「失礼します、三毛音書店です」
「猫田くん。いらっしゃい」

 骨まで滲みるような冷気に身を縮こませる二月。
 十二月に急きょ請け負って以来、虹野高校への配達は涼の担当となった。手分けしたい旨相談したいところだった、とは外回り全般を担っていた同僚の言葉で。早くに気づいてやれなかったことを涼は悔いた。
 人に優しくありたい気持ちを諦めない自分になる。身近な人の心にもっと敏感でありたい。
 司書の教諭とは、訪れる度につい話しこむ。次回の仕入れの相談、最近読んだおすすめの本。涼の時間に余裕がある時は、お茶まで出してくれることもしばしば。自然と互いに顔を覚えた図書委員の生徒たちも、最初こそ様子を窺うような顔を見せていたが、小説の話で盛り上がったこともある。
 今日もしばらく話した後に車に戻り、康太へ学校に来ている旨の連絡を入れる。これもまた、配達の際のお決まりとなっている。

「涼~」
「康太、お疲れ。これ、今日も頼む」
「はいはい、“匿名希望”さんからね」

 康太に渡したのは、途中でスーパーに寄って購入したひと箱分のスポーツドリンクだ。大地のためになにかと思っても、悲しいことに出来ることなどひとつも思いつかなかった。だからせめてと野球部全体に、こうして名前を伏せて差し入れをさせてもらっている。

「じゃあ俺、もう戻るね」
「うん、呼び出して悪かった」

 顔を合わせる度に康太はここで話していくことが常だったが、今日はどうやら忙しいようだった。グラウンドには部室から野球部員たちが出始めてきたところで、これから練習なのだろう。
 ドリンクの入った箱を抱えつつも悠々と駆け出した康太が、数歩先で立ち止まる。

「そうだ、涼」
「ん?」
「来月の最終の土曜なんだけどさ。空けといてくれる?」
「来月? 分かった。けどなに?」
「ふっふ、まだ内緒」

 怪しげな笑みを覗かせて、すべてを明かさないまま康太は今度こそ行ってしまった。一体なにを企んでいるのだか。それでも悪いことではないと、康太との今までが思わせてくれる。
 野球部がストレッチを始めたのを見ながら、手をポケットで温めつつバンに凭れる。これもまた、ここに来た時はどうしてもやめられないでいることのひとつだ。
 遠くても、皆が同じ練習着に身を包んでいても、不思議とすぐに大地を見つけることができる。また背でも伸びたか、筋肉が成長したのか。大きく見える背中、笑っているのだろう少し体を揺らす仕草。ひとつひとつが胸に積もっていく感覚に、淡い息がこぼれる。
 漫画誌を絶ち、涼とは会わない。大地がそう決めたのに、一方的にこうして見てしまうのはずるいだろうかと考えたりもする。いや、ずるいと自分を戒めることは傲慢か。独り言だと前置いて好きだと言ってくれた大地が、今も変わらず想ってくれているか。そんなことは本人にしか分からない。今までの自分から変わりたいと願ったって、根っこのそういう部分を手放すのは、なかなかに難しかった。
 ましてや、大地を好いているのは自分だけではないのだ。
 涼がちらりと見やる先には、グラウンドを見つめる複数の女子生徒の姿。歓声の中に大地の名を聞いたのは、一度や二度じゃない。可愛らしい彼女たちを前に、自信なんてひとつもなかった。


 康太から連絡があったのは、空けておいてと言われた通り、休みのシフトを入れた日の前日のことだった。なにがある、と康太ははっきりとは言わないのだが、来るように指定された場所は球場で。野球のルールのみならず、高校野球についての知識も少しずつ得ていた涼には、それだけで十分だった。
 球場に近づくにつれて、応援に来たのだろう人たちが徐々に増えてゆく。虹野高校の制服を着た生徒たちの姿も、ちらほらとある。涼はキャップに念入りに髪をしまい、鍔をぐっと引き下げる。
 今日開催されるのは、高校野球の春季大会だ。この大会の上位に入った学校は、夏の地方大会でシード権を獲得できる。重要な大会だ。二月の康太の笑みを思い返せば、今年のチームに手応えを感じているのだろう。
 入場してみると、まだ一回戦だからか保護者や生徒の姿はあれどまばらだ。涼は、三塁側の一番上の席に腰を下ろした。近くで見たい気持ちは大いにあるが、大地に気づかれるわけにはいかない。服装も今日ばかりは、出来うる限りの目立たないものを選んだつもりだ。
 間もなくして両校の挨拶があり、試合が始まった。大地が野球をするところはもちろん、実際に観戦すること自体が涼は初めてだ。それでもルールの本を読んでいたから、展開を理解することができる。
 虹野高校は後攻。正捕手は大地。エースナンバーの“1”を背負うのは、康太の弟の柊だ。斜め上からでは大地の表情こそ見えないが、柊の頷く仕草やたまに柊の元へと駆け寄る大地の様子に、バッテリーの絆が垣間見える。
 大地の打順は五番。ヒットも打って、虹野高校優勢。0-5で七回を終え、ピッチャーの交代。そのまま相手を零点に抑え、見事一回戦を勝利で終えることができた。
 一球一球に集中し食い入るように観ていた涼は、安堵の息をつく。虹野高校の試合を初めて観戦したが、大地たちの日々の努力が現れていたと強く思う。柊と拳を合わせ、この一勝を喜ぶ大地の姿が遠目にも眩しい。
 大地の号令で、部員たちが観客席前へと整列を始めた。涼は慌てて身を縮める。ここで大地に気づかれてはいけない。ジンと熱くなっている目元まで隠すように、キャップを下げる。
 ああ、けれど、少しくらいその顔を見られたらどんなにいいか。
 鍔をつまんだままの手に隠れるようにして、グラウンドへと目を向ける。すると、大地と視線が交わったような感覚に、涼の体はぴくんと跳ねた。あの瞳にまっすぐ捉えられたような気がする。体中の血が沸騰したように熱く、口を手で押さえ息をそろそろと吐く。
 だが目の前にも他の人が座っているし、この一瞬で見つけられるとは思えない。きっと気のせいだろう。そう自分に言い聞かせ、大きな声で「ありがとうございました!」と礼をする部員たちに、拍手を贈った。
 

 帰り始める観客たちを横目に、強張らせていた体から長い息で力を抜く。整備の始まったグラウンドを眺めていると、誰かが涼の肩を叩いた。振り向くと、招待してくれた康太の姿があった。「よっ」と軽い挨拶をしながら、涼の隣に腰を下ろす。

「どうだった? 試合」

 その問いに引っ張られるように、涼は再びグラウンドへと視線を戻す。チーム全員が、必ず勝つとの共通の意志を持っていた。守備も攻撃も、積み重ねられた練習の上に成り立っている。
 大地の大切なチームは、涼の目にそんな風に映った。

「なんか胸いっぱいだわ。観に来てよかった。勝つとこ見られたしな。強いな、虹野」

 労う想いは、もちろん康太に対してもある。膝に頬杖をついて覗くと、少し照れた顔が眉を遊ばせた。
 虹野の野球部に康太が本格的に関り始めたのは、夏の頃だった。大地たちが、康太の初めて指導したチームになる。秋には新人戦もあったが、数ヶ月練習を共にして迎えたこの春は、思いもひとしおだろう。

「ほっとしたってのが今のところの正直な感想かな。まあ、アイツらならやってくれる、って思ってたけど」
「康太コーチのおかげだな」
「そうだといいな。まあ俺たちも強かったけどな」

 指導するとなったらまた違うけど――手を頭の後ろで組んだ康太は、そう言って空を見上げるように伸びをする。晴れやかな横顔が、涼にも爽やかな心地を運んでくる。

「知ってる。強かったよな。最後の夏の予選、準々決勝までいってたよな。確か」
「え……」

 あの夏のことは、涼もよく覚えている。野球のルールは知らなかったし、応援に行くこともなかったが。友達だと言ってくれる康太の得た結果だ。トーナメント表に連なる学校数の多さには、素人ながら驚いたのを覚えている。そこから準々決勝まで勝ち上がったのは、並大抵のことではない。
 懐かしく思い返していると、康太がぽかんと口を開けて目を丸くしていることにふと気づく。

「なんだその顔」
「え、だって……え、なんで知ってんの?」
「なんでって。そりゃ知ってるだろ」
「いやでも、関心なさそうだなって思ってたし。覚えてくれてるなんて思わなかった」

 ああそうか。たくさんの同級生たちに囲まれ祝われる康太を、遠くに見ていただけだった。自分が言うこともないだろうと、賛辞は心の中だけで。
 本当にろくでもない。現に今、康太にこんな顔をさせてしまっている。

「言えてなかったよな、悪い。観に行くことはなくても知ってたし、すげーなって思ってたよ。キャプテンやってたお前のことも、結果も」

 申し訳なさを抱えつつ、今更でもと伝える。康太は少し頬を紅潮させ、空へと差し出すように笑った。次から次へとこみ上げてくるようで、ひとしきり笑った康太はおもむろに瞼を閉じる。

「あー……なんか。正真正銘の成仏って感じ」
「成仏?」
「うん。もう随分前に出来てたつもりだったけど。今日こそだわ。最高」
「なに言ってんのか全然分からん」
「それでいいよ。でもありがとね。涼が友達でほんとよかった」

 康太がなにを言っているのか分からないことが、最近たまにある。けれどいつだって本人は満足げで、なにより今は友達でよかったとの言葉が涼の胸に染み渡る。
 会話のない、けれど心地いい時間に身を任せていると、康太が慌てたように立ち上がる。

「のんびりしすぎたかも! そろそろ戻るわ」
「おう。今日は誘ってくれてありがとな」
「どういたしまして。クマには会って……いかないか」
「うん。また今度差し入れ持ってくし。その時は頼む」
「おっけーおっけー。じゃあまたな」

 去ってゆく康太を見送り、涼も立ち上がる。グラウンドでは、次に対戦する二校がウォーミングアップを始めている。
 

 大地たちにとって、今日はスタートに過ぎない。けれどこの確かなスタートを糧に、次へ次へと進んでいくのだろう。
 まぶたに残る残像は、斜め後ろからのマスクをかぶった大地の姿と、それから観客席前へとやってきた時の真剣な顔。
 一戦一戦が、大地の宝になりますように。できることなら、悔いなく。
 願掛けのひとつにでもなればと、オレも日々を頑張るから。どうか、どうか。
 晴れ晴れとした心で球場を去る。過ぎるのが早い季節を、この春はいっそう噛みしめたい。