ゴミで溢れる狭いワンルームのなかを、服を脱ぎ散らかしながら進んでいく。
 そのまま倒れるように布団の上へ突っ伏すと、頭の中に宮越くんや主任、同僚たちの顔がぐるぐると巡ってきて、自己嫌悪に苛まれる。
 今日は、本当にツイていなかった。
 もうこのまま眠ってしまおうと、無理やり目を閉じる。
 すると不意に、窓の外から「にゃあ」という鳴き声が聞こえてきた。
 顔をあげると、すりガラス越しに、白い影がぼんやりと浮かんでいるのが見える。
 四つん這いのまま近づいて窓を開けてみると、ベランダに小さな三毛猫――コパンが座っていた。
 ここは二階だというのに、猫というのは器用によじ登ってくるものだ。
 愛らしい来訪者によって、憂鬱な気持ちはいくらか紛らわせることができる。

「コパン、おはよう」

 僕は勝手につけた名前を呼びながら、頭を撫でてやった。
 コパンはすぐにゴロゴロと喉を鳴らして、僕の膝にすり寄ってくる。
 生後半年ほどのコパンは、この辺りで可愛がられている地域猫だ。
 餌をあげるわけでもないのに、コパンは毎日のように部屋へ遊びに来てくれる。
 コパンからすれば、大勢いる遊び相手の一人なのだろうが、僕にとって、彼は唯一の家族のような存在だった。
 いつかこの町を出ていくとき、コパンも一緒に連れていきたい。

 コパンだけは僕の味方だから。

 × × ×
 
 派遣会社のエージェントから電話がかかってきたのは、正午を過ぎた頃だった。

「......今、なんて言いました?」

『ですから、先方から次回の更新はしないとのご連絡をいただきました』

 電話の向こうで、エージェントは淡々と繰り返す。

「だって、半年......ちゃんとやってきましたよ? けっ、欠勤も遅刻もないはずです。ノルマだって、?日果たしていたのに」
『北村さん。職場の人たちと、なにかトラブルはありませんでしたか?』

 僕は、あっと声を漏らす。

「もしかして、主任が......なっ、何か言ったんです、か?」
『協調性に欠ける、とだけ』
「なっ......なんですか、それ。僕の話も聞いてください」
『申し訳ありません。また新しいお仕事をご紹介させていただきますので』 

 エージェントはそれだけ言うと、そそくさと電話を切ってしまった。ツーツーと無慈悲な機械音だけが耳に響く。
 来月でクビ。
 どうやら、主任はよほど僕のことが気に食わなかったらしい。
 僕は携帯電話を放り投げ、積みあがったゴミ袋に顔を埋めるようにして倒れこんだ。
 人間関係で契約を打ち切られるのは、今回が初めてではない。
 高校を卒業してから五年。新卒で入社した会社を一年も経たずクビになったあとは、転がるように落ちていった。
 何度転職を繰り返したか、もはや覚えていない。
 またもや人間関係で打ち切られた僕を、あのエージェントはどう思っているのだろう。
 果たして、本当に次はあるんだろうか。
 仕事を変えるたびに、どんどん生活......いや、人生が悪化していく。
 あがけばあがくほど、ぬかるみに嵌まり込んでいくみたいだ。

「あああああっ!」

 近所迷惑も顧みず、ありったけの大声で叫んだ。
 なんでいつも僕ばっかり。僕が一体何をしたっていうんだ。
 僕より仕事をしていない連中なんて、たくさんいるじゃないか。
 なんのために、大人しくサンドバッグになっていると思っているんだ。

 あんまりだ。

 どうして、どうして、どうして。
 自然と涙が溢れてきて、年甲斐もなくわんわん泣いた。でも、そんな自分をどこか冷静に俯瞰している僕もいる。
 汚いワンルームのなかで、二十三にもなる男が何をしているんだろう、と。
 こういうとき、良好な人間関係を築ける人は、友達にでも相談するんだろうか。

 ――北村が悪いんじゃない。君は頑張っていたじゃないか。

 慰めでもいい。誰かがそう言って寄り添ってくれさえすれば、僕はきっと救われる。
 そうすれば、僕の人生だって大きく変わるんじゃないかと思う。

 ......でも、そんな人は一度も現れなかった。

 そばに転がった携帯電話に入っている個人的な連絡先はゼロだ。
 僕が生きようが死のうが、この世界の誰にも影響を及ぼさない。そんな惨めな存在が、僕。

 もう嫌だ。

 僕はのろのろと立ちあがって、キッチンに向かった。しまいこんでいた包丁を棚から取り出して握り込む。
 一度も使ったことのない刃は、薄暗い部屋の中でぎらりと鈍く光った。
 どうせ、このまま生きていたってろくなことがないはずだ。
 笑われる回数を重ねるだけの人生なら、もうここで終わりにしたい。
 首筋に包丁の刃を当てて目を瞑る。チクッとした痛みに、ぞくりと鳥肌が立った。
 このまま手前に引けば、一気に逝けるだろうか。
 包丁の柄を握る手に、力を込めた。

 と、その時だった。

 部屋のインターホンが、鳴った。

 
 ――玄関ドアを開けると、麦わら帽子をかぶった少女が立っていた。

「北村さん? 聞いてます?」

 トントンと馴れ馴れしくヨルと名乗る少女に腕を叩かれ、僕ははっとして彼女を見つめ返す。

「あっ。大丈夫です。ちょっとぼうっとしていました」

 頭を掻きながら、僕はヨルに頭を下げた。

「いきなり悪魔契約なんて言われても、驚きますよね」

 やっぱり聞き間違いじゃなかったようだ。

「失礼ですが、クスリとかやっていませんよね?」
「本当に失礼な方ですね。信じるものは救われるというのに」
「そうなんですね」と、間の抜けた返事をしながら、どう追い返したものかと思案する。
「僕は無宗教なんです。帰ってもらえませんか」

 きっと僕の顔は引き攣っていることだろう。
 ――ヨルは、北村さんの望みを叶えるためにやってきたのです。
 ――お友だちが欲しいんですよね?
 さっき、彼女は間違いなくそう言った。まるで、ずっと僕の様子を観察していたような口ぶりだ。
 たとえ偶然だとしても、薄気味が悪い。
 おそらくは、僕みたいに孤独を抱えた若者を狙う詐欺のようなものなんだろうけど、「友達」という言葉を使うのは悪質だ。
 偽りの友情なんかに興味はないのに。
 僕はこれ以上話をしたくなくて、「それじゃあ」と言いながら玄関ドアを閉じようとした。

「お待ち下さい!」

 ヨルは素早くドアの隙間に爪先を挟んだ。彼女はひるんだ僕の隙を突いて、そのまま強引にドアをこじ開けると、体をねじ込むようにして部屋に入ってきてしまった。

「とりあえず、お話だけでも」

 ヨルの後ろで、バタンと玄関ドアが閉まる。
 いくらなんでも、ちょっと強引すぎやしないか。
 相手が女の子だったから、ちょっと油断していた。
 この子、異常だ。

「けっ、警察を呼ぶぞ」
「そう冷たいこと言わないでください。ヨルは北村太一さんと契約がしたいだけなんです」
「なんで下の名前まで知ってるんだよ」
「それくらいお見通しですよ。ヨルは悪魔なんですから」

 彼女はにっこりと微笑むと、僕の脇をするりと抜けて部屋の奥へと進んでいく。

「ちょっと!」
「さきほど、自死されようとしていましたよね?」

 きっぱりと言い切られて、口ごもる。
 ヨルの視線はキッチンに放置されたままの包丁へ向けられ、それから這いずるように僕へ移動する。
 血のように赤い瞳に見つめられると、体中が粟立った。
 何なんだ、この子。本当に悪魔なのか? いや、そんな馬鹿げた話があるわけない。

「まだ疑っているようですね。証拠をお見せしましょう」

 ヨルはずかずかとキッチンに近づくと、包丁を手に取る。
 一瞬、刺されるかもしれないと身構えたが、彼女はそんな僕をせせら笑いながら自分の首に刃を当てた。
 そして――躊躇うことなく刃をめり込ませていった。

「な」

 おびただしい量の鮮血がヨルの首から迸り、立っていた僕にまでビシャビシャと降りかかった。
 シャツは血に染まり、むせかえるような血生臭さが鼻孔を突く。
 あまりにも異常な光景に目眩を覚え、たまらずその場へ座り込んだ。
 だが、目の前のヨルは左手で頭を固定しながら、なおも右手でギコギコと首を掻き切ろうとしている。

「うーん、切れ味は良くないですね。百均ですか?」

 三分の一ほど首を切ったところで、彼女は眉根を下げて包丁から手を放す。
 刺さったままの包丁と生白いヨルの首があまりにもアンバランスで、陳腐なCGみたいだ。
 なんで、平然と喋っていられるんだ?

「だ、大丈夫なの?」

 我ながら、間抜けな質問だと思う。ヨルもそう感じたのだろう。血まみれの顔に、呆れたような表情が広がっていく。

「これでヨルが悪魔だと信じてくれましたか?」

 僕はこくこくと何度も頷いた。

「そう。良かったです」
「救急車を呼んだほうがいいんじゃない」
「いいえ。ご心配なく」

 ヨルは平然と首から包丁を引き抜き、乱暴にシンクの中へ放り出した。
 彼女が指先を鳴らすと、部屋中に飛び散っていた血液が逆再生するようにヨルの体へと吸収......いや、戻っていく。
 首の傷も見る間にふさがっていき、あっという間に痕跡すらなくなった。
 赤い血が飛び散った僕のシャツはすっかり白くなり、血の匂いも消えている。
 床も天井も、何事もなかったように元通りになっていた。

 ......一体、僕は何を視たんだ? 

 腰を抜かして動けない僕に構わず、ヨルはテーブルの前に座った。

「とりあえず、お話をしましょう」
「ひっ」

 本当は今すぐこの場から逃げ出したかった。
 でも、ここで逆らったら何をされるかわからない。
 叫び出したい衝動を抑え、四つん這いのままヨルに近づいていき、向かい合うようにして腰を下ろした。自分の体が震えている。

「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。ヨルは鬼じゃありません」

 鬼と悪魔って、どっちが恐ろしいものなのかもわからない。
 萎縮しきって声も発せない僕の前に、ヨルはどこから取り出したのか......一枚の紙を広げた。上から下まで、見たこともない異国の文字がびっしりと並んでいる。
 ヨルに促され、僕は恐る恐る手にとって一番上に書かれた文字を眺めた。

「悪魔契約書?」

 自分で言葉にしてから、はっと気づく。日本語ではないはずなのに読めてしまった。
 再び恐怖が突き上げてくる。

「僕は悪魔契約なんかしない!」
「まあ、そう言わずに」
「悪魔と取引をしてまで、叶えたい願いなんてないよ」

「うそばっかり」

 ヨルは、薄い唇を引き結ぶようにして笑う。

「お友だちがほしいと強く願いましたよね? 手に入らないなら、いっそ死んでしまいたいとさえ思いましたよね?」
「それは」
「わかります。わかりますよ、北村さん。人間にとって対人関係というものは、いつの時代も悩みの種ですから」

 悪魔は、人間の心の隙間に入り込むという。
 僕は、魅入られてしまったのだろうか。

「神があなたを見放したのなら、悪魔が救ってさしあげます」

 ヨルは身を乗り出して、僕の頬を優しく撫でた。つららのように冷たく、血の気の失せた指先。
 ああ、本当にこの子は人間ではないのだな、と痺れた頭で思う。

「僕と、どんな契約をするつもり?」

 赤い瞳を真っ直ぐ見据えながら訊ねると、ヨルは嬉しそうに目を細めた。

「この藤島市に住む十万人を、北村さんのお友だちにしてあげます」
「は?」

 ジュウマンニン?

「さすがに日本国民全員となるとややこしいですし、それくらいがちょうどよくないですか?」
「本気で言ってる?」
「もちろんです。あ、でも期間限定ですよ」

 ヨルは両の手の平を、パッと広げた。

「ヨルの魔力では、せいぜい十日間が限界です」
「期間限定じゃ意味がないよ。僕が欲しいのは、友達というより親友って呼べる人だから」
「そう言われましても。さすがにヨルも人間の心を永久的に操ることはできません。人類を創造するようなものですからね」

 ヨルに反論されて、妙に納得する。
 たしかに、悪魔に心を操られた人間なんて、プログラムされたアンドロイドと変わらない。