僕が目を覚ましたのは、夕方の十六時だった。
 ヨルが途中で何度も起こしてくれたようだったが、カラオケ店で飲んだやけ酒が響いていたみたいで、まったく起き上がることができなかった。
 それと同時に、いきなり大勢の他人と話をするのは、ずっと一人ぼっちだった僕にとっては結構なストレスだったようだ。
 重たい体を引きずりながら、ヨルと一緒に夕飯を食べていたら、あっという間に仕事の時間になってしまった。
 冬花ちゃんから連絡も来ていなかったし、それなりに急いでいたから、浅利邸を通り過ぎてしまったが、やはり挨拶くらいはしておくべきだったかもしれない。
 そんなことを考えながらも、僕の心は浮足立っていた。
 工場の作業場で、僕はもう冬花ちゃんと一緒に出かける算段を立てながら上機嫌で食材を包丁で切り刻む。
 同じテーブルで作業をする同僚たちとも話が弾む。
 何もかも、順調だ。
「意外と元気そうだな、北村」
 声をかけられて振り返ると、作業場の扉から半身をのぞかせた主任がいた。ほのぼのとした雰囲気が一転して、場の空気がひりつく。
「昨日お前が体調を崩したって聞いたからよ。様子を見に来たんだ」
「は、はい......。ちょっと風邪を引いたみたいで。今日はすっかり元気です」
 本当はただのズル休みだけど。
「そうか。ならいいんだ」
 主任は本当に僕のことを心配してくれているようで、労るように優しく肩を叩いてくれた。
 友達化した主任と接してもうすぐ一週間になるが、やっぱり今までのイメージがつきまとって、話しかけられるだけで体が硬直してしまう。
「さっき宮越と話をしていたんだ。明日の夕方、どうだ?」
 主任は手で輪っかをつくり、徳利を構えるような仕草をした。すぐに飲みの誘いだとわかって、体が強ばる。
 ちょうどそのとき、宮越くんが通りかかって、僕と目が合った。
 僕たちの様子を見てすぐに悟ったようだ。ちょっと申し訳なさそうに首をすくめた。
 数日前の僕なら、きっとありがたがって、即答したに違いない。
 でも、ヨルと契約をしてから、今日でもう六日目だ。僕には、時間がない。
 出来ることなら、一日でも多く冬花ちゃんと一緒にいたかった。
「すみません......あの、明日はちょっと」
 主任は呆気に取られたように、目を剥いた。
 あ、まずいことをした、と思ったときには、もう遅かった。
「は? 俺の誘いを断るのか?」
「い、いえ。そういうわけじゃ。ただ、ちょっと......人と会うかもしれないので」
「北村のくせに、調子に乗りやがって」
「いや、そんなわけじゃ」
「二度とお前なんか誘わねえからな」
 主任は吐き捨てるように言うと、僕の肩を強くどつき、そのままどしどしと足音を立てて作業場から出ていってしまった。
「主任、待ってください!」
 僕が慌てて主任のあとを追おうとすると、
「北村さん、やめたほうがいいですよ」
 宮越くんが僕を押し留めた。
「あーもう。なんで断っちゃうんですか。主任はプライドが高いんだから、付き合ってあげないとだめですよ」
「うっ。次は改めて僕から誘ってみるよ」
「次はもうないですよ」
 宮越くんは僕を突き放すように言った。僕たちの会話を聞いていた同僚たちも、「あーあ」と呆れたようにため息をつく。
「あとでオレから軽くフォローしときます」
「ありがとう、助かるよ」
「いえ。元はと言えば、オレが適当に話を合わせちゃった結果ですし。巻き込んじゃってすみません」
 宮越くんは、すまなそうに肩を竦ませる。
 何もかもうまくいっていて、つい油断していたのかもしれない。
 いつもの僕なら、きっとものすごく落ち込んでいただろう。
 だが、今の僕はどこか他人事だった。
 心のどこかで『僕には冬花ちゃんがいる』と思うと、不思議と不安な気持ちは吹き飛んだ。この失敗を、彼女に聞いてもらおう。きっと笑い飛ばしてくれるはずだ。
「もしかして、デートでもするんですか?」
 宮越くんは目を細めて、からかうように言った。
「いや、えっと」
「相手は冬花ちゃん?」
「なんでわかったの?」
「オレ、たまに彼女とやり取りしてるんで」
「えっ!?」
 宮越くんはちょっと気まずそうに人差し指を立て、「しー」っと、僕を制した。
 一体いつ、二人は連絡先を交換したのだろう? 
 もしかして、僕が岡田に絡まれているときだろうか。
「そんな顔しないでくださいよ。ただの友達ですから」
「別にそういう意味じゃ......。それより、僕のこと、なんか言ってた?」
「そういうことは、本人に聞いてください」
 宮越くんは意地悪っぽく、僕をからかうように笑う。
 彼の反応からして、少なくとも冬花ちゃんは僕のことを疎ましくは思っていないようだ。
 ほっとしたのと同時に、彼女に会いたくなった。
 僕はもっと、冬花ちゃんのことが知りたい。
 仲良くなりたい。
 十日が過ぎても、友達でいたい。
 僕は、マスクの下でさぞ締まりのない顔をしていたことだろう。主任の小言などすっかり忘れ、鼻歌を歌いながら仕事に取り組んだ。
 じれったく過ぎる時計の針が休憩時間を指したとき、僕は誰よりも早く作業場を飛び出して、休憩室に飛び込んだ。
 はやる思いで携帯電話を取り出し、さっそくチャットアプリを開く。
 冬花ちゃんから連絡が来ているかもしれないと期待をしていたが、通知はゼロ。
 肩透かしを食らった気持ちになったが、冷静に考えれば今までだって大したメッセージのやり取りはしていない。
 まだ時刻は深夜二時を少し過ぎたばかり。
 少し迷ったが、きっとまだ起きているはずだと推測して、彼女にメッセージを送ることにした。
『遅くにごめん。今日、一緒に遊ばない?』
 軽すぎただろうか、と思ったものの、一緒にドライブまでした仲なのだ。きっと快く承諾してくれるだろう。
 僕はメッセージを見つめながら、頬杖をついてにやついた。
 同僚たちが僕を取り囲むように食事を始めたが、僕は上の空だった。
 落ち着かなくて、弁当の味がしない。
 結局、冬花ちゃんから返信が来たのは、休憩時間が終わる直前だった。
 胸を躍らせてメッセージを開くと、
『ごめん、今日は他の友達と遊ぶんだ!』
 ホカノ......トモダチ......。
 他の友達。
 たった四文字の衝撃。携帯を持つ手が震える。
 胃の中身をすべてぶちまけそうになるぐらいの吐き気と、天井がひっくり返るんじゃないかと思うほどの目眩がした。
 あれ?
 追い討ちをかけるように、冬花ちゃんから写真が送られてくる。そこには、見たことのない若い男女数人が、冬花ちゃんを取り囲んで酒を飲んでいるところだった。
 頬を上気させた冬花ちゃんは、白い歯を見せて笑う男に肩を抱かれてピースサインをしている。
 周りの人たちも見るからに社交的で、学生だったら間違いなく上位カーストに属する存在だとわかる。
 住む世界が違う。
 一体、僕は何を勘違いしていたんだろう。
 手のひらに汗が滲んでいく。
 ああ、そうだった。
 冬花ちゃんにとって、僕はただの友達の一人にしかすぎないのだ。
 友達=本当の友達ではない。
 所詮、飲み友だ。

 ――『冠婚葬祭には呼ばないけど、仕事帰りの飲みくらいなら付き合ってくれるレベルのものなんです』
 
 悪魔契約を交わす前にヨルが言っていた言葉が脳裏をよぎる。
 いつから自分は特別だと思っていたのだろう。
 僕は誰かから「特別」扱いされるほど、価値のある人間ではないということをすっかり忘れていた。