部活の引退を機に、大地は時折涼の自宅へ訪れるようになった。勉強時間は取れているのかと心配したものだが、息抜きだよと言われてしまえばそれ以上はなにも言えない。会わずにいた日々を埋めようとしているのだと分かるから、余計に。
 それでも高校卒業後の進路を第一に、と約束した。時には勉強道具を持ちこんだ大地と、ただ一緒にいるだけの日もあった。そんな時は涼は隣で読書をし、勉強内容が国語関係ならそれなりに手伝うこともできた。
 涼が取っておいた漫画誌を大地は少しずつ読み進め、その都度感想を共有した。この号の分を頂戴とせがまれては、大地のノートの端っこに白くまを落書いた。
 テーブルの上に並べたスマートフォンには、それぞれに少しくたびれてきた鈴のストラップ。それから、涼が作る焼きそばやカレー、勉強の気晴らしにと出かけたコンビニでアイスクリームを買って食べたりもした。一度、康太と柊を招いて、四人で鍋をしたこともある。
 そんな日々にひとつ問題があったとすれば、どうしても触れ合うことを我慢できなかったことだ。まだ付き合えないねと確認し合うのに、抱きしめて、髪や頬にキスをして。もたげそうな欲にもうやめようと毎回思っても、また顔を合わせれば一緒に寂しさを持て余して、埋めるように体を寄せあった。


 少しずつ思い出は積もって、新しい季節がまた巡ってくる。暦の上では春でも、まだまだ肌寒い三月。三毛音書店では先月頃から、本や図書カードのラッピングの依頼が増えている。リボンに込められる想いは、門出への祝福だ。
 新しく入荷した小説を陳列する涼は、ちらりと時計を確認する。大地は今頃、一生に一度しかないその瞬間を噛みしめていることだろう。あまり大事にできなかった当時の自分を少し悔やみ、けれどその道で辿り着いた今を誇りにも思う。大地が今日をどう過ごすとしても、振り返る度にあたたかい心地がする一日になりますように。そればかりを願う。
 夕刻。そろそろ退勤の時間になる涼は、最後にもう一度と棚を見て回る。積み重ねた文庫本を揃え直し、隙間があれば在庫を補充する。
 今日のところはこんなものか。切り上げようとした涼に、いつの間にか背後にいたらしいひとりの客から声がかかった。

「すみません、――って置いてますか。今日発売なんですけど」

 第一声だけで誰だか分かってしまった。まるで初めて訪れた書店で、見ず知らずの書店員へ尋ねるかのようだ。つい笑いながら、涼は振り返る。

「その雑誌なら、入口のところの棚にあります。でも……お客様にはオレが昼に買ったやつ、差し上げましょうか?」
「いいんですか? でも……今日は最後なので。自分で買います」
「……分かりました。じゃあこちらへ」

 かしこまったままの自分たちが可笑しくて、涼と大地は同時に吹き出す。それからレジへ向かい、一冊の漫画誌を会計する。

「三百五十円です」
「じゃあ五百円で」
「お釣りです。あ……ちょっと待った」
「…………?」

 お釣りと共に渡そうとしたレシートを、けれど涼は一度手元に戻す。エプロンのポケットに差していたペンをとって、そこに描くのは白くまと、それから桜の花びら。

「卒業おめでとう、大地」
「やったー! ありがとうございます!」

 祝福の声は思いのほか大きくなっていたようで、近くにいた同僚たちが集まってくる。皆が虹野高校の野球を応援した夏があるから、大地への祝福はなかなか止まない。照れくさそうな大地の笑顔に、胸元に飾られた祝福の花がよく映えている。


「大地」
「涼さん、お疲れ様っす」
「はい、ココア。高校三年間お疲れ様。それから、卒業おめでとう」
「ありがとうございます。じゃあ俺からははい、今日の飴はいちご味です」
「いつもさんきゅ」

 ベンチに並んで腰を下ろす。この公園内にも桜の木はあるが、あいにく花が咲くにはまだ早い。

「涼さん、これもう読みました?」
「うん、昼休みに読んだ」
「俺も待ってる間に読んじゃいました。すっげーいい終わりだった」
「オレも思った。最後の最後までいい話だったな」

 涼と大地が出逢うきっかけになった漫画誌を、大地が膝の上でそっと撫でる。
 ふたりが気に入っている漫画は、奇しくも大地が高校を卒業する今日の日に最終回を迎えた。壮大なストーリーは時に切なさも孕みながら、美しい終わりが用意されていて。最後だからと大地が購入したのは正解だ、と涼は思う。

「ねえ涼さん」
「んー?」
「俺、あんまり本読むタイプじゃないんです」
「そうだな」
「はい。だから、一番お気に入りの話も終わっちゃったし、もうなかなか本屋には来ないかも」
「うん」

 オレンジの空色が風に混ざって、ふたりの間をくるくると吹き回る。まだまだ寒いはずなのに、どこからか甘い香りが鼻をくすぐる。

「そしたら店員さんと客でもなくなっちゃうんすけど、どうしますか? ちなみに俺は絶対に嫌です」
「……ふ、お客さんかわいいですね。白くまみたいな感じ」

 大地がなにを言おうとしているのか、手に取るように分かる。それをわざと勿体ぶった言葉遊びが、くすぐったくて楽しい。ベンチの隙間をひとつ埋める。両手を座面についた大地がくすくすと笑みながら、涼の顔を覗きこむ。

「店員さんは猫みたいっすね」
「うん。なあ大地」
「はい」

 伝えたいことがたくさんある。自分を信じられる気持ちをくれたこととか、楽しくて仕方ない日々へのありがとうだとか。けれどとりあえずは、待っていてくれた十八の君へ。差し出したい気持ちが、今か今かと泣いている。

「好きだよ。大地に出逢えてよかった。待っててくれてありがとうな」
「涼さん……うう、オレも大好きです」
「ふは、泣き虫」
「っ、だってー……もう~かっこよく決めたかったのに、嬉しすぎて無理」

 不貞腐れた顔を濡らす雫に手を伸ばす。美しいそれが自分のために流れるなんて、これは宝物にちがいない。

「すげーかっこいいよ。……大地」

 制服の袖を引いて、そっと顔を近づける。それだけでなにがしたいか分かってくれる、大地がまぶたを閉じるスローモーション。この瞬間を絶対に、一生忘れない。
 合わさったくちびるがあたたかくて、今度はふたりで泣いて、それから笑う。ひとつになった想いを守り続けることが、これからの幸福なのかもしれない。

 
「涼さんち行こう! ねえ早く!」
「おい大地、どうした」

 二回目のキスをした後、大地は跳ねるように立ち上がった。呆気に取られて見上げる涼を、急かすように腕を引く。

「どうした、ってだって俺、もう無理っす」
「…………? なにが?」

 本当になにも分からず首を傾げた涼を、大地はきゅっと抱きしめた。そして耳元にくちびるを寄せてささやく。ここにはふたりしかいないのに、それでも潜められた内緒に涼の体は支配される。
 うん、オレも。そう言ってやりたいのに。はくはくと瞬くことで精いっぱいのくちびるは、役立たずだ。

「涼さんが彼氏になったから。我慢できないこと、したいです」