「キスの威力はすごいだろ。今日の午後、早速会うことになった」
翌日、登校して、意気揚々に、成果を強調したが、後輩の反応は鈍い。高校生の純真をもてあそぶようなやり方が気に入らないらしい。
「もういいです。そっちの話が進むと仮定して、次にすることの準備を考えたらどうですか」
「村野さんか――。いや、先に会社だな」
清水の父ほどではないが、こちらも展開が読めないという点では負けていない。
「役員会でしたっけ。そういうの、綺里姉の意向で集められたりするんです?」
「とりあえず、最初の窓口はわかってるんだけど――」
桜井に連絡し、夕方の打ち合わせの約束までは簡単だったものの、そこで話す内容に、どんな反応が返ってくるのかは、まるで未知数だ。
授業のあと、先に清水の父に会うため、箕面に出向いた。
かなり高い障壁だと緊張して臨んだが、彼らも国からの予算が削られ、切羽詰まっている状況のようで、企業と繋がりを持つことで少しでも研究の足しになるのであればと、想像していたよりずっと建設的な返事をもらうことができた。
幸先が良い。
これは次に対戦するのも、弱いほうの相手に違いないと、自信満々に淀屋橋に向かったが――オフィスで綺里を迎えたのは三国だった。
「侑希は早退したの。ちょっと体調が良くなくて」
そう言った彼女にも、いつもの勢いがない。
桜井の不調だけが理由というわけではなさそうで、だとすれば、理由はあの日の飲み会に起因している可能性が高い。
聞くべきか、0.5秒だけ迷い、別れたあとのことを尋ねると、相手はその質問を予測していたかのように、即座に目をそらせた。
「つまり……うまくいかなかったと?」
「終わりよ。わたしの人生……」
いちいち大げさな女だ。
「店を出てすぐ、気持ち悪くなって、駅前のロータリーで吐いちゃったんだ。噴水みたいに……。トイレまで我慢しようとしたのに、耐えられなかったの」
吐いて楽になったあと、ことの重大さに気づき、走って逃げたという。
根性なしにもほどがある。そこまで恥をかいたのなら、「家までついてきて」と、勢いで誘うところだろうに。
彼女はしばらく無言だったが、やがて机に両手を置くと、髪を振り乱して立ち上がった。
「あなたにも半分は責任があるのよっ」
綺里を見下ろす目が般若のようだ。
「わかってます。必ず借りは返すんで」
「嘘言わないで。ずっとそう言ってるじゃない。信用できるはずないでしょう」
「理由があるんです。三国さんを満足させたら、それ以上、協力してもらえなくなる。あーしの計画に支障が出ないよう、もったいぶってるだけなんで。あとちょっとで終わるから」
慌ててそう言うと、彼女は「バカバカしい」と口にしながらも、どうにか腰を下ろした。
「相談ってのは、例の山椒ビールのことなんですけど――。会社のECサイトで販売してもらうことって、できないですかね」
それから、涼葉と立てた構想を伝える。
三国は珍しく無言で聞いていたが、最後は、寄席で外れのネタを見たときのように、小さく息をはいた。
「企業側には、何のメリットがあるのよ。売れる見込みのない商品を扱うほど、うちは余裕ないと思う。そういうの、上の人たちを説得できるだけの材料があるわけ?」
「一応、あーしの専門でもある、SDGsを軸にしようって思ってるんです。育てるのは、オナガアゲハっていう蝶で、地域によっては絶滅種になっている希少種みたいです」
これは直前に清水の父から得た情報だ。
携帯で写真を見せると、彼女は「あら、すごく綺麗」と少女の顔に戻って言った。
「ラベルのイラストはこのアゲハのシルエットにするつもりです」
三国は椅子の背に重心を預け、脚を組んだ。
「ビールを買うと、希少種の繁殖に貢献できます、ってことか。発想は悪くはないと思うけど……。あの昭和体質の年寄どもを説得できるかなあ」
「羽化の瞬間は、普通に生活してたら滅多に見られないんで、絶対感動すると思う。それに若い人は環境意識が高いから、SNSで評判になってくれれば、今回の趣旨である、会社の名誉挽回にもつながりますよね」
そう言うと、彼女は機敏に体を起こした。
「何?ちょっと待って。これってあなたのスポンサー探しと関係してるってこと?」
「あれー、飲み会で相談してませんでしたっけ?そっちは無理なことがわかったんで、その代わりにしてもらうつもりなんですけど」
了承済みである振りをしようと、軽い口調で言ったにもかかわらず、相手は厳しい表情に変わった。
「はっきり言うけど、無理だと思う」
「どうして?目的が達成されれば、手段が多少違っても――」
「そういう正論じゃないの。取締役会に出席してた連中を見てるでしょ?」
どうやら、会社としての業績より、誰かの面子を立てることのほうが重要だと、そう言いたいようだ。
不毛で非建設的。だが、それが社会の重要な構成要素であることは、ここに来てからうすうす感じてはいる。
「とりあえず、役員会、でしたっけ。それを開催してもらうことはできます?」
「本気で言ってる?そりゃ、経企はそういう役回りだから、建前上は可能だけど。でも、集まったあと、ただ紛糾させたら、こっちの立場がなくなるわ」
「簡単に引き受けてはもらえないだろうと思って、一応、交渉の材料を準備してはあるんですけど」
酔って暴言を吐いた録音を聞かせてみたが、表情がまるで変化しない。
「わたしがその程度の脅しに屈するとでも?無理なものは無理。副社長が邪魔して、必ずうまくいかない。100パーセント間違いない」
彼女に念を押されるまでもなく、それは予想された返答ではあった。
この会社の最大派閥にして、今回の企画における最強の敵だ。
「その人についても、一応、策がなくはないんで……。お手数かけて申し訳ないんだけど、役員会の招集をお願いしたいです。失敗しても、あーしがめちゃくちゃに言われた上に、お望みのクビになって終わりでしょ?」
それでも渋る彼女を決意させるため、いつもの魔法を強めにかけることにした。
「今度こそ、三国さんの恋愛事情を好転させますから。相手は桜井さんですよね?」
実名を出したのはこれが初めてだ。きっとそれなりの反応を見せるのだと期待していたが、相手の表情はさえなかった。
「もしかして、ゲロのこと気にしてます?全然挽回可能で――」
「そうじゃないの。さっき言ったでしょ。最近、侑希の具合が良くないって」
真顔になった三国は、顎に手をやってしばらく思案し、やがて何かを決意したように顔を上げた。
「彼、適応障害だって診断されてるのよ」
それから、以前本人から聞かされた内容を話した。
「そういうの、治ったりしないんですかね」
「わたしも詳しくないから。個人的には、気にする必要はないと思う。朝、休みがちだったり、ときどき元気がないのは確かだけど、周りが理解してれば実害はほとんどないわ。ただ、本人が自信を持てないんだろうね。成功体験がないのかもしれない。たぶん子供のときからずっと。もし、そういうのがあれば、少しは前向きになれるとは思うけど――」
「三国さんにはそういうの、あるんですか?聞いた限りじゃ、会社で失敗続きみたいですけど」
「あなたねえ……。そういうの、直球で言いすぎよ。少しは言葉を濁しなさい。学生時代は、受験に成功したりとか、部活でいい成績収めたりとか、それなりにありました」
「なるほど。だったら、今回のビールの案件をそれにするって言うのはどうです?企画がうまくいくっていうのが前提だけど」
「それってつまり――」
「もともと、あーしと村野さんの窮地をどうにかしようって思ってたんですけど、あと一人、救う人間が増えたところで、やることはほとんど変わんないですし」
その場での思いつきだったが、彼女はしばらく悩み、出会ってから初めて、殊勝な言葉を口にした。
「あなたがそんな思いやりのある人だって、思ってなかった。素直に謝る。ごめん」
翌日、登校して、意気揚々に、成果を強調したが、後輩の反応は鈍い。高校生の純真をもてあそぶようなやり方が気に入らないらしい。
「もういいです。そっちの話が進むと仮定して、次にすることの準備を考えたらどうですか」
「村野さんか――。いや、先に会社だな」
清水の父ほどではないが、こちらも展開が読めないという点では負けていない。
「役員会でしたっけ。そういうの、綺里姉の意向で集められたりするんです?」
「とりあえず、最初の窓口はわかってるんだけど――」
桜井に連絡し、夕方の打ち合わせの約束までは簡単だったものの、そこで話す内容に、どんな反応が返ってくるのかは、まるで未知数だ。
授業のあと、先に清水の父に会うため、箕面に出向いた。
かなり高い障壁だと緊張して臨んだが、彼らも国からの予算が削られ、切羽詰まっている状況のようで、企業と繋がりを持つことで少しでも研究の足しになるのであればと、想像していたよりずっと建設的な返事をもらうことができた。
幸先が良い。
これは次に対戦するのも、弱いほうの相手に違いないと、自信満々に淀屋橋に向かったが――オフィスで綺里を迎えたのは三国だった。
「侑希は早退したの。ちょっと体調が良くなくて」
そう言った彼女にも、いつもの勢いがない。
桜井の不調だけが理由というわけではなさそうで、だとすれば、理由はあの日の飲み会に起因している可能性が高い。
聞くべきか、0.5秒だけ迷い、別れたあとのことを尋ねると、相手はその質問を予測していたかのように、即座に目をそらせた。
「つまり……うまくいかなかったと?」
「終わりよ。わたしの人生……」
いちいち大げさな女だ。
「店を出てすぐ、気持ち悪くなって、駅前のロータリーで吐いちゃったんだ。噴水みたいに……。トイレまで我慢しようとしたのに、耐えられなかったの」
吐いて楽になったあと、ことの重大さに気づき、走って逃げたという。
根性なしにもほどがある。そこまで恥をかいたのなら、「家までついてきて」と、勢いで誘うところだろうに。
彼女はしばらく無言だったが、やがて机に両手を置くと、髪を振り乱して立ち上がった。
「あなたにも半分は責任があるのよっ」
綺里を見下ろす目が般若のようだ。
「わかってます。必ず借りは返すんで」
「嘘言わないで。ずっとそう言ってるじゃない。信用できるはずないでしょう」
「理由があるんです。三国さんを満足させたら、それ以上、協力してもらえなくなる。あーしの計画に支障が出ないよう、もったいぶってるだけなんで。あとちょっとで終わるから」
慌ててそう言うと、彼女は「バカバカしい」と口にしながらも、どうにか腰を下ろした。
「相談ってのは、例の山椒ビールのことなんですけど――。会社のECサイトで販売してもらうことって、できないですかね」
それから、涼葉と立てた構想を伝える。
三国は珍しく無言で聞いていたが、最後は、寄席で外れのネタを見たときのように、小さく息をはいた。
「企業側には、何のメリットがあるのよ。売れる見込みのない商品を扱うほど、うちは余裕ないと思う。そういうの、上の人たちを説得できるだけの材料があるわけ?」
「一応、あーしの専門でもある、SDGsを軸にしようって思ってるんです。育てるのは、オナガアゲハっていう蝶で、地域によっては絶滅種になっている希少種みたいです」
これは直前に清水の父から得た情報だ。
携帯で写真を見せると、彼女は「あら、すごく綺麗」と少女の顔に戻って言った。
「ラベルのイラストはこのアゲハのシルエットにするつもりです」
三国は椅子の背に重心を預け、脚を組んだ。
「ビールを買うと、希少種の繁殖に貢献できます、ってことか。発想は悪くはないと思うけど……。あの昭和体質の年寄どもを説得できるかなあ」
「羽化の瞬間は、普通に生活してたら滅多に見られないんで、絶対感動すると思う。それに若い人は環境意識が高いから、SNSで評判になってくれれば、今回の趣旨である、会社の名誉挽回にもつながりますよね」
そう言うと、彼女は機敏に体を起こした。
「何?ちょっと待って。これってあなたのスポンサー探しと関係してるってこと?」
「あれー、飲み会で相談してませんでしたっけ?そっちは無理なことがわかったんで、その代わりにしてもらうつもりなんですけど」
了承済みである振りをしようと、軽い口調で言ったにもかかわらず、相手は厳しい表情に変わった。
「はっきり言うけど、無理だと思う」
「どうして?目的が達成されれば、手段が多少違っても――」
「そういう正論じゃないの。取締役会に出席してた連中を見てるでしょ?」
どうやら、会社としての業績より、誰かの面子を立てることのほうが重要だと、そう言いたいようだ。
不毛で非建設的。だが、それが社会の重要な構成要素であることは、ここに来てからうすうす感じてはいる。
「とりあえず、役員会、でしたっけ。それを開催してもらうことはできます?」
「本気で言ってる?そりゃ、経企はそういう役回りだから、建前上は可能だけど。でも、集まったあと、ただ紛糾させたら、こっちの立場がなくなるわ」
「簡単に引き受けてはもらえないだろうと思って、一応、交渉の材料を準備してはあるんですけど」
酔って暴言を吐いた録音を聞かせてみたが、表情がまるで変化しない。
「わたしがその程度の脅しに屈するとでも?無理なものは無理。副社長が邪魔して、必ずうまくいかない。100パーセント間違いない」
彼女に念を押されるまでもなく、それは予想された返答ではあった。
この会社の最大派閥にして、今回の企画における最強の敵だ。
「その人についても、一応、策がなくはないんで……。お手数かけて申し訳ないんだけど、役員会の招集をお願いしたいです。失敗しても、あーしがめちゃくちゃに言われた上に、お望みのクビになって終わりでしょ?」
それでも渋る彼女を決意させるため、いつもの魔法を強めにかけることにした。
「今度こそ、三国さんの恋愛事情を好転させますから。相手は桜井さんですよね?」
実名を出したのはこれが初めてだ。きっとそれなりの反応を見せるのだと期待していたが、相手の表情はさえなかった。
「もしかして、ゲロのこと気にしてます?全然挽回可能で――」
「そうじゃないの。さっき言ったでしょ。最近、侑希の具合が良くないって」
真顔になった三国は、顎に手をやってしばらく思案し、やがて何かを決意したように顔を上げた。
「彼、適応障害だって診断されてるのよ」
それから、以前本人から聞かされた内容を話した。
「そういうの、治ったりしないんですかね」
「わたしも詳しくないから。個人的には、気にする必要はないと思う。朝、休みがちだったり、ときどき元気がないのは確かだけど、周りが理解してれば実害はほとんどないわ。ただ、本人が自信を持てないんだろうね。成功体験がないのかもしれない。たぶん子供のときからずっと。もし、そういうのがあれば、少しは前向きになれるとは思うけど――」
「三国さんにはそういうの、あるんですか?聞いた限りじゃ、会社で失敗続きみたいですけど」
「あなたねえ……。そういうの、直球で言いすぎよ。少しは言葉を濁しなさい。学生時代は、受験に成功したりとか、部活でいい成績収めたりとか、それなりにありました」
「なるほど。だったら、今回のビールの案件をそれにするって言うのはどうです?企画がうまくいくっていうのが前提だけど」
「それってつまり――」
「もともと、あーしと村野さんの窮地をどうにかしようって思ってたんですけど、あと一人、救う人間が増えたところで、やることはほとんど変わんないですし」
その場での思いつきだったが、彼女はしばらく悩み、出会ってから初めて、殊勝な言葉を口にした。
「あなたがそんな思いやりのある人だって、思ってなかった。素直に謝る。ごめん」