保健室は無人だった。ここに来ればふたりきりじゃなくなるから、この絶妙で最悪な空気と俺の荒れ狂った心も落ち着けると思ったのに。

どうすっかな…マジで。

ひとりふつふつと湧いてくる焦りに耐えかねていたら、柊がくいっと俺のジャージの袖を引っ張った。

「なぁ、遥風」
「…あ? なんだよ」

振り向いた俺は、思ったより低い声が出てまた焦った。
だが柊は、それを上回って俺を混沌の思考に突き落としたのだ。

「もう1回してよ」
「……は?」

コイツ…何言ってんの…

「さっきの、キス、気持ちよかった。なんか落ち着くっていうか…安心感があって」
「おまえ…馬鹿なの?」
「…だって、先にキスしてきたのは遥風じゃん。おかげで楽になったけどさ、服使うとか、他にいくらでも対処法あったのにまさかのキス、選んだじゃん」
「そ、れは…おまえが、死ぬんじゃねーかって、焦っ、てて…」
「遥風は…嫌?俺とキスするの」

俯いていた柊が顔を上げて、感情を持たない面持ちで問いかける。俺は言葉に詰まった。

「…い、いやにきまっ…て…んだろ…。何が楽しくて野郎どうしでキスなんかしなきゃなんねーんだよ」

そうだろ?俺たちは男同士で、キスしたいとか興奮するとか、そんなの、あるわけないだろ。

なのに、なんだよその顔。なんでそんな、寂しそうな顔してんだよ。ふざけんな。

「俺は…」

柊が何か言いかけてまぶたを伏せる。

「…いや。遥風、助けてくれてありがとう。今回はさすがに焦った。遥風いなかったらやばかった」
「……無茶、するからだろ。バーカ」

柊がいつもの雰囲気に戻った。俺はその雰囲気についていくには、平静を装うには、心臓がうるさすぎた。
キスとか、そんなの有り得ないだろ…?
鼓動が速いのは焦ったからで、全身が火照っているのはさっき走ったからで、――

保険医が戻ってくるまで俺はそうして言い訳を探すのに必死になった。
柊は顔色ひとつ変えずに、ただ黙っているだけだった。