後輩たちの悩みを聞かされたことで、次の日の朝、好天だったのにもかかわらず、気が重かった。
 大学に向かうため、新大阪駅に向かっている途中、携帯が振動した。見るとスケジュールアプリからの通知だ。
「そうだった。今日は会社に行かなきゃなんないんだ」
 せっかくの体育の消化日和だというのに。
 見知らぬ大人たちとの会合を想像して、さらに憂鬱になる。
 JRから御堂筋線に電車を変え、目的地までわずか十分で到着だ。学校まで一時間近くかかるいつもの感覚で家を出たこともあって、約束まで時間が余った。
 普段、食事や買い物で出るのは梅田が圧倒的に多く、そこから南へは、ほとんど行ったことがない。
 淀屋橋は、地下鉄で一駅しか離れていないにもかかわらず、周囲はすっかりオフィス街の様相だった。普段から、身なりをあまり気にしない性格だと自覚しているが、柄物のポロシャツに、パステルカラーのショートパンツで、さすがに場違いな感じが否めない。
「せめてサンダルじゃなくてスニーカーにしとけば良かったかな」
 だが、悩んだのは一瞬だ。平服でいいと言われていたことを思い出し、すぐに気を取り直した。
 涼むためと時間つぶしにカフェを探して間もなく、目の前に現れた書店でも同じ目的が達成されることに気づいて、迷わず中に入った。
 あてもなく店内を散策していると、普段は素通りするビジネス書が集まっている書棚に意識が向いた。
「そういえば、社外取締役って、普通の取締役と何が違うんだろ」
 それらしいタイトルが並ぶ中の一冊を手にする。前書きを読んでみたが、授業で見聞きするのとは違う用語ばかりで、頭にまるで入ってこない。
「3500円?高っ!」
 背表紙を見て、すぐに戻そうとしたが、前日に得たばかりの一万円が、財布にあることを思い出した。
「人生で一度くらい、無駄な買い物をしてもいいだろう」
 本屋を出て、出勤先のビルまではほんの数分だった。
 さほど大きくはないが、小綺麗な複合オフィスビルだ。受付の横にはIDゲートが見える。
 ロビーにあるプレート表示で会社名を確認し、壁際に移動した。
 会議が始まるのは午前十時。まだ二十分ほどある。
 買ったばかりの本を開き、苦労しながら第一章を読み終えた頃、五分前になった。
 メールの指示通り、受け付けを済ませ、七階へと移動する。役員会議室を見つけるのに多少苦労し、ドアをノックしたのは十時ちょうどだった。
「お入り下さい」
 女性の声で、そんな言葉がかけられるのだろうとぼんやり予想していたが、いきなり扉が開いた。
 立っていたのは中年の男性だ。
「誰?」
「誰って……。名前は江坂で――今日ここに来るよう言われたんだけど」
 そこまで口にして、岸辺たちから敬語を使うよう要望があったことを思い出した。
「江坂?」
 男の視線が、綺里の頭から靴までを移動したかと思うと、顔に風を感じるほど、勢いよく扉が閉まった。
 手続きに間違いがあったにもかかわらず、寛大な心で来てやったのだ。低姿勢で迎えられるものだと、そう信じていたが、今のところ、その予想はまるで当たる気配がない。
 しばらくして、また何の前触れもなく、今度はゆっくりと視界が開けた。
「入って」
 同じ男がそう言って体を半身にする。その前を通り、おそるおそる先へと進んだ。
 そこは、二十人ほどが入れる程度の大きさの部屋だった。
 真ん中にコの字型に長机が設置され、おおよそ一つ置きに七人の人間が座っていた。全員がスーツを着た男性。多くは年配で、入り口側の角にいたのが一番若そうだったが、それでも三十はくだらない見た目だ。
 綺里を招き入れた男は、前方へと移動して、スクリーンのそばで立ち止まった。
「空いてるところに適当に座って下さい」
 どうやら司会の役割らしい男は、今度は敬語でそう言った。
 そこにいた全員の、値踏みするような視線が突き刺さる。
 サークルの新人歓迎会などとは雰囲気が違うだろうなとは想像していたが――まさかこんな緊迫した空気だとは、思ってもみなかった。緊張したり、物怖じすることのない人間だという烙印を涼葉に押されている身だが――さすがに居心地の悪さが限界を超えている。
 三つ連続で空いた席がなく、どこに座っても誰かと接することになる。
 仕方なく、一番若い男の隣の椅子を引いて間もなく、ようやく、聴衆の顔が正面へと向いた。
「それでは、定刻より少し遅れましたが、取締役会を始めさせていただきたいと思います」
 開始の宣言の直後、彼の向かいに座っていた男が、ゆっくりと立ち上がった。
「その前に説明しといたほうがええやろ」
 五十前後の浅黒い肌。太い首に、金色のネックレスが目立ち、勝手な印象だけで言えば、老人たちを泣かせて大金を得た、悪徳不動産業者といったところだ。
「えっとですね、そこの人は、今日かける議案の一つ、社外取締役の候補としてお越しいただいているんですよ」
 その外見には似合わない程度に高い声でそう言うと、再び全員の目が綺里へと集まった。
 立って挨拶でもしたほうがいいのだろうかと、悩んでいたが、不動産屋は、「詳細はそのときにまた」と言って、司会に続けるよう指示をした。
「では議題に入ります。お手元の資料、第一号議案からです。桜井(さくらい)、照明を消して」
 彼がそう言うと、綺里の隣の男が慌てたように席を立ち、壁のスイッチに手を伸ばした。