初出勤前日の朝のことだった。
 携帯の振動で目が覚めた。
 講義は午後からで、アラームはセットしていない。画面を見ると、電話の着信中だ。時間は九時を五分ほど過ぎたところ。名前ではなく番号表示で、知人からでないことだけが、ぼんやりとわかる。
「はい……」
「早朝から申し訳ありません。コーディネーターの岸辺です。先日の契約について、至急、お話したいことがございまして」
 可能な限り早く、来社してほしいという。
 どちらかと言えば冷淡だった印象の彼女の、その切迫した声で、普通でない事態であることだけは理解した。
 最低限の身繕いだけをして家を出る。
 御堂筋線に乗り込んだあたりで、ようやく意識が覚醒し始めた。
 緊急だという、その内容について想像したが、二つしか思いつかない。
 時給が高すぎたので減らします、か、会社がなくなりました、のどちらかだ。
 いずれにしても、状況が悪化することに違いはない。
 十三に到着したのは連絡を受けてから二十分後。待ち構えていたのは、岸辺と、他にもう一人、年配の男性だった。手渡された名刺によれば、部長職で彼女の上司らしい。
 席に着くや、二人は同時に頭を下げた。
「大変申し訳ありません。完全に当方のミスでして――」
 それから二人が交互に説明した内容は、予想とは方向性がかなり違っていた。
 すなわち、契約書を取り違えてしまったのだという。綺里のあとに相談に来た、同じ名字の男性のものと。
 なるほど、メールにあった、勤務先についての多少の違和感はそれで解消した。
「あー、そういうことか。安心した。つまり、書類を作り直すってこと、だよね」
 さほどの大ごとには思えない。テーブルの向こうの二人の危機感が、誇張されすぎているのではないか。
「ええ、本来ならそうあるべき、なのですが……。実は、もうお一人の江坂様が、すでに出勤されてしまったのです」
 岸辺が唇を噛むのが見えた。
「どこに?」
「エステ会社に、です……」
「恥ずかしながら、先方からの連絡で気づいた次第でして。あちら様の要望は、女性スタッフでしたので、第一報をいただいたときは、かなりご立腹でした」
「はあ、そうなんですか」
 いったい何を伝えようとしているのか、これからの展開を想像しようとして、まるで結論が導けない。
 間違いであることが判明しているのだ。やり直せばいいだけではないか。
 部下が下を向いたのを見て、上司が声を低くして続けた。
「誤った手続きとはいえ、雇用の契約そのものは有効なのです。当事者双方が契約解除に合意すれば、もちろん破棄はできるのですが――」
「あーしは特に問題ないけど」
 二人は顔を見合わせた。
「実は……男性の江坂様のほうが、無効にするつもりはないと、そう仰っているのです」
「え」
「契約は神聖なものだ。軽々しく変更することなどできない、と。昨日、必死に説得したのですが、弁護士をされている方で、最後は裁判所でかたをつける、と息巻いておられるのです。専門家に法律を盾にされ、弊社側に言い負かせるはずもなく――」
「念のための確認だけど、そこって、ちょっとエッチなエステ、なんだよね?」
 部長は眉間にシワを寄せて頷いた。
 あの日の廊下を思い出した。
 ひと言で表現すれば紳士だった。しかも弁護士。あの男性が間違いを無理やり押し通しているというのか。
 綺里の頭にハテナが浮かんでいるのが見えたのだろう、彼は声を落とした。
「そのエステは、社員向け割引があるようなのです。これはあくまで私個人の想像ですが、そこに魅力を感じられているのかと」
 なるほど、昨今の企業の福利厚生は、随分と多様化しているのだな。
「もう一点付け加えれば、ああいったお店は、入るのに勇気がいるのですが、従業員向けの入り口から堂々と入れる、という利点もございまして――」
 どこかうらやましそうにする様子を見て、隣の岸辺が苦々しげにした。
「でもお店は困るんじゃないの?希望していたのとは、違う人材が来たんだよね」
「それが――警察から目を付けられがちな業種ということもあるのか、アルバイトに支払う程度の金額で、弁護士を雇えるならと、その後、態度を豹変されまして。今はすっかり前向きになられているのです。受付業務については、元いたスタッフでやり繰りするとかで――」
 双方にメリットのある、奇跡のマッチングだったというわけか。
「結局、あーしの働き口だけがなくなったと、つまりそういうことなのかな」
 またしても、不運が発動したようだ。
 椅子の背もたれに体をあずけ、うーんと伸びをした。
 もっとも、相手の不手際が原因だ。代わりになる、好条件の仕事をそうそうに探しますと、そんな言葉が続くのだろうと待っていたが、なぜか机の向こうの二人が無言のまま、もじもじしている。
 エアコンの稼働音に混じり、会議室の外で電話の鳴る音が聞こえ、窓の外に車道の喧騒を感じて間もなく、部長が重苦しい雰囲気で再び口を開いた。
「その……江坂綺里様には、本来、男性の江坂様が行くべきところに、一度出社していただきたいのです」
「何それ。間違いだってわかってるのに?あーしは契約の解除、だっけ、それに同意するつもりだけど」
「大変心苦しいのですが……。時間がないのです」
「時間って、何の?」
「明日の朝一で、取締役会があるそうなのです。そこに社外取締役として出席願いたいのです」
「取締役会って何?明日は金曜日で、二限目に授業があるんだ。それも体育。雨の日は出たくなくて、つまり、晴れの日に出席回数を稼がないといけない。明日の天気、知ってる?」
「快晴だったとしても、何とか、お願いできませんかっ」
 部長が机に額をつけると、どんと鈍い音がした。
 隣の岸辺もそれを見て、慌てて頭を下げる。
 まるでいじめているような気になってきた。
 在学中は、今後も世話になる相手だ。ここで、一方的にわがままを言うのは、先々を考えれば、利口とは言えないかもしれない。
「わかったから。とりあえず、もう少し事情、教えて」
 優しくそう言うと、二人はほっとしたように顔を上げた。
 それから受けた説明はこうだった。
 出勤先の会社名は、中之島(なかのしま)トレーディングという中小企業。これまで社外取締役が一人もおらず、どうやらその状態は世間的に、あまりいい印象を与えないのだそうだ。コーポレートガバナンスなどという、意味不明の単語を使われたが、ひとまず、体面の問題だということは把握した。
「あーしでいいなら、部長さんでもいいんじゃないの。それか、外を暇そうに歩いている人の中から、貫禄のある人を選ぶとか」
「相手様の社内決裁がすでに回覧を終えているのです。そこに添付された書類というのが、つまり、先日江坂様にサインいただいた契約書なのです」
 ここに来て、彼らの悲壮な態度の理由をようやく理解し始めていた。
 逃げ道がほとんどないようだ。
「ちなみに……バイト代はどうなるのかな」
 彼らは再び顔を見合わせる。
「役員報酬という意味であれば、申し訳ありませんが、それはすぐにはお答えできません。契約期間をまっとうしない結果になると思いますので、先方の人事担当者の方と話し合いということになると思います。弊社からの、登録のご祝儀は、無条件にお支払いいたします。次のお仕事の便宜も最大限、取り計らいますので」
「それってもしかして、二ヶ月待たなくてもくれるってこと?」
 思わず身を乗り出すと、相手は深く頷いた。
 年上の男性に、そこまで下手に出られて、無下にできるはずもなかった。
 何かの会議の端のほうに座っているだけで、一万円が手に入るのだ。それだけではない。おそらくすぐに次が見つかり、さらにもう一万円。
 悪くない。
「仕方ないなあ。明日、淀屋橋に行けばいいんだよね」
 最後に、会議では敬語を使うよう切望されながら、部長から社封筒を受け取った。
 中に一万円札があることを確認し、廊下に出たときには、新しいリュックを買うことしか頭になかった。