三毛音書店の店内に、自動ドアが開く度に蝉しぐれが波のように流れこむ。
 誰かと顔を合わせれば「暑いですね」がお決まりの挨拶になる八月。休憩室の小さなテレビの中では、ユニフォームを纏った高校生たちが、夏を終わらせまいと魂の球を交わしている。
 十三時過ぎ、同僚と入れ替わりに涼も休憩に入る。いくら本が好きでこの仕事に誇りがあれど、この時間にはほっとひと息をつく。最近は尚更のこと、スマートフォンをチェックするのが楽しみで。メッセージアプリのアイコンが受信を知らせていると、高揚する胸に抗えない。
 さて今日はどうだろうか。祈りと言っても過言ではないほど、ごくりと唾を飲んでスマートフォンを操作する。大袈裟だなあと自分に苦笑した涼は、その顔を喜びの笑みへと移ろわせる。

『康太くんが今日も鬼』

 昼の休憩時間に送ったのだろうその文面に、涼はついに吹き出した。
 日本に戻った康太は、精力的に虹野高校の野球部に顔を出している。飴と鞭を使い分けた的確な指導に、正式にコーチに入ってくれと監督から頼まれているとかなんとか。何故か闘争心を燃やしている大地も、康太のそういった面には一目置いている様だった。

『お疲れ。大地に期待してんだろうな』

 労いのメッセージを送って、少し上へとスクロールする。
 “涼さんみたいな猫見つけた!”と送られてきた写真。独り言だとぽつり前置きして送られた、白くまが“好き”と叫ぶスタンプ。今までのやり取りを次々と見返していく。新着のメッセージがなくたって行われる、涼の日課だ。初めて通話をした日までは、もう簡単には遡れないくらいになった。
 ひとしきりそうしたら、やっと昼飯にありつく。行儀が悪いよなと思いつつ、今日は発売したばかりの漫画誌がお供だ。大地とふたりでハマっている漫画はそろそろ最終章へと進みそうで、来年あたりにはクライマックスを迎えるのではとファンの間で噂が立っている。今回もその展開に息を飲み、閉じた雑誌をテーブルに置いた。端がスマートフォンにぶつかって、白くまの鈴がリンと笑う。


「じゃあそろそろ上がります」
「はーいお疲れ様」

 まだまだ外は明るい十九時。今日の勤務時間を終えた涼は挨拶して、けれどレジを出ないままポケットからスマートフォンを取り出した。十七時半ごろに送られてきていたメッセージを確認し、落胆と名づけるには些かあたたかいため息をひとつ。会計にやって来そうな客がいないのを確認してから、先ほどお疲れと言ってくれたばかりの同僚に声をかける。

「これ、会計お願いしていいっすか」
「はいはーい。今週も来ないんだ?」
「部活が忙しいみたいっす」

 昼に涼も読んだばかりのそれを立て替えて、貼りつけてある紙をそのままに紙袋に入れる。お釣りと一緒にそれを受け取る時、ニヤリと笑んだ瞳が涼を映した。

「寂しいね?」
「……まあ」
「あはは! なんか最近変わったよねー猫田くん。いいこといいこと」
「……じゃあ今度こそ帰るんで。お疲れっす」
「はーい。あの子によろしくね」

 会釈をしてから、よろしくという言葉にだけは返事をしないまま職場を後にする。
 夕陽がオレンジに染める公園をちらりと見やって、そのまま自宅のアパートへと足を向ける。そろそろ冷蔵庫が空になることを思い出し、途中でスーパーに立ち寄った。本の入った紙袋を片手に持ち、野菜や魚、肉売り場を横目に総菜コーナーへ。半額のシールが貼られた弁当をひとつ選んで帰る。日頃は自炊もするが、この夏の隔週水曜日の涼の定番だ。
 テレビ画面に映る聖地に、虹野高校の姿はない。地方予選の準々決勝を目前に、惜しくも敗退。その日を境に、大地はキャプテンになった。報告を受けた時の通話の先の声は、もう何度も思い返している。

『涼さん、俺、頑張るよ』

 あんなに頼もしい声を聞いたことはない。きっと毎日、大地が思ういちばんの野球をして、最高を更新し続けているのだろう。就いたばかりのキャプテンの責任に、押しつぶされそうになる日もあるかもしれない。それでも、あんなに必死に探し求めた漫画を後回しにしてでも打ちこんでいる。それは涼にとっても誇らしかった。
 寂しいのかと問われれば否定できない、今日みたいな日もあるけれど。


 九月になり暦上は秋を迎えた。だが残暑は厳しく、汗の滲む額を涼は拭う。
 明日は休みだから、コンビニでビールでも買って帰ろうか。アルコールが特別好きなわけでも強いわけでもないが、たまに嗜む程度に楽しんでいる。
 クローズまでシフトに入っている店員たちにそれじゃあお先にと声をかけ、外へと出た時だ。ポケットに入れているスマートフォンが、着信を報せた。確認すれば、その名前と白くまのアイコンだけで涼の心臓が上擦った音を立てる。大地だ。

「もしもし」
『涼さん、お疲れ様っす』
「大地もお疲れ様。学校と部活」
『あざす』

 自分を落ち着かせるように、それから大地の声に集中するために、歩くスピードを落とす。耳の感覚が研ぎ澄まされるのに、視界には今まで気づきもしなかった葉の色などが映る。恋心を自覚した瞬間のパチパチと日常が瞬く感覚は、今もずっと残っている。

『涼さん、今日この後時間ありますか?』
「え? うん、あるよ」
『よかった。じゃあ、漫画取りに行ってもいいですか』
「え、マジ?」
『迷惑じゃなければ』
「っ、迷惑なんかじゃねぇよ。待ってる」

 会えるのだと分かった瞬間、キュッと靴音を立てて涼は立ち止まる。上がる呼吸が伝ってしまいそうで、口元に手を当てた。
 またあとで、と通話を終え、次の瞬間にはアパートに向かって走り出す。コンビニに寄る予定なんてすっかり忘れてしまった。
 帰宅してすぐに、テレビボードの脇へと進む。そこに置いておいた、大地用の漫画誌を大きめの紙袋にまとめる。全部で五冊、地方予選が始まった七月からこっちに発売された分だ。その間、一度も会えていなかった。
 間もなくインターホンが鳴り、逸る気持ちのまま玄関までのほんの少しの距離を駆ける。

「涼さん。こんばんは」
「大地……久しぶりだな」

 2ヶ月とちょっと。会えなかったのは寂しかったが、月日で言えばあっという間だ。その短い期間でも、見違えるような雰囲気を大地は纏っている。一段と焼けた肌に、体つきは更に逞しくなった。けれど瞳の光は変わらずまっすぐで、大地がキャプテンに指名されたのは康太の意見もあってと聞いているが、正解だなと涼は思う。バッテリーを組んでいる康太の弟も他のチームメイトたちも、きっと頼もしく思っているだろうことは想像に難くない。

「まあ入れよ」
「えっと、ここで大丈夫っす」
「え……そ、っか?」

 夕飯こそ準備もまだだし出せはしないが、ちょっとお茶くらい、と涼は思っていた。だが大地は予想外にそう言った。それは仕方がない、けれどそれ以上に大地の様子が気になった。肩から提げたエナメルバッグの紐を握りしめる、大地の手にこもる力が伝ったかのように、涼の胸がツキリと音を立てる。
 ざわめく感覚は気のせいだったらいい。そう願いながら、まとめてあった紙袋を持って玄関へ戻る。重いから気をつけろよ、と渡すと、全然平気っすよと大地は淡く笑った。

「予約の紙入ってたりします?」
「うん、中に一枚ずつ入ってる」
「やった」
「そろそろ表情のバリエーション無くなってきたけどな」
「でも全部好きっすよ」
「そっか」
「…………」

 大地を強張らせるものがなにか、魔法でも使って分かるのなら解いてやりたい。けれどそんなことは不可能で、待つしかないのが涼は歯がゆかった。言いづらいことでも気にしなくていい、大地が心も体も煩わずいてくれるのがなによりだから。
 ひたすらにただ待つだけの時間。そして意を決したように上がった顔と目が合う。

「涼さん、俺、キャプテンになってやることとか気に掛けることが増えたんすけど、その分もっともっと野球が好きになってて」
「うん」
「もっと上手くなって、皆と、このチームで勝ちたい」
「うん」
「だから……この漫画もここまでで一旦やめようって。決めました。涼さんに会いに来れなくなるの、すげー嫌だけど」

 大地の立ち姿、強い意志の光る瞳。その決意がどれだけのものか、涼にもありありと伝わってきた。きっとたくさん考えたのだろう、後ろ髪を引かれる思いも大いにあるのかもしれない。それでも、あんなに好きな漫画をお預けにしてでも打ちこみたいものが、大地にとっての野球なのだ。

「息抜きにたまに読むくらい、いいんじゃないか?」
「そうっすね。俺もそう思ったんすけど、そんな器用に出来る自信がなくて」
「来年までまたオレが買っといてもいいけど」
「……ううん、絶対我慢できなくなるから。引退したら単行本で読みます」

 ごめんな大地、本当は分かってるよ。胸の内でそっとつぶやく。
 まるで試すような言い方だっただろうかと、涼は眉を下げて笑う大地に申し訳なく思った。引き止めるようで、寂しいのは間違いなく自分で。
 分かっている、そんなことで揺らぎはしない大地の心を。それに触れることで、この瞬間に自分も決意を固めたかった。会うこともきっとそう簡単にはできなくなる。そんな気がしているから。

「うん、分かった。じゃあ予約も止めとくな」
「……っす」

 涼が了承すると、けれど一変して大地は顔をくしゃりと歪ませた。今にも泣きだしそうだ。笑っていてほしい、だけどそれと同じくらい、痛むところがあるのなら見せてほしい。
 玄関の段差のおかげでいつもより容易に手が届く大地の髪を、公園でそうするようにそっと撫でる。

「大地~、お前すげーよ。大地がキャプテンで、部の皆は幸せだろうなって思うよ」
「っ、涼さん、ぎゅってしてもいいですか」

 いいよ、と涼が言うよりも早かった。漫画誌の入った紙袋を落とすように置いて、大地が涼に抱き着く。体勢を崩しそうになった涼を大地が支え、けれどふたりしてずるずると座りこむ。抱きしめ合っている、というよりしがみついてくる大地を、涼が支えるように抱き留めている。

「ふ、いいよって言うより早かったんだけど?」
「うう、すみません……」
「ううん、いいよ」
「俺……本当は涼さんに会えないなんて死にそうっす」

 押してやりたい、それでいて逞しく、頼りがいのある背中。大らかで優しい心は、たっぷり甘やかしてやりたい。肩に擦りよって来る白くまのような子を抱いて、幾度もまたその髪を撫でる。この扉の向こうへ帰ったら、きっと大地はまた、さっきまでのような凛々しいキャプテンの顔に戻るのだろうから。

「死にそうになったら連絡してよ。メッセージとか、電話とか? そんくらいなら出来んだろ」
「……毎日死にそうだったら?」
「毎日どうぞ?」
「……涼さん」

 解かれる腕を名残惜しく思う暇もなく、今度はゆっくりと額が合わさった。これはさすがに近いのではないか。思わず後ずさろうとすると、けれど大地が懇願するように、もう一度涼の名前を呼んだ。

「涼さん……キス、したい」
「っ、大地……それはさすがに」
「だめ?」
「――……っ、お前それは、ずるい」

 とんでもないことを言われている。頷いてしまってはけじめがつかない。けれど、当分会えない。簡単に見つかった受け入れるための理由を、ずるい聞き方で大地が後押しする。
 だめ、だと思う。心の奥底ではぐるぐると色んなことを考えて、きっと怖いとすら思っている。だけどそれ以上に、今の大地を受け入れたかった。
 強く出られないでいると、少しずつ大地のくちびるが近づいてくる。くらくらと目眩を覚え、涼はついに目を瞑る。もう何センチもない距離を肌で感じる。けれどあたたかくて柔らかな感触は、涼のくちびるではなく頬へと当たった。はたと目を開けると、そのまままた背中に腕を回され、耳元で大地はささやく。

「くちびるは、ちゃんと両想いになった時にとっておきます」
「あ……大、地」
「あー、はは、すげー緊張しました。でも……受け入れてもらえて嬉しかった。やば……」
「っ!」

 程よく低く甘い声に、ゾクゾクと背中が震えるのが涼はよく分かった。気を抜けば変な声が出てしまいそうで、堪えるのに必死だ。

「大地……」
「涼さん……」

 それからはお互いに泣きそうになってしまって、今度はそれを堪えるのが大変だった。離れがたい背中をトントンと撫で、どうにか再び顔を見る頃には十分は経過していたかもしれない。
 そろそろ帰るという大地を見送りに外へ出ると、帰りたくなくなるから涼さんはここまでと、アパートの下まで降りるのは拒まれてしまった。何度も振り返って手を振ってくれる大地に、涼もその都度笑って振り返す。
 遠ざかってとうとう背中が見えなくなり、涼は手すりに沿ってその場に座りこむ。鼻の奥がツンと冷えるけれど、泣きたくはない。

 
 誰かが離れていくなんて、なにも初めてのことじゃない。けれど大地とのこれは、今までとは別物だ。恋をしてしまったからか体が引き裂かれるように苦しいし、上を目指す大地の決断をいつものことだとやり過ごすのも違う。
 慣れていることだからと諦めることは、もうしない。大地がこの一年に魂を込めるなら、それならば自分も、と。決意したい思いが涼の胸に灯っている。