十二月にもなれば毎日ひたすらに寒くて、昨夜はついに小さなこたつを引っ張り出した。仕事はと言えば、年末年始に向けて徐々に売り上げが上がっていく繁忙期に突入する。三毛音書店も例に漏れず、今年も頑張りましょうと始業前に店長からの鼓舞があった。
力強く頷く涼は書店員として、それから純粋に本が好きな者として気持ちが高揚している。本がたくさん読まれることも、自分が読書する時間も好きだ。書店で働くことで、そのメカニズムの一部になれる。涼の誇りだ。
始業したらまず、レジへと入る。本日引き取り開始分の予約票を確認していると、三年ほど先輩にあたる女性の同僚がニヤリと笑みを向けてきた。
「猫田くんなんか楽しそう……と思ったら、今日水曜日かあ」
「え?」
「あの子が来る日でしょ? ほらその、白くまの」
「あー……」
指さされたのは、秋頃に出逢った少年の名前――“熊崎大地”と涼が記入した予約票だ。むずがゆいような気恥ずかしさに、涼は「別に……」と口ごもる。
「十二月の忙しさが好きってだけで……今日が水曜なのはたまたまっつうか」
「ふーん。まあ、そういうことにしといてあげますか」
「いやマジで……」
「あ、いらっしゃいませー」
「……っ」
彼女の言う通りではある。今日は水曜日で、大地が予約購入している漫画誌の発売日だ。今日がその日だということを、起床した時からちゃんと把握もしていた。
けれど十二月が好きなのもまた事実だから、訂正したかったのだが。それはあいにく叶わず、涼は諦めて作業に戻る。
大地の来店日は浮かれてしまう――それもまた、否定はできないのだけれど。
夕方も五時を過ぎ、オレンジの時間も駆け足で去り、夜へと移り始める。自動ドア一枚隔てた外は、凍えるように寒い。
そこにひとりの少年が駆けこんでくる。彼の目的の漫画誌は、入り口すぐの棚に陳列されている。だがそちらには目もくれず、ひとりの店員を探すのがお決まりだ。奥の小説の棚を整理していた涼の背中に、少年の溌剌とした、それでいてあたたかい声がトンとぶつかる。
秋の頃、この書店でふたりは出逢った。顔を合わせるのは、今日で6回目だ。
「猫田さん」
「おー、クマ。いらっしゃい」
隔週の水曜日、部活帰りに大地はこうしてやって来る。いつも自分を探してくれることが、涼は嬉しかった。楽しそうだね、と今朝声をかけてきた同僚がこちらを見ているのに気づいたが、目を合わせないように大地と連れ立ってレジへと向かう。
「三百五十円な」
「えーっと、五百円で」
「はい、お釣り。……で、今日もこれいるのか?」
「っす、欲しいっす」
「ふ、変なヤツ」
雑誌に貼りつけている予約票が大地の目に留まったのは、取り置きを約束して初めて受け取りに来た日だった。"熊崎大地"とフルネームが記入された端に、ゆるい線でデフォルメされた白くまの絵が描いてある。涼の仕業だ。涼の描いたそれが、役目を終えたからと捨てられてしまうのを大地はいたく残念がった。それください、と言われた時は驚いたものだが、それ以降も涼が白くまを描いてしまうのは大地が喜ぶからに他ならない。毎度表情をアレンジしてしまうのも反応が楽しみだからで、今日の白くまはふわりとあくびを零して眠そうな顔をしている。
「そんなん貰ってどうすんの」
「部屋の壁に貼ってます」
「え」
「え?」
「マジ?」
「大マジっす。この白くま、気に入ってるんで」
「ふは、ほんと変なヤツ」
少し話していると後ろに他の客が並び始めたので、じゃあまた後で、と交わして大地は外へ出た。道路を横切ってすぐの公園へ向かう背を見送って、涼も再び作業に戻る。
大地の来店から間もなく勤務時間が終わり、涼はその足で公園へと向かう。自動販売機で、あたたかいコーヒーとココアを一本ずつ買うのを忘れない。
この公園でひとしきり話しこむ。季節が冬になっても、それはあれ以来のふたりの日常になった。漫画の話や、少し共有出来る虹野高校の話。キャッチャーを務める大地が話すのを聞いていると、皆仲がよく部活は毎日楽しそうだ。中学からずっとバッテリーを組んでいるらしいピッチャーとは、とりわけ仲良しらしい。
そうやって様々なことをもうずいぶんと話して、それでも尽きない感覚が涼の胸をあたたかくしている。
「おまたせ」
「お疲れ様っす」
「クマも学校と部活お疲れ。はい、ココア」
「あざす。じゃあこれ」
「ふ、いつもありがとな。今日は何味?」
「プリンっすね」
「え、美味そう。今食うわ」
「いつもすぐ食ってますよ」
「あー……前回のあの漫画だけどさ」
「あは、はい」
最新号を昼休みに読むのが涼の常だ。帰宅してから読む大地のために、ネタバレのないように配慮しながら、前号までの感想を共有する。話しているうちに待ちきれなくなった大地が、この場で読み始めることもしばしばだ。
今日も大地は耐え切れなかった。これだけと言って、いちばん気に入りの作品をかじかんだ手で捲り始める。陽が落ちるのが早い冬だから、月明りと公園の外灯だけが頼りで。涼はその間、ひと言も喋らない。この静かな時間が、涼は好きだった。
最後のページ、最後の台詞を読み終わった大地が、名残惜しそうに雑誌をパタンと閉じる。
「めっちゃやばかった……」
「だよな! クマが読まずに帰ろうとしたら、多分引き留めてたわ」
「え、帰ろうとすればよかった」
「なんだそれ。なあなあ、次どうなると思う? 白くまくんの考察は?」
「うーん、そうっすね――……」
どれだけでも話していられそうなくらい、大地との会話は弾む。だが、どうしたって冬に体は凍えるし、腹は空く。大地のお腹がぐう、と大きい音を鳴らすのが合図かのように、ふたりは立ち上がる。
「じゃあ、また二週間後っすね」
「あー、それなんだけど」
「…………?」
お決まりの挨拶をして、それじゃあと手を振りかけた大地を引き止める。涼は小さくなったキャンディーをつるんと口から出して、棒をゆらゆら揺らしながら苦く笑う。
言いだしづらいのは、自分こそが心を痛めているからだ。
「オレ、その日は休み貰っててさ」
「あ、そうなんすね」
「うん。でも大丈夫だから。レジにいる人に声かけて。名前言ってくれれば大丈夫」
「……っす」
「クマ? どした? 他の店員には言いにくいか?」
他の日でも替えがきく用事なら、敢えて大地の来店日に予定を入れることはしない。けれど今回はこの日でなければ、約束の相手の都合がつかなかった。
俯いてしまった大地に、かける言葉が見つからない。
ごめんな、は自意識過剰な気がする。自分がいなくたって、漫画誌は変わらず水曜に書店に届くのだし。寂しいか? だなんて、それはただただ自分の想いだ。
「あのー。ちなみになんすけど、その次の日は? 出てます?」
「え? うん。出勤だけど」
「じゃあその日に行ってもいいですか?」
「……え、でもすぐ読みたいだろ? 今週の終わりあんなんだったし」
「そう、っすけど……」
けれど、顔を上げた大地は眉をきゅっと寄せ、くちびるを小さく噛んでいた。必死な様子に涼の心臓もひとつ悲鳴を上げるが、自分の予定のせいで大地の楽しみを奪うのはどうしても忍びない。だからこそ水曜日に来れるように、来てもいいようにと手配をしておくつもりだったのだけれど。
言葉を濁した大地が笑い、そのくせしゅんと下がった眉に気づいてしまった。自惚れだろうとかそういう後ろ向きな自分の気持ちは、今は横に置いておきたくなる。
「クマ」
「え……ちょっ、猫田さんあの、近い……」
一歩近づいて、大地を見上げる。冷たい風にそよぐ短い髪、その下に輝く美しいまなこを曇らせたくない。
「あのさクマ。もしよかったら、連絡先教えてくんない?」
「え?」
「休みっつったけどさ、夜は暇してるし。水曜日、漫画の話、電話でとかどう?」
「……いい、んすか?」
「オレがそうしたいの」
ああ、どうやらこれで正解だ。
自分から生まれる思いやりを、大地がそのまま受け取ってくれる。それが震えそうなほどの喜びを涼にもたらす。ただただこの少年に優しくありたいだけなのだが、受け入れられることで自分こそが包まれているような、不思議で甘やかな心地がする。ほとんど人と関われずに生きてきた涼にとっては、うっかりすれば泣いてしまいそうなくらいの出来事だ。
大地の瞳が輝きだし、それでいてくちびるは少し尖りはじめる。目を逸らせないでいる涼に確かめるような口ぶりで、「本当にいいの?」とくり返し問うてくる。
「俺、水曜以外も連絡しちゃうかもっすよ。漫画と全然関係ないことで」
「うん」
「猫田さんの話も聞きたいし、俺は学校とか、部活の話とかするかも」
「うん、聞く。野球詳しくなかったけど、クマのおかげで最近気になってるし」
「うわマジすか」
「うん」
「すげー嬉しいっす……でも俺、えっと、メッセージとかも、送っちゃうかも」
「おう、しような」
「…………」
どれだけ条件めいたものを提示されても、涼はもちろんと頷く。
大地は頬を隠すように俯いた。じゃあお願いします、ふてぶてしくすら感じられる声色で呟き、スマートフォンを取り出す。
態度と行動がちくはぐで、それはただただかわいかった。弟がもしもいたなら、こんな感情を覚えるのかもしれない。
それじゃあな、と大地の頭をぽんと撫でる。出逢った日以来、別れる時の定番になっている。今日も話せて楽しかった。そう伝えられる気がするし、大地がはにかんで受け入れてくれるのでやめられない。
しばらく歩いたところで、涼ははたと立ち止まる。スマートフォンを取り出して確かめるように開くのは、メッセージアプリの自分のプロフィールだ。涼のアイコンは、あの日大地に貼ってもらった猫のステッカーなのだ。
今までの信念を覆し、スマートフォンには透明のカバーをかけている。ステッカーが汚れないようにだ。そうしてまで大事に守っている猫を、鏡越しに撮影し、アイコンに設定した。これを大地に見られるのは、自分でもまだ触れたことのない場所を知られるかのようで、胸がざわつく。
けれど、どう足掻いたところでもう後の祭りだ。
まあいっか。その程度のことであれと願うように、夜の空気に呟く。二週に一度の機会を逃せば、一ヶ月は大地に会えないのだ。別れてほんの数十秒で、どんな色であったとて不安を抱えたくなどない。
この十二月というひと月にありたい自分を再確認し、涼は冷たい空気を割くように歩きだした。
大地と連絡先を交換して、もうすぐで二週間が経つ。
水曜日以外も連絡しちゃうかも、と言った時、大地はどんな顔をしていたっけ。まるで何ヶ月以上も遠い記憶のような気がする。
水曜日以外もしちゃうかもと言ったくせに。漫画のこと以外だって、と。
その言葉とは裏腹に、一向に音沙汰はない。スマートフォンが大地からの連絡に光るのを、今か今かと待っているのに。
今頃どうしているだろう。野球部は確か冬は試合が出来なくて、じゃあ今はどんなトレーニングを行っているのだろうか。
――オレのことは、もう嫌になってしまっただろうか。
身に覚えのある冷たい感覚に、一人暮らしのアパート、こたつで読書をしていた涼はぶるりと体を震わせた。
まだ引き返せる、きっと大丈夫だ。距離が近づいたと感じても、急に縁が切れてしまうことはよくある。なにも初めてのことではない。
例えばしたくもない喧嘩で負った傷は根も葉もない噂となるし、脆い人間関係はたちまちに崩れる。
大丈夫、のはずだ。今までより深いところまで、あたたかな存在が入りこんでいる気がしていても。心の持ち直し方ならもう、何度もなぞるように繰り返して覚えてきたから。
『涼おはよ! さっき日本に着いた。十四時頃にそっちで』
簡単なメッセージと共に、よく知らないキャラクターが両手でピースをしているスタンプがひとつ。友人からの連絡で、涼は目を覚ました。
休日に甘えてゆっくり過ごす朝。まだ気だるい体を分厚い布団の中で縮こませる。画面左上のデジタル時計は、もうすぐ九時を知らせるところだ。
約束の時間までまだ余裕があるし、たまには朝食と昼食を一緒にしてしまうのも悪くない。どちらにしろ、どこかのカフェかファミレスあたりで落ち合うことになるだろうし。
そうと決まればと首元を包むように布団を手繰り寄せ、もう一度スマートフォンを手に取る。友人からのメッセージで開いたばかりなのだから、大地からの連絡がないことなんか分かりきっているけれど。本当にクマと連絡先交換したよな、と友だちリストを確認するのが日課になってしまっている。
アプリをタップして、数少ないそこに目を向ける。熊崎大地。何度も見た名前とアイコンを確認して。そうしていつも通り吐くはずだったため息を、けれど今朝はグッと飲みこむことになった。
勢いよくガバリと起き上がった涼は、両手でスマートフォンを握りしめ画面を凝視する。見間違うはずのない、大地の名前の横。アイコンの位置には今までと違う、けれどよく知ったイラストが鎮座していた。大地を象徴するような野球のグローブ写真に代わったのは、まさかの自分が描いた例の白くまのイラストで。記憶違いでなければ、いちばん最初に描いたシンプルな表情のものだ。
「えー……」
ひとりきりの部屋に、朝の掠れた声が困惑を響かせる。
連絡してこないくせに。嫌われる準備を始めなきゃとすら思っていたのに。
きょとんとしたまんまるの目がこちらを見ている。お前、なんでそこにいんの。
問いたくなるけれど、自分が描いた白くまだからって、そんなことを知っているはずも教えてくれるわけもない。
もう一度枕にぽすんと転がって、両手で持ち上げた画面が涼の熱っぽい息に曇る。もやもやと煙るのがこの無機質な物体だけならよかったのに。まるで自身の心を映しているかのようで、涼は前髪をくしゃりと握りこんだ。
ちらりと目をやる先は、テレビボードの片隅。“入門! 分かりやすい野球のルール!”と書かれた本と、小さな白くまのオブジェがそこにはある。朝陽がまっすぐに射して、今の涼にはやけに眩しい。
友人希望で決まったチェーンのファミレスに到着すると、店内奥から「涼! こっちこっち!」との大きな声が届いた。出迎えてくれた店員に小さく会釈して、早足でそちらに向かう。声でけーよ、と開口一番そう言うと、留学先のアメリカから帰ったばかりの友人、高野康太は悪びれもせず笑う。
「久しぶりだな涼! 元気だったか?」
「おう。そっちは?」
「元気げんき! 久しぶりの日本のご飯も美味しいしね!」
「ファミレスだけどな」
「これが良いんじゃん!」
やっぱり犬っぽい。茶色い髪がサラサラと靡く様は整った顔も相まって、きっとすれ違う女性誰もが振り返るだろうに。背後にしっぽが見えるんだよなとくすり笑みながら、涼はテーブルに置いてあるメニューに手を伸ばす。康太はすでにから揚げを一皿食べたようだが、全然足りないからと次を物色している。
パスタか、ハンバーグか。朝昼兼用なのだからしっかり食べたい。そう思っていたはずなのだが、肝心の腹はと言えばそこまで空いた感じがしない。パラパラと何度かメニューを往復し、呼び止めた店員にサンドイッチが3つ乗ったプレートとドリンクバーを注文した。康太はうどんと海鮮丼を追加する。
よく食べるよな。そう? なんて会話は、高校を卒業して以来だ。
「涼はそんな小食だったっけ」
「お前に比べたら誰でも小食だろ……まあでも、今はあんま空いてない」
「朝たくさん食べたとか?」
「いや、抜いてきた」
「…………」
康太の大きな目から逃げるように、涼は注いできたばかりのコーヒーに口をつける。ふーん、とそれだけ返ったことに安堵すれば、今度は怒涛のような土産話が始まった。
こちらとは違う学習環境、食の違い、フランクな友人たちに、それから野球のこと。高校最後の試合までエースピッチャーだった康太は、引退と同時に選手でいることはやめてしまったけれど。その熱量は変わることがなく、向こうでも時折友人たちとプレイしているとのことだった。
運ばれてきた食事は、瞬く間に康太の腹に収まった。やっぱりすげーな、と驚きながら、涼もサンドイッチを食べ終えた。軽く見えるそれが丁度よくて、次は紅茶をおかわりする。ティーカップの中でゆらゆらとアールグレイのバッグを泳がせていると、「それで?」と目の前の男が頬杖をついて微笑んだ。
「それでって?」
「涼の近況は? 浮かない顔してる理由とか」
「……あー。お前ってそういうヤツだったな」
「それはどうも」
「いや褒めて……るわ」
康太の話はちゃんと聞いていたつもりだが、気もそぞろだったことにずっと気づいていたらしい。高校の時から康太には、なんでも見透かされていたなと思い出す。
怪我をした顔で登校すれば、クラスメイトや図書委員で一緒だった生徒たちも、怯えて目を逸らしたのに。康太だけは「それ痛そう! で、大丈夫?」と笑って変わらずにいてくれた。だから今でもこうして友人でいられるのだ。
人懐っこくて誰にも好かれる康太なら、連絡がないことに沈んでしまう心の対処法が分かるだろうか。そこまで考えたところで、大地とこのまま疎遠になりたくない自分に改めて気づく。
「連絡がなくてさ。するって言われたんだけど」
「……へえ。女の子?」
「男。うちの店の客で、本の趣味が一緒でさ」
「連絡先交換したんだ?」
「ん……こないだな。嫌われてはない、って思ってたんだけどな。分っかんね」
そこまで言ったところで、涼は一旦席を立つ。ドリンクバーへと向かって、今度は氷をたっぷり入れたグラスにソーダを注いだ。外は凍える冬だが話している内にどうにも熱く、今はこれが丁度いい。
席に戻ると、康太のなぜかジトリとした視線が逐一涼を追ってくる。加えてなにか面白くないのか、少し突き出たくちびるがまた見透かすようなことを言う。
「涼変わったね、そんな顔初めて見たし。連絡先交換するの自体珍しいのに、連絡来なくてモヤモヤしてる感じ?」
「……だな」
「そんな気が合うんだ?」
「気が合う……っつうか。白くまみたいで、弟いたらこんな感じなんだろうな、みたいな」
「白くまみたいな弟ねえ……まあ確かに弟ってかわいいし、連絡来なくなったらお兄ちゃん泣いちゃうけど!」
「お前んとこと一緒にすんな」
「どういう意味!? ……でもま、確かに違うな。兄弟関係も色々とは言え、たいていの兄弟はそんな抱える前に聞くしな。なあ涼さ――」
ソイツのこと、本当に弟って思ってる?
康太はひとつトーンを落とした声でそう言って、腕を組んで背中をソファにくっつけた。試すような目を康太に向けられるのは、記憶の限り初めてのことだ。涼は思わず眉を顰める。
確かに弟と言ったのはものの例えで、友人だってなんだっていい。そこまで考えてはたと気づく。例えば、友人である目の前の男から連絡が来なかったら、こんな気持ちになるだろうか。昔はどうだったかもう覚えていないが、なにか尋ねて返事が来ないならともかく、一通目がないくらいでこんな胸が詰まるような想いはしない気がする。
じゃあ、大地だとなんで。そこに至って心の中を見渡したところで、あいにく答えは転がってはいなかった。テーブルの上を彷徨っていた視線を上げれば、頬杖をついた康太がグラスを呷りこちらを見ていた。
「涼が鈍いのは昔からだけど。まさか自分の気持ちも分からないとはね」
「鈍いってなにが」
「教えたくなーい」
「はぁ~?」
べー、と子どもじみた仕草を見せて、康太は小さく眉を下げて微笑んだ。たまにこんな顔をすることが、康太には以前からあった。なにを考えているのかは昔も今も分からないし、立ち入らせてくれない空気すらある。
涼が首を傾げると、康太は今度はふうと息を吐いた。
「ま、俺はもういいんだけどね」
「だからなにが」
「なんでもー。で? したいわけじゃないけどまあアドバイスすると、涼からすりゃいいじゃん」
「……え」
「連絡」
「あー……」
康太の的確なアドバイスに、涼は口籠る。それを考えなかったわけではもちろんない。けれどそれが簡単に出来れば、こんなに悩んでなどいないのだ。
「……もしオレのこと嫌になってたら、連絡来たら困るだろ」
「涼はそう考えるよね。でもさ、そろそろそういうのも終わりにしたら?」
「…………」
「難しい?」
「……決心つかねぇ」
そっか。軽く頷く康太の言葉が涼のつむじにぶつかる。
康太の言う通り、そんなに気になるのなら連絡すればいいのだろう。だがこの一歩の難しさは、涼が二十二年積み重ねてきてしまったものだ。それでも繋がっていたいのなら、自分からアクションを起こすしかない。
ついに頭を抱えてうんうん唸っている涼に、ちなみにさ、と康太が尋ねる。
「その共通の趣味の本ってなに?」
「オレが前から読んでる漫画の雑誌」
水曜日発売で、お前もオレの読んでたろ。そう言えば康太は、すぐに思い至ったようだった。するとスマートフォンを操作しはじめたかと思うと、そろそろ出ようと唐突に言い出す。
「買い物したいの色々あるからさ、付き合ってくれない?」
「急だな。別にいいけど」
「あ、夕方までな。弟と約束あるから」
「はいはい、もう何回も聞いた」
「あは、言った言った」
屈託のない笑顔が、早く行くよと涼の腕を引く。こういうところがある、けれど憎めないのが高野康太という男だった。涼を怖がったことがないのも、憶測で遠ざけないのも。この友人がいてよかったと思ったことは、一度や二度じゃなかった。
康太に連れ出されるまま、電車で移動しながらいくつかの店を回った。以前から康太が気に入っていたアパレルショップ、弟にお土産だとケーキ屋で焼き菓子を買って、それから大きな書店。康太が満足そうに息をついた頃には、空はすっかり暮れ始めていた。そろそろ弟に会う時間なんじゃねえのと涼が言うと、腕時計を覗いた康太が目を眇めた。
「俺さ、探してる本があって」
「さっきの店になかったのか?」
「なかった。ちょっと古いヤツなんだよね。なあ、涼んとこの店行こ」
「は? 別にいいけど……さっきんとこと比べもんになんないくらい小さい店だぞ」
「分かってる、穴場かもじゃん」
帰国前に言っておいてくれれば、取り寄せられたのに。またすぐに向こうに戻るとの話だから、今発注をかけたところで間に合うはずもない。
全く、と呆れた顔を見せながらも、康太と連れ立って夕陽もすぐに音を上げそうな冬の道を進む。時計を確認すれば、夕方の五時過ぎ。白くまのような少年が声をかけてくれる、あの瞬間を思い出すのも無理はなかった。
大地と鉢合わせたらどうしよう。休みだと言った手前と、連絡が来ていないことを悩んでいる気まずさで涼は入店を渋る。そもそも、休日に仕事場へ行ったことも今までにない。どうしても一緒に、と乞う康太をどうにか宥めたかったが、ずるずると引っ張られて自動ドア前まで来てしまった。
「どこにあるか分かんないからさ!」
「店員に聞けばいいだろ」
「涼がいるのに他の人に聞く理由ある?」
「オレ休み!」
店の目の前で、小声に抑えながらも押し問答を繰り広げる。この友人にこんなに困らせられるなんて、初めてのことだ。一体どうしてしまったのだろう。居た堪れない気持ちになっていると、涼の背後からよく知った声が聞こえてきた。
その声が呼んだのは、涼じゃなかったけれど。
「あれ? 康太くん?」
「え? お〜! クマじゃん! うわ久しぶり!」
「へ……」
「あ、猫田さん! 今日休みだったんじゃないんすか!?」
「クマ……あー、うん。え……お前ら知り合い?」
三者三様、ぽかんとした顔でお互いを見合う。いちばん最初に事態を把握したのは、康太だった。もしかして、と言いながら涼と大地を交互に見やり、その視線が大地を捉えてストップする。
「白くまくんって、もしかしてクマのこと?」
「え? えーっと、そうです。で、いいんすよね?」
「……おう」
その呼び方を康太がすることに、なんとも言えない感覚が涼を襲う。大地の話を康太にしたと知られてしまうのが気まずい。
なんとか頷いた涼をよそに、康太が「涼と俺は高校からの友達。涼、クマは俺の弟のダチでさ。うちに遊びに来た時に知り合ったんだよな」と全員が分かりやすいように状況を説明する。相変わらず機転が利く男だ。
自分もいい加減顔を上げないと。涼がどうにか気を取り直した頃、大地が声をかけてきた。
「今日の用事って、康太くんと会うんだったんすね」
「あー、うん。そうだな。康太、今日アメリカから戻って来て、今日しか無理って言うから」
なにを言い訳のようなことを並べているんだろう。言ったそばから悔やんでいると、大地は何故か下くちびるを噛み、苦々しげな顔を覗かせた。
どうしたのだろう? その表情を汲みたいのに、隣に立つ友人が「ふーん」と意味ありげな声を零す。思わず見上げると、ピンと伸ばした親指と人差し指を顎に当て、芝居じみた顔が大地を見ていて。一体なにがなんだか分からない。
「なあ涼、俺さ、昔から勘がいいんだよね」
「うん、知ってる」
「あーあー、まさか俺がこんな役目を引き受ける日が来るなんてなあ。まあ、タダでってつもりもないけど」
「オレは鈍いらしいから、お前がなに言ってるのか全然分からん」
「あは、とりあえずそれでいいよ。そんでちょっとクマ借りるわ。クマ、こっち」
そして今度はわけのわからないことを言って、大地の首に腕を巻きつけるようにして数歩先へと離れていってしまった。本当に、なにがなんだか。
落ち着かない時間が数十秒、いや一分は経ったのではないか。ようやく話が終わった様子を見せたかと思えば、康太がじゃあと手を高く上げる。
「俺帰るわ! 大事な弟待たせてるしな!」
「はあ? いや急だな。別にいいけど」
「クマもまたな」
「……っす」
そのまま体を翻し、康太は嵐のように去っていった。全く、という顔を覗かせつつ、涼は大地を見やる。思いがけない状況でも、会えないはずだった今日に顔を合わせることが出来た。あたたかいもので胸は満たされている。
「クマ、今日も学校と部活お疲れ様」
「あ……っす」
「…………? どうかしたか?」
「あー、いえ……あの、俺、本買ってきます」
「そうだったな。うん。……なあクマ」
目を合わせてくれない様子に一抹の不安を覚えながらも、足早に目の前を過ぎようとした大地を引き止める。
後ろ向きなオレは今日で終わり――完璧に出来る気はしないが、少なくとも大地には誠実でありたかった。
「そこで待ってる。いいか?」
「っ、っす。すぐ行きます」
「……ん」
ひとまずと送り出す手が、寒空の下でなぜか熱い。
「猫田さん!」
「おう。はいこれ」
「あ。っす、あざす。あの俺、今日飴持ってきてなくて」
「気にすんな。オレ急に来たんだし」
「でも……」
「いいから。今日も学校と部活お疲れ様。って、さっきも言ったか」
店内に入っていった大地は、ものの一、二分で公園内へ戻って来た。よほど急いだのだろうか、小さく肩を弾ませる姿に買ったばかりのココアで労う。
沈黙に妙な心地を覚えつつ、とりあえずとふたりでベンチに腰を下ろした。いつもの公園、いつもの座り位置なのに、気まずい空気が漂う。
ココアと一緒に買ったコーヒーの缶をジャケットのポケットに突っこんで、涼は両手を膝に置いた。クマ、と言いかけた声が喉に貼りついてしまって、みっともなく枯れた声を咳で払う。
「え、っと……元気してたか?」
「はい」
「そっか」
「っす」
「…………」
よそよそしい空気が漂う。なぜ、いつもみたいに笑ってくれないのだろう。関わるのが嫌になったのかもしれない。そう思ってしまうから酷く怖い。だが、卑下する自分を終わりにしたい。
意を決し、大地のほうへ体を向ける。乾いたベンチはパンツ越しでもひどく冷たい。
「あのさ、クマ」
「はい」
「え、っと……なんで連絡くれなかったんだ?」
「え……」
「っ、あー、悪い! 変なこと聞いた! でも、その……漫画以外の話もしちゃうかもとか、色々言ってくれただろ。だから、その……」
「もしかして……待ってくれてたんすか?」
「……うん。そういうこと、だな」
歯切れの悪い返事しかできない。いかにも慣れていない感じが恥ずかしく、消えてしまいたくなる。6つも年上なのにと、呆れられてしまうだろうか。
だがどこか上擦った声が、涼の耳に届く。
「お、俺、本当はすぐ連絡したかったんすけど! でも、なに送ろうかなとかすげー考えちゃって……ごめんなさい、今めっちゃ後悔してます」
「クマ……」
「めっちゃ浮かれて、何回もアプリ開いてたんすけど……でも今度会えないしなって、悲しかったりもして……」
「……ふ」
本当にそうなのかとか、嫌だったのを言い出せなくて誤魔化しているのではとか。疑う心は不思議となかった。大地が必死な顔をしているからだ。
そう分かればたちまち、申し訳ないと縮こまっている大地の心をほぐしてあげたくなる。いつもするように手を滑らせれば冷たくて、その短い髪を幾度も撫でる。
「……もしかして笑ってます?」
「うん、ごめん」
「俺、本当にそればっかり考えてたんすよ?」
笑われるのは不本意だと、大地の頬が薄らとふくらむ。涼の胸はあたたかくなるばかりだ。
「うん、ありがとな。えっと、じゃああのアイコンは? 今朝見たらオレが描いた白くまになってて、びっくりした」
「あれは……猫田さんのアイコンが俺が貼ったシールなの、嬉しいなってずっと思ってて。会えないし意気地なしでメッセージも送れないけど、せめておそろい、みたいな? いや全然おそろいじゃないんすけど」
「はぁー……そっか。連絡なくてすげーへこんでたんだけど、アイコンがあれになってたからさ」
「呆れました?」
「ううん、違う。嬉しかった」
そうだ、嬉しかったのだ。素直にそう思っていいのかが分からなかっただけで。大事な野球関連から変えてまで、自分のイラストにしてくれたことに胸の奥はどうしようもなく震えていた。
ひとしきり撫でた手を引っこめて、それから涼は正面へと向き直す。喜んでばかりはいられないからだ。
「でもさ、待ってばっかいないでオレが送ればよかったんだよな。人間関係が終わるのは慣れてるつもりだったんだけど、クマとはなんか……それは嫌で。それでもやっぱ出来なかった。悩ませてたみたいだし、責めるようなこと言ってごめん」
「……いえ、送るって言ったのは俺だったんで」
オレたち謝ってばかりだなと涼が言うと、そうっすねと大地は笑ってくれた。おあいこです、と言ってくれる優しい白い息が、宙に消えていく。名残惜しく目で追いながら、それじゃあ帰ろうかと立ち上がる。
「今日発売のはオレもまだ読んでなくて。帰ってから読むから、えっと。感想、送ってもいいか?」
「っ、はい! あ、もしよかったらっすけど、通話しながら一緒に読むのはどうっすか?」
「え……なにそれ。めっちゃ楽しそう」
ずるずると砂を引きずる靴音が、帰りたくないと鳴いている。大地の提案は涼には思いつかなかったもので、早くやってみたいなとすでに楽しみになってしまう。
垣間見る見知らぬ世界に感心し、けれど返らぬ返事に後ろを振り返る。すると少し離れたところに、立ち止まっている大地の姿があった。どうしたのだろう。首を傾げると、大きな一歩で一気に近づいてきた。あまりの近さに、涼は思わず後ろにのけ反る。冬の公園に外灯が射す影は、今にもくっついてしまいそうだ。
真剣な顔をした大地は、くちびるをきゅっと引き結んでいる。なにを考えているのか、見落としたくない。伺うようにじっと見つめていると、そろそろと上がった大地の手が涼の髪に触れた。
撫でられていると気づくのに、涼は数秒を要してしまった。
「……クマ? どうした?」
「……撫でてます」
「っ、なんで……」
「猫田さんがいつもしてくれてることっすよ」
「それは、そうだけど……」
どうしよう、どうしよう。突然の出来事だからか、自分の体なんかじゃ到底支えきれそうにないほど、心臓が暴れている。くらくらと目眩まで起こしそうなくらい、息が短く途切れだす。こみ上げてきそうな涙に困惑する。
なんだこれ、なんだこれ。体が打ち震えるほど喜んでいるのが分かる。甘い感覚が体中を駆け巡っている。
優しくありたい、それがこの少年に出来るのが嬉しい。そう思ってきたのに。他の誰でもない大地に同じように、あるいはそれ以上におおらかな心でそうされると、この胸はこんなにも満たされるものなのか。
思わず手を口元に宛がって見上げると、下くちびるを薄く噛む大地と出逢う。どこかで見たばかり、どこだったっけ。そうだ、康太と別れるすぐ前の――
「あの……猫田さんにお願いがあって」
「ん? なんだ?」
「俺も……涼、さん、って……呼んでもいいですか」
「へ……」
「あと、俺も名前で呼ばれたい。クマも嬉しいけど」
「あ、えっと」
「……涼さん」
「ちょ、クマ、待っ……」
「涼さん。だめ?」
「っ、だめ、じゃない。わかった。わかった、から」
「マジ? やった」
呼吸ってどうやるんだったっけ。気の利いた言葉も浮かんでこない。本に没頭して、いつも言葉を追っているのに。全てが霧散する。
落ち着かない視線を彷徨わせていると、ようやく大地の手があるべき場所へと戻っていった。名残惜しいようなほっとしたような、相反する想いがないまぜになっているのを感じながら、今度こそ帰んなきゃという大地に手を振る。
「あとで電話します!」
「うん」
「じゃあまた」
後ろ向きに歩いていた大地が前を向いたのを確認してから、大地は振っていた手をそのまま自身の頭へと持っていく。撫でられた髪に触れるだけで、ぴりぴりと痺れるこの感覚はなんだ。約束したばかりのその名を「大地……」と口の中で転がせば、妙に甘ったるくて。両手で覆った顔の隙間から、細く長く息を吐き、その場に蹲る。
なんなんだろうな、これ。
読破してきた本を参考にしようとすると、恋、なんて二文字が浮かんできそうで。まさか、いやでも。
そうだよ、と名付けてしまうのも、それは違うと否定するのも。そんなものまだ一度も経験がないのだから、涼には難しい。
力強く頷く涼は書店員として、それから純粋に本が好きな者として気持ちが高揚している。本がたくさん読まれることも、自分が読書する時間も好きだ。書店で働くことで、そのメカニズムの一部になれる。涼の誇りだ。
始業したらまず、レジへと入る。本日引き取り開始分の予約票を確認していると、三年ほど先輩にあたる女性の同僚がニヤリと笑みを向けてきた。
「猫田くんなんか楽しそう……と思ったら、今日水曜日かあ」
「え?」
「あの子が来る日でしょ? ほらその、白くまの」
「あー……」
指さされたのは、秋頃に出逢った少年の名前――“熊崎大地”と涼が記入した予約票だ。むずがゆいような気恥ずかしさに、涼は「別に……」と口ごもる。
「十二月の忙しさが好きってだけで……今日が水曜なのはたまたまっつうか」
「ふーん。まあ、そういうことにしといてあげますか」
「いやマジで……」
「あ、いらっしゃいませー」
「……っ」
彼女の言う通りではある。今日は水曜日で、大地が予約購入している漫画誌の発売日だ。今日がその日だということを、起床した時からちゃんと把握もしていた。
けれど十二月が好きなのもまた事実だから、訂正したかったのだが。それはあいにく叶わず、涼は諦めて作業に戻る。
大地の来店日は浮かれてしまう――それもまた、否定はできないのだけれど。
夕方も五時を過ぎ、オレンジの時間も駆け足で去り、夜へと移り始める。自動ドア一枚隔てた外は、凍えるように寒い。
そこにひとりの少年が駆けこんでくる。彼の目的の漫画誌は、入り口すぐの棚に陳列されている。だがそちらには目もくれず、ひとりの店員を探すのがお決まりだ。奥の小説の棚を整理していた涼の背中に、少年の溌剌とした、それでいてあたたかい声がトンとぶつかる。
秋の頃、この書店でふたりは出逢った。顔を合わせるのは、今日で6回目だ。
「猫田さん」
「おー、クマ。いらっしゃい」
隔週の水曜日、部活帰りに大地はこうしてやって来る。いつも自分を探してくれることが、涼は嬉しかった。楽しそうだね、と今朝声をかけてきた同僚がこちらを見ているのに気づいたが、目を合わせないように大地と連れ立ってレジへと向かう。
「三百五十円な」
「えーっと、五百円で」
「はい、お釣り。……で、今日もこれいるのか?」
「っす、欲しいっす」
「ふ、変なヤツ」
雑誌に貼りつけている予約票が大地の目に留まったのは、取り置きを約束して初めて受け取りに来た日だった。"熊崎大地"とフルネームが記入された端に、ゆるい線でデフォルメされた白くまの絵が描いてある。涼の仕業だ。涼の描いたそれが、役目を終えたからと捨てられてしまうのを大地はいたく残念がった。それください、と言われた時は驚いたものだが、それ以降も涼が白くまを描いてしまうのは大地が喜ぶからに他ならない。毎度表情をアレンジしてしまうのも反応が楽しみだからで、今日の白くまはふわりとあくびを零して眠そうな顔をしている。
「そんなん貰ってどうすんの」
「部屋の壁に貼ってます」
「え」
「え?」
「マジ?」
「大マジっす。この白くま、気に入ってるんで」
「ふは、ほんと変なヤツ」
少し話していると後ろに他の客が並び始めたので、じゃあまた後で、と交わして大地は外へ出た。道路を横切ってすぐの公園へ向かう背を見送って、涼も再び作業に戻る。
大地の来店から間もなく勤務時間が終わり、涼はその足で公園へと向かう。自動販売機で、あたたかいコーヒーとココアを一本ずつ買うのを忘れない。
この公園でひとしきり話しこむ。季節が冬になっても、それはあれ以来のふたりの日常になった。漫画の話や、少し共有出来る虹野高校の話。キャッチャーを務める大地が話すのを聞いていると、皆仲がよく部活は毎日楽しそうだ。中学からずっとバッテリーを組んでいるらしいピッチャーとは、とりわけ仲良しらしい。
そうやって様々なことをもうずいぶんと話して、それでも尽きない感覚が涼の胸をあたたかくしている。
「おまたせ」
「お疲れ様っす」
「クマも学校と部活お疲れ。はい、ココア」
「あざす。じゃあこれ」
「ふ、いつもありがとな。今日は何味?」
「プリンっすね」
「え、美味そう。今食うわ」
「いつもすぐ食ってますよ」
「あー……前回のあの漫画だけどさ」
「あは、はい」
最新号を昼休みに読むのが涼の常だ。帰宅してから読む大地のために、ネタバレのないように配慮しながら、前号までの感想を共有する。話しているうちに待ちきれなくなった大地が、この場で読み始めることもしばしばだ。
今日も大地は耐え切れなかった。これだけと言って、いちばん気に入りの作品をかじかんだ手で捲り始める。陽が落ちるのが早い冬だから、月明りと公園の外灯だけが頼りで。涼はその間、ひと言も喋らない。この静かな時間が、涼は好きだった。
最後のページ、最後の台詞を読み終わった大地が、名残惜しそうに雑誌をパタンと閉じる。
「めっちゃやばかった……」
「だよな! クマが読まずに帰ろうとしたら、多分引き留めてたわ」
「え、帰ろうとすればよかった」
「なんだそれ。なあなあ、次どうなると思う? 白くまくんの考察は?」
「うーん、そうっすね――……」
どれだけでも話していられそうなくらい、大地との会話は弾む。だが、どうしたって冬に体は凍えるし、腹は空く。大地のお腹がぐう、と大きい音を鳴らすのが合図かのように、ふたりは立ち上がる。
「じゃあ、また二週間後っすね」
「あー、それなんだけど」
「…………?」
お決まりの挨拶をして、それじゃあと手を振りかけた大地を引き止める。涼は小さくなったキャンディーをつるんと口から出して、棒をゆらゆら揺らしながら苦く笑う。
言いだしづらいのは、自分こそが心を痛めているからだ。
「オレ、その日は休み貰っててさ」
「あ、そうなんすね」
「うん。でも大丈夫だから。レジにいる人に声かけて。名前言ってくれれば大丈夫」
「……っす」
「クマ? どした? 他の店員には言いにくいか?」
他の日でも替えがきく用事なら、敢えて大地の来店日に予定を入れることはしない。けれど今回はこの日でなければ、約束の相手の都合がつかなかった。
俯いてしまった大地に、かける言葉が見つからない。
ごめんな、は自意識過剰な気がする。自分がいなくたって、漫画誌は変わらず水曜に書店に届くのだし。寂しいか? だなんて、それはただただ自分の想いだ。
「あのー。ちなみになんすけど、その次の日は? 出てます?」
「え? うん。出勤だけど」
「じゃあその日に行ってもいいですか?」
「……え、でもすぐ読みたいだろ? 今週の終わりあんなんだったし」
「そう、っすけど……」
けれど、顔を上げた大地は眉をきゅっと寄せ、くちびるを小さく噛んでいた。必死な様子に涼の心臓もひとつ悲鳴を上げるが、自分の予定のせいで大地の楽しみを奪うのはどうしても忍びない。だからこそ水曜日に来れるように、来てもいいようにと手配をしておくつもりだったのだけれど。
言葉を濁した大地が笑い、そのくせしゅんと下がった眉に気づいてしまった。自惚れだろうとかそういう後ろ向きな自分の気持ちは、今は横に置いておきたくなる。
「クマ」
「え……ちょっ、猫田さんあの、近い……」
一歩近づいて、大地を見上げる。冷たい風にそよぐ短い髪、その下に輝く美しいまなこを曇らせたくない。
「あのさクマ。もしよかったら、連絡先教えてくんない?」
「え?」
「休みっつったけどさ、夜は暇してるし。水曜日、漫画の話、電話でとかどう?」
「……いい、んすか?」
「オレがそうしたいの」
ああ、どうやらこれで正解だ。
自分から生まれる思いやりを、大地がそのまま受け取ってくれる。それが震えそうなほどの喜びを涼にもたらす。ただただこの少年に優しくありたいだけなのだが、受け入れられることで自分こそが包まれているような、不思議で甘やかな心地がする。ほとんど人と関われずに生きてきた涼にとっては、うっかりすれば泣いてしまいそうなくらいの出来事だ。
大地の瞳が輝きだし、それでいてくちびるは少し尖りはじめる。目を逸らせないでいる涼に確かめるような口ぶりで、「本当にいいの?」とくり返し問うてくる。
「俺、水曜以外も連絡しちゃうかもっすよ。漫画と全然関係ないことで」
「うん」
「猫田さんの話も聞きたいし、俺は学校とか、部活の話とかするかも」
「うん、聞く。野球詳しくなかったけど、クマのおかげで最近気になってるし」
「うわマジすか」
「うん」
「すげー嬉しいっす……でも俺、えっと、メッセージとかも、送っちゃうかも」
「おう、しような」
「…………」
どれだけ条件めいたものを提示されても、涼はもちろんと頷く。
大地は頬を隠すように俯いた。じゃあお願いします、ふてぶてしくすら感じられる声色で呟き、スマートフォンを取り出す。
態度と行動がちくはぐで、それはただただかわいかった。弟がもしもいたなら、こんな感情を覚えるのかもしれない。
それじゃあな、と大地の頭をぽんと撫でる。出逢った日以来、別れる時の定番になっている。今日も話せて楽しかった。そう伝えられる気がするし、大地がはにかんで受け入れてくれるのでやめられない。
しばらく歩いたところで、涼ははたと立ち止まる。スマートフォンを取り出して確かめるように開くのは、メッセージアプリの自分のプロフィールだ。涼のアイコンは、あの日大地に貼ってもらった猫のステッカーなのだ。
今までの信念を覆し、スマートフォンには透明のカバーをかけている。ステッカーが汚れないようにだ。そうしてまで大事に守っている猫を、鏡越しに撮影し、アイコンに設定した。これを大地に見られるのは、自分でもまだ触れたことのない場所を知られるかのようで、胸がざわつく。
けれど、どう足掻いたところでもう後の祭りだ。
まあいっか。その程度のことであれと願うように、夜の空気に呟く。二週に一度の機会を逃せば、一ヶ月は大地に会えないのだ。別れてほんの数十秒で、どんな色であったとて不安を抱えたくなどない。
この十二月というひと月にありたい自分を再確認し、涼は冷たい空気を割くように歩きだした。
大地と連絡先を交換して、もうすぐで二週間が経つ。
水曜日以外も連絡しちゃうかも、と言った時、大地はどんな顔をしていたっけ。まるで何ヶ月以上も遠い記憶のような気がする。
水曜日以外もしちゃうかもと言ったくせに。漫画のこと以外だって、と。
その言葉とは裏腹に、一向に音沙汰はない。スマートフォンが大地からの連絡に光るのを、今か今かと待っているのに。
今頃どうしているだろう。野球部は確か冬は試合が出来なくて、じゃあ今はどんなトレーニングを行っているのだろうか。
――オレのことは、もう嫌になってしまっただろうか。
身に覚えのある冷たい感覚に、一人暮らしのアパート、こたつで読書をしていた涼はぶるりと体を震わせた。
まだ引き返せる、きっと大丈夫だ。距離が近づいたと感じても、急に縁が切れてしまうことはよくある。なにも初めてのことではない。
例えばしたくもない喧嘩で負った傷は根も葉もない噂となるし、脆い人間関係はたちまちに崩れる。
大丈夫、のはずだ。今までより深いところまで、あたたかな存在が入りこんでいる気がしていても。心の持ち直し方ならもう、何度もなぞるように繰り返して覚えてきたから。
『涼おはよ! さっき日本に着いた。十四時頃にそっちで』
簡単なメッセージと共に、よく知らないキャラクターが両手でピースをしているスタンプがひとつ。友人からの連絡で、涼は目を覚ました。
休日に甘えてゆっくり過ごす朝。まだ気だるい体を分厚い布団の中で縮こませる。画面左上のデジタル時計は、もうすぐ九時を知らせるところだ。
約束の時間までまだ余裕があるし、たまには朝食と昼食を一緒にしてしまうのも悪くない。どちらにしろ、どこかのカフェかファミレスあたりで落ち合うことになるだろうし。
そうと決まればと首元を包むように布団を手繰り寄せ、もう一度スマートフォンを手に取る。友人からのメッセージで開いたばかりなのだから、大地からの連絡がないことなんか分かりきっているけれど。本当にクマと連絡先交換したよな、と友だちリストを確認するのが日課になってしまっている。
アプリをタップして、数少ないそこに目を向ける。熊崎大地。何度も見た名前とアイコンを確認して。そうしていつも通り吐くはずだったため息を、けれど今朝はグッと飲みこむことになった。
勢いよくガバリと起き上がった涼は、両手でスマートフォンを握りしめ画面を凝視する。見間違うはずのない、大地の名前の横。アイコンの位置には今までと違う、けれどよく知ったイラストが鎮座していた。大地を象徴するような野球のグローブ写真に代わったのは、まさかの自分が描いた例の白くまのイラストで。記憶違いでなければ、いちばん最初に描いたシンプルな表情のものだ。
「えー……」
ひとりきりの部屋に、朝の掠れた声が困惑を響かせる。
連絡してこないくせに。嫌われる準備を始めなきゃとすら思っていたのに。
きょとんとしたまんまるの目がこちらを見ている。お前、なんでそこにいんの。
問いたくなるけれど、自分が描いた白くまだからって、そんなことを知っているはずも教えてくれるわけもない。
もう一度枕にぽすんと転がって、両手で持ち上げた画面が涼の熱っぽい息に曇る。もやもやと煙るのがこの無機質な物体だけならよかったのに。まるで自身の心を映しているかのようで、涼は前髪をくしゃりと握りこんだ。
ちらりと目をやる先は、テレビボードの片隅。“入門! 分かりやすい野球のルール!”と書かれた本と、小さな白くまのオブジェがそこにはある。朝陽がまっすぐに射して、今の涼にはやけに眩しい。
友人希望で決まったチェーンのファミレスに到着すると、店内奥から「涼! こっちこっち!」との大きな声が届いた。出迎えてくれた店員に小さく会釈して、早足でそちらに向かう。声でけーよ、と開口一番そう言うと、留学先のアメリカから帰ったばかりの友人、高野康太は悪びれもせず笑う。
「久しぶりだな涼! 元気だったか?」
「おう。そっちは?」
「元気げんき! 久しぶりの日本のご飯も美味しいしね!」
「ファミレスだけどな」
「これが良いんじゃん!」
やっぱり犬っぽい。茶色い髪がサラサラと靡く様は整った顔も相まって、きっとすれ違う女性誰もが振り返るだろうに。背後にしっぽが見えるんだよなとくすり笑みながら、涼はテーブルに置いてあるメニューに手を伸ばす。康太はすでにから揚げを一皿食べたようだが、全然足りないからと次を物色している。
パスタか、ハンバーグか。朝昼兼用なのだからしっかり食べたい。そう思っていたはずなのだが、肝心の腹はと言えばそこまで空いた感じがしない。パラパラと何度かメニューを往復し、呼び止めた店員にサンドイッチが3つ乗ったプレートとドリンクバーを注文した。康太はうどんと海鮮丼を追加する。
よく食べるよな。そう? なんて会話は、高校を卒業して以来だ。
「涼はそんな小食だったっけ」
「お前に比べたら誰でも小食だろ……まあでも、今はあんま空いてない」
「朝たくさん食べたとか?」
「いや、抜いてきた」
「…………」
康太の大きな目から逃げるように、涼は注いできたばかりのコーヒーに口をつける。ふーん、とそれだけ返ったことに安堵すれば、今度は怒涛のような土産話が始まった。
こちらとは違う学習環境、食の違い、フランクな友人たちに、それから野球のこと。高校最後の試合までエースピッチャーだった康太は、引退と同時に選手でいることはやめてしまったけれど。その熱量は変わることがなく、向こうでも時折友人たちとプレイしているとのことだった。
運ばれてきた食事は、瞬く間に康太の腹に収まった。やっぱりすげーな、と驚きながら、涼もサンドイッチを食べ終えた。軽く見えるそれが丁度よくて、次は紅茶をおかわりする。ティーカップの中でゆらゆらとアールグレイのバッグを泳がせていると、「それで?」と目の前の男が頬杖をついて微笑んだ。
「それでって?」
「涼の近況は? 浮かない顔してる理由とか」
「……あー。お前ってそういうヤツだったな」
「それはどうも」
「いや褒めて……るわ」
康太の話はちゃんと聞いていたつもりだが、気もそぞろだったことにずっと気づいていたらしい。高校の時から康太には、なんでも見透かされていたなと思い出す。
怪我をした顔で登校すれば、クラスメイトや図書委員で一緒だった生徒たちも、怯えて目を逸らしたのに。康太だけは「それ痛そう! で、大丈夫?」と笑って変わらずにいてくれた。だから今でもこうして友人でいられるのだ。
人懐っこくて誰にも好かれる康太なら、連絡がないことに沈んでしまう心の対処法が分かるだろうか。そこまで考えたところで、大地とこのまま疎遠になりたくない自分に改めて気づく。
「連絡がなくてさ。するって言われたんだけど」
「……へえ。女の子?」
「男。うちの店の客で、本の趣味が一緒でさ」
「連絡先交換したんだ?」
「ん……こないだな。嫌われてはない、って思ってたんだけどな。分っかんね」
そこまで言ったところで、涼は一旦席を立つ。ドリンクバーへと向かって、今度は氷をたっぷり入れたグラスにソーダを注いだ。外は凍える冬だが話している内にどうにも熱く、今はこれが丁度いい。
席に戻ると、康太のなぜかジトリとした視線が逐一涼を追ってくる。加えてなにか面白くないのか、少し突き出たくちびるがまた見透かすようなことを言う。
「涼変わったね、そんな顔初めて見たし。連絡先交換するの自体珍しいのに、連絡来なくてモヤモヤしてる感じ?」
「……だな」
「そんな気が合うんだ?」
「気が合う……っつうか。白くまみたいで、弟いたらこんな感じなんだろうな、みたいな」
「白くまみたいな弟ねえ……まあ確かに弟ってかわいいし、連絡来なくなったらお兄ちゃん泣いちゃうけど!」
「お前んとこと一緒にすんな」
「どういう意味!? ……でもま、確かに違うな。兄弟関係も色々とは言え、たいていの兄弟はそんな抱える前に聞くしな。なあ涼さ――」
ソイツのこと、本当に弟って思ってる?
康太はひとつトーンを落とした声でそう言って、腕を組んで背中をソファにくっつけた。試すような目を康太に向けられるのは、記憶の限り初めてのことだ。涼は思わず眉を顰める。
確かに弟と言ったのはものの例えで、友人だってなんだっていい。そこまで考えてはたと気づく。例えば、友人である目の前の男から連絡が来なかったら、こんな気持ちになるだろうか。昔はどうだったかもう覚えていないが、なにか尋ねて返事が来ないならともかく、一通目がないくらいでこんな胸が詰まるような想いはしない気がする。
じゃあ、大地だとなんで。そこに至って心の中を見渡したところで、あいにく答えは転がってはいなかった。テーブルの上を彷徨っていた視線を上げれば、頬杖をついた康太がグラスを呷りこちらを見ていた。
「涼が鈍いのは昔からだけど。まさか自分の気持ちも分からないとはね」
「鈍いってなにが」
「教えたくなーい」
「はぁ~?」
べー、と子どもじみた仕草を見せて、康太は小さく眉を下げて微笑んだ。たまにこんな顔をすることが、康太には以前からあった。なにを考えているのかは昔も今も分からないし、立ち入らせてくれない空気すらある。
涼が首を傾げると、康太は今度はふうと息を吐いた。
「ま、俺はもういいんだけどね」
「だからなにが」
「なんでもー。で? したいわけじゃないけどまあアドバイスすると、涼からすりゃいいじゃん」
「……え」
「連絡」
「あー……」
康太の的確なアドバイスに、涼は口籠る。それを考えなかったわけではもちろんない。けれどそれが簡単に出来れば、こんなに悩んでなどいないのだ。
「……もしオレのこと嫌になってたら、連絡来たら困るだろ」
「涼はそう考えるよね。でもさ、そろそろそういうのも終わりにしたら?」
「…………」
「難しい?」
「……決心つかねぇ」
そっか。軽く頷く康太の言葉が涼のつむじにぶつかる。
康太の言う通り、そんなに気になるのなら連絡すればいいのだろう。だがこの一歩の難しさは、涼が二十二年積み重ねてきてしまったものだ。それでも繋がっていたいのなら、自分からアクションを起こすしかない。
ついに頭を抱えてうんうん唸っている涼に、ちなみにさ、と康太が尋ねる。
「その共通の趣味の本ってなに?」
「オレが前から読んでる漫画の雑誌」
水曜日発売で、お前もオレの読んでたろ。そう言えば康太は、すぐに思い至ったようだった。するとスマートフォンを操作しはじめたかと思うと、そろそろ出ようと唐突に言い出す。
「買い物したいの色々あるからさ、付き合ってくれない?」
「急だな。別にいいけど」
「あ、夕方までな。弟と約束あるから」
「はいはい、もう何回も聞いた」
「あは、言った言った」
屈託のない笑顔が、早く行くよと涼の腕を引く。こういうところがある、けれど憎めないのが高野康太という男だった。涼を怖がったことがないのも、憶測で遠ざけないのも。この友人がいてよかったと思ったことは、一度や二度じゃなかった。
康太に連れ出されるまま、電車で移動しながらいくつかの店を回った。以前から康太が気に入っていたアパレルショップ、弟にお土産だとケーキ屋で焼き菓子を買って、それから大きな書店。康太が満足そうに息をついた頃には、空はすっかり暮れ始めていた。そろそろ弟に会う時間なんじゃねえのと涼が言うと、腕時計を覗いた康太が目を眇めた。
「俺さ、探してる本があって」
「さっきの店になかったのか?」
「なかった。ちょっと古いヤツなんだよね。なあ、涼んとこの店行こ」
「は? 別にいいけど……さっきんとこと比べもんになんないくらい小さい店だぞ」
「分かってる、穴場かもじゃん」
帰国前に言っておいてくれれば、取り寄せられたのに。またすぐに向こうに戻るとの話だから、今発注をかけたところで間に合うはずもない。
全く、と呆れた顔を見せながらも、康太と連れ立って夕陽もすぐに音を上げそうな冬の道を進む。時計を確認すれば、夕方の五時過ぎ。白くまのような少年が声をかけてくれる、あの瞬間を思い出すのも無理はなかった。
大地と鉢合わせたらどうしよう。休みだと言った手前と、連絡が来ていないことを悩んでいる気まずさで涼は入店を渋る。そもそも、休日に仕事場へ行ったことも今までにない。どうしても一緒に、と乞う康太をどうにか宥めたかったが、ずるずると引っ張られて自動ドア前まで来てしまった。
「どこにあるか分かんないからさ!」
「店員に聞けばいいだろ」
「涼がいるのに他の人に聞く理由ある?」
「オレ休み!」
店の目の前で、小声に抑えながらも押し問答を繰り広げる。この友人にこんなに困らせられるなんて、初めてのことだ。一体どうしてしまったのだろう。居た堪れない気持ちになっていると、涼の背後からよく知った声が聞こえてきた。
その声が呼んだのは、涼じゃなかったけれど。
「あれ? 康太くん?」
「え? お〜! クマじゃん! うわ久しぶり!」
「へ……」
「あ、猫田さん! 今日休みだったんじゃないんすか!?」
「クマ……あー、うん。え……お前ら知り合い?」
三者三様、ぽかんとした顔でお互いを見合う。いちばん最初に事態を把握したのは、康太だった。もしかして、と言いながら涼と大地を交互に見やり、その視線が大地を捉えてストップする。
「白くまくんって、もしかしてクマのこと?」
「え? えーっと、そうです。で、いいんすよね?」
「……おう」
その呼び方を康太がすることに、なんとも言えない感覚が涼を襲う。大地の話を康太にしたと知られてしまうのが気まずい。
なんとか頷いた涼をよそに、康太が「涼と俺は高校からの友達。涼、クマは俺の弟のダチでさ。うちに遊びに来た時に知り合ったんだよな」と全員が分かりやすいように状況を説明する。相変わらず機転が利く男だ。
自分もいい加減顔を上げないと。涼がどうにか気を取り直した頃、大地が声をかけてきた。
「今日の用事って、康太くんと会うんだったんすね」
「あー、うん。そうだな。康太、今日アメリカから戻って来て、今日しか無理って言うから」
なにを言い訳のようなことを並べているんだろう。言ったそばから悔やんでいると、大地は何故か下くちびるを噛み、苦々しげな顔を覗かせた。
どうしたのだろう? その表情を汲みたいのに、隣に立つ友人が「ふーん」と意味ありげな声を零す。思わず見上げると、ピンと伸ばした親指と人差し指を顎に当て、芝居じみた顔が大地を見ていて。一体なにがなんだか分からない。
「なあ涼、俺さ、昔から勘がいいんだよね」
「うん、知ってる」
「あーあー、まさか俺がこんな役目を引き受ける日が来るなんてなあ。まあ、タダでってつもりもないけど」
「オレは鈍いらしいから、お前がなに言ってるのか全然分からん」
「あは、とりあえずそれでいいよ。そんでちょっとクマ借りるわ。クマ、こっち」
そして今度はわけのわからないことを言って、大地の首に腕を巻きつけるようにして数歩先へと離れていってしまった。本当に、なにがなんだか。
落ち着かない時間が数十秒、いや一分は経ったのではないか。ようやく話が終わった様子を見せたかと思えば、康太がじゃあと手を高く上げる。
「俺帰るわ! 大事な弟待たせてるしな!」
「はあ? いや急だな。別にいいけど」
「クマもまたな」
「……っす」
そのまま体を翻し、康太は嵐のように去っていった。全く、という顔を覗かせつつ、涼は大地を見やる。思いがけない状況でも、会えないはずだった今日に顔を合わせることが出来た。あたたかいもので胸は満たされている。
「クマ、今日も学校と部活お疲れ様」
「あ……っす」
「…………? どうかしたか?」
「あー、いえ……あの、俺、本買ってきます」
「そうだったな。うん。……なあクマ」
目を合わせてくれない様子に一抹の不安を覚えながらも、足早に目の前を過ぎようとした大地を引き止める。
後ろ向きなオレは今日で終わり――完璧に出来る気はしないが、少なくとも大地には誠実でありたかった。
「そこで待ってる。いいか?」
「っ、っす。すぐ行きます」
「……ん」
ひとまずと送り出す手が、寒空の下でなぜか熱い。
「猫田さん!」
「おう。はいこれ」
「あ。っす、あざす。あの俺、今日飴持ってきてなくて」
「気にすんな。オレ急に来たんだし」
「でも……」
「いいから。今日も学校と部活お疲れ様。って、さっきも言ったか」
店内に入っていった大地は、ものの一、二分で公園内へ戻って来た。よほど急いだのだろうか、小さく肩を弾ませる姿に買ったばかりのココアで労う。
沈黙に妙な心地を覚えつつ、とりあえずとふたりでベンチに腰を下ろした。いつもの公園、いつもの座り位置なのに、気まずい空気が漂う。
ココアと一緒に買ったコーヒーの缶をジャケットのポケットに突っこんで、涼は両手を膝に置いた。クマ、と言いかけた声が喉に貼りついてしまって、みっともなく枯れた声を咳で払う。
「え、っと……元気してたか?」
「はい」
「そっか」
「っす」
「…………」
よそよそしい空気が漂う。なぜ、いつもみたいに笑ってくれないのだろう。関わるのが嫌になったのかもしれない。そう思ってしまうから酷く怖い。だが、卑下する自分を終わりにしたい。
意を決し、大地のほうへ体を向ける。乾いたベンチはパンツ越しでもひどく冷たい。
「あのさ、クマ」
「はい」
「え、っと……なんで連絡くれなかったんだ?」
「え……」
「っ、あー、悪い! 変なこと聞いた! でも、その……漫画以外の話もしちゃうかもとか、色々言ってくれただろ。だから、その……」
「もしかして……待ってくれてたんすか?」
「……うん。そういうこと、だな」
歯切れの悪い返事しかできない。いかにも慣れていない感じが恥ずかしく、消えてしまいたくなる。6つも年上なのにと、呆れられてしまうだろうか。
だがどこか上擦った声が、涼の耳に届く。
「お、俺、本当はすぐ連絡したかったんすけど! でも、なに送ろうかなとかすげー考えちゃって……ごめんなさい、今めっちゃ後悔してます」
「クマ……」
「めっちゃ浮かれて、何回もアプリ開いてたんすけど……でも今度会えないしなって、悲しかったりもして……」
「……ふ」
本当にそうなのかとか、嫌だったのを言い出せなくて誤魔化しているのではとか。疑う心は不思議となかった。大地が必死な顔をしているからだ。
そう分かればたちまち、申し訳ないと縮こまっている大地の心をほぐしてあげたくなる。いつもするように手を滑らせれば冷たくて、その短い髪を幾度も撫でる。
「……もしかして笑ってます?」
「うん、ごめん」
「俺、本当にそればっかり考えてたんすよ?」
笑われるのは不本意だと、大地の頬が薄らとふくらむ。涼の胸はあたたかくなるばかりだ。
「うん、ありがとな。えっと、じゃああのアイコンは? 今朝見たらオレが描いた白くまになってて、びっくりした」
「あれは……猫田さんのアイコンが俺が貼ったシールなの、嬉しいなってずっと思ってて。会えないし意気地なしでメッセージも送れないけど、せめておそろい、みたいな? いや全然おそろいじゃないんすけど」
「はぁー……そっか。連絡なくてすげーへこんでたんだけど、アイコンがあれになってたからさ」
「呆れました?」
「ううん、違う。嬉しかった」
そうだ、嬉しかったのだ。素直にそう思っていいのかが分からなかっただけで。大事な野球関連から変えてまで、自分のイラストにしてくれたことに胸の奥はどうしようもなく震えていた。
ひとしきり撫でた手を引っこめて、それから涼は正面へと向き直す。喜んでばかりはいられないからだ。
「でもさ、待ってばっかいないでオレが送ればよかったんだよな。人間関係が終わるのは慣れてるつもりだったんだけど、クマとはなんか……それは嫌で。それでもやっぱ出来なかった。悩ませてたみたいだし、責めるようなこと言ってごめん」
「……いえ、送るって言ったのは俺だったんで」
オレたち謝ってばかりだなと涼が言うと、そうっすねと大地は笑ってくれた。おあいこです、と言ってくれる優しい白い息が、宙に消えていく。名残惜しく目で追いながら、それじゃあ帰ろうかと立ち上がる。
「今日発売のはオレもまだ読んでなくて。帰ってから読むから、えっと。感想、送ってもいいか?」
「っ、はい! あ、もしよかったらっすけど、通話しながら一緒に読むのはどうっすか?」
「え……なにそれ。めっちゃ楽しそう」
ずるずると砂を引きずる靴音が、帰りたくないと鳴いている。大地の提案は涼には思いつかなかったもので、早くやってみたいなとすでに楽しみになってしまう。
垣間見る見知らぬ世界に感心し、けれど返らぬ返事に後ろを振り返る。すると少し離れたところに、立ち止まっている大地の姿があった。どうしたのだろう。首を傾げると、大きな一歩で一気に近づいてきた。あまりの近さに、涼は思わず後ろにのけ反る。冬の公園に外灯が射す影は、今にもくっついてしまいそうだ。
真剣な顔をした大地は、くちびるをきゅっと引き結んでいる。なにを考えているのか、見落としたくない。伺うようにじっと見つめていると、そろそろと上がった大地の手が涼の髪に触れた。
撫でられていると気づくのに、涼は数秒を要してしまった。
「……クマ? どうした?」
「……撫でてます」
「っ、なんで……」
「猫田さんがいつもしてくれてることっすよ」
「それは、そうだけど……」
どうしよう、どうしよう。突然の出来事だからか、自分の体なんかじゃ到底支えきれそうにないほど、心臓が暴れている。くらくらと目眩まで起こしそうなくらい、息が短く途切れだす。こみ上げてきそうな涙に困惑する。
なんだこれ、なんだこれ。体が打ち震えるほど喜んでいるのが分かる。甘い感覚が体中を駆け巡っている。
優しくありたい、それがこの少年に出来るのが嬉しい。そう思ってきたのに。他の誰でもない大地に同じように、あるいはそれ以上におおらかな心でそうされると、この胸はこんなにも満たされるものなのか。
思わず手を口元に宛がって見上げると、下くちびるを薄く噛む大地と出逢う。どこかで見たばかり、どこだったっけ。そうだ、康太と別れるすぐ前の――
「あの……猫田さんにお願いがあって」
「ん? なんだ?」
「俺も……涼、さん、って……呼んでもいいですか」
「へ……」
「あと、俺も名前で呼ばれたい。クマも嬉しいけど」
「あ、えっと」
「……涼さん」
「ちょ、クマ、待っ……」
「涼さん。だめ?」
「っ、だめ、じゃない。わかった。わかった、から」
「マジ? やった」
呼吸ってどうやるんだったっけ。気の利いた言葉も浮かんでこない。本に没頭して、いつも言葉を追っているのに。全てが霧散する。
落ち着かない視線を彷徨わせていると、ようやく大地の手があるべき場所へと戻っていった。名残惜しいようなほっとしたような、相反する想いがないまぜになっているのを感じながら、今度こそ帰んなきゃという大地に手を振る。
「あとで電話します!」
「うん」
「じゃあまた」
後ろ向きに歩いていた大地が前を向いたのを確認してから、大地は振っていた手をそのまま自身の頭へと持っていく。撫でられた髪に触れるだけで、ぴりぴりと痺れるこの感覚はなんだ。約束したばかりのその名を「大地……」と口の中で転がせば、妙に甘ったるくて。両手で覆った顔の隙間から、細く長く息を吐き、その場に蹲る。
なんなんだろうな、これ。
読破してきた本を参考にしようとすると、恋、なんて二文字が浮かんできそうで。まさか、いやでも。
そうだよ、と名付けてしまうのも、それは違うと否定するのも。そんなものまだ一度も経験がないのだから、涼には難しい。