翌日、朝から出社した。
 一度しか着ていないスーツで地べたに座ることには、さすがに抵抗があり、スカートだけ、色味が同じで、汚れても問題ないものに変えてある。
 三国ならともかく、桜井であれば気づかないだろう。
 軽くそう考えていたが、会議室に入ると、二人が揃っていた。
 彼女とは、あの言い争いをした日以来で、さすがに居心地が悪い。
「どうしたんや。急に話したいことがあるって」
「もうできません、辞めさせて下さいって。ようやくその気になったんでしょ」
 席につくや、いきなり核心を突く指摘を受け、綺里の中でAプランだった土下座の予定が溶けてなくなった。
 この女の前でそんな無様な真似をするくらいなら、裸でフロアの中を走り回ったほうがはるかにましだ。
 次善策を持ち合わせていない。
「それで話って何なのよ。さっさと言いなさい。こっちはあなたと違って忙しいの」
 どうせ給湯室で不倫してるくせに――。って、いや、違った。彼女は桜井のことが気になっているんだったっけ。
 毎日この距離にいて、気持ちを伝えられないだなんて、本当に中学生だ。そして、話している内容は、生徒会長、というよりは風紀委員か。
 そんなことを考えていると、ふと滝井のことが頭に浮かんだ。
「三国さんって、最近、眼鏡からコンタクトに変えました?最近っていうのは、ここ一、二年ってことですけど」
 思いついたときには口が動いていた。敵は目と鼻の境目あたりに手をやり、あからさまに狼狽した表情を見せる。
「えっ……。何で?もう痕は、残ってないはずだけど」
「あー……。そういえば、オレがここに配属になった頃は、眼鏡でしたっけ。っていうか、君、どうしてそんなこと、わかるんや?」
「マリンさんの一番弟子なんで」
「誰?」「誰よ」
 どうやら、女係長が桜井に好意を持っていることも確定のようだ。
 どうにかそのことを逆手に取る手立てはないものか。
「そんなことより、話って何なのよ」
「一つお聞きしますけど、こちらの部門は、例のプロジェクトを今後どうするか、関与することってできます?」
「あなた、取締役会に出たんならわかるでしょ。大枠の方針は、あそこで決定されるの。ここは実務機関。概念を実際の作業に落とし込むだけよ」
「あー……。そうですか。ちなみに、万が一、あり得ないですけど。協賛先が見つからなかった場合は――」
「とりあえず、晴れて、あなたは即クビでしょうね。っていうか、何でさっさと辞表出さないんだか。あとはそうね、社長の立場が少し悪くなるかしら……。対して、副社長がまた鬼の首取ったみたいに偉そうにするんじゃない?ムカつくけど」
 あれだけかき回した挙げ句に、何の成果も結果も出せないまま、ただ引き下がるのか。せめて、何か爪あとを残せないものか。
「ちなみに、お二人は社長派です?」
「わたしはそういうの興味ない。ただ、それなりの期間、上長ではあった。で、副社長だけはイヤ」
 仲良くなることは永遠にない人間だが、共通敵がいるというだけで、多少は親近感がわくところが人情の不思議というやつか。
「だいたい、今回の一件だって、元々は副社長のせいで会社が叩かれることになったのよ。それを、何だかんだで責任転嫁してさ。仕事はできないくせに、そういう立ち回りだけはできる人間なのよ」
 嫌いな人間の悪口が、第三者から清流のように溢れ出る様の心地良さよ。
 そうか。
 本来の目的は、ネットでの悪評を覆す、だったのだ。それなら、スポンサー業にこだわる必要はないのではないか。
「江坂さん、ほんでどうする?もうあきらめるか?」
「そうですね……。あと少しだけ、時間、もらえませんか」
 可能性は残っている気がする。それが何かはまるで不明だが。
 テーブルの向こうで二人が顔を見合わせた。
「そりゃまあ、一応の期限は半年ではあったしな。オレらは別にええけど――」
「わたしは賛成しかねる。時間の無駄だと思う」
「わかりました。あーしが辞めるときは、三国さんにも何か得になるようなことしますから。それで見逃して下さい」
 相手の目を見据えると、彼女はそれが何かを悟ったようだ。他の誰も気づけなかっただろうが、その頬がかすかに染まるのがわかった。
 部屋を出ると、予想通り女のほうがついてきた。
 エレベーターを待つ間、何か話したげだ。
「何でスカートだけ違うのにしてるの?」
「土下座するつもりで来ました。でもあなたにはしたくなかったんで」
「普通さ、そういうの、本人の前で言う?っていうか、そんな嫌いなのに、わたしのメリットになるようなことって何よ……」
「具体的には決めてないけど……。今、そっちの頭の中にあるようなことです」
「どうしてあなたにそんなことが可能なの?」
 十歳以上、年下の学生に、大人が何かを本気で期待する姿に、多少は溜飲が下がった。
「すでに両手で足りないくらい、男と付き合ったことがあります。三国さんは?」
 相手は何も答えず、ただ唇を軽く噛んだ。
 人は恋心の扉を開くと、いつでも中学生に戻れるということだ。