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2歳頃。知育に興味を出し、色々なものを買いだした。習い事に行かせた。運動も、勉強も。母は積極的に外出した。楽し気に出かけ、楽し気に帰ってくる。父は変わりように驚いた。
「何かあったのか?」
「この子はきっといい子に育つ。そう思えたの」
漠然とした返答だった。どこか確信がある返答だった。父は前向きになった母を嬉しく思い、そのきっかけがわからない、はっきり言ってくれないことを少し寂しく思いつつ、自分もできることをやろうと決心した。父は変わらず仕事に邁進した。
おかしいことに気付いたのは、珍しく早く帰った時のこと。
父が日が暮れる前に家に帰った。母は毎日のように子を習い事に連れて行く。今日も習い事だと言っていた。家には誰もいないだろうと。仕事で疲れた体を労わるため、夜は妻をゆっくりさせるため、風呂に入ってしまおうと思いながら家の鍵を開けた。
中には、母ではない老齢の女性がいた。
「おかえりなさい。旦那さん」
「!? 誰だ!?」
「わたくしは奥様の友人です。お出かけ中の間、わたくしがこの子の面倒を見ていました」
「娘から離れろ!!」
「おや、怖い。そうやって現状しか見ないから、奥様の不安を取り除いてあげられなかったのですね」
「な、にを……!?」
「少々心配ですが、わたくしは本日は退散いたします。奥様によろしくお伝えください。失礼いたします」
何食わぬ顔で父の横を通り過ぎた。父は扉を勢い良く締め、カギとチェーンロックをかける。急いで子に駆け寄った。
「お母さんは!?」
「おにいちゃんとおでかけ……」
母の言う習い事は、兄にだけ行われていた。娘はいつも留守番していたと、妹は言った。
「今の人は?」
「おかあさん」
「……え?」
「おかあさん……」
「なにを……言って……。お母さんとは別の人だよ」
「わたしのお母さんは、ふたりいるんだって」
父は混乱した。娘は自分を父と思っていることに変わりはないことには安堵した。詳しい話は母から聞こうと、帰宅を待った。
帰ってきたのは、日が暮れかけてから。
「ただいま」
「お帰り」
「あっ! おとーさんだ! おかえりー!」
兄の様子にも安堵した。自分はこの子たちの父親だ。夢じゃない。現実だ。妻の顔を見た。能面の様に張り付いた笑顔をしていて、父の息が止まりかけた。
「話をしましょう」
そう言ったのは、母だった。
その日の夜までは『家族』でいた。珍しい父との夕食に、子どもたちは興奮していた。母は兄妹に平等に接している。『母親』だった。余計に混乱した。
子どもたちが寝静まってから、夫婦はいつものように会話した。
けれど、やはり。雰囲気はいつもと全く違う。母の不気味な能面のような顔に、父は背筋が凍る思いをしていた。
「なぜ娘を置いて行った」
「娘には必要ないから」
「必要ないことないだろう。嫌がったならまだしも、置いて行って他人に面倒みさせるようなこと……」
「息子は選ばれた存在だから」
「……何を」
「息子は選ばれた存在なの!! 神様に選ばれた、高貴な存在!! 息子は『神様の代行者』になるのよ!! それには時間と教育が必要なの!! 娘を見ている時間はないのよ!!!」
「お前……本気で言っているのか?」
父は唖然とした。血走りった目で、唾を飛ばしながら喚く母を、軽蔑の目で見るしかなかった。自分の子だ。自分の子は、そんな変な役割なんて持っていないはずの、普通の子だ。
どうして母はそんなことを言いだしたのか。問いただしたら、家にいた女がある場所を紹介してくれたと。そして、子のことを話した。悩みを打ち明けた。そして、言われた。
「男児は、未来で神の如き所業を行う存在となる。神を咎める存在はいない。唯一無二の、神の代行者となるだろう。すべてを与えよ。神の代行者となるべくふさわしい存在として育てるのだ。決して傍を離れるな」
「女児は、神の代行者を導く存在となる。決して逃がすな。決して殺すな。欲したものはすべて与えよ。それは巡り巡って、神の代行者に必要なものとなる」
憑りつかれた様に繰り返す母を、父は憐れんだ。そして後悔した。どうしてこうなってしまったのか。何が間違っていたのか。「幸せに暮らそう」と言っていた妻は、どうしてしまったのか。
離婚した。父は母とともに暮らすことができなかった。母も、『育児』に協力しない父を「いらない」と言った。子はそれぞれに引き取られた。父は二人とも引き取るつもりだったが、母が譲らなかった。「息子は絶対に渡さない」と言い張った。
父はせめてもの妥協案として、近くに住むことと面会を頻繁に行うことを条件にした。養育費ももちろん払うと。母は了承した。
母は息子と。父は娘と。新しい生活を始めた。
幸せな家庭は、いつの間にか崩れていた。