「お友だち、いりませんか?」

 玄関ドアを開けると、麦わら帽子をかぶった少女が薄く笑いながら問いかけてきた。
 とても愛くるしい顔立ちをしているのに、大きな瞳は赤く爛々と輝いていて、
 どこか人間離れしたような薄気味悪さが漂っている。

「......あなた、誰ですか?」
「あ、申し遅れました」

 少女はうやうやしく頭を下げると、こちらに名刺を差し出してきた。
 そこには、『悪魔 ヨル』と印字されていて、あまりの胡散臭さに僕は顔をしかめる。

「宗教の勧誘かなにかですか?」
「いいえ。ヨルは、北村さんの望みを叶えるためにやってきたのです」
「はあ......」
「お友だちが欲しいんですよね?」

 再び彼女が口にした友達という単語に、無意識に体が強張る。
 そんな僕の反応に、ヨルと名乗る少女は唇の端を吊り上げて笑った。

「悪魔契約って、ご存知ですか?」

 僕は大げさにため息をついた。
 やっぱり、さっさと死んでおくべきだったのかもしれない。
 
 × × ×

 時間は少し、さかのぼる。
 
 午前二時。真夜中の食品工場。
 天井に並んだ青白い蛍光灯のせいで、工場内は昼間以上に明るい。
 壁にかかった時計を見るたびに、体内時計が破壊されていくような感覚がする。
 僕は作業場の隅っこで、黙々とコンビニ弁当用のトンカツを一口サイズに刻んでいた。
 何百と積み重なったトンカツがまな板の上に山積みとなっている光景は、もはや食品というより、ただの生ゴミのようだ。
 ちらと背後に並ぶ同僚たちを振り返ると、みな一心不乱に作業に没頭していた。
 この工場は一人ひとりに課せられるノルマがとても厳しいので、目標に届かなければ容赦なく叱責が飛んでくるし、成績によってはすぐクビになる。

 それが怖くて、社員たちは無心で包丁を握る。
 でも、トンカツの山はどうやら僕が一番高い。マスクの下でほっと息をつく。
 この工場に派遣社員としてやってきてから、半年。
 エージェントから聞かされていたような、「楽しくて働きやすい」職場とはほど遠いが、仕事は慣れてしまえば単純だし、他人とコミュニケーションを取らなくても怒られることはないので、いまのところ僕は満足していた。

「そろそろ休憩にしない?」

 同僚の一人が気だるそうに呟いた。その一言で、作業場にいた全員が手を止める。
 緊張感に包まれていた空気がふっとゆるみ、今まで無言だった社員たちがぽつぽつと私語を交わし始めた。
 『日替わり弁当班』は、僕を入れて五人チームだが、全員二十代ということもあって気が合うようだ。
 連れ立って作業場から出て行く四人を、僕は慌てて追いかけた。
 当然のように、誰も僕に声をかけてはくれない。

 手狭な休憩室は、すでに社員たちでいっぱいだった。あちこちから声が飛び交って、とても騒々しい。
 仕事中は私語が禁止されているので、解放感があるのだろう。
 部屋の中央あたりに、防護服を脱いだ同僚たちが向かい合うようにして座っている。
 四人は笑いながら夜食を頬張っていて、うわさ話に花を咲かせているようだ。
 僕は彼らから少し離れたところに腰をかけ、ロスになった弁当を箸でつつきながら様子を窺う。
 
 ......一緒に食べてもいいですか?
 
 今日こそは、そう声をかけようと決めていた。
 友達になってほしいだなんて贅沢は言わない。
 だけど、休憩時間ぐらいは誰かと過ごしたい。
 
 半年間......いや。二十三年間友達のいない、僕のささやかな夢。

 どのタイミングで声をかけたらいいだろう。
 もうすでに食事は始まってしまっているし、この状況で声をかけるのは不自然だろうか。
 いや、でも、こうやってビクビクしているから、いつまで経っても一人ぼっちの日常が変わらないんじゃないか。

 行け、北村太一。勇気を出すんだ。

 だけど僕が腰を浮かしたタイミングで、休憩室に人が入ってきた。
 工場で一番人気の宮越くん。
 同僚たちは彼に気づくと、

「宮越、こっち来いよ」

 と、親しげに手招きをする。宮越くんは愛想のいい笑みを浮かべ、彼らの近くの席に腰を下ろした。
 僕は机の下で小さくガッツポーズをした。
 宮越くんは、三ヶ月前に僕と同じ派遣会社からやってきた後輩だ。
 日焼けした色黒い肌に、百八十センチ超えの長身かつ筋肉質な逞しい体を持つ好青年で、
 仕事の覚えも早く、社員として引き抜かれるんじゃないかと噂されるほどのデキる男。
 今は別々の班に所属しているが、入社初日に僕が工場を案内してあげたため、いまでも時々挨拶を交わしてくれる。

 社交的な宮越くんなら、僕を会話に入れてくれるかもしれない。

 よし、行くぞ。

 僕は深呼吸をし、弁当を持って席を立つと、ゆっくり宮越くんに近づいていった。
 緊張のあまり、心臓がはちきれんばかりに鼓動を打っている。

「あの」

 僕が声をかけると、宮越くんは顔をあげた。

「北村先輩。お疲れ様です」
「う、うん。おつかれ......」
「どうかしたんですか?」

 会話に気づいた同僚たちが、興味深そうに視線を飛ばしてくるのがわかる。
 僕はすぅっと息を吸い込み、頭の中で何度も練習したセリフを言った。

「ぼっ、僕も、ここに座っていい、かな?」
「えっ? ......なんでですか?」

 バクッと心臓が飛び上がった。
 なんで?
 なんでって......理由がなきゃ、だめなのか?

「なにかありました?」
「............そういうわけじゃないんだけど」

 僕を見上げる宮越くんの表情が曇っていく。
 最悪だ。
 まさか断られるなんて予想もしていなかった。
 ちらっと横目で同僚たちを見やると、彼らは面白そうに含み笑いを浮かべていた。
 僕が玉砕したのを見て楽しんでいるみたいだ。
 首筋に冷たい汗が滲む。

「いや、その。ごめん、僕、空気読めないから」
「はあ」
「僕みたいなやつが、何を言ってんだって感じだよね。図々しかったっていうか」
「いや。オレのほうこそ、なんかすみません。先輩とあんまり絡んだことなかったから、ちょっとびっくりしたんです」
「そっか。そう、だよね」

 重苦しい沈黙がのしかかる。
 これ以上言い訳したところで虚しいだけだ。恥ずかしさと惨めさで、消えたくなった。
 自分がそこまで嫌われている存在だったなんて。ぎゅっと、弁当を持つ手に力が入る。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

「でも、せっかくですし、座ってくださ......」
「おい、北村」

 突然、僕らの会話をぶった切るように、後ろから野太い声が聞こえた。
 振り返ると、上司である鬼塚主任が半身をひねるように座ったまま僕を睨んでいた。
 カッターで切ったような細い目で睨まれたら最後、難癖をつけられて退職に追い込まれると評判の恐ろしい男。

「な、なんでしょうか」
「てめえ、作業場片付けないまま、休憩入ってるだろ?」
「えっ? でも、それは他の人も一緒で......」
「うるせえ!」

 休憩室に響き渡った罵声に、社員たちの視線が一斉に僕らへ集まる。

「口答えすんじゃねえぞ、派遣のくせに」

 ああ、また始まった。こうなったら、主任の説教は長い。
 機関銃のように、次から次へと罵詈雑言が飛び出してくる。

 きっかけは、些細なミスだった。
 三ヶ月前に、主任の前で食品が入ったケースをうっかりひっくり返して、中身をダメにしてしまったのだ。
 すぐ謝ればよかったものの、僕は主任の前ということもあって萎縮しきってしまい、パニックになって苦笑いをした。
 それが主任の逆鱗に触れた。ヘラヘラしてるんじゃねえ、という怒鳴り声は、工場中に響いたことだろう。
 それからというもの、主任は何かと僕に辛く当たってくる。

 最初こそ、僕が悪かったのだと意気消沈していたが、やがてただのサンドバッグにされているだけだと気がついた。
 でも、言い返したら最後。本当にクビになりかねない。
 派遣社員なんて、権限のある社員の一声で簡単に飛ぶことは身にしみているのだ。
 新しいサンドバッグが出来るまでの辛抱。
 僕は下唇を噛んで、主任の気が収まるのをじっと待った。
 だけど......なにもこんな公開処刑のようなことをしなくてもいいのに。


「まあまあ、主任。そこまでにしておきましょうよ」

 僕らの様子を見ていた宮越くんは、さりげなく席を立って主任の隣へ座った。

「それより、オレらの班のミキサーが壊れちゃったみたいで。主任だけしか直せる人いないから、あとで見てくれません?」
「ああ?」

 主任は不機嫌そうに宮越くんを睨んだが、彼は意に介さず「ね、お願いします」と、アイドル並みの爽やかな微笑みで応えた。

「ちっ。しょうがねえな」
「さすが主任! このまま、休憩も一緒にしてもいいですか?」
「いいけど、うるさくするんじゃねえぞ」

 一番騒がしくしていたのは自分だということは、もうすっかり忘れているようだ。
 僕らを眺めていた社員たちも、ショーは終わったとばかりに、すみやかに自分たちの世界に戻っていく。
 力を込めすぎて蓋が潰れてしまった弁当から、肉汁がぽたぽたと垂れ落ちる。
 食欲はすっかり失せた。
 ゴミ箱に弁当を突っ込み、そのままトイレで時間を潰した。

 × × ×

 最寄り駅の改札をくぐると、早朝の空には厚い雲がまだらに広がっていた。
 かすかな雨の匂いと、まとわりつくような湿気で清々しい朝とは言い難い。
 仕事終わりの気だるい体を引きずるように、小走りで自宅のアパートまで急ぐ。
 僕が生まれ育ったこの藤島市は、人口十万人程度の中都市だ。
 大した伝統も歴史もないが、夏になると海水浴会場が開かれるため、観光客が大勢訪れる。
 そのおかげで中心地はやや栄えているものの、観光スポットから外れたこの辺りは、
 ぽつぽつと古びた民家と、小さな畑が並ぶだけの寂しい土地だ。
 子供の頃は都心に出て行きたいと思ったものだが、人間関係に臆病な僕は、
 新たな一歩を踏み出すのが恐ろしくて、ズルズルとこの地にかじりついている。

 まあ、どこにいたって僕は爪弾きにされるのだが。

 入り組んだ路地の間を縫うように歩きながら、息をつく。
 今日はあまりいいことがなかった。いや......今日も、か。
 幸い今夜は休みだが、明日からのことを考えると気が重たい。
 鬱々とした気持ちを抱えたまま急な坂道をのぼっていると、やがて大きな家が見えてきた。
 平均的な一戸建てがすっぽり三軒は入ってしまいそうなほどの広い敷地に、西洋風の屋敷がデンと建っている。
 まだ新築なのだろう。白い外壁が真新しい。

 絵に描いたようなド田舎の風景に、どう見てもミスマッチな高級住宅。
 一体どんな酔狂な人が建てたのだろうかと、僕はこの家の前を通るたびに首をひねる。
 おしゃれな表札には『浅利幸恵&冬花』と刻まれているので、母娘二人暮らしなのかもしれない。
 それを知ったところで、僕のような人間とは一生縁はないのだろうが。
 通り過ぎざま、何気なくフェンス越しに家の中を覗く。
 すると、パジャマ姿の若い女性がジョウロを持って庭に立っているのが見えた。
 どうやら花壇に水やりをしている最中らしい。
 顎のあたりで切り揃えられた黒髪のショートヘアから見える横顔は、化粧っ気もないのに遠目からでも美貌が際立っている。ファッション誌から切り取ってきたような、長身の美女だ。
 自分の胸がドキッと高鳴るのを感じる。
 彼女を見かけたのは初めてではないが、その姿を見かけるたびに、心臓がきゅっと跳ねる。
 いけないと思いつつも目が離すことができなくて、つい足を止めて見入ってしまった。
 すると、僕の気配に気づいた彼女が、不意にこちらを振り返った。

 しまった。目が合ってしまった。

 じわじわと、彼女の顔が歪んでいく。まるで気持ちの悪いものでも目撃したかのように。
 今にも叫ばれそうになって、逃げるように立ち去った。
 
 アパートに駆け戻って部屋の玄関ドアを閉めると、ようやく一息つくことができた。