降り注ぐ桜は一瞬で、新緑の香りを梅雨がさらい、雷の報せで夏はすぐにやって来た。
青春はあっという間だと無責任に大人は言う。実際に自分が振り返る年頃になると、そう感じることがでいる。だが青春真っ只中の日々で、一日一日を大切にするのはなかなかに難しい。けれど彼らは、一度でも敗退すれば終わりだと知っている彼らは――同年代の他の者たちより、しっかり噛みしめて過ごしているのかもしれない。スマートフォンに映る試合を見ながら、涼は思う。
七月に入って間もなく、高校野球の地方大会が始まった。百校は優に超える参加校。そのトーナメントから聖地への切符を手に出来るのは、たった一校。シビアな現実。そのひとつを勝ち取るため、各々が練習に明け暮れてきたのだろう。
――三毛音書店、昼の休憩室。まずは一勝をあげた虹野高校に、涼は小さくガッツポーズをした。
また応援に来ないかと康太は誘ってくれた。たくさん悩んだが、球場には行かないことに決めた。
あの春の日、グラウンドの大地と目が合った気がしたのは、もしかすると勘違いではないかもしれない。大地の決意をこの手で台無しにするようなことは、絶対にしたくない。幸いにも、すべての試合が専門のアプリで中継されている。これを通して懸命に応援すると涼は決めたのだ。
「戻りました」
「あ! 猫田先輩!」
「うお。どうした?」
「虹野高校どうでした!?」
「ああ。勝ったぞ」
「よっしゃ! 先輩! ハイタッチ!」
「漫画予約してた子の学校だっけ? よかったじゃん」
「っす」
春からこっち、涼と同僚たちとの仲は確実に深まっている。業務上の会話のみと一線を引いていたのは涼で、少し勇気を出してみればなんともあっけないものだった。前からもっと話してみたかっただとか、素直になれんじゃん、だとか。仕事も格段にやりやすく、そしてより楽しくなっている。天職だと言ったっていい。務めだして何年経っているかを考えると、今更以外のなんでもない。だが感謝する相手が大地だから、まあいいじゃんと思えたりする。
仲間たちの間では、その大地も有名であったらしい。あの高校生が来店すると涼の表情が和らぐ、なんて言われてしまった。居た堪れなさに顔を真っ赤にしてしまったのは、思い出しても恥ずかしい。そんな仲間たちは、甲子園をかけた地方大会を第一戦目から気にかけてくれている。
虹野高校は順調に、二回戦も勝利。三回戦目はちょうど休日と重なって、涼は自宅でひと目も逸らさず熱心に応援した。ひとりの部屋でのガッツポーズは思わず大きな声が出たし、画面に映し出された大地の嬉しそうな顔を思わずスクリーンショットで収めた。
そうして迎えた四回戦。開始予定時間は十四時。準々決勝まで進めていることが、喜びと共に緊張をも涼に齎している。仕事はちゃんと集中、と自身を律しても、ふと気を抜くと時計を確認してしまう。それに気がつくと咎めるのではなく、そわそわしちゃうねと同調してくれる店長や同僚たち。
いよいよ十四時が近づくと、休憩とっちゃいな、との皆の厚意に甘えさせてもらい、プレイボールの瞬間を見届けることができた。虹野高校は後攻、先攻である相手は優勝候補に名が挙がっている強豪校だ。球場に漂う緊張感が画面越しに伝わってきて、涼も固唾を飲んで見守った。
その後は誰かが休憩に入る度、作業をしている涼の元へとやって来て途中結果を教えてくれた。回が進むごとに虹野高校への声援は、今やこの書店に務める者全員から聞かれるようになっている。それにもまた涼は胸が熱くなる。
2-0、2-3、4-4――全イニングを把握することはもちろん叶わないが、聞く度に獲って獲られてと接戦が繰り広げられていることが分かった。これではいけないと思いつつも、どうしても仕事が手につかなくなってきた。茹だるような暑さのせいか、客足も引いている七月の昼下がり。そわそわと落ち着かないでいると、バックヤードから顔を出した店長と目が合った。口元に添えた手で小さく涼を呼び、急いでと手招かれる。
備品のパソコンに、中継映像が映し出されている。九回の表を無失点で抑えた柊の元に大地が駆け寄り、ベンチへと二人で走ってゆく姿が。点数は5-4。次で2点入れれば勝利、もしくは同点まで追いつけば延長戦へと持ちこめる。
実況をするアナウンサーは、強豪校である相手校がここまで接戦を強いられるとは、と虹野高校へ称賛を送っている。どちらに転んでもおかしくない、そんな状況だ。
「すごくいい試合してるね」
「……ですね」
「この裏が終わるまで猫田くんは休憩ね」
「え……いやでも」
「いいからいいから。猫田くんが見届けてあげないでどうするの。ね?」
僕は嬉しくてね、最近の猫田くん見てると。
店長はそう言って、店舗のほうへと戻っていった。店長とはもう付き合いも長く、高校生の頃の涼のことも知っている。なにを言わんとしているか、その微笑みだけで涼にはよく分かる。ツンと痛む鼻、けれど今は泣いて堪るかとくちびるを引き結ぶ。
間もなく始まった九回の裏。この夏に賭ける想いは、どの学校にも優劣などない。皆が瞬間瞬間に魂を宿している。
ストライクとボールが入り乱れツーアウト、走者は二塁にひとり。打者は四番の選手で、二回戦にはホームランを放っている。絶好の機会に、涼はついに両手を組んで祈る。ワンアウト、ツーアウト。一秒一秒が永遠のような緊迫感の中、小気味いい音が球場に響き、白球は大きな放物線を描く――
二十時の閉店までの勤務を終えた涼は、夜空に向かって深い息を吐いた。一緒だった後輩とお疲れ様と労い合い、帰途につく背を見送る。さあ、オレも帰ろうか。一歩踏み出しながらも涼は、目の前の公園へと目を向ける。水曜日じゃなくたって自ずとやってしまう、癖みたいなものだ。
今夜もまた、誰もいないベンチに胸を切なくして帰る。そのはずだったのに。目に映る光景を疑わしく思いはしても、見間違うことはない自信があった。
「っ!」
たった数メートルの距離を、これほど恨めしく思ったことはない。タイミング悪く、立て続けに車が二台通る。足踏みをしながら過ぎ去るのを待ち、やっとのこと駆け出す。公園入口の車止めすら煩わしい。舌打ちをしつつかわしようやくたどり着く、何度も座ったベンチ前。ああ、気が急いたのになにを言ったらいいか分からない。
今日という日を終えた大地に会えるなんて、思ってもみなかったから。
「涼さん、お疲れ様です。来ちゃいました」
「大地……」
「あ、そうだ、飴どうぞ。さっき買ってきたんです」
「…………」
手渡されたのは、レジ袋いっぱいに詰まった棒つきのキャンディ。いつもこの場所でおしゃべりをする時、涼からのドリンクと交換するように渡してくれていたのと同じものだ。会わずにいた日々を埋めるような数。ああ、それでもやっぱり、気持ちに言葉が追いつかない。
「あ、飲みものなら要らないですよ。急に来ちゃったんで」
肩を竦めておどける顔は、どこかすっきりしているようにも見て取れる。今日の今日でそんな風になれるものだろうか。同じ経験などしたことがないのだから、涼には想像すら難しい。
九回の裏。一点の差を詰めることが出来ず、虹野高校は惜しくも準々決勝での敗退となった。両校の挨拶後、喜びにあふれた笑顔でベンチに帰る相手校と、肩を落とし足取りの重い虹野高校。対比は残酷なまでに色濃かった。どっちが勝つか最後まで分からない、いい試合だった。けれど、だからこその悔しさだってあるだろう。
そんな大地に、キャプテンとしてまとめ支えてきたチームに今日で終止符を打った大地に、かける言葉が見つからない。お疲れ様、頑張ったな、いい試合だったよ――どれも正解のようなのに、どれもしっくり来ない。
なにも言えずにいるまま、それでもせめてと大地の髪に手を伸ばす。もう何度、こんな風に撫でただろうか。優しくさせてくれる、甘やかさせてくれる、そうやってまた自身も大地に甘やかされている。
何度も何度も撫でていると、嬉しそうだった大地の瞳が少し伏せた。くちびるがきゅっと引き結ばれる。それから今度は、涼の腹に大地の頭がぽすんとぶつかった。すり寄るような仕草に、思わずそのまま抱きしめる。
「負けて悔しいけど、やり切ったって思える試合ができたから、清々しくもあったんです」
「うん」
「最後のミーティングではうるうるしちゃいましたけどね。帰りには、三年の奴らと銭湯行ってきました。それで、家帰ったら母ちゃんがから揚げ山ほど作ってくれてて、いっぱい食って。いい日だった」
「うん」
「でも……」
大地の両腕が涼の腰に縋りつく。大きく震える深呼吸がシャツ越しに染みこんできて、涼は腰を折り曲げもっと大地を抱きしめる。
「かっこよかったよ、大地。すげーかっこよかった」
「涼さんに撫でてもらったら、あー……涙止まんない」
「うん。それも全部かっこいいよ。大地が頑張ったから泣けんだ」
涙が止まらないのなら、いつまでだってこうしていてあげたい。確かめるみたいにたまに見上げてくる瞳に微笑んで、髪を撫でて。おずおずと腕が解かれる頃には涼のシャツはずいぶんと濡れていて、大地が申し訳なさそうにするからまたくしゃくしゃと撫でた。
「涼さん、こっち」
「ん……」
腕を引かれるまま、隣に腰を下ろす。また涼に腕を巻きつけて、大地は涼の肩で額を揺らした。途端に空気が甘くなる。
「っ、大地?」
「涼さん……会いたかった」
頬が重なって、髪が混じり合う。久しぶりの大地の体温に胸が鳴いて、一気に涙がこみ上げる。
大地の気持ちはどうなっているだろうと、自信を失くす日が何度もあった。毎日大地を見つめる女の子たち、そばにはいつだって仲間がいて、一心に野球に打ちこむ日々。
大地の心の行き先を決めるのは大地だけの特権だから、例え失くなっていたって仕方ない、なにより、先延ばしにしたのは自分だと戒めていた。
それでも大地は変わらず、絞り出すようにしてそう言うのだ。
「オレも会いたかったよ」
そう言うと大地は腕を離し、今度は額を合わせた。くらくらするほどの距離に息を飲む。
もしも、もしも今、好きだと言われたら。絶対に「オレも」と応えてしまう。そんな予感に内心慌てはじめた時――ぐう、とかわいらしい音が大地の腹から響く。目をぱちくりと瞬かせたのは、ふたり同時だった。
「えー……普通こんな時に鳴ります? めっちゃかっこ悪い! 恥ずい!」
「ふ、あはは!」
「涼さーん……笑わないでほしいっす」
「ごめんごめん、でもやっぱ大地……お前かわいいな」
「嬉しくない……」
「はは、まあいいじゃん。てか腹減ったの? から揚げいっぱい食ったんじゃなかったのか?」
「球児の食欲底なしなんで」
甘い空気は跡形もなく消えてしまって、大地はそれが不満なのだろう。けれど涼にしてみれば、ふくれっつらさえ愛おしい。
「マジかあ。なんか食う?」
「……涼さんの焼きそば食べたい」
「焼きそば? あの時のか。じゃあ、うち来る?」
「っ、いいんすか!?」
笑顔が戻った大地をもう一度撫で、ふたりで立ち上がる。材料は切らしているからスーパーに寄ろう。いつもの生活に大地が入ってくる感覚がして、どこかくすぐったい。
この公園で過ごしたのに、まださよならじゃない。たったそれだけのことで浮足立つ自分を、涼はよく分かっている。
「座ってりゃいいのに」
「いいんです」
野菜と肉をカットして、フライパンで炒める。次に麺を入れて……と調理している最中、涼の隣にはぴったりと寄り添うように大地が立っていた。包丁を握る時は危ないと言ったし、炒めている今も正直なところ腕が当たってしまうのだが。眉をしゅんと下げてここにいたいと言われてしまえば、それ以上はもうなにも言えなかった。
「大地はたまご好きか?」
「たまご? 好きっすよ」
「じゃあ今日は特別に、目玉焼き乗っけてやる」
「え! やった!」
焼きそばがそろそろ出来上がりそうなところで、もうひとつのコンロに小さいフライパンを乗せ、目玉焼きをふたつ焼く。この二年半、虹野高校で野球に没頭した大地へのささやかな労いだ。
皿によそって、箸は大地にしまってある場所を教えて用意してもらった。ローテーブルを囲んで、いただきますと手を合わせる。
「うう、美味い……生きててよかった」
「ふは、大袈裟だろ」
「いや、マジっす。涼さんの料理、一年以上ぶりだしなんか泣きそう」
大地はそう言って、ひとくちひとくち噛みしめるような顔をしながらぺろりと平らげた。夕飯にたくさん食べたらしいから揚げは、どこに消えてしまったのだろう。大地の言う球児の底なしの食欲とやらを、目の当たりにした気分だ。
自分が洗うと言ってきかない大地をなんとかなだめ、食器を洗ってリビングへ戻る。大地の大きな体が、テレビボードの前で丸まっていた。そこは、大地への想いを集めている場所。じんわりと灯る頬の熱を感じながら、涼も隣に腰を下ろす。
「白くまも野球の本も増えましたね」
「そうだな」
「涼さん、雑誌は読んだら捨てるって言ってたのに。たくさんある」
「それは……大地が読むかなと思って。昨年の夏から捨てられなかった」
うう、と唸って、大地はベッドにぼすんと顔を伏せた。そろそろと左目だけを覗かせる大地の、頬に映える淡い赤。見惚れてしまっていると「涼さんもこっち」と手を引かれた。同じように頭をベッドに預ければ、ぐっと距離が近づいて。ふたりの間で重なったままだった手に、大地の指がゆったりと絡んでゆく。たくさんの仲間の夢を守った、ごつごつとした大きな手だ。目の前でそうされると、体の奥から熱い吐息が零れてしまう。
「一年会ってなかったのにすぐ撫でてくれたし、こうやって毎日の中にも俺はいられたのかなって。嬉しいです」
「……うん、ずっと応援してた」
「へへ、やばい……ねえ涼さん。俺、人間関係が終わるのは慣れてる、って涼さんが言ったの、ずっと覚えてて」
「え……あー、うん。言ったかも」
出逢って初めて迎えた冬の日の、公園で交わした会話を涼も覚えている。名前で呼んで呼ばれてと、大地が進めてくれた関係もあの日がきっかけだ。そんな時に零してしまった弱音は、今も大地の手のひらに乗せられていたらしい。切なさと喜びがいり混じって、涼は深く深呼吸をする。
「なんかあったのかな、涼さん優しいのになんでって考えてた。それなのに俺、急にもう会わないって離れて。同じことしちゃったよなって」
「大地……」
司書の教諭に、大地が図書室に来たと聞いたのを思い出す。高校生の涼がよくひとりでいたと知って、優しい人が喧嘩だなんて辛かっただろうと胸を痛めて、もしかすると“自分も涼をひとりにした”と悔いたりしたのだろうか。
なあ大地、それは違うよ。包みこんでくれる少年を、それなら自分はもっとそうしてあげたいと強く思う。
「オレ最近さ、店のみんなと前より仲良くなれたんだ」
「……そう、なんすか?」
「おう。あとはうちの店、前から虹野に配達もあんだけど、それずっと逃げてて。でも、こないだの冬から行くようになった。このままじゃだめだなって。なあ大地、大地がキャプテンを真剣にやるために決めたこと、オレが昔ひとりだった理由と同じなんて思ったことは一度もねえよ。むしろ覚悟決めた大地見て、オレも変わらなきゃって思えたんだ」
「……っ」
指の一本一本を確かめるみたいに、手をきゅっと握り返す。照れくさい笑みが零れてしまいそうだったから、その手を引き寄せて隠れる。
「なにかをやり遂げた後ってさ、それでもああしとけばよかった、こうしとけば……って思うこともあると思う。でも大地、お前がキャプテンやったこの一年、オレのことで悔いることはなにもない。オレはお前がいたから頑張れたし、大地のおかげで見られてる新しい景色があるし、それこそ死にそうに寂しくても踏ん張れた。……あー、まあ、ちょっと? 結構? ズルもしたけどな」
照れ隠しに、焼けた手の甲を親指で撫でながらそう言うと、大地は上半身をがばりと起こした。その勢いで、涼の体がベッドの下へとずれ落ちる。頭をぶつけてしまうかと思ったが、大地の大きな手が庇ってくれて衝撃は回避することができた。
「っ、あぶねー……」
「涼さん……」
「あ……」
けれどすぐに、別の衝撃がやってくる。いつの間にか、押し倒されたかのような体勢になってしまった。左にはベッド、すぐ右にはローテーブル、見上げれば大地がいて。逃げようにも叶わない状態なのに、追い打ちをかけるかのように大地が跨ってくる。
「大地? あの」
「涼さん優しすぎて、俺どんどん甘えたくなる」
「……うん、いいよ。オレはお前に優しくできるのが、すげー嬉しいし」
「っ、もおー、泣きそう」
「ふは、どうぞ」
潤んだ瞳を堪えるように、大地がくちびるを引き結ぶ。その表情のいとおしさに、涼は片手を伸ばした。まぶたの下を撫でると、大地の手が重なる。またここに入れてと甘えてくる指に、今度は涼から絡める。
「ねえ涼さん、ズルって何のことですか?」
「え? あー、それは……」
「配達に来た時に、いつも見ていてくれたことですか?」
「は……お前、気づいてたのか!?」
微笑みで頷いて、大地は涼の手のひらへキスをひとつ。そのまま向けられた視線に、囚われる。
「スポーツドリンクの差し入れ貰うのも絶対同じ日だったから、あれも涼さんでしょ。春の試合、観に来てくれたのも知ってる。全部すげー嬉しかった」
「あー……マジか。うわ、恥ずかし……」
どうやら全部ぜんぶ、大地にはお見通しだったらしい。消えてしまいたいくらいに恥ずかしい。だがそれを喜んでくれていた事実が、体いっぱいに満ちる。顔だけ隠したところで、そこかしこが赤いだろうから無意味かもしれない。けれど堪らずもう片手で顔を覆うと、あろうことか大地はその手首にキスを落としてきた。
「っ、大地!」
「涼さん、好き、大好き」
「大地、なん……」
「まだ言っちゃ駄目? 野球部は今日で卒業しましたよ」
「そ、れは、屁理屈だろ」
「む……涼さんは頑固。ねえ、駄目? 本当に?」
「…………」
もういいんじゃないか、涼も本心はそう思っている。あの時とっさに卒業したらと言ったのは、恋に慣れていなかったからで、好いていてもらえる自信がなかったからで。でももう変わったと、昔とは違うと涼自身も思えるようになった。
けれど、だからこそ。今度はまた違った壁が、涼の恋心を阻むのだ。大地の手を取ったなら、それをほんの少しだって後悔したくない。
「あー、大地……淫行、って知ってる?」
「え? いん、こー?」
「たとえ同意があっても、十八歳未満の青少年とみだらな行為をしてはならない。ってやつ」
「……えっちなこと、ってこと?」
「そうだな」
狼狽える瞳と赤い頬に、正直な男と初心な少年のどちらもが宿っている。その頬を今度は両手で包んで、涼は絞り出すようなボリュームで告げる。
「大地がオレの、か、彼氏になったら……両想いになっちまったら。オレは絶対、そういうことしたくなる」
「っ、え!?」
「お前は平気なの? したくなんない?」
「……っ、そんなの……なるよ、なるに決まってる」
ごくりと上下した大地の喉仏に、涼は密かに熱い息を吐く。
腹の奥からせり上がってくるような欲を、なにもかも投げ捨てて触れたくなる衝動を、涼は知らずに生きてきた。初めてのそれに今だってどうにかなってしまいそうなのに――恋人になってしまったら、理性を手放しそうな自分がこわい。
けじめをつけていたい、大地がなにより大切だから。ふたりの関係が誰かに知られて、万が一のことがあったなら、きっとお互いが自分を責めてしまうから。
自責の念は受け入れられても、自分のせいで大地が大地自身を責めるのを、涼は絶対に耐えられない。
「うん、だよな。だから……卒業するの待ってる」
「っ、うー……分、かった」
「うん。わがまま聞いてくれてありがとな」
「ううん。涼さんのこと、もっと好きになりました」
「ふは、言ってるし」
「だって無理……ひとり言はこれからもする。それと……ハグも許してほしいです」
「……まあ、もう何回かしてるしな。オレもそれは……したい」
「っ!」
くちびるをむにゅむにゅと揺らして、大地は涼の上に崩れ落ちてきた。密着する体に心臓は大暴れで、それでも涼もその背中へと腕を回す。床に額をくっつけた大地のささやく声が、耳に直接響くのがたまらない。
「涼さん、すげー好き」
「っ、大地……」
「ねえ涼さん、ほっぺにキスしていい?」
「……いやそれは」
「でも、もうしたことありますよ」
「大地お前なあ……」
「嫌ですか?」
「嫌、じゃないから困るんだろ……」
体を起こした大地が、ゆったりとした動作で涼の頬に口づける。右にキスして、次は左。何度もくり返されるそれに、涼はついに鼻を啜った。大地の想いが頬を通して、こんこんと流れこんでくる。涼の体じゃ持ちきれないほど惜しみないから、涙になって溢れてしまうのだろう。今からこんなでは、恋人になったらどうなってしまうのか。
なあ大地、恐ろしいくらいの幸福を、必ずふたりで手に入れよう。けれど今は、ここにある幸せを。指を絡ませて、ぐすんと涙を携え、同じような顔をしている大地の頬にキスを返して。
あと何ヶ月、あと何日と指折り数えるのは、ひとまず先送りだ。
青春はあっという間だと無責任に大人は言う。実際に自分が振り返る年頃になると、そう感じることがでいる。だが青春真っ只中の日々で、一日一日を大切にするのはなかなかに難しい。けれど彼らは、一度でも敗退すれば終わりだと知っている彼らは――同年代の他の者たちより、しっかり噛みしめて過ごしているのかもしれない。スマートフォンに映る試合を見ながら、涼は思う。
七月に入って間もなく、高校野球の地方大会が始まった。百校は優に超える参加校。そのトーナメントから聖地への切符を手に出来るのは、たった一校。シビアな現実。そのひとつを勝ち取るため、各々が練習に明け暮れてきたのだろう。
――三毛音書店、昼の休憩室。まずは一勝をあげた虹野高校に、涼は小さくガッツポーズをした。
また応援に来ないかと康太は誘ってくれた。たくさん悩んだが、球場には行かないことに決めた。
あの春の日、グラウンドの大地と目が合った気がしたのは、もしかすると勘違いではないかもしれない。大地の決意をこの手で台無しにするようなことは、絶対にしたくない。幸いにも、すべての試合が専門のアプリで中継されている。これを通して懸命に応援すると涼は決めたのだ。
「戻りました」
「あ! 猫田先輩!」
「うお。どうした?」
「虹野高校どうでした!?」
「ああ。勝ったぞ」
「よっしゃ! 先輩! ハイタッチ!」
「漫画予約してた子の学校だっけ? よかったじゃん」
「っす」
春からこっち、涼と同僚たちとの仲は確実に深まっている。業務上の会話のみと一線を引いていたのは涼で、少し勇気を出してみればなんともあっけないものだった。前からもっと話してみたかっただとか、素直になれんじゃん、だとか。仕事も格段にやりやすく、そしてより楽しくなっている。天職だと言ったっていい。務めだして何年経っているかを考えると、今更以外のなんでもない。だが感謝する相手が大地だから、まあいいじゃんと思えたりする。
仲間たちの間では、その大地も有名であったらしい。あの高校生が来店すると涼の表情が和らぐ、なんて言われてしまった。居た堪れなさに顔を真っ赤にしてしまったのは、思い出しても恥ずかしい。そんな仲間たちは、甲子園をかけた地方大会を第一戦目から気にかけてくれている。
虹野高校は順調に、二回戦も勝利。三回戦目はちょうど休日と重なって、涼は自宅でひと目も逸らさず熱心に応援した。ひとりの部屋でのガッツポーズは思わず大きな声が出たし、画面に映し出された大地の嬉しそうな顔を思わずスクリーンショットで収めた。
そうして迎えた四回戦。開始予定時間は十四時。準々決勝まで進めていることが、喜びと共に緊張をも涼に齎している。仕事はちゃんと集中、と自身を律しても、ふと気を抜くと時計を確認してしまう。それに気がつくと咎めるのではなく、そわそわしちゃうねと同調してくれる店長や同僚たち。
いよいよ十四時が近づくと、休憩とっちゃいな、との皆の厚意に甘えさせてもらい、プレイボールの瞬間を見届けることができた。虹野高校は後攻、先攻である相手は優勝候補に名が挙がっている強豪校だ。球場に漂う緊張感が画面越しに伝わってきて、涼も固唾を飲んで見守った。
その後は誰かが休憩に入る度、作業をしている涼の元へとやって来て途中結果を教えてくれた。回が進むごとに虹野高校への声援は、今やこの書店に務める者全員から聞かれるようになっている。それにもまた涼は胸が熱くなる。
2-0、2-3、4-4――全イニングを把握することはもちろん叶わないが、聞く度に獲って獲られてと接戦が繰り広げられていることが分かった。これではいけないと思いつつも、どうしても仕事が手につかなくなってきた。茹だるような暑さのせいか、客足も引いている七月の昼下がり。そわそわと落ち着かないでいると、バックヤードから顔を出した店長と目が合った。口元に添えた手で小さく涼を呼び、急いでと手招かれる。
備品のパソコンに、中継映像が映し出されている。九回の表を無失点で抑えた柊の元に大地が駆け寄り、ベンチへと二人で走ってゆく姿が。点数は5-4。次で2点入れれば勝利、もしくは同点まで追いつけば延長戦へと持ちこめる。
実況をするアナウンサーは、強豪校である相手校がここまで接戦を強いられるとは、と虹野高校へ称賛を送っている。どちらに転んでもおかしくない、そんな状況だ。
「すごくいい試合してるね」
「……ですね」
「この裏が終わるまで猫田くんは休憩ね」
「え……いやでも」
「いいからいいから。猫田くんが見届けてあげないでどうするの。ね?」
僕は嬉しくてね、最近の猫田くん見てると。
店長はそう言って、店舗のほうへと戻っていった。店長とはもう付き合いも長く、高校生の頃の涼のことも知っている。なにを言わんとしているか、その微笑みだけで涼にはよく分かる。ツンと痛む鼻、けれど今は泣いて堪るかとくちびるを引き結ぶ。
間もなく始まった九回の裏。この夏に賭ける想いは、どの学校にも優劣などない。皆が瞬間瞬間に魂を宿している。
ストライクとボールが入り乱れツーアウト、走者は二塁にひとり。打者は四番の選手で、二回戦にはホームランを放っている。絶好の機会に、涼はついに両手を組んで祈る。ワンアウト、ツーアウト。一秒一秒が永遠のような緊迫感の中、小気味いい音が球場に響き、白球は大きな放物線を描く――
二十時の閉店までの勤務を終えた涼は、夜空に向かって深い息を吐いた。一緒だった後輩とお疲れ様と労い合い、帰途につく背を見送る。さあ、オレも帰ろうか。一歩踏み出しながらも涼は、目の前の公園へと目を向ける。水曜日じゃなくたって自ずとやってしまう、癖みたいなものだ。
今夜もまた、誰もいないベンチに胸を切なくして帰る。そのはずだったのに。目に映る光景を疑わしく思いはしても、見間違うことはない自信があった。
「っ!」
たった数メートルの距離を、これほど恨めしく思ったことはない。タイミング悪く、立て続けに車が二台通る。足踏みをしながら過ぎ去るのを待ち、やっとのこと駆け出す。公園入口の車止めすら煩わしい。舌打ちをしつつかわしようやくたどり着く、何度も座ったベンチ前。ああ、気が急いたのになにを言ったらいいか分からない。
今日という日を終えた大地に会えるなんて、思ってもみなかったから。
「涼さん、お疲れ様です。来ちゃいました」
「大地……」
「あ、そうだ、飴どうぞ。さっき買ってきたんです」
「…………」
手渡されたのは、レジ袋いっぱいに詰まった棒つきのキャンディ。いつもこの場所でおしゃべりをする時、涼からのドリンクと交換するように渡してくれていたのと同じものだ。会わずにいた日々を埋めるような数。ああ、それでもやっぱり、気持ちに言葉が追いつかない。
「あ、飲みものなら要らないですよ。急に来ちゃったんで」
肩を竦めておどける顔は、どこかすっきりしているようにも見て取れる。今日の今日でそんな風になれるものだろうか。同じ経験などしたことがないのだから、涼には想像すら難しい。
九回の裏。一点の差を詰めることが出来ず、虹野高校は惜しくも準々決勝での敗退となった。両校の挨拶後、喜びにあふれた笑顔でベンチに帰る相手校と、肩を落とし足取りの重い虹野高校。対比は残酷なまでに色濃かった。どっちが勝つか最後まで分からない、いい試合だった。けれど、だからこその悔しさだってあるだろう。
そんな大地に、キャプテンとしてまとめ支えてきたチームに今日で終止符を打った大地に、かける言葉が見つからない。お疲れ様、頑張ったな、いい試合だったよ――どれも正解のようなのに、どれもしっくり来ない。
なにも言えずにいるまま、それでもせめてと大地の髪に手を伸ばす。もう何度、こんな風に撫でただろうか。優しくさせてくれる、甘やかさせてくれる、そうやってまた自身も大地に甘やかされている。
何度も何度も撫でていると、嬉しそうだった大地の瞳が少し伏せた。くちびるがきゅっと引き結ばれる。それから今度は、涼の腹に大地の頭がぽすんとぶつかった。すり寄るような仕草に、思わずそのまま抱きしめる。
「負けて悔しいけど、やり切ったって思える試合ができたから、清々しくもあったんです」
「うん」
「最後のミーティングではうるうるしちゃいましたけどね。帰りには、三年の奴らと銭湯行ってきました。それで、家帰ったら母ちゃんがから揚げ山ほど作ってくれてて、いっぱい食って。いい日だった」
「うん」
「でも……」
大地の両腕が涼の腰に縋りつく。大きく震える深呼吸がシャツ越しに染みこんできて、涼は腰を折り曲げもっと大地を抱きしめる。
「かっこよかったよ、大地。すげーかっこよかった」
「涼さんに撫でてもらったら、あー……涙止まんない」
「うん。それも全部かっこいいよ。大地が頑張ったから泣けんだ」
涙が止まらないのなら、いつまでだってこうしていてあげたい。確かめるみたいにたまに見上げてくる瞳に微笑んで、髪を撫でて。おずおずと腕が解かれる頃には涼のシャツはずいぶんと濡れていて、大地が申し訳なさそうにするからまたくしゃくしゃと撫でた。
「涼さん、こっち」
「ん……」
腕を引かれるまま、隣に腰を下ろす。また涼に腕を巻きつけて、大地は涼の肩で額を揺らした。途端に空気が甘くなる。
「っ、大地?」
「涼さん……会いたかった」
頬が重なって、髪が混じり合う。久しぶりの大地の体温に胸が鳴いて、一気に涙がこみ上げる。
大地の気持ちはどうなっているだろうと、自信を失くす日が何度もあった。毎日大地を見つめる女の子たち、そばにはいつだって仲間がいて、一心に野球に打ちこむ日々。
大地の心の行き先を決めるのは大地だけの特権だから、例え失くなっていたって仕方ない、なにより、先延ばしにしたのは自分だと戒めていた。
それでも大地は変わらず、絞り出すようにしてそう言うのだ。
「オレも会いたかったよ」
そう言うと大地は腕を離し、今度は額を合わせた。くらくらするほどの距離に息を飲む。
もしも、もしも今、好きだと言われたら。絶対に「オレも」と応えてしまう。そんな予感に内心慌てはじめた時――ぐう、とかわいらしい音が大地の腹から響く。目をぱちくりと瞬かせたのは、ふたり同時だった。
「えー……普通こんな時に鳴ります? めっちゃかっこ悪い! 恥ずい!」
「ふ、あはは!」
「涼さーん……笑わないでほしいっす」
「ごめんごめん、でもやっぱ大地……お前かわいいな」
「嬉しくない……」
「はは、まあいいじゃん。てか腹減ったの? から揚げいっぱい食ったんじゃなかったのか?」
「球児の食欲底なしなんで」
甘い空気は跡形もなく消えてしまって、大地はそれが不満なのだろう。けれど涼にしてみれば、ふくれっつらさえ愛おしい。
「マジかあ。なんか食う?」
「……涼さんの焼きそば食べたい」
「焼きそば? あの時のか。じゃあ、うち来る?」
「っ、いいんすか!?」
笑顔が戻った大地をもう一度撫で、ふたりで立ち上がる。材料は切らしているからスーパーに寄ろう。いつもの生活に大地が入ってくる感覚がして、どこかくすぐったい。
この公園で過ごしたのに、まださよならじゃない。たったそれだけのことで浮足立つ自分を、涼はよく分かっている。
「座ってりゃいいのに」
「いいんです」
野菜と肉をカットして、フライパンで炒める。次に麺を入れて……と調理している最中、涼の隣にはぴったりと寄り添うように大地が立っていた。包丁を握る時は危ないと言ったし、炒めている今も正直なところ腕が当たってしまうのだが。眉をしゅんと下げてここにいたいと言われてしまえば、それ以上はもうなにも言えなかった。
「大地はたまご好きか?」
「たまご? 好きっすよ」
「じゃあ今日は特別に、目玉焼き乗っけてやる」
「え! やった!」
焼きそばがそろそろ出来上がりそうなところで、もうひとつのコンロに小さいフライパンを乗せ、目玉焼きをふたつ焼く。この二年半、虹野高校で野球に没頭した大地へのささやかな労いだ。
皿によそって、箸は大地にしまってある場所を教えて用意してもらった。ローテーブルを囲んで、いただきますと手を合わせる。
「うう、美味い……生きててよかった」
「ふは、大袈裟だろ」
「いや、マジっす。涼さんの料理、一年以上ぶりだしなんか泣きそう」
大地はそう言って、ひとくちひとくち噛みしめるような顔をしながらぺろりと平らげた。夕飯にたくさん食べたらしいから揚げは、どこに消えてしまったのだろう。大地の言う球児の底なしの食欲とやらを、目の当たりにした気分だ。
自分が洗うと言ってきかない大地をなんとかなだめ、食器を洗ってリビングへ戻る。大地の大きな体が、テレビボードの前で丸まっていた。そこは、大地への想いを集めている場所。じんわりと灯る頬の熱を感じながら、涼も隣に腰を下ろす。
「白くまも野球の本も増えましたね」
「そうだな」
「涼さん、雑誌は読んだら捨てるって言ってたのに。たくさんある」
「それは……大地が読むかなと思って。昨年の夏から捨てられなかった」
うう、と唸って、大地はベッドにぼすんと顔を伏せた。そろそろと左目だけを覗かせる大地の、頬に映える淡い赤。見惚れてしまっていると「涼さんもこっち」と手を引かれた。同じように頭をベッドに預ければ、ぐっと距離が近づいて。ふたりの間で重なったままだった手に、大地の指がゆったりと絡んでゆく。たくさんの仲間の夢を守った、ごつごつとした大きな手だ。目の前でそうされると、体の奥から熱い吐息が零れてしまう。
「一年会ってなかったのにすぐ撫でてくれたし、こうやって毎日の中にも俺はいられたのかなって。嬉しいです」
「……うん、ずっと応援してた」
「へへ、やばい……ねえ涼さん。俺、人間関係が終わるのは慣れてる、って涼さんが言ったの、ずっと覚えてて」
「え……あー、うん。言ったかも」
出逢って初めて迎えた冬の日の、公園で交わした会話を涼も覚えている。名前で呼んで呼ばれてと、大地が進めてくれた関係もあの日がきっかけだ。そんな時に零してしまった弱音は、今も大地の手のひらに乗せられていたらしい。切なさと喜びがいり混じって、涼は深く深呼吸をする。
「なんかあったのかな、涼さん優しいのになんでって考えてた。それなのに俺、急にもう会わないって離れて。同じことしちゃったよなって」
「大地……」
司書の教諭に、大地が図書室に来たと聞いたのを思い出す。高校生の涼がよくひとりでいたと知って、優しい人が喧嘩だなんて辛かっただろうと胸を痛めて、もしかすると“自分も涼をひとりにした”と悔いたりしたのだろうか。
なあ大地、それは違うよ。包みこんでくれる少年を、それなら自分はもっとそうしてあげたいと強く思う。
「オレ最近さ、店のみんなと前より仲良くなれたんだ」
「……そう、なんすか?」
「おう。あとはうちの店、前から虹野に配達もあんだけど、それずっと逃げてて。でも、こないだの冬から行くようになった。このままじゃだめだなって。なあ大地、大地がキャプテンを真剣にやるために決めたこと、オレが昔ひとりだった理由と同じなんて思ったことは一度もねえよ。むしろ覚悟決めた大地見て、オレも変わらなきゃって思えたんだ」
「……っ」
指の一本一本を確かめるみたいに、手をきゅっと握り返す。照れくさい笑みが零れてしまいそうだったから、その手を引き寄せて隠れる。
「なにかをやり遂げた後ってさ、それでもああしとけばよかった、こうしとけば……って思うこともあると思う。でも大地、お前がキャプテンやったこの一年、オレのことで悔いることはなにもない。オレはお前がいたから頑張れたし、大地のおかげで見られてる新しい景色があるし、それこそ死にそうに寂しくても踏ん張れた。……あー、まあ、ちょっと? 結構? ズルもしたけどな」
照れ隠しに、焼けた手の甲を親指で撫でながらそう言うと、大地は上半身をがばりと起こした。その勢いで、涼の体がベッドの下へとずれ落ちる。頭をぶつけてしまうかと思ったが、大地の大きな手が庇ってくれて衝撃は回避することができた。
「っ、あぶねー……」
「涼さん……」
「あ……」
けれどすぐに、別の衝撃がやってくる。いつの間にか、押し倒されたかのような体勢になってしまった。左にはベッド、すぐ右にはローテーブル、見上げれば大地がいて。逃げようにも叶わない状態なのに、追い打ちをかけるかのように大地が跨ってくる。
「大地? あの」
「涼さん優しすぎて、俺どんどん甘えたくなる」
「……うん、いいよ。オレはお前に優しくできるのが、すげー嬉しいし」
「っ、もおー、泣きそう」
「ふは、どうぞ」
潤んだ瞳を堪えるように、大地がくちびるを引き結ぶ。その表情のいとおしさに、涼は片手を伸ばした。まぶたの下を撫でると、大地の手が重なる。またここに入れてと甘えてくる指に、今度は涼から絡める。
「ねえ涼さん、ズルって何のことですか?」
「え? あー、それは……」
「配達に来た時に、いつも見ていてくれたことですか?」
「は……お前、気づいてたのか!?」
微笑みで頷いて、大地は涼の手のひらへキスをひとつ。そのまま向けられた視線に、囚われる。
「スポーツドリンクの差し入れ貰うのも絶対同じ日だったから、あれも涼さんでしょ。春の試合、観に来てくれたのも知ってる。全部すげー嬉しかった」
「あー……マジか。うわ、恥ずかし……」
どうやら全部ぜんぶ、大地にはお見通しだったらしい。消えてしまいたいくらいに恥ずかしい。だがそれを喜んでくれていた事実が、体いっぱいに満ちる。顔だけ隠したところで、そこかしこが赤いだろうから無意味かもしれない。けれど堪らずもう片手で顔を覆うと、あろうことか大地はその手首にキスを落としてきた。
「っ、大地!」
「涼さん、好き、大好き」
「大地、なん……」
「まだ言っちゃ駄目? 野球部は今日で卒業しましたよ」
「そ、れは、屁理屈だろ」
「む……涼さんは頑固。ねえ、駄目? 本当に?」
「…………」
もういいんじゃないか、涼も本心はそう思っている。あの時とっさに卒業したらと言ったのは、恋に慣れていなかったからで、好いていてもらえる自信がなかったからで。でももう変わったと、昔とは違うと涼自身も思えるようになった。
けれど、だからこそ。今度はまた違った壁が、涼の恋心を阻むのだ。大地の手を取ったなら、それをほんの少しだって後悔したくない。
「あー、大地……淫行、って知ってる?」
「え? いん、こー?」
「たとえ同意があっても、十八歳未満の青少年とみだらな行為をしてはならない。ってやつ」
「……えっちなこと、ってこと?」
「そうだな」
狼狽える瞳と赤い頬に、正直な男と初心な少年のどちらもが宿っている。その頬を今度は両手で包んで、涼は絞り出すようなボリュームで告げる。
「大地がオレの、か、彼氏になったら……両想いになっちまったら。オレは絶対、そういうことしたくなる」
「っ、え!?」
「お前は平気なの? したくなんない?」
「……っ、そんなの……なるよ、なるに決まってる」
ごくりと上下した大地の喉仏に、涼は密かに熱い息を吐く。
腹の奥からせり上がってくるような欲を、なにもかも投げ捨てて触れたくなる衝動を、涼は知らずに生きてきた。初めてのそれに今だってどうにかなってしまいそうなのに――恋人になってしまったら、理性を手放しそうな自分がこわい。
けじめをつけていたい、大地がなにより大切だから。ふたりの関係が誰かに知られて、万が一のことがあったなら、きっとお互いが自分を責めてしまうから。
自責の念は受け入れられても、自分のせいで大地が大地自身を責めるのを、涼は絶対に耐えられない。
「うん、だよな。だから……卒業するの待ってる」
「っ、うー……分、かった」
「うん。わがまま聞いてくれてありがとな」
「ううん。涼さんのこと、もっと好きになりました」
「ふは、言ってるし」
「だって無理……ひとり言はこれからもする。それと……ハグも許してほしいです」
「……まあ、もう何回かしてるしな。オレもそれは……したい」
「っ!」
くちびるをむにゅむにゅと揺らして、大地は涼の上に崩れ落ちてきた。密着する体に心臓は大暴れで、それでも涼もその背中へと腕を回す。床に額をくっつけた大地のささやく声が、耳に直接響くのがたまらない。
「涼さん、すげー好き」
「っ、大地……」
「ねえ涼さん、ほっぺにキスしていい?」
「……いやそれは」
「でも、もうしたことありますよ」
「大地お前なあ……」
「嫌ですか?」
「嫌、じゃないから困るんだろ……」
体を起こした大地が、ゆったりとした動作で涼の頬に口づける。右にキスして、次は左。何度もくり返されるそれに、涼はついに鼻を啜った。大地の想いが頬を通して、こんこんと流れこんでくる。涼の体じゃ持ちきれないほど惜しみないから、涙になって溢れてしまうのだろう。今からこんなでは、恋人になったらどうなってしまうのか。
なあ大地、恐ろしいくらいの幸福を、必ずふたりで手に入れよう。けれど今は、ここにある幸せを。指を絡ませて、ぐすんと涙を携え、同じような顔をしている大地の頬にキスを返して。
あと何ヶ月、あと何日と指折り数えるのは、ひとまず先送りだ。