社会人サイクリストたちと再び再会したのは、それから二十分ほどしたあとのことだ。どちらも三十代くらい。やや小太りで、軽薄そうな男は山田(やまだ)で、いつ見てもうつむき加減な女のほうは、村野(むらの)という名前だ。
 二人とも、体に密着した着衣の上から湯気が立ち上っていた。
 最初に涼葉を紹介した。
「すみませんね、お呼びたてしちゃって」
「綺里姉、敬語とタメ口が混ざってる。すみません、もう一生直らないんです」
 意図していたわけではないだろうが、後輩のダメ出しに二人は軽く笑った。
「すごい汗。どれくらい走ったんです?」
「大山崎まで往復して、七十キロくらいやな」
 そう言って、山田がおしぼりで顔の汗を拭った。
「七十キロっ?!人間って、そんなに走れるんだ」
「江坂さんやったっけ。自分、おもしろいな。サイクリングに興味があるって言うてたけど、もしかしてワシらの仲間になりたいとか?」
「そんなところです。入るのは、あーしじゃなくて、女子高生の予定なんですけど。それで、いくつか聞きたいことがありまして」
 それから、二人が出会った経緯と、普段の活動について尋ねた。
「最初は五人いたんや。有名なサイクルショップのツアーイベントで知り合った人たちな。そやけど、みんな仕事があって、時間が合わへんかったり、走ること自体が長続きせん人もおったりで、今は二人になってしもうたんや」
 チームである意味は、一つには強制力があるという。油断すると、すぐにサボってしまうことを避けるためだそうだ。あとは、イベントに参加しやすくなる。
「ブルベとか、わかるかな。行った先に一人やと寂しいやろ。あと、フレッシュはそもそもチームでないとエントリーできんし」
 ブルベもフレッシュも、時間内で決まったコースを走るというイベントだそうで、レースとは違うらしい。
「村野さんもそんな感じです?」
「あー……。そうね。私はもともとダイエット目的だったんだけど。一人だと、メンテとかすっごく時間かかっちゃうから……。そういうの、やっぱり男の人のほうが詳しかったりするし、助けてもらうことも多いのよ」
 彼女の言葉に、山田はやや得意げな表情になった。
 なるほど、男はいいところを見せたく、女はそれを利用する、と。社会の縮図だ。
「ちなみに、そのブルベとかって、テレビ中継とかされます?」
「テレビ?そんなん、相当大規模な大会だけやと思うけどなあ。ワシらが参加するような中級者向けイベントにはないで」
 まるで話にならない、という声調だった。
 涼葉と視線が交差する。ほら見たことか、という目の光だ。
 よくよく考えるまでもなく、偶然出会った素人の中に、やる気と才能、さらには、それを長期間継続できる環境を持つ人間など、そうそういるはずもないのだ。
 競技選びからやり直さなければならないだろうか。いや、そもそも、この任務を完遂できる気がしなくなってきた。
 もう、帰りたい――。
 綺里から声をかけた手前、散会の宣言を躊躇してしばらく、どこかで携帯の振動音がした。
 村野が慌てたように立ち上がる。ウェアの背中についている、使いにくそうなポケットを探りながら、店の入り口のほうへと小走りに駆けて行った。
「忙しそうですね。あんまり引き留めるのも悪いですし――」
「大丈夫や。自転車のことはワシのほうが詳しいし。今日は仕事休みやから、なんぼでも付き合うで」
 それから村野が戻ってくるまで、彼の武勇伝を聞かされながら十分以上は待っただろうか。再び姿を見せた彼女の表情は、それまでより、さらに険しくなっていた。
「お仕事です?そろそろ出ますか」
「ごめんなさいね。そうしてもらえる?山田さん、私、家に戻らないと行けなくなったから」
「そうなん?うなぎか?」
 場違いな単語は、どうやら何かの冗談だったようで、だが、村野は明らかに不快そうな表情に変わり、何の反応も見せずに背中を向けた。
「自分らはどうする?ワシの自転車、ちょっと乗ってみるか?結構ええやつやで」
 男のほうは、まるで空気の変化に気づいた様子はない。
「あーしたち、どっちもスカートなんで……。それに体格に合ったサイズとか、そういうのあるんですよね」
「へえ、詳しいやん」
 今進もうとしている道の先に、十一号議案の解決策があるようには思えない。修正するなら早いほうがいいに決まっている。
 さっさと帰るべく席を立つと、先に行ったはずの村野が、レジへの通路で立ちすくんでいるのが見えた。
「ムラちゃん、どないしたん?帰るんと違うんかいな」
「実は、結構急いで帰らないといけなくて……。タクシーか電車にしようと思うんだけど、自転車、お店の前に置いていってもいいと思います?」
「ええんと違う?今日中に取りに来たら」
「今日中……。そうですよね……」
 どこか不安そうにする彼女を見た瞬間、この場から完璧に脱出できる口実が頭に浮かんだ。
「あーしが預かりましょうか?家、すぐ近くなんで」
「え……。いいんですか?近くって――」
「新大阪の駅前です」
 店を出て、村野から自転車を預かる。
「迷惑かけてごめんなさいね。それで……もし可能だったらでいいんですけど、室内で保管してもらえるとうれしいです」
 年下の学生に、彼女は何度も頭を下げながら、地下鉄へと姿を消した。
「自分、ええとこに住んでるなあ」
 山田は、まだまだ話し足りない様子を見せていたが、綺里が、他人からの大荷物の扱いに戸惑っている様子を見て、あきらめたように走り去って行った。
「まったくの無駄足だったなあ」
 大きさの割には驚くほど軽い車体を押しながら、いったい何をしているのだろうと、嫌気が差す。
「珍しいですね。綺里姉のひらめきが外れるなんて」
「ひらめきって、何それ。どういう意味」
「生徒会のとき、突拍子もない思いつきで、みんなを翻弄してたこと、覚えてないんですか?予算配分とか、文化祭の場所決めとかで、いい加減な指示をしてるように見えて、その実、結果を出してたじゃないですか」
「そうだっけ」
 これまではともかく、今回に関して言えば、藤阪を気にかけた段階で、本筋からそれてしまっていたのだと思う。もっと遡れば、取締役会だが。
 彼女の助けを借り、エレベーターには自転車を縦にして載せ、どうにか玄関に置くことができた。
 その夜、村野から、仕事の関係で引き取れるのが三日後になると連絡があった。