その日の午後、三限の授業のあと、遅めの昼食を食べ終えたとき、涼葉に遭遇した。
朝のことを伝えると、彼女は眉間にシワを寄せた。
「大丈夫なんですか、その紹介会社は。そもそも、どうしてうちに相談してくれなかったんですか」
「ごめん。決まってから驚かせようと思って」
「普通にしてても、綺里姉は十分うちを楽しませてくれるんですから、そんな気遣いは不要です。あと、現地を確かめずにサインするのはやめて下さい」
「もたもたしているうちに、好条件のところはすぐに取られちゃうから。働き始めて、合わなければ辞めればいいじゃないか」
「いつもいつも、そうやっていい加減なんだから。ちなみに、一応の確認ですけど、今日の夕方の約束、覚えてくれてますよね?」
「今日って……。何だっけ」
「ああ、やっぱり……。母校に行くんですよ。スケジュールアプリに予定入れておいたでしょう?通知、見てますよね」
携帯を取り出し、カレンダーを確認すると、確かに項目が追加されていた。
「ホントだ。いつの間に。涼さあ、あーしの秘書じゃないんだから。生活を管理するの、やめてよ」
だが、彼女は聞く耳をまるで持とうとせず、綺里の腕を取って立ち上がった。
「ちょっと待って。今から島本まで行くの?家と真逆だよ」
「新大阪なんて便利なところに住んでるのに、文句言わないで下さい。可愛い後輩が困ってるんですから」
涼葉のおせっかいは、今に始まったことではない。体育会系でもないのに、下の者の相談にはいつも真剣に応える、その慈愛こそが、彼女という人間性の本質だ。
登録者が多すぎてスクロールが止まらぬアドレス帳。その人気や人望は、決して容姿や育ちだけが理由ではないということだ。
「後輩って、また生徒会?」
「生徒会経由で、ソフトテニス部の子です」
いつの間にか、副会長の頃の表情に戻っていた横顔を見て、三年前を思い出した。
涼葉と最初に出会ったのは、高校二年の夏休みだ。
もっとも、その日に彼女を見た記憶は綺里にはなく、相手側の一方的な思い出となっている。
両親が帰国して、勤務先が大阪となり、引っ越しがどうにか片付いた八月の終わり。挨拶のため、学校に出向いたときだった。
担任は眼鏡をかけた、草食系の男性教師。せいぜい二十代の後半に見えた彼は、綺里を見て、髪を染めることと、ピアスをするのは禁止だと、丁寧に教えてくれた。
校則に従うのは当然だ。ただ、念のため、現状維持でも問題ないか、軽い交渉をした結果、そのままで構わないと、柔軟な対応を示してくれたのだ。
「懐かしいですね。あの日、たまたまうちも職員室にいたんです。ちなみに、先生は綺里姉を見た瞬間から、かなり怯えてましたけどね」
食堂を出たあたりで、彼女はすくうように綺里の髪に触れた。
「今は茶髪だけどあのときは金髪で、長さも倍くらいあったじゃないですか。おまけに、新体操のフープに使えるくらいに大きなリングピアスをぶら下げて。どうみても田舎の不良少女ですよ。そんな綺里姉が、武器片手に脅したら、それは怖いですよね。先生だって家族がいるんですから」
大阪に来る前にいたのは、東京の無名の私立高校で、身なりに関する校則などほとんどなかった。生徒全員が黒髪なんて、逆に不気味ではなかろうか。
「武器って、人聞きが悪い。あのとき持ってたのは、確かパパから頼まれてた金剛杖だったはずだけど」
四国が陸続きだと知った父から、関西にいるうちにお遍路に行きたいと、購入を頼まれていたものだ。
「学校に行く路線の途中に専門店があってさ」
「そんなの知りません。ヤンキーの容姿の人が、胸の高さくらいで、布の袋に入った棒状のものを持ってたら、それは普通、日本刀です。綺里姉はそれを手に、前の学校ではそんな決まりはなかった、規則をさかのぼって押しつける気か、既得権の侵害だ、そう言って、相手を立って見下ろしたんですよ。遠目に見ても、先生、死人みたいな青白かったです」
のちに知ったが、その事件をきっかけに、髪色とアクセサリーの着用について、職員会議で論争が起きたそうだ。当初は、転校生一人のために、これまで慣習を見直すなど問題外という批判が大勢を占めていたが、校則見直しの世間の潮流もあったのだろう、最終的には、高校創設以来初めてとなる、規定改定で結着した。
それ以来、涼葉は綺里の存在を意識するようになったのだという。
初めて声をかけられたのは、それから二ヶ月ほどした頃。日本で二番目の大都会にもかかわらず、その残暑は東京よりずっと過ごしやすいと感じていた十月の始め、ちょうど今と同じくらいの季節だ。
次年度の生徒会長に立候補してほしいと、唐突に声をかけられたのだ。当時は理由もわからず、かなり不気味に感じたが、有無を言わせぬその凛々しい態度に押し切られてしまった。
結果、他に誰も候補者が現れず、あっさり当選してしまうことになる。
当の本人も綺里の補佐役として入閣したが、その事務能力の高さから、あっという間に組織の中心的役割を担うようになり、それ以来、綺里のそばであれこれ指示をするのが、自分の務めだと勘違いするようになった。
生徒会に入って以降は、日々、雑務に忙殺されたが、退屈せずに済んだのも確かだ。涼葉には感謝しているし、人間的にも信頼していて、結果、その関係が今も続いているというわけだ。
朝のことを伝えると、彼女は眉間にシワを寄せた。
「大丈夫なんですか、その紹介会社は。そもそも、どうしてうちに相談してくれなかったんですか」
「ごめん。決まってから驚かせようと思って」
「普通にしてても、綺里姉は十分うちを楽しませてくれるんですから、そんな気遣いは不要です。あと、現地を確かめずにサインするのはやめて下さい」
「もたもたしているうちに、好条件のところはすぐに取られちゃうから。働き始めて、合わなければ辞めればいいじゃないか」
「いつもいつも、そうやっていい加減なんだから。ちなみに、一応の確認ですけど、今日の夕方の約束、覚えてくれてますよね?」
「今日って……。何だっけ」
「ああ、やっぱり……。母校に行くんですよ。スケジュールアプリに予定入れておいたでしょう?通知、見てますよね」
携帯を取り出し、カレンダーを確認すると、確かに項目が追加されていた。
「ホントだ。いつの間に。涼さあ、あーしの秘書じゃないんだから。生活を管理するの、やめてよ」
だが、彼女は聞く耳をまるで持とうとせず、綺里の腕を取って立ち上がった。
「ちょっと待って。今から島本まで行くの?家と真逆だよ」
「新大阪なんて便利なところに住んでるのに、文句言わないで下さい。可愛い後輩が困ってるんですから」
涼葉のおせっかいは、今に始まったことではない。体育会系でもないのに、下の者の相談にはいつも真剣に応える、その慈愛こそが、彼女という人間性の本質だ。
登録者が多すぎてスクロールが止まらぬアドレス帳。その人気や人望は、決して容姿や育ちだけが理由ではないということだ。
「後輩って、また生徒会?」
「生徒会経由で、ソフトテニス部の子です」
いつの間にか、副会長の頃の表情に戻っていた横顔を見て、三年前を思い出した。
涼葉と最初に出会ったのは、高校二年の夏休みだ。
もっとも、その日に彼女を見た記憶は綺里にはなく、相手側の一方的な思い出となっている。
両親が帰国して、勤務先が大阪となり、引っ越しがどうにか片付いた八月の終わり。挨拶のため、学校に出向いたときだった。
担任は眼鏡をかけた、草食系の男性教師。せいぜい二十代の後半に見えた彼は、綺里を見て、髪を染めることと、ピアスをするのは禁止だと、丁寧に教えてくれた。
校則に従うのは当然だ。ただ、念のため、現状維持でも問題ないか、軽い交渉をした結果、そのままで構わないと、柔軟な対応を示してくれたのだ。
「懐かしいですね。あの日、たまたまうちも職員室にいたんです。ちなみに、先生は綺里姉を見た瞬間から、かなり怯えてましたけどね」
食堂を出たあたりで、彼女はすくうように綺里の髪に触れた。
「今は茶髪だけどあのときは金髪で、長さも倍くらいあったじゃないですか。おまけに、新体操のフープに使えるくらいに大きなリングピアスをぶら下げて。どうみても田舎の不良少女ですよ。そんな綺里姉が、武器片手に脅したら、それは怖いですよね。先生だって家族がいるんですから」
大阪に来る前にいたのは、東京の無名の私立高校で、身なりに関する校則などほとんどなかった。生徒全員が黒髪なんて、逆に不気味ではなかろうか。
「武器って、人聞きが悪い。あのとき持ってたのは、確かパパから頼まれてた金剛杖だったはずだけど」
四国が陸続きだと知った父から、関西にいるうちにお遍路に行きたいと、購入を頼まれていたものだ。
「学校に行く路線の途中に専門店があってさ」
「そんなの知りません。ヤンキーの容姿の人が、胸の高さくらいで、布の袋に入った棒状のものを持ってたら、それは普通、日本刀です。綺里姉はそれを手に、前の学校ではそんな決まりはなかった、規則をさかのぼって押しつける気か、既得権の侵害だ、そう言って、相手を立って見下ろしたんですよ。遠目に見ても、先生、死人みたいな青白かったです」
のちに知ったが、その事件をきっかけに、髪色とアクセサリーの着用について、職員会議で論争が起きたそうだ。当初は、転校生一人のために、これまで慣習を見直すなど問題外という批判が大勢を占めていたが、校則見直しの世間の潮流もあったのだろう、最終的には、高校創設以来初めてとなる、規定改定で結着した。
それ以来、涼葉は綺里の存在を意識するようになったのだという。
初めて声をかけられたのは、それから二ヶ月ほどした頃。日本で二番目の大都会にもかかわらず、その残暑は東京よりずっと過ごしやすいと感じていた十月の始め、ちょうど今と同じくらいの季節だ。
次年度の生徒会長に立候補してほしいと、唐突に声をかけられたのだ。当時は理由もわからず、かなり不気味に感じたが、有無を言わせぬその凛々しい態度に押し切られてしまった。
結果、他に誰も候補者が現れず、あっさり当選してしまうことになる。
当の本人も綺里の補佐役として入閣したが、その事務能力の高さから、あっという間に組織の中心的役割を担うようになり、それ以来、綺里のそばであれこれ指示をするのが、自分の務めだと勘違いするようになった。
生徒会に入って以降は、日々、雑務に忙殺されたが、退屈せずに済んだのも確かだ。涼葉には感謝しているし、人間的にも信頼していて、結果、その関係が今も続いているというわけだ。