唐突に玄関のインターホンが鳴った。

 工場での仕事を終え、朝日と共に眠りについていた僕はびっくりして身を起こす。
 この部屋に人が訪ねてくることなんて、皆無に近い。
 どうせ新聞か宗教の勧誘だろう。
 イライラした気持ちを抑えて、枕元に丸めていたタオルケットを引き寄せ、自分の体を包んだ。
 だが、インターホンはしつこく鳴り続ける。耳を塞いで、再び眠ろうと目を閉じたところで、

「北村さん、大変です。女の子が来ています!」

 ヨルが慌てたように僕の体を揺らした。

「は?」

 ぱっと顔をあげる。
 女の子......? オンナノコ......。

「早く早く!」
「わかったよ」

 急かしてくるヨルにうんざりしながら、布団から這い出し、髪の毛も整えないまま玄関ドアを開けた。

「北村くん、こんにちは。すごい寝ぐせだね」

 そこには、冬花ちゃんが立っていた。今日はショートヘアを後ろで一つに束ねている。そのせいで、一瞬誰かわからなかった。

「な、なんでウチがわかったの?」
「北村くんがこのアパートに帰っていくところが、家の屋上から見えたの」
「......なるほど。それで、なにか用?」
「今日ヒマ?」

 咄嗟に返事ができなかった。今日は、ヨルと契約してから三日目だ。
 冬花ちゃんだけじゃなくて、他の人たちとも関わりを持つべきなのだろう。
 いや。友達をスペアだと言い切る彼女とは、もう......。
 返答に迷っている僕の心情を察したのか、彼女の表情がふっとさみしげなものに変わった。

「だめ?」
「わかった」

 即答していた。自分の意思の弱さが憎たらしい。
 冬花ちゃんは嬉しそうに微笑むと、後ろ手に持っていたパンパンに膨むビニール袋を押し付けるように手渡してきた。

「北村くんならそう言ってくれると思ったんだ。これ、差し入れ」
「またお酒?」
「今日はおつまみも入ってるから。あがってもいい?」

 部屋を覗き込もうと背伸びをする冬花ちゃんを見て、ギクリとする。
 部屋にはヨルがいる。
 やましいことはないが、同棲している(ように見える)と知ったら、面倒なことになるかもしれない。

「ちょ、ちょっと待ってて。すぐ片付けるから」

 僕は冬花ちゃんに頭を下げ、素早く玄関ドアを閉めた。

「ヨル、ごめん。ちょっと隠れてて!」

 言いながら部屋に戻ったが、そこにヨルの姿はなかった。

「あれ?」

 洗面所とトイレ、クローゼットの中も覗いたが、どこにもいない。
 ここは二階だ。飛び降りられない高さではない。
 そっとベランダに出て階下を覗き込んだが、ヨルはいなかった。
 悪魔だから姿を消すことぐらいは簡単に出来るのだろうか。
 もしかして、気を使って出て行ってくれたのか?

 それなら都合がいい。ありがとう、ヨル。

 仕切り直して、散らかっていた部屋を手早く片付ける。
 カーテンレールにヨルの着替えもぶらさがっていたので、それもクローゼットに押し込んだ。
 部屋の中はヨルが普段から清潔に保っていてくれているおかげで、すぐにきれいになった。
 むしろ、よれたシャツに、年季の入った半ズボンを身に着けている自分が一番小汚い。
 こんな姿で冬花ちゃんの前に出てしまったことが、今さら恥ずかしくなった。

 いそいそと着替えて、風呂の鏡の前でポーズを決めてみる。
 あ、ひげも剃ってなかった。おまけに歯も磨いていないし、髪の毛は思っていたよりボサボサだ。
 というか、(悪魔を除いて)他人(しかも女の子!)を自分の部屋に招き入れた経験がないので、どれだけきれいにしておけばいいのかわからない。
 素早く顔を洗い、僕は自分の頬を叩いて気合いを入れる。
 相手は冬花ちゃんだ。きっと、なんとかなる。
 大きく深呼吸をし、僕は玄関ドアを開けた。
 冬花ちゃんは、アパートの壁に背を預けるようにして携帯電話をいじっていた。

「待たせちゃってごめん。どうぞ入って」
「ううん、あたしこそ、勢いで来ちゃってごめんね」
「大丈夫だよ。ちょっと散らかってるけど......どうぞ」

 冬花ちゃんは部屋に入るなり、しげしげと物珍しげに見渡す。

「へえ。結構キレイにしてるんだね」
「ああ、うん。きれい好きなんだ」

 僕じゃなくて、ヨルが、だけど。

「あれ? 猫がいる! かわいい!」

 言われて初めて、ベランダにコパンが座っていることに気がついた。
 久しぶりにやってきてくれた彼の姿に、僕はほっと安堵する。
 よかった、元気そうだ。
 窓を開けて膝を折りながら、コパンにそっと指先を伸ばした。
 だが、今までなら窓に手をかけるだけで寄ってきてくれたというのに、コパンは僕たちに胡散臭そうな視線をやったまま、近づいてこない。

「コパン、おいでよ」

 僕がさらに手を伸ばすと、彼はのっそりと近づいてきて、にゃあんと一声鳴いた。
 指の腹で顎の下を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細め、尻尾をピンと立てる。

「わあ、可愛い」

 遠巻きに様子を見ていた冬花ちゃんも、目を輝かせてコパンの背をそっと撫でた。撫でられるのが大好きな猫だったはずなのに、特に嬉しがる素振りもなく、くりっとした丸い目を胡散臭そうに冬花ちゃんへ向けている。

「いつもは、もっと愛想がいいんだけどな」
「そうなんだ? 猫ってこんなもんかと思ってた。っていうか、コパンって北村くんが名前をつけたの?」
「地域猫だから、僕が勝手につけて呼んでる名前なんだけどね」
「どういう意味なの?」
「さあ。たまたま見かけたお店の名前なんだ」

 嘘だった。コパンはフランス語で『繋がりの深い友達』という意味だ。
 正直に言ったら寂しいやつだと思われそうで、つい誤魔化してしまった。

「なんかオシャレな名前だね。コパンくん? ちゃん? わかんないけど、よろしくね」

 コパンは冬花ちゃんに「にゃあ」と返事をする。
 よかった。いつものコパンに戻ったみたいだ。
 それから、ひとしきり二人でコパンを構ったあと、冬花ちゃんが買ってきたコンビニ袋をあけて、ビールで乾杯した。

「ねえ、氷もらってもいい? ついでにコップも」
「うん、いいよ」

 冬花ちゃんが立ち上がってキッチンに向かう。それを見ながら、僕は自分の心が弾んでいることに気づく。
 まるで恋人同士の会話みたいだ。

「あれ? 北村くん、彼女いるの?」

 えっ、と思って振り返ると、冬花ちゃんはヨルが使っていたマグカップを手にしていた。

「あっ、いや......それは」
「彼女持ちなら先に言ってよ! 誤解されちゃったら大変じゃん」
「違うよ、それは女友達のっていうか!」

 悪魔を友達呼ばわりしていいのかわからないけど。

「専用のマグカップまで置かせておいて、女友達ぃ?」
「ほんとだって。だいたい、僕みたいな冴えない男を相手にする人なんかいないでしょ」
「そこまで言ってないのに」

 冬花ちゃんは納得のいかない表情を浮かべながらも、無地のコップを二つ手にとって戻ってきた。
 彼女はごく自然に僕の隣へ腰を下ろすと、缶ビールをグラスへ注ぐ。
 ぺろりと舌なめずりをする姿は、餌を前にしたコパンに似ている気がする。

「そういえば。今まで聞いてなかったけど、冬花ちゃんって何歳なの?」
「二十三歳だよ」
「じゃあ、同い年だ」
「そうなんだ! なんか嬉しいね」
「仕事してるの?」
「ううん。今は無職。お金に困るまでは、このままでいいかなって」
「まあ、働くのって大変だしね」

 自分でもよくわからないフォローを入れた。

「生活費はどうしてるの?」
「親の金」

 吐き捨てるように言い放った彼女の言葉に、空気がピリついた。

「でも、ずっとニートってワケじゃないよ。少し前まではモデルやってたし」
「なんで辞めちゃったの?」
「お酒飲みすぎて遅刻を何回かしたらクビになっちゃった。はあ、今思い出しても罪悪感で死にそう」

 冬花ちゃんは苛立ったように髪の毛をガリガリと掻きむしる。
 本人にとっては、思い出したくない過去のようだ。

「でも、お金を出してくれる親がいて羨ましいよ」
「まあ、ね」

 彼女は不思議な女の子だ。
 親のお金で、あんなに大きな家に一人で悠々自適に暮らしているなんて。僕とは雲泥の差だ。容姿も端麗で、ひっきりなしに携帯電話へ連絡が来る友達が大勢いる。
 そんな子が、僕のような天涯孤独かつ、リストラ間近の男のワンルームで一緒にお酒を飲んでいる......。
 不思議な縁だ、ビールを飲みながら、彼女の横顔をじっと見つめた。

 眩しい。

 眩しすぎて、妬ましいという感情すら湧かない。
 僕と彼女は、あまりにも違いすぎている。
 こんなに近くにいるのに、とても遠い存在だ。
 どちらともなく、テレビの電源をつけた。大して面白くもないワイドショーが映って、凄惨なニュースや、芸人の食レポを観ながら、僕らはあーだこーだと語り合う。
 共通の話題なんてゼロに等しいのに、なぜか僕らの話は尽きなかった。
 時計の針が午後を指す頃には、冬花ちゃんが買ってきた酒はすっかり空になり、おつまみも姿を消した。
 僕が最後の一缶を開けたところで、

「お酒足りないから、買い足してこよっか」

 と、冬花ちゃんは火照った頬を手でさすりながら、ふらふらと立ち上がった。

「いや、酔いが冷めるまで待ったほうがいいよ」
「じゃあ、北村くんが買ってきて」
「大丈夫なの? 昨日もたくさん飲んでたでしょ」
「二年だよ」

 冬花ちゃんは唐突に呟いた。

「二年間、毎日飲みっぱなし。完全なアル中だよ、あたしなんて」
「冬花ちゃん」
「ほんと、ダメ人間」

 相当酔いが回っているのだろう。そのまま体勢を崩すと、畳んでいた僕の布団へ倒れこんだ。
 やれやれとその様子を見守っていると、

「......あれぇ?」 

 冬花ちゃんは寝そべったまま、山積みにしてあった書類の一番上にあった封筒を手に取った。

「同窓会のお知らせ?」
「あっ! それ......」

 捨てといて、とヨルに言ったのに。僕は慌てて腰を浮かす。

「同窓会あるんだ? いつ?」
「……明日」
「へえ! いいじゃない。楽しんできなよ」
「行くつもりはないけどね」
「どうして?」
「学生時代は、あんまりいい思い出がないから」

 冬花ちゃんは丸い目を瞬かせて首をひねる。
 そのまま無視をしてしまえばよかったのだろうが、きっと僕も酔っているのだろう。ビールをぐいっと飲み下しながら、半ば愚痴るように話を続けた。

「友達ランキングってのがあったんだよ」

 あれは中学二年の頃だった。
 きっと、よくある悪ノリだったんだろう。
 『友達ランキング』という、低俗な遊びが流行ったのだ。

 クラスメイトの中で、誰が一番人気なのか。そして嫌われ者は誰なのかを、クラス全員に投票を募って決定するのだ。
 投票が始まる前から、僕には結果がわかっていた。
 開票日に掲示板へ張り出された用紙には、『三十一位 北村太一 投票数0』と、書かれていた。
 死にたくなるほど惨めだったのを覚えている。
 せめて自分に投票しておけば、ビリは免れたかもしれない。
 だけど当時の僕はそこまで頭が働かず、学級委員長に清き一票を投票していた。

 ―――野本光。

 彼も友達が多いほうではなく、僕と同じく気が弱かったので、面倒なことを押し付けられがちだったのだ。そんな僕らはなんとなく気が合って、時々会話を交わしていた。
 言い出しっぺであるクラスメイトは、ダントツの一位だった。きっとこうなることがわかっていたから、こんなしょうもないイベントを実行しようとしたのだろう。
 僕はその日を境に誰からも相手にされなくなり、一位くんはますます人気者になっていった。
 そうやって落ちて、落ちて、落ちて。落ちた先に。

「僕はこのアパートにいるってわけ」
「ごめん。あたし、おせっかいなこと言っちゃったね」

 冬花ちゃんは気まずそうに身を縮こませた。
 僕は彼女の手から封筒を受け取ると、差出人の名前......『野本光』という字を指で撫でた。

「懐かしいな、野本くん」
「もしかして、その子が学級委員長?」
「そうだよ。あとから、自分で自分に票を入れてごめんって謝ってきた。律儀だよね」
「いい子だね」
「うん。不登校になった僕のところにも、せっせと宿題を渡しにきてくれたし」

 彼は僕の家に訪ねてくるたびに、学校へ来いと誘ってくれた。
 なぜそこまで気にかけてくれるのかはわからなかったけど、担任ですら見放した僕を気遣ってくれることが嬉しかった。
 結局は卒業式にすら出席しないまま、僕らは別々の高校に進学して、二度と会うことはなかったけれど。
 今から思えば、彼は僕の――。

「会いにいかないの?」

 グン、と意識が引き戻される。

「どうせ嫌な思いするだけだよ」
「野本くんに会ったら、すぐ帰ってきたらいいじゃない?」

 もう一度、封筒に目を落とす。野本くんの住所は、藤島市××-××。
 市内在住ということは、彼にもヨルの魔術がかかっているはずだ。
 野本くんとなら、本当の友達になれるだろうか。
 掻き立てられるように、僕は携帯電話を握り、招待状に記載されていた電話番号にかけた。
 数コールのあと、

『はい。野本ですけど』

 心臓が飛び上がるほどの緊張で、息が止まるかと思った。
 久しぶりに聞いた学級委員長の声は、記憶の中よりもだいぶ大人びている。
 頭が真っ白になり、すぐに言葉が出てこなかったが、隣で心配そうに見守っていてくれる冬花ちゃんのおかげで、すぐに落ち着きを取り戻すことができた。

「あっ......僕。えっと......北村、太一です」
『え? 北村くん? すごい久しぶり。どうしたの?』

 やはり友達化しているのだろう。電話口から聞こえる弾むような声に、ほっと胸を撫で下ろした。

「急で悪いんだけど。明日の同窓会、今から出席したいって言ったら無理、かな?」
『え、ホント? 実は直前キャンセルするやつが多くて参ってたところだったんだよ』

 僕はとっさに冬花ちゃんの顔を見た。表情で察してくれたのか、彼女は小さくガッツポーズをする。

「僕が行っても大丈夫?」
『もちろん。北村くんが来てくれるなんて嬉しいよ。よろしくね』
「ぼ、僕のほうこそ」

 それから明日のスケジュールを簡単に教えてもらい、僕は電話を切った。

「よかったね、北村くん! あたしまで嬉しくなっちゃった!」
「うん。ありがとう、冬花ちゃん」
「明日は楽しい日になるといいね!」
「そうだね」

 自分のことのように喜んでくれる冬花ちゃんが、僕は愛おしく思えた。

「よし! じゃあ、明日に乾杯しよ」
「ははは。じゃあ、お酒買ってくるね」
「お願いしまーす」

 そのあと、僕の出勤時間が迫るまで、二人で思う存分飲んだ。
 一つ屋根の下、べろべろに酔っ払った男女がいるというのに、呆れるほど甘い雰囲気になることもない。
 
 ......いつの間にか、コパンの姿は消えていた。