『それで、今日の練習終わった後に(しゅう)が……涼さん? 聞いてます?』
「聞いてる聞いてる。康太の弟の話だろ?」
『おお、本当に聞いてた』
「ふは、失礼だな」

 初めて通話をしながら漫画を読んだ日から、時間が合えばこうして話すことが多くなった。決まって夜、ストレッチをしながらの大地と、本や雑誌を捲りながらの涼。
 ちゃんと聞いているのかと大地が問うのは、たまに涼が本の世界へ没入してしまうことがあるからだ。
 お互いが好きなことをしながらも、繋がっている。それもまた、不思議と心地がよいのだけれど。今日の大地は、なにか話したいことがあるらしかった。

「で? 大地はさっきからなにそわそわしてんだ?」
『え……うわー、バレてました?』
「うん」
『えーっと。俺、明日から春休みで』
「そうだな」

 大地、との呼び名がすんなりと出るようになっても、甘ったるさは春になった今も涼の体を駆け巡っている。
 がさごそとスマートフォンの向こうから音がしたのは、居住まいを正したのだろうか。なにをそんなに改まることがあるのだろう。それならばとパラパラと捲っていた野球の本を閉じて、涼も大地の声に集中する。

『もちろん部活三昧なんですけど、一応休みもあって』
「よかったじゃん」
『っす。そんで……あの、もしよかったら、なんですけど』
「うん」
『っ、あの! 俺とどっか出かけませんか!』
「……え、オレと?」
『……です』

 なるほど、これを言いたかったのか。
 電話越しに伝わるほどの緊張の理由が分かり、どうにもむずがゆいような喜びが涼を襲う。にやけてしまいそうな口に手を当て、もう片手をテレビボードの上へと伸ばす。そこに飾られている白くまは、最初こそ一体だけだったのに。今やいくつか数が増えてしまった。
 そのうちのぬいぐるみを手に取って、ふわふわの腹に顔を埋める。

『えっと、涼さん? なんか言ってくださいよぉ』
「あ、ごめんごめん。えっと、ちなみにいつ?」
『来週の金曜なんすけど……』
「おお、オレもその日休みだわ」
『マジっすか!』

 二つ返事で行くと言ってしまいたい。それなのに躊躇ってしまうのは、大地とは今も変わらず、漫画誌の発売日にしか顔を合わせることがないからで。
 ふたりでどこかへ、と考えただけで、気の早い心臓が鼓動を速めてしまうのだ。

「あー、その、ゆっくり体休めなくていいのか?」
『それも大事なんすけど、俺、涼さんに会うと元気になるんで』
「ふ、なんだそれ」
『だって俺、それ思いついてからどうしても行きたくて……難しそうっすか?』
「……ううん、オレも行きたい。本当は今、すげー嬉しい」
『うわ……マジっすか。うわ~……』

 絞り出すような大地のその声に、耳を寄せるようにローテーブル上のスマートフォンへと近づく。
 すごく嬉しい、叫び出しそうなくらいに。それでいてなぜか逃げ出したくもなる。
 大地のことになるといつも襲ってくる、ちぐはぐな感覚。だけど逃げないと決めたのだ。

「ちなみにどこ行くんだ?」
『あ、それはまだ決めてなくて。涼さんはどこか行きたいとこありますか?』
「行きたいとこ……」

 誰かと出掛けるなんて滅多に経験がないし、ましてや突然問われても――と言いたいところだが。
 ふと辺りを見渡そうとした涼の視線は、一点に釘づけになる。手の中でこちらを見ている、白くまのぬいぐるみだ。

「水族館、とかどうだ?」
『水族館! いいっすね! うわ、めっちゃいい』
「マジ? 決まり? 大地の行きたいとこは?」
『今最高に水族館に行きたくなったので、ウィンウィンっす!』
「そっか。じゃあ、決まり。だな?」
『ちなみにどこの水族館がいいとか、希望あります?』
「あー……白くまがいればどこでも」
『…………』
「おい大地、黙んな」
『いやだって、照れますって……』
「…………」
『涼さん? 涼さんももしかして今照れてる?』
「……黙秘」
『それはうんって言ってるのと同じっすよ』

 白くまがいるところ、と伝えるのは、正直勇気を使った。白くまに対する共通認識が、ふたりにはあるから。照れた反応に同じように照れた無言を返して、なんだか居た堪れなくなる。
 じたばたと暴れたい衝動を抑えつつ、涼はベッドへと体を転がした。高く持ち上げた白くまをぴょこぴょこと振ってみれば、ますます高揚してくる。
 そんな涼を知ってか知らずか、大地がとんでもないことを言い放つ。

『じゃあ涼さん、俺そろそろ寝ますね』
「うん、オレも」
『それじゃあおやすみなさい。楽しみにしてます。その……デート』
「っ、え?」

 ガバリと起き上がった涼のおやすみも待たずに、通話はそこで切られてしまった。
 デート、と聞こえた気がしたが、本当に大地はそう言ったのか。どういうつもりで。
 涼が知る限り、デートなるものは恋人同士がするものだ。そうじゃなくたって少なくとも、そこには好意があるのではないか。そんなワードを少しだけ言い淀んで、まるで思い切ったように大地は言わなかったか。
 数々のはてなが涼の頭を埋め尽くして、どれひとつとして解決を持って消え去ってくれない。それでも、確かなものがひとつだけあった。そのたった三文字に酷く動揺して、顔が火照っている自分だ。
 もしかして、と思うものが、この数ヶ月で芽生えている。オレはもしかすると大地のことを……と。経験の乏しさから判断が難しいとしたって、もうさすがに誤魔化せないことも分かっていた。
 なあ大地、だからデートなんて言われると、オレはこんなに動揺してしまう。お前がどういうつもりで言ったのか気になって、そればかりでいっぱいになってしまう。
 大地の一挙手一投足で変わりゆく自分を、当の大地は知る由もない。それがなんだかもどかしい。
 通話を終えたら、眠るつもりだったのに。眠気はどこかへ飛んでいってしまったし、野球のルールだってもう今日は覚えられそうにない。
 ただただ大地のことだけを想う夜。胸の中ではち切れそうな想いに、それでも名前はつけられそうになかった。



 約束の金曜日は、あっという間にやって来た。
 昨日届いたばかりの『明日九時にあの公園で待ち合わせ。電車で神奈川の水族館に行きます!』とのメッセージ。プランは自分が考えたいと通話の翌日には連絡があったので、任せてあった。部活で忙しいのにと申し訳なさもあったが、大地の希望を叶えてあげたかった。
 そうして迎えた特別な日なのに、涼は公園の入り口で立ち止まってしまった。
 ここに来るのは、決まって水曜日の夕方や夜。だが今日は金曜日で、朝日が射していて、滑り台やブランコでは小さな子どもたちが遊んでいる。それを眺める私服を着た大地の横顔に、斜め後ろの位置から見惚れてしまっているのだ。
 世界がキラキラして見えるだとか、よく書いてあるよな。ジャンル問わず気になったものを読み漁る涼は、この光景に思い当たる節がある。どういう小説だったかな、なんて。分からない、分からないふりをまだしていたい。
 とは言え、いつまでもこんなところに突っ立ってはいられない。約束の時間まであと二分あるが、先に来ていたかった涼にとって、すでにもう遅刻も同義だ。胸に手を当て、深呼吸をひとつ。ベンチへ向かって足を踏み出すと、それとほぼ同時に大地が振り返った。

「涼さん! おはようございます!」
「っ、おー……」
「今日の服もかっこいいっすね!」
「…………」

 眩しい。太陽を背負っているわけでもないのに、大地がとても眩しい。笑顔の光が胸の奥底までスコンと落っこちてきて、照らし出されてしまう。見て見ぬふりをした、名前をつけられずにいた気持ちが。なにもこんな時に。そう思っても、もう観念するしかなさそうだ。
 好きになってしまった、6つも下のこの男を。
 意識してしまえば、返事をするというただそれだけのことすら困難だ。怪訝そうに覗きこんでくるまっすぐな瞳から逃げ、どうにか頷く。

「涼さん? どうかしました? おーい」
「……あー、いや、平気」
「本当に? あの、どこか具合悪いんだったら」
「っ、それは違う! マジで!」

 帰ったほうがいい、なんて言わせたくはない。涼自身楽しみにしていたし、なにより大地が指折り数えて今日を迎えたことを知っているから。恋心を認める瞬間がどんなに衝撃的だったとて、今日という日に気を使わせては本末転倒だ。

「ほら、行くぞ」

 ボディバッグを背負っている背をトンと押す。よく頭なんて撫でていたものだ。少し触れただけで指先からときめいてしまう手を、そっと握りこんで歩き出す。心配そうな瞳に本当に大丈夫だからと伝えれば笑ってくれた、それだけでもう最高だと思える。

「今日めっちゃ楽しみにしてました」
「うん、オレも」



 目的地の最寄り駅まで、ここから一時間ほど。平日とは言え学生たちにとっては春休みの時期だからか、電車内はそれなりに混雑していた。ひとつ空いていた席を大地が勧めてくれたが、涼は首を振って扉の前へ立つ。肩で寄りかかり、大地を手招く。恋心はさて置いて――とまでは器用にできないが、今日を思う存分楽しみたい。それならば移動時間だって、大地と話していたかった。

「大地は昨夜寝られた?」
「実はちょっと夜更かししました」
「遠足の前の日は寝れないタイプ?」
「はは、そうです」
「オレもいつもより遅かった」
「一緒っすね」

 ガタゴトと揺られ、見慣れた景色が真新しいものへと移ろってゆく。それを眺めながらの途切れない会話は心地いい。
 昨夜のこと、最近読み終わった小説が面白かったこと。もうすぐ一年生が入学してくれば先輩になると、少し頼もしい顔を覗かせる大地の話。
 潜めた声が届くように、いつもより近い距離で向かい合って話す。ひとつひとつが何気なくて、新鮮で、そして甘酸っぱい。

「そう言えば柊に聞いたんすけど、康太くんがそろそろ本格的に戻ってくるらしくて。そしたらうちの部の練習、見に来るようになるかもって」
「ああ、らしいな」
「え、知ってました?」
「うん、康太からちらっと聞いてた」
「…………」
「大地? どした?」

 リズムよく交わしていた会話がふと途切れる。見上げるとそこには、何故かジトリと細くなった目と、少しとがったくちびるを見せる不思議な表情の大地がいた。急にどうしたのだろうか。首を傾げると、大地はその視線を足元へと逃す。

「涼さんが前に、犬みたいなヤツが友達にいる、って言ってたの。康太くんのことっすよね」
「あー、うん。そう。そんなんよく覚えてたな」
「涼さんと話したことは全部覚えてます」
「そ、っか。そんで?」
「うーん、上手く言えないんすけど。仲良いんだなって」
「オレと康太が?」
「っす。なんか……妬ける」
「…………っ」

 妬ける、だなんてたったひと言が涼を翻弄する。どういう意味? と問うことすら緊張してできそうにない。気づかれないようにそっと深呼吸をして、事実を伝えるだけで精いっぱいだ。

「康太とは高校で初めて会ったんだけど、仲良いと思う。友達って言えるの康太くらいなもんだし。まあアイツにとっては、たくさんいる内のひとりだろうけど」
「そうっすかね。康太くん、こないだ帰国してた時だって……本屋の前で会った次の日、部活に顔出してくれたんすけど。俺にだけなんか当たり強かったし」
「え? なんで」
「そりゃあそれは……いや、教えたくないです。涼さんって結構鈍いっすよね」
「うわ。それ康太にも言われた」

 自分への評価だとはとても思えないけれど。近しいふたりから言われてしまえば、そうなのかもしれないと思わざるを得ない。だが本当に鈍いのだとして、見えていないものはなんなのだろうか。思い当たることはなく、こういうところがつまり“鈍い”のだろうか。
 うんうんと頭を悩ませながら顔を上げると、どこか拗ねたような気配はいつの間にか大地から消えていて安堵する。少なくとも大地の心の機微だけは、敏感に感じ取れる自分でありたい。そんな風に思う。


 あれからまた途切れない会話を楽しんで、現在水族館の入り口に立っている。神奈川にある、遊園地の要素も兼ね備えた広大な土地のスポットだ。そこでかれこれ五分ほど。あまりに混雑して入館できない、というわけではなかった。

「大地、こればっかりは引けないから」
「それは俺だってっすよ。俺が誘ったんだし」
「だからそれは気にすんなって。てかオレだって、お前の分も払うつもりで来たし」
「絶対ダメっす」
「大地……」

 入館料を涼の分まで払いたい大地と、年下のしかも高校生に奢ってもらうつもりはない涼。大地の気持ちはありがたいし、その意思を汲んでやりたいのはやまやまなのだが。涼だってこればかりは、はいそれじゃあと頷くわけにいかなかった。そもそも部活に勤しんでいる大地は、アルバイトをする時間もないはずだ。所持金はすべて、お小遣いだとかお年玉だとかを大切に貯めたものなのだろう。ここの入館料は数百円で済むものでもないのだ。
 それでも、しょんぼりと落ちこんでしまいそうな大地の心を救ってやりたい。どうしたものか、と困った涼は辺りを見渡し、ふとひとつの案が浮かんだ。目に映ったのは、敷地内にいくつも点在している土産屋だ。

「なあ大地、お願いがあんだけど」
「……お願い?」
「うん。チケット代はやっぱりオレが出したい。高校生のお前にふたり分出させられるような額じゃないし」
「…………」
「その代わり、って言ったらなんだけどさ。後でなんかお土産買ってほしい、ってのはどう?」
「お土産?」
「うん。今日大地とここに来た記念に、なんか欲しい。キーホルダーとか? 見てみないと分かんないけど。……どう、だ?」
「…………」

 翳っていた顔が少しずつ和らいで、それから自分の言動を恥じているような、照れくさそうな赤がほんのりと大地の頬に差す。ああ、よかった。

「そうしたほうが、涼さんは嬉しい?」
「うん」
「じゃあ……それでお願いします」
「おう。ありがとな」
「でも、俺が大人になったらリベンジさせてください」
「……うん、その時は頼もうかな」

 納得してくれたことに胸をなで下ろしたのも束の間。十六歳の大地が思い描く未来に自分がいるらしいことに、くすぐったさを覚える。顔が赤くなっていたらどうしよう。誤魔化すように涼は「じゃあ行くか!」とチケットの券売機へと急ぐ。


 涼がいちばん見たかった白くまは、水族館の建物に入ってすぐの場所にいた。ガラス越しの大きな体に感動しなかなか動かないものだから、隣の大地に時折くすくすと笑われてしまった。それでも「好きなだけ見ましょう」との言葉に、ありがたく甘えさせてもらった。
 もともと白くまが特別好きだったわけではない。大地を白くまのようだと思ったことがきっかけで。こんなに惹かれてしまうのはお前のせいだよ、なんて言えやしないけれど。この瞬間を大地の隣で迎えられていることが、涼の胸をいっぱいにする。
 それから館内を順路通りに巡り、イルカのショーを見学。外にはまた別でイルカ専用の小ぶりの建物があり、アーチトンネルの水槽をふたりして感動しながら見上げた。
 昼食は簡単にホットドッグ。アシカなどと触れ合えるスペースにも足を運んで、最後にいくつかのショップが入った土産物コーナーへと向かった。

「すげー数あるんすね」
「なー。全部見てたらキリがないな」

 所狭しと並べられる雑貨や菓子類、シャツなどの衣類もあるし、水族館と直接関係はなさそうなキャラクターものなんかもある。
 涼の足が自ずと向かうのはもちろん、その中でも白色が際立つコーナーだ。ぬいぐるみやオブジェ、スノードーム状のものなど種類は様々で、細々と収集している涼は胸が躍った。
 テレビボードのあのコーナーに置くなら、どれがいいだろう。いや、持ち歩く用のものもいい。物色していると、ふととあるものが目についた。これは、とつい口角が上がったことを自覚しながら、それを手に取り隣の大地を見上げる。

「大地、ちょっと屈んで」
「こうっすか?」
「うん。よ、っと。はは、似合うじゃん」
「うわ、なんすかこれ」

 ふわふわとした、ぬいぐるみのような生地で出来た帽子。子どもならともかく、普段使いとして売られているわけじゃないだろうそれは、まっしろで頭部には熊の耳がついている。つまり白くまを模した帽子だ。耳当てもあって、季節が真冬なら脱ぐのが惜しいくらいにあたたかそうだ。

「ふは、かわいい」
「もー……俺、かっこいいって言われたいっす」
「白くまはすげー強いからな。かっこいいも兼ね備えてる」
「そうかもしんないっすけどぉー……ねえ涼さん、お土産選ぼ」
「あ、そうだったな。そうだなー……」
「いくらのでも大丈夫っすよ!」
「はいはい」

 ひとしきり白くま状態の大地を愛でてから、涼はその帽子を手にしたまま別の商品を見始める。いくらでもと言われたところで、もちろんそんな訳にはいかない。それでも心から欲しいものを。
 ひとつひとつ丁寧に眺めていると、ひとつの白くまと目が合う。顔の形の鈴になっているストラップだ。ストラップの類はなにもついていない、大地に貼ってもらった猫のシールのみで飾られたスマートフォンを取り出す。鈴とシールを並べてみると、大地と自分が並んだような心地を覚えた。勢いよく大地を見上げる。

「これがいい」
「これかあ。安いっすね」
「値段じゃねえの。ストラップってつけたことねぇけど、これいいな」
「涼さんが気に入ったなら。あ、これ白くま以外もあるんすね」
「ほんとだ」

 涼の目は白くまのみに焦点が合うモードにでもなっていたのか、大地に言われるまで気がつかなかった。小さなバスケットの中を探る大地の指が、ひとつを摘まみ上げる。

「猫だ。涼さん」
「ん?」

 涼の目のあたりまで持ち上げて、大地は猫と涼を交互に見やる。チリンと揺れる鈴の音が、ニカッと笑った大地の笑顔にぴったりだ。

「じゃあ俺はこれ買います。涼さんみたいな猫だし」
「マジ? スマホにつけんの?」
「っすね。俺もなんもつけてないし」
「…………」
「これで本当のお揃いっすね」
「っ、そうだな。……なあ大地、その猫はオレに買わせて」

 チケット代を出してもらったからと大地は渋ったが、お互いにプレゼントになるだろと言えば了承してくれた。
 それぞれに清算し、外に出てすぐのベンチに並んで腰を下ろす。せっかくだから涼さんにつけてほしい、とおねだりされてしまった。もちろん、お願いを断る理由などなにもない。それならオレのも、とスマートフォンを交換し、少し苦戦しながら小さな穴にストラップ紐を通した。
 返って来た自分のものを持ち上げ揺らしてみると、同じようにする大地の猫とコツンとぶつかった。ふたつ重なる鈴の音は、また涼の胸の奥底までコロンと落ちてくる。幸せとやらに音があるなら、きっとこんな音をしているのだろうと本気で思った。

「大地、ありがとな。大事にする」
「俺もっす。宝物にします」

 顔を見合わせて、はにかむように笑い合う。満たされる想いにひとしきり浸って。名残惜しくて気づかずにいたかったのだが、涼は腕時計を確認する。もうすぐ十七時。少し早いが横浜駅で降りて夕飯を、との計画のために、そろそろ帰ろうかと口を開いた時だった。
 ポツン、と一粒の雫が涼の頬に落ちる。

「げ、雨」
「うわ……俺傘持ってないっす」
「オレも。どっかその辺で売ってんだろ。買ってくる」
「でもまだそんな降ってないっすよ」
「それはそうだけど……」

 今いる場所から駅までは、それなりの距離がある。調べてみると、雨雲はしばらく途切れないようだ。ちゃんと予報を見てくるべきだった。暗い空を苦々しく見上げる涼を、けれど大地はどこか楽しそうに「涼さん!」と呼ぶ。

「今のうちっすよ、行きましょ!」
「へ……ちょ、おい大地!」

 ほら、と笑った大地の手に引かれ立ち上がる。少し躓いてしまった。涼が体勢を持ちなおしてから、大地が走り出す。手首を掴んでいた手は、涼の手のひらを捉えた。
 突然走ることになった状況に慌てたらいいのか、大地の手の感触に逸る胸を落ち着けたらいいのか。涼は分からない。

「だ、大地!」
「速すぎます?」
「いや、平気だけど、手! ちゃんと走るから!」
「うーん、聞こえないっす!」

 そんなの、嘘ばっかり。大地はいつだって涼の話をよく聞いてくれるし、万が一聞こえなかったのならちゃんと分かるまで聞き返してくれる。そんな子だ。だからこの手をわざと解かないのだって分かってしまう。
 涼だって、繋がれた手が嫌なわけではない。だからそれ以上なにも言わなかった。神経が全て手に集中して、少しずつ強くなる雨脚も気にならない。


「ひどくなってきたな」
「っすね……」
「寒くねえ? 大丈夫か?」
「んー、ちょっと。涼さんは?」
「オレもちょっと寒い」

 乗りこんだ電車が走り出した頃には、窓に打ちつける雨がバチバチと音を立てるくらいになった。遠くでは雷が鈍く光っていて、春の雨が染みこんだ服は体温をじんわりと奪う。大地に風邪をひかせたくない、明日だって部活があるのだから。

「なあ大地、横浜で降りるのは止めたほうがよさそうだな」
「……やっぱりそうですかね」
「ああ、まだ止みそうにないし。風邪でも引いたら困るだろ」
「うう……すげー楽しみにしてたのに……」

 涼が言う前から覚悟をしていたらしい大地は、涼の提案に頷いた。だがやはり、待ちに待った今日の計画が崩れるのは悔しいようだ。「あーあ」と落胆する声が、窓にゴツンと額をつけた大地から落ちる。涼だって楽しみにしていたのだからもちろん残念だが、それ以上に大地のしゅんと下がった眉を見ているのが辛かった。
 どうにか気分を持ち上げてやりたい、出来ることはなにかないのか。空を睨んだところで雨は止まないけれど、一緒にいる自分だからこそ大地に提案できるものは?
 雨に白む外を眺めながら、ひとつの案を思いついた。なにも横浜じゃなくたって、夕飯は一緒に食べられる。地元に到着してから――けれど服は濡れていて。
 導き出されるのは自ずとひとつで、けれどそれを口にするだけのことに緊張を覚える。恋心に気づくのがもう少し遅かったら、簡単に言えただろうか。考えても仕方のないことに苦笑しつつ、涼は一度くちびるをひきこんでから大地を見上げた。

「なあ大地、オレんち来る?」


 地元の駅に着いて、コンビニでビニール傘を一本買った。大地側に大きく差してやりたかったのに、なかなかの力で押し返されてしまう。変なところでケチらないで、二本買えばよかった。
 とは言え、今更引き返したら余計に濡れるだろう。普段だったら走れば五分で着くだろう道を、雨に足を取られながら十分弱で帰宅した。小さなアパートの、二階に上がって奥から2番目の部屋。鍵を開けた涼は、大地を中へと押しこむ。

「大地シャワー浴びろ、その右んとこ。着替えはなんか出しとくから」
「いや、涼さんが先に……」
「だーめ。お前が先に入らないと、オレは絶対に入らねえからな」
「う、分かりました……えっと、じゃあお借りします」

 想像していた通りの台詞が一言一句違わず飛んできて、苦笑しながら涼は手で大きくバツを作った。こうでもしないと、優しい大地は簡単に頷きそうになかった。
 シャワー音が聞こえ始めたことに安堵して、バスタオルにシャツ、スウェットパンツを用意する。服も正直怪しいが、下着は絶対にサイズが合わないだろう。だがそこまでは雨が染みこんでいない自分の状態に、大地もそうであってくれと願うしかない。
 クローゼットから引っ張り出したそれらを浴室に置き、次は冷蔵庫を覗く。思った通り、焼きそば用の麺に豚バラ肉、ちょっとした野菜があった。簡単にはなるが、今日のところはこれで勘弁してもらうしかない。

「涼さーん、上がりました。先にすみません。涼さんも早く入ってください」
「おう。服のサイズ大丈夫そうか? あ、下着は? 濡れてたか?」
「服着れましたよ。下着は無事だったんで、そのまま履いてます」
「下はやっぱきつそうだな。悪いけど、乾くまで我慢な」
「っす。ねえ涼さん早く、風邪ひく」
「うん、じゃあ入ってくる。適当に座ってて」

 部屋着は大きめのシャツをゆるく着るのが好きなので、それだけは問題なさそうだった。やっぱり大地は体がでかいなと再確認しつつ、涼も風呂場へと急ぐ。体を温めたらすぐに出て、浴室の乾燥機で大地の服を乾かしたい。
 今まででいちばんの最短記録でシャワーを浴び、大地の服と自分の服をハンガーにかけて浴室内に吊るす。これから夕飯を作って、食べ終わる頃には乾くだろう。
 髪をタオルで拭きながら出ると、玄関に置きっぱなしになっていたバッグがふと目に入った。そうだった、と中から水族館のショッピング袋を取り出す。大地へのプレゼントのストラップと一緒に、これもこっそり買ったのだ。
 白くてふわふわの耳あてつき帽子を取り出し、部屋へと戻ると。そこにはなぜか、立ったままでこちらに背を向ける大地の姿があった。座っていてと言ったのに、遠慮をしているのだろうか。名前を呼びながら近づき、そこで涼はようやく思い出す。
 そうだ、この部屋には大地を思って集めたものたちがある。『初心者でも分かりやすい! 野球のルール』と大きな文字で書かれた表紙の本は、今は大地の手の中だ。

「あー、えっと、大地? 見た……よなあ」

 なにを感じて、なにを考えているのだろう。大地から返事はなくて、涼の頭は言い訳を考え始める。けれど混乱しているからか、なにも思いつきはしない。大地のおかげで野球が気になり始めていると言った覚えがあるし、白くまのことだってもう随分と共有してしまった。
 ああ、どうしよう。居た堪れないのは、並んでいるすべてが大地を想う心の表れだからだ。

「涼さん」
「……はい」

 ゆったりと振り返った大地に名前を呼ばれる。ごくりと生唾を飲んで、不格好な敬語を返す。

「野球気になってるって前言ってくれて、嬉しかったんすけど。でも康太くんもやってたし……これはその頃のっすか?」
「……いや、違う。冬くらいに買ったやつ」
「白くまは……俺に似てるって言ってくれる前から好きだった?」
「……それも、大地に出逢ってから、だな」

 全部本当のことだ。だからこそ、火照って仕方ない顔を覆って俯く。こういう時、どうしたらいいんだっけ。もっと恋愛ものをたくさん読んでおけばよかった。いや、読んだ覚えがある数冊すら、なにも参考にはならない。駆け足の心臓が呼吸を細切れにして、震えた声が手の隙間から足元にぽとぽと落ちる。

「あー、すげー恥ずかしい……やば……」

 どうしたものかと狼狽える涼は、それだけをようやく絞り出した。けれど大地はなにも言ってくれない。
 気持ち悪く感じていたりするだろうか。顔を上げるのが怖いが、それでもと見上げると。そこには同じように顔を赤くした、大地の顔があった。口元を覆うように手が宛がわれているのに。隠しきれない赤は、涼とそっくりそのまま同じだ。

「っ、大地? お前なんでそんな顔……」
「だ、って。俺、こんなの……」

 期待しちゃいます。
 熱いため息と一緒にささやかれた声が、小さなアパートの中に満ちる。よろめいてしまいそうな足を、涼は必死で踏みとどめる。
 期待しちゃう? なにに?
 大地への想いそのままを見られたような涼だって、そんなことを言われたらそれこそ期待してしまう。都合のいい思考しか働かない。いやまさか、でも。
 なにも返せないでいると、大地は手にしていた本を丁寧に元の場所に戻した。それを目で追うしか出来ない涼の目の前に、再び立った時。その顔を隠すつもりはもうないようだった。

「今日のはデートだ、って言ったの覚えてますか?」
「……うん」
「ダチとふたりでどっか行くこともたまにありますけど、デートなんて言わないです。涼さんとだから言いました」
「そう、なんだ」
「意味分かりますか?」
「……たぶん」

 少しずつ大地との距離を埋められて、濡れた髪同士が絡まりそうだ。堪らず後ずさりをするのを咎めるように、両肩が大きな手に包まれた。シャツ越しに染みこんでくる大地の体温に、短く息が途切れる。

「涼さん、俺、俺……」

 ああ、どうしよう。もしも、もしも大地のくちびるが想像通りのことを紡いだら。そうしたら、なんて答えたらいいのだろう。気づいたばかりの初めての恋心に、まだ慣れてすらいないのに。

「俺、涼さんのことが好……んぐっ!」

 心の扱い方がちっとも分からず、涼は慌てて大地の口を両手で塞いだ。

「大地、待って……言うな、頼む」

 言われてしまったら、自分は一体どうなってしまうのか。好きだと言われた後、オレもだと応えたとして、信じ続けられるのだろうか。大地が離れないでいてくれる自分であれると。長いこと涼を蝕んできたその感覚はまだ巣食っている。大地に怖がられてなどいない、分かっている。だけど男同士で、ましてや大地はまだ高校生で――
 好きだと返せない理由ばかりを並べ立てていると、塞いだままの手首を掴まれた。ハッと顔を上げると、次の瞬間には手のひらを撫でられるような感覚。今は、それ以上言うなと口を塞いでいて――そこにキスをされたのだと気がついた涼は、飛び上がるようにして後ずさった。慌てて離した手はけれど掴まれたままで、逃げることを大地は許さない。

「涼さん、なんで? 言うのも駄目なんすか?」
「…………」
「期待したの……間違ってた?」
「大地……」

 自信のなさで大地にこんな顔をさせてしまうなんて、本末転倒だ。違う、大事にしたいのに。今にも泣きだしそうな顔を包むように手を当て、涼はおずおずと口を開く。
 臆病でごめんな。だけど、今の自分なりに出来る全てを差し出したいとも、本気で思ってるよ。

「大地あのな、オレもお前のこと……その、同じだ。オレの自惚れじゃなかったら、だけど」
「っ、自惚れじゃない! 俺は涼さんが!」
「ん……ありがとう。はは、夢みたいだ。でも、もうちょっと……待っててほしい」
「……もうちょっと、って?」
「……大地が高校卒業しても想ってくれてたら、また言ってくれるか?」
「……っ」

 高校卒業までの告白の保留を涼は乞う。呆れられても仕方がない、そのくらい勝手なことを頼んでいると分かっている。誰より涼が、意気地なしだなと自身を罵っている。
 けれど、だからこそ。見開かれた大地のまなこが出す答えを、見届けなければならない。震えそうなくちびるをどうにか噛みしめていると、涼の左手に大地の手が絡んだ。

「今言いたい、涼さんにオレの気持ち知ってほしい。でも……理由があるんすよね」
「……うん」
「分かりました。俺待ちます、待てる」
「大地……」
「だって俺……これは独り言なんすけど、これからもずっと涼さんが好きだし」
「は……ちょ、大地!」
「独り言って言いました。だからノーカン」
「いやいや、屁理屈だろ」
「いいじゃないすか、答えなくていいんですし。これからも独り言しちゃうかもだから、慣れてほしいっす」
「は……ふ、はは! お前なあ」

 大地はそう言って、舌を出しておどけてみせた。しんみりとした空気が肌を纏うようだったのに、それがたちまち霧散して、涼もつられるように笑ってしまった。呆れられても仕方ない、と怯えていたのに、そう感じることすら許されないかのようだ。
 なあ大地、分かるよ。6つ年下のお前が、オレの心に手を当ててわざとそうしてくれたこと。
 笑ったことで体から力が抜ける。いつの間にか強張っていたようだ。すると大地が、涼を窺うように少し腰を屈める。

「ねえ涼さん、一個だけお願いがあります」
「ん?」
「ぎゅってしてもいいですか」
「っ、へ?」

 思いもよらない申し出に、涼は間抜けな声を出してしまった。それはさすがに駄目だろう。そう思うのに。必死に乞うようなまなこに、本当に駄目なのだろうかと涼はつい自問を始める。ハグなんて挨拶でもする文化があるわけだし。自分はしたことないけれど。

「あー……オレのお願い聞いてもらったもんな?」
「うん。しかも2年縛りの」
「う……えっと、じゃあ仕方ないよな」

 この少年の必死な瞳に弱いのだろうな、と自覚する。優しくさせてくれる、それを受け取って喜んでくれる。あの感覚はあまりに甘美で、ごちゃごちゃと考える自分を涼は瞬間的に手放してしまう。いや、手放せるのだ。
 暴れまわる心臓を知らんぷりしおずおずと両手を広げると、そこに大地が飛びこんできた。かと思えば、包みこむようにそっと柔らかく、大きな体に閉じこめられる。まだ少し濡れた髪を、梳くように撫でられた。その心地に目を閉じて浸り、涼もがっしりとした腰をそっと抱き返す。

「うー……涼さん、好き」
「っ、独り言?」
「ん、そうっすよ」

 オレも好きだよ、大地。心の中でそう返して、逞しい肩に鼻をすりつけた。自分が貸したシャツなのに、すり抜けてくすぐってくる大地の体温と香りが堪らない。
 早く焼きそばを作って食べて、それじゃあ部活頑張れよと、今日の大地におやすみを告げなければならない。けれどひとまず、涼だって大地の頭を撫でたい。そのために離れると少しムッとされ、構わず撫でるとふりゃりと緩む顔。そうだ、白くまの帽子はどこいったっけ。多分その辺に転がってしまっているから、あとで被ってもらって写真を撮ろう。


――こんな幸福は、やっぱり長くは続かない。大地のまなこの奥にキラキラと照らされて、涼はそんな当然のことすら気がつけなかった。