翌日。今日も昼休みになると瀬名がやって来た。

「まーた来たな」
「来ますよ、もちろん」

 いつものように音楽を聴いて、他愛もない話をする。階段下の窓を開けたらいい風が入ってきた。流れてくるメロディに合わせてつい口遊(くちずさ)んだら、瀬名がじいっと見てくるものだから少し恥ずかしかった。

 昼休み終了のチャイムが鳴り、階段を下りる。「ちゃんと授業出ろよ」なんてたまには先輩ぶってみたら、瀬名はどこかいたずらっぽい笑顔を覗かせた。手に持っていた教科書をひらひらと振ってみせる。

「この後音楽なんすよね」
「へえ、そっか。音楽室?」
「っす。なんで、途中まで一緒にいいすか」
「おう。てか、いいも悪いもねえだろ。方向同じなんだし」

 音楽室は今いる場所の隣の棟にある。ここからだと、三年の教室の廊下を通るのが早い。

 考えてみれば、瀬名と一緒に歩くのは初めてだ。ほんの少しの距離でも、不思議な心地がする。

「先輩は次の授業なんすか?」
「んー、英語じゃね? 多分」
「はは、多分」

 三年の教室が並ぶちょうど真ん中あたりに、音楽室へと続く渡り廊下はある。あと数歩でそこへ到達するというところで、桃輔は床を擦るように歩いていた足を止めた。急に立ち止まったものだから、隣を歩いていた瀬名が二歩ほど先でこちらを振り返る。そのすき間を大きな一歩で埋めて、背を屈めて桃輔の顔を覗きこんできた。

「先輩? どしたの?」
「…………」
「おーい、笹原先輩?」

 オレのこと見えてる? と言いながら、目の前で瀬名が手を振ってくる。見えている、見えているのだけれど、なんと答えればいいか分からないのだ。

 廊下の先に桜輔がいる。桜輔のクラス、二組の前だ。そちらに背を向けている瀬名は、まだ気づいていないようだ。すぐそこに、真の一目惚れの相手がいることに。

「あー、あのさ」
「っ、先輩?」

 桃輔は思わず、瀬名の両腕を掴んだ。肩をぴくりと跳ねさせた瀬名が、丸くした目で見つめてくる。

 瀬名が桜輔の存在を知ったら、憧れの相手はあっちだと気づいたら。昼休みになってももう、自分の元には通ってこないだろう。だって意味がない。いくら顔の作りが同じでも、双子の弟になんて用はないはずだ。

 それを考えると、胸のところがきゅうと痛むような感覚がする。

 別に寂しいわけじゃない。そうだ、そんなんじゃない。ただ、そう、面白くないだけだ。

 突然現れて、大事なことに気づかず人違いをしたままで、散々振り回されたのに。それじゃあさよならとあっけなく去られるのは、そう、面白くないだけ。付き合ってやった対価にもう少しくらい騙したって、きっと赦されるはずだ。

「あのさ、水沢ってなんか部活やってんだっけ」
「入ってないっす」
「そっか」

 桜輔は弓道部に入っているが、部活での接点はなし。あの人望の割に生徒会にも所属していないから、全校生徒の前に立つこともない。しばらくは桜輔の存在を知らないままでいられるだろう。

 ひとり考えこんでいると、またチャイムが鳴った。五時間目の五分前を報せている。

「先輩、オレそろそろ行きますね」
「あ、うん」

 渡り廊下のほうへと瀬名が歩き出す。そのまま見送るつもりだったが、背中に向かってつい叫ぶ。半ば無意識だった。

「……瀬名!」
「え……先輩、今オレの名前……」

 弾かれたように瀬名が振り返る。

 なぜだろう、今そう呼んでみたくなった。瀬名の意識をしっかりと、自分に向けさせたかったのかもしれない。

「なんだよ、嫌だった?」
「っ、嫌なわけない、すげー嬉しい」

 瀬名は大きな手で口元を覆って、廊下へと視線を逃がしている。かわいいところあるじゃん、なんて思う自分に桃輔は静かに驚く。からかいたくなって、瀬名へと一歩近づく。

「別にお前も呼んでくれていいけど。俺のこと、名字じゃなくて、名前で」

 名字でも問題はないけれど、笹原なのは桜輔だってそうだ。名前のほうが、自分だけを呼んでくれてる気がしていい。とは言え、言った後から居心地が悪くなってきた。だってこんなの、甘えているみたいではないか? 「別にいいけど」なんて言い方が、ツンデレのテンプレみたいでこっぱずかしい。時間を巻き戻せるならぜひやり直したい。徐々に消え入りそうな声になってしまった。だが瀬名は、それを丁寧に拾ってくれる。

「……マジすか」
「……まあ、うん」
「じゃあ……桃輔先輩?」
「……モモでもいいよ。ダチとかもそう呼ぶし。まあ、お前の好きなほうで」
「うわー、嬉しいっす。じゃあ……モモ先輩、って呼びます」
「ん、わかった」
「やば、嬉しい。えっと、じゃあ、遅れるんで。本当に行きます」
「おう、また明日な」
「はい。あ、LINEするかもなんで、また後でって言ってほしいっす」
「ふはっ。はいはい、また後でな」

 何度も振り返る瀬名に、桃輔もその度に手を振る。つい顔が緩んでしまうのが分かって、誤魔化すみたいに片手をポケットに突っこんだ。

 部活にも委員会にも所属していないから、後輩との交流そのものが初めてだ。だから真新しい経験に、胸が浮ついているだけ。鼓動がはやくなっている理由は、ただそれだけだ。

「モモ」

 感情のありかを確認していると、突然後ろから声をかけられた。桃輔は振り返るのと同時に、一歩後ろへと距離を取る。

 学校では必要以上に話しかけるなと言ってあるのに。はいはい、と軽く了承したくせに、そんな約束は知らないと言わんばかりに澄ました顔で立っている。

 双子の兄・桜輔は、そういう男だった。

「桜輔……なんか用かよ」
「さっきの一年生? 仲良さそうだったね」
「……はあ」

 ため息を吐き、桃輔は渡り廊下のほうをもう一度見やる。瀬名の姿はすでにない。桜輔を見られずに済んだようだ。安堵の息を音もなく吐く。

 とは言え桜輔にだって、瀬名の存在を知られたくはなかった。そもそも、仲がいい兄弟ではない。幼少期の頃こそいつでも一緒に遊んでいたが、徐々に生じた能力の差に劣等感ばかりを覚え、桜輔とは距離を置くようになった。友人や後輩のことまで、逐一話すはずがないのだ。

「桜輔に関係ないだろ、ほっとけよ」
「そんなに冷たくしなくても。なあモモ、俺はモモと……」
「もう教室入んなきゃやべえぞ」
「…………」

 桜輔の言葉を遮る。だが分かっている、桜輔がなにを言いかけたのか。子どもの頃のような関係に戻りたいのだろう。こちらにそんな気は更々ないのに。

 返事も待たずに教室のほうへと歩き出し、だがもうひと言、と思い立ち振り返る。

「桜輔」
「なに?」

 桜輔はまだ元の場所に立っていた。名前を呼んだだけなのに、嬉しそうに一音あがったトーンにむしゃくしゃする。

「あのさ、さっきのヤツに話しかけたりすんなよ」
「どうして?」
「どうしてもだよ」

 瀬名に関わるなよと釘を刺す。瀬名の目に映らないようにしても、桜輔のほうからアクションを取られたら終わりだからだ。

「……そう。分かった」

 先ほどとは打って変わって、声色が下がったのがよく分かる。それもまた、無性にイライラしてしまう。伏せられた目をなんだか見ていられなくて、逃げるように自分の教室へと入った。



 その夜。

 夕飯も風呂も手短に済ませ、冷蔵庫に常備されているアイスティーを大きめのグラスに注ぐ。部屋に籠って思う存分ギターに触れるための準備だ。そこに桜輔が帰ってきた。時計を見ると、十九時半過ぎ。帰宅部でたまにバイトをしている桃輔はもっと遅い日もあるが、部活をしている桜輔の帰宅は大体この時間だ。

「オウくんおかえり」
「ただいま」
「ほら、モモくんもちゃんとおかえりって言いなさい」
「はいはいおかえりー」

 母の出迎えに笑顔を返す桜輔の隣をすり抜け、階段を上がる。上手くやれば顔を合わせずに済むのだが、今日はのんびりしすぎたようだ。

 グラスを呷りながら二階の自室に入り、どかりと床に腰を下ろす。親のことは嫌いじゃないが、やはり比べられている感覚は拭えない。

 “モモくんももうちょっとしっかりしなさい、オウくんみたいに”

 どんな言葉の裏からも、そんな本音が響いてくるようだった。

「はあ……」

 大きく息を吐いて、気を取り直すために首を振る。ギターを持つと、不思議と心が落ち着く。適当なコードを鳴らして、合わせて口遊む。

 ギターを購入した高一の桃輔が次にしたことは、できる限りの防音を自室に施すことだった。テープにシート、カーテン――バイト代が入る度に部屋を作り変えていった。お金に余裕がある時はカラオケボックスで練習することもあるが、自室でも気兼ねなく弾けるようにしておきたかった。

 少しも音を漏らさないなんてことは無理でも、音楽のためのそれは桃輔の心も守ってくれる壁になった。

 スマートフォンを小さな三脚に取りつけ、目の前に置く。レンズの先は手元で、顔が映りこまないように入念にチェックする。今日撮影するのは、男性四人組バンドが唄う失恋ソングだ。いつも心を惹かれるのは、切ない心情を奏でる歌だった。失ったものを憂いて、嘆いて。失恋はおろか恋をしたこともないけれど、鬱屈としてばかりの胸にたしかに共鳴する響きがある。

 録画を開始し、練習した通りにギターを弾く。唄うのは気持ちがいい。唄う世界は物語で、この瞬間だけは桃輔は“僕”であり“俺”で、時には“私”だったりで。約五分ほどの間は、誰と天秤にかけられることもなく主人公だ。

 思った通りに唄えているか、顔は映りこんでいないか。確認しては、三度唄い直した。納得がいったら、文字入れだとかの編集は一切せず、曲名とアーティスト名をキャプションに明記しインスタに投稿する。すると間もなく、コメントがふたつ送られてきた。

「はは、早いな」

 送ってくれたのはよくメッセージのやり取りもするアンミツと、毎回必ずコメントをくれるcherryというアカウントだ。cherry自身は写真の投稿すら一切ない。フォローもフォロワーも、momoひとりだけ。最初こそ怪しむ思いもあったが、今ではアンミツと同じく音楽を続けるうえでの心の支えになっている。

「ありがたいよな、ほんと」

 ひとしきり噛みしめてから、ふたりへどう返信するか考える。歌を唄う自分なら、現実に戻ってもこうして誰かと繋がっていられる。そう思える貴重な時間だった。