高校三年生の春がやって来た。
 神奈川県の公立、偏差値は中間あたりに属する高校。クラス替えはなく、変わり映えのしない教室。登校初日の日、今日は授業もなく午前で終わりだが、桃輔は帰りのホームルームの後も教室に残っていた。よくつるんでいる森本(もりもと)尾方(おがた)が、他のクラスメイト数人と騒いでいるからだ。
 別に先に帰っても問題はないが、急ぐ理由も特にはない。浅く腰かけた椅子に、だらりと体を預ける。スマートフォンを眺めながら、あくびがこぼれた。
「おーいお前ら、そろそろ帰れよー。これから入学式だぞ」
 担任が廊下から顔を出した。こちらも二年の時からの持ち上がりだ。全員の顔を見渡して、早く帰るようにと急かしてくる。
 ああ、入学式。確かにそんなことを言っていたっけ。ろくに聞いていなかった始業式の断片を思い出しながら、これ幸いと立ち上がる。
「帰る」
「じゃあ俺らも帰るかー!」
 それならば、とついてくる森本と尾方と連れ立って外へと出た。

 くたびれてきたローファーを履いて、昇降口を出る。ふと体育館のほうを見れば、新入生の保護者たちで賑わっている。あんな頃もあったな、なんて耽るほどのいい思い出もなく。ブレザーのポケットに手を突っこんで歩き出した時だった。
 思わずびくりと肩が跳ねるような大きな声が、桃輔の背中にぶつかった。
「先輩!」
「ん?」
 桃輔は思わず振り返った。森本も尾方も、周りにまだ残っていた生徒たちも。誰に向けられたものか分からなかったからだ。だが声の主らしい人物は、桃輔だけを見つめまっすぐに歩いてくる。
「え、俺?」
 178センチある桃輔よりも上背のある体で、真新しいブレザーを身に纏っている。新入生だろう。長めのショートを軽くセットしていて、ちょっと垂れた目は穏やかな雰囲気を感じさせる。陽キャのグループに属していそうな、ひと目で「ああ、モテるんだろうな」と思わせる顔立ちだ。
 そんなヤツが、一体なんの用だ? いや、本当に自分を呼んだのだろうか。
 他の者たちと目を合わせつつ首を傾げたが、件の男は桃輔の前で立ち止まった。どうやらやはり俺らしい、と身構えたのだが。
「先輩に会いたくてこの高校に入りました」
「……は?」
「昨年の学校説明会の時、一目惚れしたんです」
「あー……人違いだな」
 なんだ、やっぱり自分じゃない。まっすぐに目を見て言われた言葉たちだが、そのどれもが対象は自分ではないのだと、丁寧に教えてくれていた。
「森本、尾方。先帰ってて」
「そ? わかった」
「じゃあ明日なー」
「おう」
 なんだか面倒なことになりそうだなと踏んで、友人たちにそう告げた。それからため息をひとつ吐く。なにか言いたげな目の前の後輩に、隠すこともなく。一瞬ムッとした顔を見せたと思ったら、一歩距離を詰められた。
「人違いなんかじゃないっす」
「いや、絶対に違う」
「違わない」
「……はあ」
 温和なようでいて、中々に頑固者なのかもしれない。だが、あり得ないことを受け入れるわけにはいかないのだ。
 この初々しい高校一年生が一目惚れしたという相手は、自分じゃない。間違いなく、兄のことだ。
 桃輔には同じ高校に通う、双子の兄がいる。笹原(ささはら)桜輔(おうすけ)。桃輔とは違い勉強ができて、入部している弓道部でも優秀な成績を残している。おまけに人望もある。顔こそ瓜ふたつの一卵性で、切れ長の少し色素の薄い瞳も、スッと通る鼻筋も同じだ。イケメン双子だなんだと一部で騒がれているのも知ってはいるが。
 中身は雲泥の差。誰もがふたりを比べて、桜輔の方を褒めたたえる。
 みるみる膨らむ劣等感から少しでも逃げたくて、桃輔は高校に入って間もなく見た目を変えた。茶色に染めた髪にゆるいパーマをかけ、桜輔は流している前髪をセンターパートにセットする。ピアスの穴もいくつか空けた。一瞬見ただけでは双子だと分からないくらいには、別々の人間になれたと桃輔は自負している。
 それでも目の前の彼が心を捕らわれたのは自分ではない、桜輔と間違えている。桃輔はそう断言できた。なぜなら、受験生向けの学校説明会に関わってなどいないからだ。その反面、桜輔は教師に頼まれてなにかしらの仕事を請け負ったのだろう。聞いてなどいないが、アイツのことだからと簡単に察することができる。避けるように話さなくなっていたって、どう転んでも双子だ。手に取るように分かってしまう。
「あのなあ、俺はその説明会……」
「おーい、そこにいるのは一年か? 早く教室に向かいなさい、もうすぐ入学式始まるぞ」
 とにかく、お前が会いたかったのは自分じゃない。よく見ないと分からないくらいになったとは言え、見間違えるヤツも未だにいる。その証人のひとりがこの男、というわけだ。 
 それを簡単に説明しようとしたのだが、教師に声をかけられてしまった。しょっぱなから入学式をサボって目をつけられでもしたら、さすがに可哀想だ。それを強要してまで説明しなくても、じきに気づくだろう。
「行けよ」
「いや、でも……」
「いいから、ほら。怒られんぞ」
「…………」
「同じ学校になったんだからまた会えんだろ」
 自分ではなくて、本来声をかけるべきだった桜輔に、だけれど。暗にそう含んで言えば、納得してくれたようだった。会釈をした一年は来た道を戻り、だが数歩先で再びこちらを振り返った。
「オレ水沢(みずさわ)っていいます、水沢(みずさわ)瀬名(せな)。また絶対に声かけるんで!」
 返事はせず、早く行けと促すように手をひらひらと振る。
「なんなんだアイツ……」
 
 なんだかどっと疲れた。大きなため息と一緒に首の後ろを掻き、ポケットからスマートフォンを取り出す。すると、SNS上にメッセージが届いていた。
「あ……」
 歩きはじめていた桃輔は立ち止まり、スマートフォンを操作しつつもう片手を口元に当てる。緩んでいるだろうそこを誰にも見られないように。
 音楽が好きだ。様々な曲を聴くが、特に平成のジェイポップは聴いていても唄っても心地がいい。好きが高じて、高校一年生の夏休みにはバイトを詰めこんでギターを買った。
 今ではSNSに弾き語りの動画を投稿している。アカウント名は“momo”。顔出しはせず、頻度は月に1~2曲程度。フォロワー数も動画の再生数も決して多くはないが、誰と比べられるわけでもない今くらいがちょうどいい。だが新曲をアップした際は必ずコメントをくれるアカウントと、こうやって時折メッセージを送ってくれるアカウントがそれぞれひとつずつある。
<momoさんこんにちは。今日から新しい生活が始まるので、朝からmomoさんの歌を聴いていました。そうじゃなくても毎日聴いてるんですけどね。それでは、緊張しますが頑張ってきます>
 そうメッセージをくれたのは、“アンミツ”というアカウントだ。ペットの三毛猫の写真だけが投稿されているアカウントで、桃輔が動画の投稿を始めて間もない頃にフォローしてくれたのをよく覚えている。猫好きの桃輔もすぐにフォローを返して、それ以来の付き合いだ。顔どころか男か女かも、どこに住んでいるのかも知らないが、確かに心の支えになっている。
<アンミツさんいつもありがとうございます。また聴いてもらえるように頑張ります。猫の写真もまた楽しみにしています>
 返事を送信して、再び歩き始める。初対面の新入生に妙なことを言われるハプニングはあったが、新しい春の始まりはまずまずだ。