その後、二日間も冬花ちゃんからの連絡はなかった。

 いや、正確には二日前に誘いを断られてからというもの、すっかり彼女を遊びに誘う勇気がなくなってしまったのだ。
 また一から振り出し......そう思うと、軽く目眩を覚えた。
 僕は工場の更衣室で、鳴らない携帯電話を見つめながらため息をついた。
 時間を無駄にしてはいけないと、この二日間は工場から退勤したその足で、適当に道端で声をかけた人たちと居酒屋をはしごした。

 だけど、それだけだった。

 結果は初日に前原さんと飲んだときとまったく同じ。
 見知らぬ人たちと、上滑りする会話をただ繰り返しただけ。
 僕は途中で帰っていった、名前も曖昧な他人を見送りながら、個室のトイレで嗚咽した。

 十万人もの友達がいる、なんていうのは幻想だ。

 誰かと喋れば、すぐに北村太一という嫌われ者の僕に気づかれてしまう。
 家族も、職場も、旧友たちの中にも僕の居場所はない。
 主任は宮越くんがフォローしてくれたおかげで、今朝出勤すると、軽い挨拶ぐらいは返してくれた。でも、きっと主任が僕を飲みに誘うことは二度とないだろう。

 このままでは、派遣の契約延長の話は白紙に戻ってしまうかもしれない。

 友達化している間に、ご機嫌を取るべきだ。
 けれど、頭からは冬花ちゃんが離れなくて、もしかしたら今日や明日、彼女と再び一緒に過ごす事ができるかもしれないと思うと、主任を誘うことができないでいた。
 自分の中でこんなにも冬花ちゃんという存在が大きくなっていたことに驚く。
 今まで知り合い未満であったのに、一度友達になったぐらいで、こんなにも執着をしてしまうなんて我ながら異常な気もする。

 だけど僕にはもう、彼女しかいないのだ。

 彼女と一緒にいる間は、僕は僕を好きでいられる。
 こんな気持ちにさせてくれるのは、冬花ちゃんだけなのだ。

「北村さん、大丈夫ですか?」

 これから仕事だというのに、作業着に着替えもせず、ぼうっとロッカーの前で突っ立っていたからだろう。宮越くんが、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。

「なんかあったんですか?」
「いや、実は、その......友達と、ちょっとね」
「だからこの二日間、おかしかったんですか」
「えっ、そんなに変だった?」

 宮越くんは呆れたようにため息をつく。

「主任からまた目をつけられないうちに、気張ったほうがいいですよ」
「そうだね」

 自分では全然気が付かなかった。
 言われてみれば、たしかに普段ならあり得ないようなミスを連発していた。
 改めて指摘されると、恥ずかしさと情けなさでいたたまれない気持ちになる。

「友達関係で悩むのは学生までにしとかないと。オレたち、もうガキじゃないんですから」

 グサリと刺さる。
 宮越くんなりの優しさなのだろうが......正直、煩わしい。

「僕、そんなに必死に見える?」
「見えますよ」
「そう」

 僕も彼みたいに割り切ることができたら、きっと悪魔と契約なんてしなかっただろう。

「今日は無心で頑張るよ」
「別に、そこまで責めているわけじゃないですよ」

 ため息をつきながら、僕は作業着に袖を通す。
 その時、鞄に入れておいた携帯電話が震えた。
 慌ててディスプレイを見ると、そこには『冬花』の文字が表示されていた。すぐに通話ボタンを押して耳に当てると、冬花ちゃんの荒い息遣いが聞こえてくる。

「冬花ちゃん? どうし......」
『北村くん、助けて』
「えっ?」
『家に来てるの! 前、飲んだ人』

 彼女のただならぬ様子に、唾を飲み込む。

「飲んだ人って、まさか岡田さん?」
『そう。朝から、ずっと家の前にいるの』
「警察には通報した?」
『逆恨みされたら何されるかわかんないじゃない』
「それはそうだけど」
『どうしよう、北村くん。あたし、どうしたらいい?』
「すぐに行くよ」

 考えるより先に答えていた。
 通話を切って、作業着を乱暴に脱ぐ。そのまま傍らで目を白黒させていた宮越くんに、「返しておいて」と強引に押し付けた。

「冬花ちゃん、どうかしたんですか?」
「あとで説明する。主任には早退するって言っておいて」
「いや、まずいですよ、北村さん。今度こそ主任、ブチギレますよ」
「どうでもいい」
「せめて直接話したほうがいいですって。クビになりますよ」
「放っておいて」

 僕の肩を掴む宮越くんの手を払い除けた。着替えもそこそこで、転がるように更衣室から出ていく。
 宮越くんの言う通り、主任に再び目をつけられてしまった僕が早退なんてしたら、今度こそ本当にクビになるかもしれない。
 それに、相手は岡田だ。
 僕が行ったところで、一体何ができるかもわからない。大人しく警察を呼んだほうが得策かもしれない。
 だが、冬花ちゃんが......友達が大変な思いをしているなら、駆けつけるべきだ。
 それが本当の友達というものだと、僕は思うから。


 電車を待つ時間も惜しくて、僕は駅前に停まっていたタクシーに乗り込んだ。
 冬花ちゃんの家の近くで降りるや否や、岡田の怒鳴り声が聞こえた。車の窓から覗くと、呂律の回らない口調で、玄関扉を激しく叩いているのが見えた。

 どうやら、相当酔っ払っているようだ。

 友達化した運転手さんが僕の身を案じてくれたが、それを振り切って彼にゆっくりと歩み寄る。
 岡田は数日前と変わらず派手な服を着ていた。筋骨隆々の腕に彫られたタトゥーが禍々しい。今度こそあの拳で殴られるかもしれないな、と思うと緊張で体が強張る。
 玄関扉のすりガラスから微かに漏れる光が、岡田の横顔を照らす。まさに鬼の形相だった。
 こんなことがなければ、一生関わり合いになりたくない人物だ。

 今さらながら......なぜ冬花ちゃんはこんな男と友達になろうと思ったのだろうか。

 岡田は僕の気配にも気づかず、「冬花」と叫びながら、玄関ドアの取手を獣のようにガチャガチャと押し引きする。
 岡田はまだ友達化しているはず。
 落ち着いて話せば、穏便にことを進められるかもしれない。

「岡田さん。何をしているんですか」

 相手を刺激しないよう控えめに声をかけると、岡田は素早く僕を振り返った。

「なんでオマエがここに?」
「......たまたまですよ。僕の家、ここから近いんで」

 本当のことを言ったら、冬花ちゃんに危害が及ぶかもしれない。
 僕は慎重に言葉を選びながら、精一杯の愛想笑いを浮かべた。

「近所に声が響いてますよ。どうかしたんですか?」
「北村って、冬花のなんなの?」

 僕の浅知恵などお見通しだと言わんばかりに、岡田は血走った目でこちらを睨みつけてくる。

「友達......です」
「じゃあ引っ込んでろや!」

 突然の罵声に、体が竦む。

「そういうわけにはいきません。冬花ちゃんは、僕の友達なので」
「友達? ふーん。オマエとは連絡取ってるんだ? オレのことは拒否ッてるくせに」
「それは......あなたがビアガーデンでしつこく迫ったからじゃないですか?」
「黙れや、カス!」

 岡田はヒステリックに叫んだ。

「冬花が悪いんだろ。期待させるようなことをするから!」
「どういうことですか?」
「二人で飲んだら、気があると思うだろ普通」
「冬花ちゃんは、あなたのことは男友達だって思っていたみたいですけど」
「は? 俺には全然気がなかったってことか?」
「どちらにせよ、こんなことをする人は嫌われて当然だと思います」

 あ、言い過ぎた。そう思った時には、もう遅い。
 唐突に、僕は岡田に胸倉を掴まれた。抵抗する間もなく、顔にとてつもない衝撃を食らい、うっと声が漏れる。目の前がチカチカして、鼻に激痛が走った。そのまま尻もちをつくと、体制を整える間もなく岡田の足が僕の頭を蹴り上げた。
 ツーっと生温かいものが鼻の下を伝う。おそらく鼻血が出ているのだろうが、手で拭う暇もなく、岡田がさらに僕の体を蹴り上げてくる。
 痛い。すごく痛い。だけど、ここで引くわけにはいかない。
 もしここで引いたら、冬花ちゃんが危ない。
 岡田の爪先が、僕のみぞおちに食い込んだ。
 かはっ、と口元から唾液が飛び散る。同時に、胃がひっくり返るような吐き気。

「オマエも、俺をバカにすんのか?」

 オマエも?

 鳩尾を手でかばいながら、僕は岡田の顔を見上げた。
 憤怒で歪む岡田の表情が、なぜか自分と重なる。

「なに見てんだよ」

 岡田が舌打ちをしながら、大きく振りかぶった。
 また殴られる!
 僕は体をエビのように丸め、次の一撃を待つ。
 その時だった。
 玄関扉が勢いよく開かれ、

「もうやめてよ、岡田くん」

 叫ぶような声に、岡田の動きがぴたりと止まる。

「冬花」

 家の中から飛び出してきた冬花ちゃんは、顔から血の気が引いていて、いつもより青白かった。

「それ以上やったら、北村くん死んじゃうよ」

 冬花ちゃんは屈み込んで僕を覗き込む。鼻血が出ていることに気がつくと、質の良さそうなカーディガンの裾で丁寧に拭ってくれた。
 一瞬交わった彼女の瞳には、わずかに涙が滲んでいる。

「そいつが俺に突っかかってきたんだからな」

 あれほど威勢がよかったのに、冬花ちゃんを前にした途端、岡田はきょろきょろと落ち着きなく視線を泳がせた。

「俺だって、ここまでやる気はなかったんだ。オマエが、俺を邪険にするから......」
「たった一度、飲みに行っただけじゃない」

 冬花ちゃんは岡田に背を向けたまま、僕の頬を撫でながら呟く。その表情は冷たく、能面のようだった。

「最初から、友達なんかじゃないよ」
「な」

 岡田の目が、カッと見開かれる。わなわなと唇を震わせ、見る間に頬が紅潮していった。

「じゃあ、なんでオレに声をかけてきたんだ」

 冬花ちゃんは、僕の頬を撫でながら、視線を落としてため息をつく。

「たまたま」

 彼はさらに言い募ろうと冬花ちゃんに歩み寄ったが、何も言葉が出てこないのか、酸欠の金魚みたいに口をパクパクとするだけで何も言わない。

「北村くん、警察呼ぶ?」

 冬花ちゃんの声が上ずっていた。

「......冬花ちゃんに二度と近づかないって約束してくれるなら、僕はいい」
「近づくかよ」

 岡田は吐き捨てるように呟く。

「このアバズレが」

 彼は屈んだ冬花ちゃんの頭を強く小突く。
 まさか、この期に及んで暴力を振るうつもりだろうかと咄嗟に体を起こしたが、岡田はそのまま舌打ちをして去っていった。
 乱暴に家の門が閉められ、「くそ」だの「ちくしょう」だのという怒号のような独り言が、次第に遠ざかっていく。
 その声が完全に聞こえなくなり、ようやく僕らは全身の力を抜いた。

「ああ、もう。すごく怖かったぁ」
「僕も。冬花ちゃん、頭は大丈夫?」
「あれくらいどうってことないよ。それより病院行く? タクシー呼ぶよ」
「いや、僕こそ大丈夫だよ」

 鼻を押さえながら、僕は軋む体を起こした。全身を確認したが、打撲程度で骨まで折れてはいなさそうだ。

「ごめんね、北村くん。あたしのせいで」
「冬花ちゃんは悪くないよ」
「あんな人と知り合ったのがまずかったの。声なんかかけなきゃよかった。......立てそう?」

 冬花ちゃんは僕に向かって手を差し出してくれた。何故かその手を取る気になれなくて、僕は自力で立ち上がった。
 頭は蹴られなかったので、ダメージはないが、やはり全身の痛みのせいで目眩がする。喉に鼻血の鉄の匂いが落ちていった。

「せめて家で手当てさせて? あがって」
「ああ、うん」

 冬花ちゃんが玄関扉を開け、手招きをする。

「じゃあ、お邪魔します」

 ぺこりと頭を下げて、誘われるまま家の中に足を踏み入れた。

「あれ? 前よりキレイになってる?」

 ごみ袋や衣服で乱雑としていた廊下はすっきりと片付けられていて、より家が広く感じられる。酒瓶があちこちに転がっていたリビングも、今やモデルルームのように整頓されていた。
 テーブルの上に置いてあるウィスキーやビールも、まるでインテリアのように見える。

「あたしの友達が片付けてくれたの」
「へえ......」

 家の中を掃除させるってことは、僕より親しい人なんだよね?
 喉まででかかった言葉を、ごくりと飲み込む。仮初めの友達である僕が、彼女の交友関係に対して口を出す筋合いはない。

「氷用意するから、適当に座っててね」
「ありがとう」

 キッチンに消えていった冬花ちゃんに返事をしながら、ふかふかのソファに腰を埋め、まじまじと部屋を見回す。
 そういえば、冬花ちゃんのお母さんはこのリビングで。
 天井を見上げると、豪華なシャンデリアがぶら下がっていた。

 まさか、あそこから首を吊って?

 ドラマや映画で観た凄惨なワンシーンが、フラッシュのように脳裏をかすめる。
 ゾクっと寒くもないのに鳥肌が立った。天井からぶらさがった人間の死体が容易に想像できてしまう。
 冬花ちゃんは、この家に住んでいて怖くないのだろうか。
 視線を逸して、自分の薄汚れた靴下をじっと見つめる。
 彼女は、この部屋でどんな想いを抱えたまま酒を飲んでいるのだろう。

「大丈夫? 痛む?」

 頭上から声が聞こえて、ビクッと肩が跳ねた。振り仰ぐと、水枕を片手に持った冬花ちゃんが立っていた。

「これで少し良くなったらいいんだけど」
「最初から大した顔じゃないし、ちょっと歪んだくらいどうってことないよ」

 氷枕を受け取りながら、わざと自虐的なことを言ってみた。
 けれど冬花ちゃんはクスリとも笑ってくれなかった。場を和ませようとしただけなのに、失敗だったみたいだ。

「本当に、岡田をあのままにしておいていいの?」
「うん。元はと言えば、あたしが期待させるようなことをしたのが悪いんだし。あれだけ言えば、もう興味も失せるでしょ」

 彼女は僕の隣に腰をかけると、大きなため息をついた。

「それに、半分は嘘だし」
「嘘?」

 さらに問いかけようと口を開いたところで、

「友達は、ちゃんと選ばないとだめね」

 冬花ちゃんの何気ない一言が、ズキッと僕の胸を刺す。
 ちゃんと......。そうだよな。友達というのは、冬花ちゃんが選ぶものなのだ。
 僕は、冬花ちゃんの恋人でも、友達でもない。
 ちゃっかり友達ヅラしているだけの、図々しい他人だ。

 だが......。

 ......この二日間、誰と何をしていたの?

 喉に言葉がつかえ、吐き気がする。
 僕の本質は、岡田と変わらないのかもしれない。

 僕よりも大事な友達って、誰?
 僕のことは、どうでもいいの?

 嫉妬が胸の内でとぐろを巻いて膨らんでいく。今にも醜い雑言が飛び出してきそうだ。
 そうなれば、僕たちの関係は音を立てて崩れてしまうだろう。
 貧乏ゆすりをしながら、じっと突き上げる衝動を抑えつけた。
 ふと、冬花ちゃんの言葉が、頭の中でリフレインしていた。

 ――最初から、友達なんかじゃないよ。

 まるで、僕自身がそう言われたみたいだ。
 冬花ちゃんから一番遠い存在は、僕だ。
 それなのに、こうして友達ヅラをして彼女の隣にいる自分自身が、ひどく不気味に感じる。

 ――僕に残された時間は、あと二日。

 二日後、僕は冬花ちゃんの友達でいられるのだろうか。

「北村くん。来てくれてありがとね」

 不意に、冬花ちゃんは僕の手を握りながら独り言のように言った。
 振り返ると、彼女は今にも泣きそうな表情で僕を見つめている。

「当然のことだよ。僕は冬花ちゃんの友達、だし」
「あたしが一昨日から連絡しなかったこと、怒ってる?」

 ストレートな物言いにぎょっとする。

「そんなことないよ。どうかしたのかな? って、ちょっと気になっていたくらいで」
「他に友達を作ろうとしてたの」

 まさかこんなにはっきり言われるとは思っていなかったので、面食らってしまった。
 彼女が友達に依存していることは、よくわかっているはずだ。
 重ねられた手をやんわりと解き、握りこぶしをつくる。

「そっか」
「北村くん以外にも、友達がほしかったから」
「スペアが足りなくなったの?」
「そんな言い方しないで」

 冬花ちゃんは髪の毛を掻きあげながら、寂しそうに息を吐いた。

「でも、あたしが間違ってた」

 冬花ちゃんは、テーブルの上に置かれていた携帯電話を手にとると、通話履歴を僕に見せてくれた。そこには、ずらりと人の名前が並んでいる。

「さっき、半分は嘘って言ったでしょ。あたし、いざとなったら警察に電話するつもりだったの」
「え?」
「逆恨みされるのが嫌だから通報するのが嫌だったんじゃないの。誰かに助けに来て欲しかっただけなの」

 冬花ちゃんは、自嘲気味に笑う。

「でも、誰も来てくれなかった。......北村くん以外は」
「冬花ちゃん」
「おかしいよね。こんなにたくさんの友達がいたはずなのに」
「......」
「大事な友達が一人いれば、それでいいや」

 彼女はそう言いながら、携帯電話に登録されていた連絡先を次々と削除していった。
 その横顔は無機質で、何の感情も読み取れない。
 しばらく呆然とその様子を見守っていたが、はたと気づいて冬花ちゃんの手を押し止める。

「冬花ちゃん、もういいよ。わかったから」

 彼女は顔をあげて、疑わしそうに僕を覗き込んだ。

「僕も嬉しかったんだ。同窓会のあと、冬花ちゃんが迎えに来てくれて」
「それは当然じゃない。だって」
「僕らは友達だもんね」

 冬花ちゃんは安堵したように、ふっと頬を緩めて微笑む。
 そして、そのまま置いてあったウィスキーの瓶を手に取ると、しっかりとした足取りでキッチンに向かっていった。
 何をするのだろうと思い、僕も立ち上がってついていくと、彼女はシンクに瓶の中身をぶちまけた。

「何してるの、冬花ちゃん」
「もうお酒を飲むのはやめるの」
「どうして?」

 ドバドバと豪快な音を立てて、値の張りそうなウィスキーが見る間に排水溝へ飲み込まれていく。

「あたしね。ずっと死ぬつもりだったんだ」

 冬花ちゃんの声は、少し震えていた。

「アルコール中毒で死ねるなら、本望かなって。お母さんが死んだこのリビングで、あたしも死のうってずっと考えてた」
「どうして、そんなこと」
「あたしの人生、何もないんだもん。男とお金しかないお母さんより、何もないの」

 彼女はため息をつくと、空になった瓶を乱暴にシンクの中に放り込む。

「でも、こんなんじゃだめだなって思えてきたの。北村くんのおかげだよ」
「僕は、何もしてないよ」
「ううん。あたしのために駆けつけてくれる人なんて、人生で初めてだったんだ。友達って、こんなにかけがえのないものなんだね」

 冬花ちゃんは僕を振り返ると、にっこりと照れたように、そして心から嬉しそうに笑った。

「ありがとう、北村くん」

 頭が痺れたようになって、目眩がする。胸の内から、気持ちが溢れだしてくるようだ。

「僕も初めてだよ。自分よりも傷つくのを見たくないって思ったのは」
「そっか。似た者同士だね。あたしたち」

 僕らは互いを見つめ合いながら笑いあった。唇を吊り上げすぎて、頬が痛くなり、体が熱を帯びる。ふんわりと笑う冬花ちゃんがとても眩しく見えた。

「じゃあ、友達としてあたしの禁酒に協力してくれる?」
「いいよ。シンクに捨てる手伝いをすればいいの?」
「それもあるけど。......お酒の代わりに、ずっとあたしのそばにいて」

 ドクンと心臓が鼓動を打った。

「僕でいいの?」
「北村くんがいいの」

 冬花ちゃんは、殴られた僕の鼻に手を伸ばすと、親指の腹で優しく撫でる。

「あたし、北村くんに困ったことがあったら、絶対に助けてあげる」
「ありがとう。僕も、友達のためなら何でもできるよ」
「嬉しいけど、無茶はしないでね。あやうく死んじゃうかと思ったんだから」
「別にいいよ。死ぬくらい」

 冬花ちゃんは驚いたように目を瞬いた。

「僕を必要としてくれる人のために死ねるなら、それこそ本望だよ」

 ヨルが部屋に訪ねてこなければ、あの汚いワンルームの部屋で終わっていた命なのだ。いまさら、惜しいとは思わない。

「死ぬなんて、だめだよ。北村くんが死んじゃったら、すごく寂しいもの」

 冬花ちゃんの手が、僕の頬を包み込む。

「冬花ちゃんの手、冷たいね」
「北村くんも。あたしたち、似た者同士だね」

 電灯の下で、きらりと冬花ちゃんの濡れた瞳が光った。
 彼女は僕にとってかけがえのない人だ。
 冬花ちゃんこそ、『本当の友達』だ。
 この気持ちは、仮初めなんかじゃない。