「地道に口コミネットワークを使う予定です」
生徒会時代、全校生徒の、特に女子たちのSNS発信で、文化祭の来客数減少に歯止めをかけた経験がある。
涼葉の女子の知人は、当時とは比べ物にならないほどに増えている。フォロワーの数も、合計すればそれなりになるはずだ。インフルエンサーとまでは呼べなくとも、地方限定であればそれなりの影響力を期待できるのではないか。
そのことを伝えると、まさにネットで評判が落ちた経験をしたばかりということもあったのだろう、彼は口を閉ざした。
だが、本心から納得できていないらしい。どうにか反論しようという意志が、表情から垣間見える。
仕方ない。残る切り札は一つ。
きっと今が使い時だ。
「もし順調に販売が伸びれば、ふるさと納税の返礼品に、このビールを推薦してもらう予定です」
千林と三国が驚いたように綺里を見て、すぐに二人の顔が副社長に移動した。
注目を集めた当人は、ずっと無言で、今も不機嫌そうだ。
だが、何か言わなければ、議論が先に進まないことを察したのか、やがて口を尖らせ、こう言った。
「まあ、そういうことがあってもええんと違いますか」
誰も声にこそ出さなかったが、「ええっ」と全員の口が動くのが見えた。
観衆の目が綺里へと戻る。社長も驚きを隠せていない。この機を逃してはならないことを肌で感じた。
「賛同いただいてありがとうございます。それでは、他にご意見、ご質問がないようでしたら――。桜井さん」
目で訴えると、彼は慌てたように立ち上がった。
「えー……と。では、最後に採決させていただきたいと思います。前回に発議したスポーツへの協賛は、本日をもって、アゲハビールの販売へと方針転換することになりました。異議のある方は、挙手をお願いいたします」
再び全員の目が一人に集まり、だが、その男はまるで動く気配を見せないまま、議案は可決された。
「ちょっと待て。ほんまに決まったんか?どうも騙されてる気がするのは俺だけか?」
千林が珍しく動揺を見せながら、隣の席に目をやった。
おそらくは、賛成か反対かを、はっきりと口にしてほしいと願っていたのだろう。だが、相変わらず不満そうな副社長は、おそらくはそれに気づいた上で、何も語らず席を立ち、入り口に向かって歩き出した。それを見た彼の一派が、慌てて椅子を引く。このまま出て行ってもいいのだろうか、という表情で互いに顔を見合わせながら。
「あ、そうだ。あと一つ、連絡事項があるんです」
副社長一行が足を止めた。
味方の三人も、怪訝そうにする。
誰にも話していないのだから当然だろう。
「経営企画室の三国さんと桜井さんが、結婚を前提にお付き合いされることになりました」
真隣で男のほうがペンを床に落とし、二つ右から、キャスター付きの椅子が机に激しくぶつかる音がした。
涼葉はしばらくあきれたように、動きを止めていたが、やがて無表情のままPCからケーブルを抜き、正面が真っ白な光だけになった。
副社長は、鼻から息を出した以外は何の反応も見せず、そのまま部下を引き連れ姿を消した。
残ったのは、経企の二人と社長だけ。
桜井は顔を真っ赤にして、綺里を見る振りをしながら、実際にはその先が気になって仕方ない様子だ。
千林がしばらくそんな状況を見守っていたが、静かに口を開いた。
「どういうことや。説明してもらえるか」
会議の中で質疑は完了していたはずだ。となれば、その問いかけの対象はつまり――。
「桜井さんと三国さんの仲人のことです?」
「あ、あなたねっ――」
ようやく女のほうが声を発したが、直後に聞こえた厳しい口調によって、遮られた。
「そんなことと違う。いや、そんなことって、言い方が悪いな。そっちは、俺も前からそうやないかって思うてたし、やっとその気になったんなら、それは喜ばしいこっちゃ」
その言葉に、それまで気の毒なほどにうろたえていた当事者の片方が、聞こえるかどうかという程度の声を発した。
「その気って、社長……。江坂さんも、大人をからかうのにもほどがある。冗談で済まされへんことかてあるんやで」
「あーしは、完全に正気ですけど。何か間違っていたとでも?」
「間違いも何も、オレとそんな話、一回もしたことないやろ」
「話をそらさないでもらえます?三国さんと付き合うつもりはないんですか?」
背中で、もう一人の主役が息を止めた。
「そういう問題と違うて……。だいたい、結婚を前提とか、勝手に決めつけられても――」
「三十過ぎた者同士がこれから付き合うのに、それをまったく考慮しないこと、あるかな。涼、どう思う?」
そばで彼女の小さなため息が聞こえた。
「うちを巻き込まないで下さいよ――。でも、まあ、普通は、想定するでしょうね」
桜井は下を向き、膝の上でこぶしを握ってしばらく、何かを決意したように立ち上がった。
「お、オレは三国さんのことは、そ、尊敬してます。いつも目をかけてもらってるし――」
「はい、0点。全然ダメ」
綺里が椅子を後方に滑らすと、涼葉もそれにならった。
二人の男女が相まみえる。
いつもは凛々しいというよりは、憎らしい三国が、顔を赤くし、うつむいたままだ。中学生に戻っているのは誰の目にも明らかだった。
観衆の無言の圧力に耐えかねたのか、桜井が秋の虫のような小さな声で口を開いた。
「あの……オレなんかでいいんでしょうか……」
いったい誰に向かって、何の確認なのか。だが、返事はしかるべきところからあった。
「なんかって、卑下しすぎだと思う。侑希は頭はいいし、仕事にも無駄がない。苦労してるから他人にも優しくて――」
真っ赤な顔の彼女は、そこまで言って、口を閉ざした。
観劇を続けたかったが、千林が軽く机を叩いたことで、舞台は唐突に終わりを迎えた。
「お互いの気持ちの確認ができたみたいやし、あとは業務時間後にしてくれ。それより、まだ質問の途中や。そっちのあんたに聞きたいことがあるんや」
社長のやや強めの口調に、三国は恥ずかしそうに目線を落とした。
「副社長をどうやって籠絡したんか、教えてくれへんか」
「おっしゃる意味がわかりかねますが」
「小芝居はええから。普通に考えて、あの人がひと言も文句言わずに、あの会議が終わるはずないやろ」
彼の言葉が終わるのと同時に、涼葉が綺里の耳元に口を寄せた。
「籠絡は、この場合、説得とだいたい同じ意味です」
なるほど、そういうことか。それなら最初からそう言えばいいじゃないか。肩書きが大げさになるにつれ、小難しい単語を使いたがるのは、いかがなものか。
「ただ、良心に訴えただけです」
「ちょっと待って。それってつまり、この会議より前に会ったってこと?」
ようやく、いつもの調子の半分くらいに戻った三国が口を開いた。
周到な準備がいかに重要かは、生徒会長として職員会議に参加したことなどを通じて、痛感していた。
文化祭や体育祭での、生徒の希望のほとんどは教師たちの妨害で却下される。その場で、大人たちが苦々しげに口にするのは、だいたい二種類に集約されるのだ。
「これまで、一度もしたことないじゃないですか」と、「そんなの、聞いてません」だ。
前例至上主義は、自分たちの代で変革し、責任を負いたくないからなのだと、卒業の頃になって理解に至った。
あとの一つ、聞いてない、については、比較的簡単に解消することが可能だった。
言葉通り、事前に教えておけばいいのだ。
特にその発言をするのは、男女かかわらず、ベテランの人間に多い。のちに、それが根回しという名称だということを知ることになるが、何度か、それをするうちに、要領を得るようになった。
重要なのは、多くの人の前で告げるのではなく、一人だけのとき、秘密を打ち明けるように伝えること。どうやら相手は、それで自分だけが特別扱いされたと感じるらしい。
副社長にも、その技を利用しただけだ。
この会議の三日前。綺里一人では、話も聞いてくれない可能性を考慮して、涼葉にも同行を頼んだ。
仕事終わりで一人のときを狙って、声をかける。
喫茶店で、涼葉を彼の隣に座らせ、若く美しい女の色香で思考力を奪い取る予定だった。
だが、本題に入ると、敵はそうそうに、しかも強い口調で提案を拒否してきた。
「アホ違うんか。お前が偉そうに取締役会で宣言したんやろうが。最後まで責任持ってやり遂げるんが筋やろ」
本来の目的である、会社の評判を取り戻すという点を強調したが、まるで取り合おうとはしない。
攻撃の第二弾で、かつ、ほとんど最後の手段が、ふるさと納税だった。
「副社長の優れた人脈をどうにか使わせてもらえませんか」
マリンさんからの教えだ。イヤな相手ほど褒める。
反論の口調が、体感で三割ほど減ったのを感じた。
続けて、海外での日本産の柿の評価はとても高く、今後の輸出作物として期待されていることを伝え、最後に、先見の明がありますねと、持ち上げると、反撃の勢いはさらに弱くなったのだ。
生徒会時代、全校生徒の、特に女子たちのSNS発信で、文化祭の来客数減少に歯止めをかけた経験がある。
涼葉の女子の知人は、当時とは比べ物にならないほどに増えている。フォロワーの数も、合計すればそれなりになるはずだ。インフルエンサーとまでは呼べなくとも、地方限定であればそれなりの影響力を期待できるのではないか。
そのことを伝えると、まさにネットで評判が落ちた経験をしたばかりということもあったのだろう、彼は口を閉ざした。
だが、本心から納得できていないらしい。どうにか反論しようという意志が、表情から垣間見える。
仕方ない。残る切り札は一つ。
きっと今が使い時だ。
「もし順調に販売が伸びれば、ふるさと納税の返礼品に、このビールを推薦してもらう予定です」
千林と三国が驚いたように綺里を見て、すぐに二人の顔が副社長に移動した。
注目を集めた当人は、ずっと無言で、今も不機嫌そうだ。
だが、何か言わなければ、議論が先に進まないことを察したのか、やがて口を尖らせ、こう言った。
「まあ、そういうことがあってもええんと違いますか」
誰も声にこそ出さなかったが、「ええっ」と全員の口が動くのが見えた。
観衆の目が綺里へと戻る。社長も驚きを隠せていない。この機を逃してはならないことを肌で感じた。
「賛同いただいてありがとうございます。それでは、他にご意見、ご質問がないようでしたら――。桜井さん」
目で訴えると、彼は慌てたように立ち上がった。
「えー……と。では、最後に採決させていただきたいと思います。前回に発議したスポーツへの協賛は、本日をもって、アゲハビールの販売へと方針転換することになりました。異議のある方は、挙手をお願いいたします」
再び全員の目が一人に集まり、だが、その男はまるで動く気配を見せないまま、議案は可決された。
「ちょっと待て。ほんまに決まったんか?どうも騙されてる気がするのは俺だけか?」
千林が珍しく動揺を見せながら、隣の席に目をやった。
おそらくは、賛成か反対かを、はっきりと口にしてほしいと願っていたのだろう。だが、相変わらず不満そうな副社長は、おそらくはそれに気づいた上で、何も語らず席を立ち、入り口に向かって歩き出した。それを見た彼の一派が、慌てて椅子を引く。このまま出て行ってもいいのだろうか、という表情で互いに顔を見合わせながら。
「あ、そうだ。あと一つ、連絡事項があるんです」
副社長一行が足を止めた。
味方の三人も、怪訝そうにする。
誰にも話していないのだから当然だろう。
「経営企画室の三国さんと桜井さんが、結婚を前提にお付き合いされることになりました」
真隣で男のほうがペンを床に落とし、二つ右から、キャスター付きの椅子が机に激しくぶつかる音がした。
涼葉はしばらくあきれたように、動きを止めていたが、やがて無表情のままPCからケーブルを抜き、正面が真っ白な光だけになった。
副社長は、鼻から息を出した以外は何の反応も見せず、そのまま部下を引き連れ姿を消した。
残ったのは、経企の二人と社長だけ。
桜井は顔を真っ赤にして、綺里を見る振りをしながら、実際にはその先が気になって仕方ない様子だ。
千林がしばらくそんな状況を見守っていたが、静かに口を開いた。
「どういうことや。説明してもらえるか」
会議の中で質疑は完了していたはずだ。となれば、その問いかけの対象はつまり――。
「桜井さんと三国さんの仲人のことです?」
「あ、あなたねっ――」
ようやく女のほうが声を発したが、直後に聞こえた厳しい口調によって、遮られた。
「そんなことと違う。いや、そんなことって、言い方が悪いな。そっちは、俺も前からそうやないかって思うてたし、やっとその気になったんなら、それは喜ばしいこっちゃ」
その言葉に、それまで気の毒なほどにうろたえていた当事者の片方が、聞こえるかどうかという程度の声を発した。
「その気って、社長……。江坂さんも、大人をからかうのにもほどがある。冗談で済まされへんことかてあるんやで」
「あーしは、完全に正気ですけど。何か間違っていたとでも?」
「間違いも何も、オレとそんな話、一回もしたことないやろ」
「話をそらさないでもらえます?三国さんと付き合うつもりはないんですか?」
背中で、もう一人の主役が息を止めた。
「そういう問題と違うて……。だいたい、結婚を前提とか、勝手に決めつけられても――」
「三十過ぎた者同士がこれから付き合うのに、それをまったく考慮しないこと、あるかな。涼、どう思う?」
そばで彼女の小さなため息が聞こえた。
「うちを巻き込まないで下さいよ――。でも、まあ、普通は、想定するでしょうね」
桜井は下を向き、膝の上でこぶしを握ってしばらく、何かを決意したように立ち上がった。
「お、オレは三国さんのことは、そ、尊敬してます。いつも目をかけてもらってるし――」
「はい、0点。全然ダメ」
綺里が椅子を後方に滑らすと、涼葉もそれにならった。
二人の男女が相まみえる。
いつもは凛々しいというよりは、憎らしい三国が、顔を赤くし、うつむいたままだ。中学生に戻っているのは誰の目にも明らかだった。
観衆の無言の圧力に耐えかねたのか、桜井が秋の虫のような小さな声で口を開いた。
「あの……オレなんかでいいんでしょうか……」
いったい誰に向かって、何の確認なのか。だが、返事はしかるべきところからあった。
「なんかって、卑下しすぎだと思う。侑希は頭はいいし、仕事にも無駄がない。苦労してるから他人にも優しくて――」
真っ赤な顔の彼女は、そこまで言って、口を閉ざした。
観劇を続けたかったが、千林が軽く机を叩いたことで、舞台は唐突に終わりを迎えた。
「お互いの気持ちの確認ができたみたいやし、あとは業務時間後にしてくれ。それより、まだ質問の途中や。そっちのあんたに聞きたいことがあるんや」
社長のやや強めの口調に、三国は恥ずかしそうに目線を落とした。
「副社長をどうやって籠絡したんか、教えてくれへんか」
「おっしゃる意味がわかりかねますが」
「小芝居はええから。普通に考えて、あの人がひと言も文句言わずに、あの会議が終わるはずないやろ」
彼の言葉が終わるのと同時に、涼葉が綺里の耳元に口を寄せた。
「籠絡は、この場合、説得とだいたい同じ意味です」
なるほど、そういうことか。それなら最初からそう言えばいいじゃないか。肩書きが大げさになるにつれ、小難しい単語を使いたがるのは、いかがなものか。
「ただ、良心に訴えただけです」
「ちょっと待って。それってつまり、この会議より前に会ったってこと?」
ようやく、いつもの調子の半分くらいに戻った三国が口を開いた。
周到な準備がいかに重要かは、生徒会長として職員会議に参加したことなどを通じて、痛感していた。
文化祭や体育祭での、生徒の希望のほとんどは教師たちの妨害で却下される。その場で、大人たちが苦々しげに口にするのは、だいたい二種類に集約されるのだ。
「これまで、一度もしたことないじゃないですか」と、「そんなの、聞いてません」だ。
前例至上主義は、自分たちの代で変革し、責任を負いたくないからなのだと、卒業の頃になって理解に至った。
あとの一つ、聞いてない、については、比較的簡単に解消することが可能だった。
言葉通り、事前に教えておけばいいのだ。
特にその発言をするのは、男女かかわらず、ベテランの人間に多い。のちに、それが根回しという名称だということを知ることになるが、何度か、それをするうちに、要領を得るようになった。
重要なのは、多くの人の前で告げるのではなく、一人だけのとき、秘密を打ち明けるように伝えること。どうやら相手は、それで自分だけが特別扱いされたと感じるらしい。
副社長にも、その技を利用しただけだ。
この会議の三日前。綺里一人では、話も聞いてくれない可能性を考慮して、涼葉にも同行を頼んだ。
仕事終わりで一人のときを狙って、声をかける。
喫茶店で、涼葉を彼の隣に座らせ、若く美しい女の色香で思考力を奪い取る予定だった。
だが、本題に入ると、敵はそうそうに、しかも強い口調で提案を拒否してきた。
「アホ違うんか。お前が偉そうに取締役会で宣言したんやろうが。最後まで責任持ってやり遂げるんが筋やろ」
本来の目的である、会社の評判を取り戻すという点を強調したが、まるで取り合おうとはしない。
攻撃の第二弾で、かつ、ほとんど最後の手段が、ふるさと納税だった。
「副社長の優れた人脈をどうにか使わせてもらえませんか」
マリンさんからの教えだ。イヤな相手ほど褒める。
反論の口調が、体感で三割ほど減ったのを感じた。
続けて、海外での日本産の柿の評価はとても高く、今後の輸出作物として期待されていることを伝え、最後に、先見の明がありますねと、持ち上げると、反撃の勢いはさらに弱くなったのだ。