土曜日の午前。
 滝井を家に招いた。
 体型のより近い、綺里の服をレンタルするためだ。
 前日に、涼葉の行きつけの美容室で、わずかに大人びて見えるよう調整済みで、それに加えてコンタクトにすること以外は、デートのための何の準備も不要だと伝えてあった。
 新大阪の駅前で再会した彼女は、明らかに不安そうだった。
「目の調子はどう?コンタクト、初めてだよね」
「処方箋を取るときにもらった試供品ですけど、メガネより全然楽です」
「それなら安心だね」
 彼女を連れ、マンションへと戻る。
 部屋に来たがっていたはずだが、親への挨拶も心ここにあらずで、中に入っても家具や内装に目をやる余裕もないようだ。
「あの……。やっぱりあたし、一回家に戻りたいんですけど……。このまま行くのはちょっと」
 スウェット地のパーカーに中学生がはくようなキュロットスカートは、初デートの出で立ちとしては確かに戦力不足だろう。
 やがて涼葉が、女優を相手にするのかというほどのメイクボックスを手に現れた。
 主役を綺里の机に座らせる。PCの画面にメールを映し出し、その前に鏡を置いた。
「あの……いったい何を」
「高校生の初デート、男を魅惑するナチュラルかつセクシーメイク、というテーマでマリンさんに指導をあおいだところ、ロールキャベツのレシピかと思うような詳細な返事をもらった」
「何か色々破綻してる気がするんですけど……。涼先輩までこんな茶番に参加して、何を考えてはるんですか」
「まあ、ねえ。何だか、そっちの先輩が男の生態に詳しいみたいなんで。じゃあ、ベースから始めるわね」
 綺里を挑発するように一瞥してから、いかにも高級そうなブラシを手にした。
 彼女が作業する間、綺里はクローゼットを開く。前日までにコーディネートは決めてあった。
 スカートをベッドに置いたとき、滝井がそれに反応した。
「先輩っ。それ、あたしがはくんです?ちょっと短かすぎません?!」
「膝上だよ。まったく問題ないって」
「そのシャツ、デザインおかしくないですか?肩の部分がめっちゃ開いてますよ」
「いちいち文句が多いなあ。あーしを信じなって」
 化粧を終え、彼女が着替える間、部屋を出る。壁を背に待っていると、涼葉が耳元に口を寄せた。
「本当にあれでいいんですか?」
「大丈夫だよ。マリンさんは童顔を売りにしている人だから」
「何が大丈夫なのか、さっぱりわかりませんけど」
 やがて、着替え終えたという弱々しい声があって、中に戻ると、滝井が棒立ちになっていた。
「いいじゃない。涼もそう思うよね」
「まあ、可愛いですけど」
「一個、いいですか?」
 姿見の前で体をくるりと回転させながら滝井は声を落とした。
「あたしに似合うてるかどうかは別にして、確かに服は可愛いです。お化粧のおかげで別人みたいになりました。でも、この先、清水と会うたび、お二人に迷惑かけるわけにはいかへんですし」
「そこは気にしなくていい。最初だけ、つまり今日だけ全力を出せばいいんだから。あとは、これまで通り、メガネと地味服で問題ないよ。というか、逆にそっちのほうが効果的なんだ」
「どういう意味です?」「また適当なこと言って」
 二人の後輩が同時に声を上げた。
「要するに、今日は静のポテンシャル、というか最高値を相手に印象づけることが目的だってこと」
 男の多くは、特に出会って間もない段階では、女の外見にしか興味がない。そのわずかの情報だけで人間性すら判断する。
 清水は、おそらく滝井のことを平凡な高校生女子と位置づけているだろう。
 そこに、今日のような、あかぬけた雰囲気を見せつければ、度肝を抜かれ、彼女の評価はダダ上がりというわけだ。
「自分で言うのも何ですけど、中身は全然変わってないんですよ……。そんなうまくいくでしょうか」
「マリンさんは、結婚披露宴ドレス効果と呼んでいた。一度上がった評価は、何年かは下がらないんだってさ。あと、デートコースは相手が決めるより先に、メッセージに書いておいたところに入ることを忘れないで。頼むメニューも指定してあるから、事前に読んでおくこと」
「別にそこまでしてもらわんでも――」
「ダメ。高校生が絶対に行かないような、おしゃれなところばかりを涼葉に選んでもらってあるんだ。常連ですって顔をして入れば、今後、二人のときはずっと主導権を握れる。それと、何度も言うけど、おしゃれもコンタクトも一日だけだよ。キスは二ヶ月たってから。それより先には、あーしがいいって言うまで、絶対に進んじゃダメだから」
 キスという単語に、顔を真っ赤にした滝井の手を引き、家を出た。
 改札前で、なおもためらっていた彼女の、文字通り背を押して送り出したあと、涼葉と駅前のカフェに入ったところで、ようやく一息ついた。
「何とか次につなげてくれればいいですけど。静、緊張しちゃってうまくしゃべれないんじゃないかな」
「その程度でちょうどいいんだよ。男なんて、服装と化粧だけで自在に操作可能なんだから」
「プレステのコントローラーみたいに言わないで下さい。まあ、百戦錬磨のマリンさんがそう言うなら――。それより、自転車の件はどうするんですか。相変わらず、初対面の大人と連絡先交換するとか、綺里姉の心臓はチタン製ですか」
 淀川の堤防で遭遇した、揃いのユニフォームを着た男女は、やはり社会人だった。
 立ち話程度だったが、大会に参加した経験がある程度には、真剣に取り組んでいるのだと聞いて、一度そのあたりを詳しく教えてほしいと、頭を下げたのだ。
「あの人たちが参加するイベントって、テレビ放映とかあるんでしょうか」
 それが現時点での最大の関心事だ。その条件が満たされるのであれば、藤阪を彼らのチームに合流させ、将来的には資金の供与が可能になるのではないか。
 もっとも、それを実現させるためには、中継カメラに映る程度の実力がともなわなければならない。それらは細い光明というよりはむしろ、ほとんど願望に近い筋書きではあった。
「土曜日は普通、仕事休みだよね。ちょっと連絡してみようか」
 アドレスを交換した女性にメッセージを送ると、涼葉と店を出る頃、返信があった。ちょうど、淀川の河川敷を下っているところで、このあと西中島のカフェで休憩する予定だという。
「もうすぐ来るって。涼はどうする?」
「行くに決まってるじゃないですか。ブレーキの付いてない綺里姉を一人にできるはずないでしょう」