水曜日、村野が自転車を取りに来ることになっていた。
授業が終わると、なぜか涼葉が家についてきた。
「まだ講義が残ってたんじゃないのか」
「出席日数は足りてますから。綺里姉に心配されるには及びません。それより、協賛先探しをあきらめるって本気ですか。代わりの企画を立てるって簡単に言いますけど、まったく何もないところから、社会人の発想を上回らないといけないってことですよ」
知的で冷静な彼女の言う通りだ。
ただ、社会人がいつも正しいとは限らない、気がする。彼らが内輪の常識を振りかざす姿を見て、違和感しかないのだ。
駅前のロータリーでの待ち合わせ。
十分前に着いたにもかかわらず、相手はすでにそこにいた。綺里たちを見て、再び、深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして本当にごめんなさいね。これ、つまらないものですけど」
そう言いながら紙袋をぐいと押しつけてきた。
「いえ、そんなめっそうもない」
できた大人なら、そんなことを言う場面だろうが、ちらりと見えた中身はどうやら、ういろうのようだ。
「ありがたく、いただきまーす」
隣で涼葉の冷たい視線を感じたが、このあと、彼女も喜んで食べるに違いない。
三人で綺里の家へと向かう。
「本当にすごいところに住んでるのね」
途中、村野は何度もそう言った。
「父親がゼネコンなんで。下請けを泣かせて稼いだ金ですよ」
「そんなこと言わない。外国のインフラ開発とか、人から感謝されることもしてるじゃない」
涼葉とのやり取りにも、村野は笑う気配すら見せない。
玄関を入り、自転車が無事であることを確認すると、ようやくほっとしたように息をついた。
「せっかくだし、一緒に食べません?」
二人を部屋に招き入れ、直前に所有者が変わっただけのういろうとお茶を出した。
「そういえば、ダイエット目的って本当なんです?」
そう聞いてから、ずっと疑問だった。どう見ても、そんなことが必要な体型には見えない。
「綺里姉。女の人にそういうこと聞くの、失礼だよ」
「いえ、いいんです。それは半分……以下ですね」
「じゃあ、男?」
「綺里姉っ」
涼葉が声を高くして、ようやく村野は笑顔を見せた。
「まあ、普通そう思いますよね。実際、そうなんですけど」
「こう言っちゃなんですけど、あの人と合ってるような感じ、しなかったけど。この前だって、あんまり楽しそうに見えなかったし」
「あー……。あの日は70キロも走らされたあとだったから、疲れ切ってたんです。プロでもないのに、頭おかしいんですよ。山田さんのことも何とも思ってません。顔を思い出したくもないです」
そう言って吐き切り捨てた。
どうやら、最初のツアーで知り合った中に、気になった男性がいたらしい。
山田が幹事となって、開催された打ち上げに、その彼も参加していたそうだ。酒を飲んだ勢いもあったのだろう、近くにいた何人かでチームを作ることになった。
「女の人は珍しくてね。私みたいに地味な人間でも、結構ちやほやしてくれたの」
だが、実際にそのメンバーで走ったのは二回だけ。大阪在住とはいえ、住所はばらばら。ペースや走りたい場所の意見が合わず、すぐに散り散りになっていった。
目当てだった相手もいなくなり、彼女も離脱したかったそうだが、唯一の女ということで、ユニフォーム代や、飲み会の代金などで、何度か特別扱いされていたそうだ。さらにはメンテナンスなどの実作業でも世話になっていたようで、やめると言い出せないまま、ずるずると続けているのだという。
「あの人、二人で走るときは結構私に気があるように見せてたのに。この間、あなたたち二人に会った途端、あっという間にいい加減な扱いになって……。あ、ごめんなさい。別に恨んだり嫉妬してるわけじゃないの」
彼女は肺活量の自慢をしたいのかと思うほどに、深く息をはいた。
「いっつも外ればっかり。もう何もかもイヤになる」
涼葉が軽く綺里の背中に触れたのがわかった。どうにか慰めろと、そう言っているらしい。
山田を外れ扱いするのはともかく、うしろ向きな人生に幸福はやって来ないと、マリンさんはいつも話していたっけ。
「えーと。ういろうってことは、名古屋ですよね。仕事ですか?」
「え?ああ、そうです、ね」
「前にお会いしたとき、うなぎがどうとか言ってましたよね」
「あー……。よく覚えてますね。愛知県って、うなぎの生産量が日本で二番目に多いんですよ」
「だったら、一位は浜松だ」
「いえ、全然鹿児島のほうが多いです」
「確かに。スーパーで、よく鹿児島産を見ますよね」
「涼がスーパーに行くこと、あるんだ」
「うちを何だと思ってるんです」
「ってことは、うなぎ屋さんで働いてるってこと?お店どこ?今度安くしてくれます?」
後輩が、綺里の口を手で押さえるのを見て、村野は再び小さく笑った。
「いえ……。そうではなくて。農家です。豊能町で山椒農家をしています」
「山椒の専業なんですか?珍しいですね」
涼葉の言葉に、村野がまたしてもため息をつきながら頷いた。
「私はもっと手を広げたほうがいいって思ってたんですけど。父親が頑固で、聞く耳を持ってくれなかったんですよ」
彼女には兄がいるそうだが、三年ほど前、父が他界し、いざ家業を継ぐ段になると、東京に転職してしまったらしい。他に選択肢がなく、彼女は勤めていた地方の信用金庫を退職せざるを得なくなった。家業を引き継いでわかったのは、直近の数年はほとんど赤字の状態だったこと。今も慣れない仕事に戸惑いながら、どうにか経営を立て直そうとしているが、現状、まるで思い通りになっていないのだという。
うなぎ屋は重要な出荷先だが、昨今、稚魚が不漁で価格が高騰、客数が減っているそうだ。店側は価格を上げてどうにか対応しているが、調味料にすぎない山椒は、簡単に追随できないのだという。
新規の取引先を開拓しようとしているが、店の絶対数がそもそも多くなく、村野自身、営業活動が苦手で、まったく成果が出ていないのだと嘆いて、つむじが見えるほどに下を向いた。
「佃煮とかあるじゃない。あーしはちりめん山椒があれば、一生、困んない自信があるな」
「加工食品に使う山椒は、外国産に太刀打ちできないんです」
「他に販路はないんですか?」
「去年からクラフトビールっていうのを始めたんです。これがダメだったら、山と一緒に焼身自殺します」
そう言って髪をかきむしった姿は、冗談にはまるで思えなかった。問いかけた涼葉は顔を青白くし、綺里の背中をもう一度、今度は二度叩いた。
もはや打ち出の小槌扱いだ。
「えーと。クラフトビールって、山椒を使ってるんです?」
「ええ。ネットで調べたら、そういうの、作っているところがあったんで、真似してみました」
「大阪産の山椒を使ったビールってことか。悪くないと思うけど――少なくとも、あーしは聞いたことないな。未成年で、まだ飲めないから、かな」
「何ていう名前のビールですか?」
「……こちらをごさんしょうください」
村野はそう口にしたが、参照先が見当たらない。
しばらくの間を置いて、彼女の血液が、首から上部に集結していることに気づいた。
「もしかして……ダジャレ?」
「やっぱり、私、死にます」
「いやいや、センスはそんなに悪くないから。ちなみに、どこで売ってるの?」
「地元の酒屋さん二軒にお願いして、置いてもらってます。一つはバーっていうか、居酒屋さんを併設しているので、そこでも出してもらったり。あと、SNSとかでも宣伝してるんですけど」
彼女は携帯の画面を開いて見せた。
フォロワーの数は三桁。最後の更新から一ヶ月経過している。
「値段が一本、278円って……。何か安くない?」
「とりあえず、手にしてもらう必要があるのかなって。赤字になるまで下げてるのに、全然売れません……」
方向性はともかく、何かが噛み合っていない気がする。まるで今の綺里だ。
もっとも、商売をしたことのない大学生に助言できそうなことがあるはずもなく、結局、彼女を落ち込ませただけで、その日は見送るしかなかった。
授業が終わると、なぜか涼葉が家についてきた。
「まだ講義が残ってたんじゃないのか」
「出席日数は足りてますから。綺里姉に心配されるには及びません。それより、協賛先探しをあきらめるって本気ですか。代わりの企画を立てるって簡単に言いますけど、まったく何もないところから、社会人の発想を上回らないといけないってことですよ」
知的で冷静な彼女の言う通りだ。
ただ、社会人がいつも正しいとは限らない、気がする。彼らが内輪の常識を振りかざす姿を見て、違和感しかないのだ。
駅前のロータリーでの待ち合わせ。
十分前に着いたにもかかわらず、相手はすでにそこにいた。綺里たちを見て、再び、深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして本当にごめんなさいね。これ、つまらないものですけど」
そう言いながら紙袋をぐいと押しつけてきた。
「いえ、そんなめっそうもない」
できた大人なら、そんなことを言う場面だろうが、ちらりと見えた中身はどうやら、ういろうのようだ。
「ありがたく、いただきまーす」
隣で涼葉の冷たい視線を感じたが、このあと、彼女も喜んで食べるに違いない。
三人で綺里の家へと向かう。
「本当にすごいところに住んでるのね」
途中、村野は何度もそう言った。
「父親がゼネコンなんで。下請けを泣かせて稼いだ金ですよ」
「そんなこと言わない。外国のインフラ開発とか、人から感謝されることもしてるじゃない」
涼葉とのやり取りにも、村野は笑う気配すら見せない。
玄関を入り、自転車が無事であることを確認すると、ようやくほっとしたように息をついた。
「せっかくだし、一緒に食べません?」
二人を部屋に招き入れ、直前に所有者が変わっただけのういろうとお茶を出した。
「そういえば、ダイエット目的って本当なんです?」
そう聞いてから、ずっと疑問だった。どう見ても、そんなことが必要な体型には見えない。
「綺里姉。女の人にそういうこと聞くの、失礼だよ」
「いえ、いいんです。それは半分……以下ですね」
「じゃあ、男?」
「綺里姉っ」
涼葉が声を高くして、ようやく村野は笑顔を見せた。
「まあ、普通そう思いますよね。実際、そうなんですけど」
「こう言っちゃなんですけど、あの人と合ってるような感じ、しなかったけど。この前だって、あんまり楽しそうに見えなかったし」
「あー……。あの日は70キロも走らされたあとだったから、疲れ切ってたんです。プロでもないのに、頭おかしいんですよ。山田さんのことも何とも思ってません。顔を思い出したくもないです」
そう言って吐き切り捨てた。
どうやら、最初のツアーで知り合った中に、気になった男性がいたらしい。
山田が幹事となって、開催された打ち上げに、その彼も参加していたそうだ。酒を飲んだ勢いもあったのだろう、近くにいた何人かでチームを作ることになった。
「女の人は珍しくてね。私みたいに地味な人間でも、結構ちやほやしてくれたの」
だが、実際にそのメンバーで走ったのは二回だけ。大阪在住とはいえ、住所はばらばら。ペースや走りたい場所の意見が合わず、すぐに散り散りになっていった。
目当てだった相手もいなくなり、彼女も離脱したかったそうだが、唯一の女ということで、ユニフォーム代や、飲み会の代金などで、何度か特別扱いされていたそうだ。さらにはメンテナンスなどの実作業でも世話になっていたようで、やめると言い出せないまま、ずるずると続けているのだという。
「あの人、二人で走るときは結構私に気があるように見せてたのに。この間、あなたたち二人に会った途端、あっという間にいい加減な扱いになって……。あ、ごめんなさい。別に恨んだり嫉妬してるわけじゃないの」
彼女は肺活量の自慢をしたいのかと思うほどに、深く息をはいた。
「いっつも外ればっかり。もう何もかもイヤになる」
涼葉が軽く綺里の背中に触れたのがわかった。どうにか慰めろと、そう言っているらしい。
山田を外れ扱いするのはともかく、うしろ向きな人生に幸福はやって来ないと、マリンさんはいつも話していたっけ。
「えーと。ういろうってことは、名古屋ですよね。仕事ですか?」
「え?ああ、そうです、ね」
「前にお会いしたとき、うなぎがどうとか言ってましたよね」
「あー……。よく覚えてますね。愛知県って、うなぎの生産量が日本で二番目に多いんですよ」
「だったら、一位は浜松だ」
「いえ、全然鹿児島のほうが多いです」
「確かに。スーパーで、よく鹿児島産を見ますよね」
「涼がスーパーに行くこと、あるんだ」
「うちを何だと思ってるんです」
「ってことは、うなぎ屋さんで働いてるってこと?お店どこ?今度安くしてくれます?」
後輩が、綺里の口を手で押さえるのを見て、村野は再び小さく笑った。
「いえ……。そうではなくて。農家です。豊能町で山椒農家をしています」
「山椒の専業なんですか?珍しいですね」
涼葉の言葉に、村野がまたしてもため息をつきながら頷いた。
「私はもっと手を広げたほうがいいって思ってたんですけど。父親が頑固で、聞く耳を持ってくれなかったんですよ」
彼女には兄がいるそうだが、三年ほど前、父が他界し、いざ家業を継ぐ段になると、東京に転職してしまったらしい。他に選択肢がなく、彼女は勤めていた地方の信用金庫を退職せざるを得なくなった。家業を引き継いでわかったのは、直近の数年はほとんど赤字の状態だったこと。今も慣れない仕事に戸惑いながら、どうにか経営を立て直そうとしているが、現状、まるで思い通りになっていないのだという。
うなぎ屋は重要な出荷先だが、昨今、稚魚が不漁で価格が高騰、客数が減っているそうだ。店側は価格を上げてどうにか対応しているが、調味料にすぎない山椒は、簡単に追随できないのだという。
新規の取引先を開拓しようとしているが、店の絶対数がそもそも多くなく、村野自身、営業活動が苦手で、まったく成果が出ていないのだと嘆いて、つむじが見えるほどに下を向いた。
「佃煮とかあるじゃない。あーしはちりめん山椒があれば、一生、困んない自信があるな」
「加工食品に使う山椒は、外国産に太刀打ちできないんです」
「他に販路はないんですか?」
「去年からクラフトビールっていうのを始めたんです。これがダメだったら、山と一緒に焼身自殺します」
そう言って髪をかきむしった姿は、冗談にはまるで思えなかった。問いかけた涼葉は顔を青白くし、綺里の背中をもう一度、今度は二度叩いた。
もはや打ち出の小槌扱いだ。
「えーと。クラフトビールって、山椒を使ってるんです?」
「ええ。ネットで調べたら、そういうの、作っているところがあったんで、真似してみました」
「大阪産の山椒を使ったビールってことか。悪くないと思うけど――少なくとも、あーしは聞いたことないな。未成年で、まだ飲めないから、かな」
「何ていう名前のビールですか?」
「……こちらをごさんしょうください」
村野はそう口にしたが、参照先が見当たらない。
しばらくの間を置いて、彼女の血液が、首から上部に集結していることに気づいた。
「もしかして……ダジャレ?」
「やっぱり、私、死にます」
「いやいや、センスはそんなに悪くないから。ちなみに、どこで売ってるの?」
「地元の酒屋さん二軒にお願いして、置いてもらってます。一つはバーっていうか、居酒屋さんを併設しているので、そこでも出してもらったり。あと、SNSとかでも宣伝してるんですけど」
彼女は携帯の画面を開いて見せた。
フォロワーの数は三桁。最後の更新から一ヶ月経過している。
「値段が一本、278円って……。何か安くない?」
「とりあえず、手にしてもらう必要があるのかなって。赤字になるまで下げてるのに、全然売れません……」
方向性はともかく、何かが噛み合っていない気がする。まるで今の綺里だ。
もっとも、商売をしたことのない大学生に助言できそうなことがあるはずもなく、結局、彼女を落ち込ませただけで、その日は見送るしかなかった。