワンピースを着て、麦わら帽子を胸に抱えていた。
薄明かりのもと、こうして音もなく現れたヨルと対峙すると、やはりぞっとする。
体を強張らせた僕に、ヨルは鮮血のような赤い目を不気味に輝かせて微笑んだ。
「おはようございます。ご気分はどうですか」
「お前が病院に連絡したのか?」
「そうですよ。怪我がなくて良かったですね」
「白白しい」
「そんなに意地悪なことを言わないでください。内心ちょっとホッとしたんじゃないですか? 死ななくて良かったって」
「そんなこと」
ぐっと言葉に詰まる。
「ほら、やっぱり」
「違う。そんなこと思ってない」
「北村さん、ウソが下手ですね」
クスクスと笑うヨルに無性に腹が立つ。枕をひっつかんで、彼女めがけてぶん投げる。
だが、病み上がりの僕の力など、大した威力もない。投げた枕は、あっけなくヨルに避けられ、無様に床へ転がった。
「すっかり嫌われちゃいましたね。いつものことなんですけど」
ヨルは僕をからかうような口調で言いながら、ベッド脇に置いてあったキャリーケースを開く。
何をしているのだろうと訝しんでいると、中から僕の携帯電話と財布を取り出した。
「何でそれをお前が持ってるんだ。海に捨てたはずなのに」
「悪魔に常識は通じませんよ」
ヨルは飄々と言って、僕に差し出してくる。
引っ掴むようにして受け取って確かめたが、携帯電話は何事もなかったように電源が入るし、財布も中の札すら濡れていなかった。
ヨルに対してあんなに親しみを感じていたはずなのに、今はただ禍々しい存在としか思えない。にやにやと口元を歪めるヨルに構わず、携帯電話の通知を確認する。
たった一日開かなかっただけでも、だいぶ通知が溜まっていた。
主に職場のグループチャットからの通知が多く、不在着信もうんざりするほど入っている。
相手は宮越くんと主任、そして派遣のエージェントからだった。
僕が入院していることを誰も知らないので、無断欠勤したことになっているのだから、連絡があって当然。
すぐに掛け直すべきなのだろうが、気が進まない。
連絡したところで意味はないのだ。
僕は、また死ぬ準備をしなければならないのだから。
そのままぼうっと着信履歴を眺めていると、その中に冬花ちゃんの名前があってギクリとする。
だが、留守番もチャットアプリからのメッセージも届いていない。
まさかと思ってヨルを見やると、彼女は僕の視線に気づいて肩をすくめた。
「ヨルは何もしてないですよ」
「......あっそ」
少し悩んだが、僕は先に宮越くんに電話を掛けた。
数コールのあと、ちょっと眠たそうな宮越くんの声が聞こえてきた。少し寝ぼけていたようだが、相手が僕だとわかると、
『北村さん!? 昨日無断欠勤したでしょう! 主任がクビだって叫んでしましたよ』
と、声を荒げた。
「ごめん。実は今、病院なんだ」
僕がそう言うと、勢いづいていた宮越くんが息を呑んで押し黙った。やや間があって、彼は声を落としながら続けた。
『どうかしたんですか?』
「別に。ただ、もう工場は行けないかもしれない」
『もしかして入院とかするんですか? それなら見舞いに行きますよ。明日とかどうですか?』
明日。
きっと宮越くんは来ない。
ヨルとの契約は今日で終了するのだから。
彼はもう、僕と目を合わせることすらしないだろう。
『どこの病院ですか?』
「もういいんだ。宮越くん」
『北村さん、本当に大丈夫ですか? なんか、声が変ですよ』
「十日間、ありがとう。おかげで楽しかったよ」
電話の向こうで、宮越くんが不審そうな声をあげた。
だが、構わず途中で通話を切り、そのままベッドに寝転んだ。
何が悲しいのかわからない。
それなのに、僕の目尻からは涙がこぼれ出る。
僕に残された時間は、あと七時間。
冬花ちゃんに電話をしよう。
だが、再び携帯電話を握ったタイミングで医師と看護師が部屋に入室してきた。
友達化した彼らは、僕の体をとても気遣い、親身になってくれた。自殺未遂した理由を、適当に「失恋」だと告げると、カウンセラーまで紹介された。
僕はもう愛想よくすることにも疲れて、淡々と相槌を打っていた。
何でもいいから、さっさと話を終わらせてほしい。
だが、大した怪我も病気も患っていないのだからあっさり退院できると思っていたが、あまりにも能天気すぎたと痛感した。
僕の意思とは関係なく、どんどん入院手続きが進んでいき、今日は病院から出られないことを知った。
事務手続きをしているうちに、時計の針はぐんぐん進んでいく。
今日はとても大切な最終日だというのに。僕は、こんなところで何をしているんだ。
そう思うだけで、目に涙が滲んでくる。
看護師さんたちは、そんなに入院が嫌なのかと心配してくれたが、本当の理由はそんなことじゃないのだ。
死に方さえも選べない。それが、とても悲しい。
冬花ちゃんに会いたい......。
いつの間にか、悪魔はいなくなっていた。
× × ×
時刻は二十三時を回った。消灯時間はすでに過ぎ、しんと静まり返っている。
入院費は高くついたが、僕は個室で入院することにした。
どうせ使い道のない貯金なのだ。どうでもいい。
それに大部屋で入院するとなれば、友達化した同室の人たちが話しかけて来るに違いない。
今は他人と関わることがひどく煩わしい。
あんなに友達を欲していたのに、最後は一人になりたいと思うなんて皮肉なものだ。
薄闇の中、携帯電話が震える。さっきからチャットアプリの通知が止まらない。
宮越くんが主任に事情を話してくれたのだろう。職場のグループチャットは僕を心配するメッセージで溢れかえっていた。
まがい物の友情なのに。
いちいち返信する気も失せ、見なかったことにする。
唯一、派遣会社のエージェントには電話で事情を説明したが、彼女は市外に住んでいるのだろう。僕の体調を気遣ってくれたものの、声音は冷たかった。
手のかかる派遣社員だ、とでも思っているのだろう。
友達化していない人たちと話すのは久しぶりだったので、やはり世の中はこんなものかと落胆した。
たとえ冬花ちゃんを手に掛けたとしても、僕が戻る世界はどうせろくでもない。
僕は枕の下に手を入れた。硬くて冷たいものが触れる。そっと引き出すと、それは僕の部屋にあった包丁だった。
「......あの悪魔め」
ヨルの嗤い声が聞こえるようだ。
あれほど僕から死を遠ざけておいて、最後の最後にこれだ。悪魔の手の平の上で踊らされているようで気分が悪い。
だが、悔しいが病院で死ぬにはこれしか方法がないだろう。
病室のカーテンから漏れる微かな月明かりが、包丁の刃を鈍く照らしている。
柄を強く握りしめたが、現実感がない。
僕は何度、死を覚悟すればいいのだろうか。
その度に、この世に未練なんてないと改めて思う。
誰にも必要とされない世界をもう一度味わって死ぬぐらいなら、僕にとって都合のいい世界のまま終わらせたい。
包丁の刃を指の腹でなぞりながら、十日前にも僕は同じことをしていたことに気づく。
あの日から、結局何も変わらなかった。
悪魔と契約をしても、僕は僕のまま。
あと一時間もしないうちに、ヨルの魔術は消える。
ちらと、ベッドテーブルに置いたままの携帯電話を振り返った。
冬花ちゃんとは連絡がつかないままだ。
............。
死ぬ前に、もう一度だけでも話がしたい。
もし万が一......明日から彼女が僕のことを他人だと思ったとしても、僕にとって、彼女はただ一人の友達だ。
僕は包丁をサイドテーブルに置き、冬花ちゃんへ電話をかけた。
頼む、出てくれ。
もう一度、会いたい。せめて声を聞かせてほしい。
ツーツーツー。
だが、何度かけ直しても、彼女は電話に出てくれない。
もしかして、もうヨルの魔術が解けてしまったのだろうか?
いや、そんなはずはない。
ヨルは悪魔契約は絶対だと言い切っていた。裏を返せば、契約違反はできないということだ。
携帯電話のディスプレイは、二十三時五十分という時刻を指した。
もうここで、終わりにするべきか。
携帯電話を布団の上に投げ出し、ベッドの上に座り直す。どくどくと心臓が痛いくらいに脈打つ。緊張で吐き気がする。
今度こそ。今度こそ、僕は死ぬ。
痛くないといいな。どうか、すぐに死ねますように。
死ぬ前に看護師さんが通りかかったら、蘇生させられてしまうかもしれない。
いや、ヨルのことだ。そのあたりも抜かりないのだろう。
僕は暗い部屋で、ぎゅっと目を閉じる。
冷たい刃が、喉元に触れる。
と、不意に廊下からコツコツと床を叩く足音が聞こえてきた。
看護師さんか? と、咄嗟に包丁を布団で隠したのと同時に、病室の扉が開いた。
そこには、冬花ちゃんがいた。
「北村くん。こんばんは」
異様な状況に、僕は言葉が出てこなかった。
「なんでここに? 消灯時間はとっくに......」
「看護師さんに言って、通してもらった」
そんなこと出来るのだろうか。不審には思ったが、現に彼女がここにいるのだから、そうなのだろう。
異様な事態だと分かっているのに、今はそれを追求する気になれなかった。
冬花ちゃんはふらふらと覚束ない足取りで、ベッドサイドへ歩み寄ってくると、うっすらと微笑を浮かべた。大きなショルダーバッグを斜めがけにしていて、見舞い客として来るには、Tシャツと半ズボンという、ややラフな格好だ。
急いで駆けつけてくれたのだろうか。それなら嬉しいが......。