それは君が友達化しているからだ。一昨日は僕のことを無下にしたじゃないか。
 そんな嫌味が喉元までせりあがってくるが、当然口に出すことなどできない。

「北村さん、前にもそんなこと言っていましたよね?」
「え? ......あ、うん」

 宮越くんの頬は紅潮していて、濡れた瞳が僕をじっと射抜く。

「人から好かれることって、そんなに大切ですか?」

 思わずジョッキを取り落としそうになり、慌ててもう片方の手でジョッキの底を支えた。

「そりゃ、そうでしょ。他人から好かれないなんて、人として価値がない証拠だし」
「だいぶ偏っていますね。たしかに主任のことは気の毒ですけど......言っちゃなんですがどうせ派遣なんだし、こっちからクソ上司だと見限って転職したら良くないですか?」

 さすがにムッとした。
 普段なら気を使って言い返しはしないが、どうやら酒のせいで気が大きくなっているようだ。

「宮越くんは人気者だから、僕の気持ちなんてわからないよ」
「人気者? まさか。若いから、都合のいいように使われてるだけですよ」
「まさか。慕ってくれる友達だって多いでしょ?」
「オレ、友達いないんですよ。プライベートで飲みたくなったのは、北村さんが初めてです」

 勢いづいていた気持ちに急ブレーキがかかる。宮越くんは、はあ、と心底うんざりしたようなため息をついた。

「友達なんて、メンドーなだけじゃないですか。人間の悩みの大半は、たいてい人間関係なんですから」
「でも主任を飲みに誘ってたじゃない?」
「ああやってたまに誘っておかないと、オレもリストラ候補になっちゃうだけです」

 宮越くんは両手でゴマをする仕草をした。

「そう、なの?」
「はい。自分でも、だいぶ腹黒いと思いますけどね」
「そんな宮越くんが僕と飲んでくれるなんて、なんか光栄だね」
「少なくともオレは、北村さんのこと嫌いじゃないですよ」

 素直に嬉しかった。
 だけど同時に、これはヨルの魔術によって発せられた造り物(セリフ)なんだと僕は知っている。
 どこまでいっても、ここにあるのは偽りの友情なのだ。
 宮越くんは『本当の友達』......いや、『友達』候補になっただけのこと。

 あと八日間......こうして会話を重ねていけば、少しは親密にはなれるかもしれない。

 けれど心の奥底では、きっと僕らは『友達』止まりで終わるだろうという確信があった。
 どこか根本的なところで、僕と宮越くんは反発し合う磁石のように相容れないものが横たわっているような気がするのだ。
 冬花ちゃんの姿が脳裏をよぎる。
 この期に及んで、まだ彼女と接点を持ちたいと思うだなんて、おこがましい願いなんだろうか。

「だから、これからもよろしくお願いしますね」

 にっこりと微笑む宮越くんへ、僕は作り笑いをした。
 ごめん。君と飲むのは、きっとこれっきりだ。
 流れ出る嫌な汗とともにアルコールが抜けてしまったのかもしれない。
 意識はすっかりシラフに戻っていて、同時にこの場にいる自分に対して嫌悪感が襲ってくる。
 僕は一体何をしているんだろう?
 そろそろ帰ろうか、と言いかけた......その時だった。
 少し離れた席に座る、見覚えのある顔が目に止まった。

 冬花ちゃん。

 思わず腰が浮いた。
 今日は半袖の白シャツに黒いサロペットを合わせていて、昨日よりもボーイッシュな印象だ。両手で大きなビールジョッキを掴んでいるが、その表情は引き攣っているように見えた。
 彼女の隣には若い男が座っていて、馴れ馴れしく彼女の肩に手を回していた。一見真面目そうには見えるが、明らかに女慣れしている、といった様子だ。腕には派手なタトゥーが彫られていた。

 もしかして恋人か? と思ったが、昨日は友達と飲みに行くと言っていたはず。

 彼氏ならば、僕を誘おうとはしないだろう。
 男は相当酔っ払っているのか、ビールジョッキを片手に周りの目も気にせずゲラゲラと笑っている。
 近くのお客さんは、その声に驚いて振り返っては迷惑そうな視線を送っていた。
 冬花ちゃんも困ったように苦笑いしているが、止めようとはしていない。
 ここに来れば冬花ちゃんとまた一緒に飲めるかもしれない、などという期待がガラガラと崩れていった。
 やっぱり断ってよかったかもしれない。
 あんなにガラの悪い人と楽しく飲めるのは、宮越くんぐらいの社交性がなければ難しいだろう。

「どうかしたんですか?」
「い、いや」

 僕は宮越くんに言い訳をしながらも、冬花ちゃんから視線を離せずにいた。
 なぜ、こんなに彼女に惹かれるのだろうか。
 昨夜はじめて喋っただけの関係のはずなのに。
 このまま何事もなかったように帰るのが正解なのかもしれない。
 でも......。冬花ちゃん。僕に、気づいて。
 理性とは裏腹に、僕はそんなことを心の中で呟いていた。
 すると、まるで念が通じたかのように冬花ちゃんが不意にこちらを振り返った。
 視線を逸らす間もなく、彼女は少し驚いたように目を見張ったが、やがてその顔に笑みが広がっていき、親しげに手を振ってくれた。

 どきりと胸が高鳴る。

 無視するわけにもいかないので、僕も小さく頭を下げた。
 同時に冬花ちゃんの隣に座っていた男が、彼女の視線をたどって僕たちに気づいた。
 しまった、と思ったときはもう遅かった。男はすぐさま立ち上がると、

「あれ。オマエも来てたん?」

 弾かれたように、冬花ちゃんは男を、宮越くんは僕を見る。

「北村さん、あんなガラの悪い人と知り合いなんですか?」
「いや。えっと」

 その間にも、男はあれよあれよと冬花ちゃんの手を掴むと、我が物顔で僕の隣へ座ってしまった。

「せっかくだし、一緒に飲もうや」

 ドン、とテーブルが揺れるぐらいの力で、男はビールジョッキを乱暴に置いた。

「迷惑かけちゃだめよ、岡田くん」
「まあ、いいじゃん。ダチなんだし」

 冬花ちゃんから岡田と呼ばれた男はゲラゲラ笑う。冬花ちゃんは岡田さんと僕の顔を見比べながら不審そうに眉をひそめる。宮越くんも、助けを求めるように僕に視線を投げた。
 そんな顔で見つめられても、僕にはどうすることもできない。
 友達化が、悪い方へ効果を発揮してしまった。
 全員が着席したところで、岡田さんは豪快にビールを飲み下し、「来てたんなら、連絡しろや」と、馴れ馴れしく僕の肩を掴んだ。その様子を見て、宮越くんが戸惑いがちに、

「北村さんって、本当に顔が広いですね?」

 と尋ねてきた。

「まあ......うん......たまたま、なんだよ。本当に」

 冬花ちゃんも、小首を口元に指を当てて、小首を傾げた。

「すごい偶然ね」
「い、意外と世間って狭いのかもしれないね」
「え? お前、冬花とも知り合いなの?」

 岡田さんだけが状況を飲み込めていなかったようで、ぽかんしている。

「まさか、デキてるとか?」

 思わずビールを吹き出しそうになってしまった。

「そ、そんなわけっ......」
「まあ、冬花ちゃんは美人ですもんね」

 宮越くんまでもが、なぜか知った風な口ぶりで追い打ちをかけた。ちゃっかり彼女が持ってきたホットスナックまでつまんでいる。
 さすが工場一の社交性を持つ男だ。女性との距離を詰めるのが早すぎる。

「オマエら、冬花のこと狙ってんの?」

 僕の肩に手を回す岡田さんの力がぐっと強まった。

「まさか。オレは彼女いるんで」

 嘘か本当かは知らないが、宮越くんはさらりと追求を交わす。

「じゃあ、北村......だっけ。オマエは?」

 鋭い目が、さらに細められる。

「えっと」

 なんでいきなりそんな話になるんだろう。彼女と恋愛関係になろうなんてこれっぽちも考えてなかった。でも、今よりもっと仲良くはなりたいと思っていたのは事実だ。
 これって狙っていることになるんだろうか。

「全然、そんなつもりは」
「ならいいや」

 岡田さんはあっさり僕の肩から腕を外した。ほっと息をついたが、気まずくて冬花ちゃんの顔を見ることができなかった。

「じゃ、飲み直そうや」

 僕たちは促されるまま、ぎこちない乾杯をした。ほぼ初対面同士の飲みなんて、盛り上がるわけがない。
 こんなことになるなんて、全然予想していなかった。
 この状況に陥れたのは自分の責任のような気がして、胸の奥がチクチクと痛む。
 冬花ちゃんも、心なしか顔色が悪い。

「もっと飲めよ、冬花」
「もういいかな、あたしは」
「なんだよ、シケたこと言うなって」
「岡田さん、あんまり強要しちゃだめですよ」

 宮越くんがすかさずフォローしようとするが、彼はギロリとひと睨みするだけで、引こうとはしない。

「酔ったらおれが送ってやるから。ほら、北村もコールしろよ」
 その表情で、彼が最初から冬花を「お持ち帰り」しようとしていることが、いくら鈍感な僕でもわかった。宮越くんが縋るように僕を見る。「友達なら注意しろよ」と言っているみたいだ。
 情けないが、笑って誤魔化す。
 こんなに怖い人相手に、注意なんかしたら何をされるかわからない。

「ほら、イッキだよ。冬花」
 岡田さんは冬花ちゃんのジョッキに自分の飲みかけのビールを注いで、ぐいぐいと押しやった。冬花ちゃんの顔が険しくなっていく。向かい合う僕と、目が合った。
 その視線に射抜かれた瞬間、反射的に立ち上がった。

「帰ろう、冬花ちゃん」

 三人の動きが止まる。目を丸くして僕を見上げる冬花ちゃんと、面白そうにニヤつく宮越くん。そして......今にも襲いかかってきそうなほど、表情を険しくする岡田さん。

「冬花ちゃん、具合悪そうだし」
「何言ってんの、オマエ」

 直後、いきなり顔面に衝撃があった。一拍遅れて、冷たい、という感覚が顔中に広がる。
 慌てて拭うと、どうやらビールのようだった。無意識に鼻から吸ってしまったせいで、ツンとした痛みにたまらず呻く。

「ちょっと、岡田くん!」
「さすがにそれはだめですよ」
「こいつがシラけるようなこと言うせいだろ」

 信じられない。
 いくら酔っているとはいえ、いともたやすく人の顔にビールをぶちまけられる人がいるなんて。
 この人は、友達だろうとなんだろうと、気に入らない相手には手をあげる人なのだ。

 ヨルは犯罪者とも友達になる可能性がある、とも言っていたが、まさかこんなに早く現実になるなんて思わなかった。
 今までも、それなりに理不尽な目には遭ってきたが、こうして暴力を振るわれるのは初めてで、呆然としてしまう。

 そんな僕を尻目に、岡田さんは椅子を蹴り飛ばす勢いで席を立つと、肩を震わせて僕の胸ぐらを力強くつかんだ。

「なんだよ。文句があるなら言えや」

 酒臭い息が顔にかかって、反射的に顔をしかめてしまった。それを見て、岡田さんは激高したように右手を振り上げた。
 殴られる、と直感して、ぎゅっと目をつぶる。
 と、その時だった。

「おい、やめろよ」

 ハッとして目を開くと見知らぬ大学生ぐらいの男たちが、岡田さんの腕を掴んでいた。岡田さんはそのまま押し倒され、床に這いつくばる。

「なんだ、テメエら!」
「僕らの友達に何すんだ。警察呼ぶぞ!」

 警察、という言葉で、さすがに岡田さんも理性が戻ったのか、抵抗をやめた。僕も落ち着いて周りを見回すと、いつの間にか大勢のお客さんが僕らを取り囲んでいた。
 そうか。みんな、友達の僕を放っておけず、助けてくれようとしているのか。
 けれど傍目から見ればさぞ異様な光景に見えるだろう。
 宮越くんと冬花ちゃん、それに市外から来ているのだろうと思われるお客さんは、遠巻きに様子を見守っているが、ただならぬ様子に困惑しているようだった。

「君、迷惑をかけている自覚を持ちなさいよ」

 初老のおじさんが岡田さんへ野次を飛ばすと、あちこちから賛同の声が上がる。
 見知らぬ女性客は、不安そうな冬花ちゃんの肩を叩いて励まそうとしていた。
 友達化している人たちの存在はとても心強い。