翌日、涼葉とカフェテリアで待ち合わせした。三国に反撃する機会を得たことを伝えるためだ。
だが、姿を見せた彼女はいつになく真剣な表情、というよりむしろ落ち込んでいるように見えた。
「何かあったのか?」
「静が振られたみたいなんです。一昨日、直接会って話したんですけど、ずっと泣いてて」
「静って誰のこと?」
「え。滝井ですよ。言ってなかったでしたっけ」
「ああ、うちの生徒会長か。しずか、ねえ。名は体を表してないなー。騒とかいて、さわがって感じだよ」
他人の恋愛事情など、女子にとっては絶好のお茶菓子のはずだ。場を軽くしようしてみたが、人情派には伝わらなかったらしい。
彼女は口を尖らせ、綺里を睨んだ。
「えーと。相手はどんな人かな――」
って、そうだ。高槻の私立の生徒会長じゃないか。名前は確か清水だった。
あのとき、告白するような雰囲気までは感じなかったが――。
受験前の三年生。友人が髪を切っただけで、意味なく焦ってしまうほどに、情緒が不安定な年頃だ。瀧井が突発的な行動に出たとして、何も驚けない、か。
「それが、教えてくれないんです。今日、このあと会おうと思うんですけど、綺里姉も一緒に行ってくれますよね」
「どうしてあーしが」
「ええっ。可愛い妹の絶体絶命の事態ですよ?普通、断ります?」
「振られた人間に何て言って慰めるつもりだよ。最後は自力で立ち直るのを待つしかないと思うんだけど」
「冗談はもういいですから。これ以上、わがままを言ったら、縁を切ります」
涼葉と出会って以降、一番低い声を聞き、体温が0.5度下がった。
「わかったよ。だけど、本人じゃなくて、男を説得するほうが建設的だと思うんだけど」
「だから、聞いてました?教えてくれなかったんですって」
「あーしに心当たりがある」
後輩の機嫌を取るため、思わず手助けを買って出てしまったが――高槻市駅で下りる頃には、面倒くささでいっぱいだった。
目的地に向かいながら、滝井の想い人を知った経緯を説明する。
「なるほどー。綺里姉の直感が馬鹿にできないのは、よくよくわかってますけど――。でも、相手の男子に会ったからって、心変わりさせられるものでしょうか」
「失敗しても現状維持なんだから、やるだけやってみればいいんだ」
他にも悩みがある中で、こんなくだらないことに時間をかけてはいられない、などという本音は、もちろん口が裂けても言えない。
学校に着いたのは、放課後になって間もなく、校舎の外に生徒があふれている頃だった。
「どうやってその人に会うつもりですか?さすがに無断で入るのは気が引けます」
「そこらを歩いているやつに、連れてこさせよう」
下校中の生徒の一人に声をかけようとしたとき、校内からロードバイクの集団が、低速で近づいて来るのが見えた。
ユニフォーム姿の一団が通り過ぎたあと、最後方にいたのは、一人だけ違うウェアの女子だ。
その進行方向に軽く手を挙げると、サングラス越しに目が合ったのがわかり、彼女は急停車した。
「先輩。どうしはったんです、こんなところで」
清水に会いに来たのだと言うと、彼女は校舎とは真逆の方向を指さした。
「生徒会長やったら、この時間、たぶん、芥川にいると思います」
彼女が去ったあと、涼葉は物憂げにした。
「あの子、練習着とか、ホントにほかの部員と違うんですね。おまけに、三年なのに、後輩の自転車整備とかさせられてるんでしたっけ」
「そうだね」
教えられた道を地図アプリでたどる中、会話が途絶えた。
隣を歩く彼女の横顔が真剣だ。いつもの後輩想いが発動したらしい。
「今は滝井に集中しようよ」
そっと背中に触れると、はっとしたように顔を上げた。
「そうでした。そっちも大事だったんです」
芥川にたどり着き、そこからさらに淀川の方向に進んでしばらく、二つの川が交差するあたりでターゲットを見つけた。
「こんなところで何してるんだよ。怪しいな」
堤防の上から声をかける。
振り向いた相手は、しばらくの間、状況が理解できないという様子だったが、やがて表情を曇らせたように思えた。
「先輩こそ、いったいどうしはったんです?」
その声調に含まれた、かすかな不安。どうやら来訪の意図を察しているようだ。
「お前を探してわざわざ来てやったんだよ。そっちこそ、何してる」
「上から目線で言われる理由がようわかりませんけど……。虫を観察してるんです」
彼の説明によれば、父親が大学で希少種の昆虫を研究しているのだという。
「子供の頃から家の中は標本だらけで、まともに影響受けました。うちの高校に生物部があれば、生徒会には入ってなかったと思います」
大阪の、特に北部の川や山沿いは、自然が多く残っていて、生態系も豊かなのだそうだ。
「まあ、社会への貢献度がよくわからん職業は多いからな。あーしは嫌いじゃないけど」
「けなされてるのか、褒められてるのか、どっちなんですか」
それから涼葉を紹介した。滝井と仲が良いのだと伝えると、予想通り、彼は目線を落とした。
「つまり、それが本題ってことなんだ」
怒っているのではないことを示すため、できるだけ優しい口調で言った。
清水は返事をせず、コンクリートの階段へと向かい、川を見ながら座った。
あとを追って、一段上に腰かける。
「何て言って振ったのさ」
「振ったって……。人聞きが悪いです。高校も残りわずかやし、今はそういう時期と違うって、正直に言うただけですけど」
「お前のところは大学までエスカレーターだろ。説得力がまるでないじゃないか」
バレましたか、などという軽口が返ってくるかと期待していたが、相手はそのまま無言になった。
遠くで雑草を刈る機械のエンジン音が聞こえる中、河川敷をジョギングする人たちをぼんやりと眺めている。
何かを言いたくて仕方ない、という雰囲気の涼葉を片手で制した。
「一つ、教えてほしい。今、誰かと付き合ってるのか?」
「いえ、それは……」
「なら、好きな女子はいる?」
「それくらいは、まあ。普通に」
「同じ三年?」
「そう、なりますか」
「告白は?」
「してない、ですけど――。質問の数、全然一つやないですよ」
おそらく、恥ずかしさもあるのだろう、これ以上深入りしてほしくない、という気配を感じたが、それは無視した。
「今後、するつもりはある?」
その問いかけに、彼は再び口を閉ざした。
「なるほど。一つ、提案があるんだ。滝井と付き合いなよ」
「それ、提案と違うて命令やないですか」
声を弱くして、小さく笑った。
「そもそも、断った理由は何?建前じゃなくて、本音を聞きたいんだ。外見?それとも性格?」
「それは……強いて言えば外見、かな。メガネの子はあんまりタイプやないし……」
「それだけ?」
「ええ、まあ……」
「わかった。携帯出して。今すぐメッセージを送るんだ。週末、デートしようって」
「この流れで何でそうなるんですか。無茶ですよ。さすがにできません」
「あのさ、女子と付き合うことの意味を理解してる?」
「え……。意味って」
「タダでキスできるんだ。しかも、向こうも喜ぶ。この世界に、こんなウインウインの状況は、めったにないだろう」
「さすがに暴論ですよ。そういうのは好きな人とするもんやし――」
口では抵抗を示したが、反して頬がかすかに朱に染まる。
「本命に告白の予定は、しばらくないんだろ?だったらいいじゃないか、練習だと思えば。とりあえず三ヶ月だけ付き合うんだ。それでもまだ滝井が好きになれてなかったら、そのときはあーしが責任を持って関係を断ち切ってやるからさ」
そばの涼葉がハラハラしているのが手に取るようにわかる。
「そんなん、さすがに頼めませんよ……」
「大丈夫だって。あーしを信じなよ。行く大学も別なんだし、会うこともないんだ。あれこれ考えずに、まずは気軽に試してみようよ」
彼はそこでまた口をつぐんだ。
キスという単語を出したときから、動揺していることは把握している。今の沈黙は、おそらく承諾したと解釈可能なはずだ。
「携帯、貸して」
隣に移動し、手を差し出すと、彼はしばらく動きを止めていたいが、やがてポケットからそれを取り出し、無言でロックを解除した。
だが、姿を見せた彼女はいつになく真剣な表情、というよりむしろ落ち込んでいるように見えた。
「何かあったのか?」
「静が振られたみたいなんです。一昨日、直接会って話したんですけど、ずっと泣いてて」
「静って誰のこと?」
「え。滝井ですよ。言ってなかったでしたっけ」
「ああ、うちの生徒会長か。しずか、ねえ。名は体を表してないなー。騒とかいて、さわがって感じだよ」
他人の恋愛事情など、女子にとっては絶好のお茶菓子のはずだ。場を軽くしようしてみたが、人情派には伝わらなかったらしい。
彼女は口を尖らせ、綺里を睨んだ。
「えーと。相手はどんな人かな――」
って、そうだ。高槻の私立の生徒会長じゃないか。名前は確か清水だった。
あのとき、告白するような雰囲気までは感じなかったが――。
受験前の三年生。友人が髪を切っただけで、意味なく焦ってしまうほどに、情緒が不安定な年頃だ。瀧井が突発的な行動に出たとして、何も驚けない、か。
「それが、教えてくれないんです。今日、このあと会おうと思うんですけど、綺里姉も一緒に行ってくれますよね」
「どうしてあーしが」
「ええっ。可愛い妹の絶体絶命の事態ですよ?普通、断ります?」
「振られた人間に何て言って慰めるつもりだよ。最後は自力で立ち直るのを待つしかないと思うんだけど」
「冗談はもういいですから。これ以上、わがままを言ったら、縁を切ります」
涼葉と出会って以降、一番低い声を聞き、体温が0.5度下がった。
「わかったよ。だけど、本人じゃなくて、男を説得するほうが建設的だと思うんだけど」
「だから、聞いてました?教えてくれなかったんですって」
「あーしに心当たりがある」
後輩の機嫌を取るため、思わず手助けを買って出てしまったが――高槻市駅で下りる頃には、面倒くささでいっぱいだった。
目的地に向かいながら、滝井の想い人を知った経緯を説明する。
「なるほどー。綺里姉の直感が馬鹿にできないのは、よくよくわかってますけど――。でも、相手の男子に会ったからって、心変わりさせられるものでしょうか」
「失敗しても現状維持なんだから、やるだけやってみればいいんだ」
他にも悩みがある中で、こんなくだらないことに時間をかけてはいられない、などという本音は、もちろん口が裂けても言えない。
学校に着いたのは、放課後になって間もなく、校舎の外に生徒があふれている頃だった。
「どうやってその人に会うつもりですか?さすがに無断で入るのは気が引けます」
「そこらを歩いているやつに、連れてこさせよう」
下校中の生徒の一人に声をかけようとしたとき、校内からロードバイクの集団が、低速で近づいて来るのが見えた。
ユニフォーム姿の一団が通り過ぎたあと、最後方にいたのは、一人だけ違うウェアの女子だ。
その進行方向に軽く手を挙げると、サングラス越しに目が合ったのがわかり、彼女は急停車した。
「先輩。どうしはったんです、こんなところで」
清水に会いに来たのだと言うと、彼女は校舎とは真逆の方向を指さした。
「生徒会長やったら、この時間、たぶん、芥川にいると思います」
彼女が去ったあと、涼葉は物憂げにした。
「あの子、練習着とか、ホントにほかの部員と違うんですね。おまけに、三年なのに、後輩の自転車整備とかさせられてるんでしたっけ」
「そうだね」
教えられた道を地図アプリでたどる中、会話が途絶えた。
隣を歩く彼女の横顔が真剣だ。いつもの後輩想いが発動したらしい。
「今は滝井に集中しようよ」
そっと背中に触れると、はっとしたように顔を上げた。
「そうでした。そっちも大事だったんです」
芥川にたどり着き、そこからさらに淀川の方向に進んでしばらく、二つの川が交差するあたりでターゲットを見つけた。
「こんなところで何してるんだよ。怪しいな」
堤防の上から声をかける。
振り向いた相手は、しばらくの間、状況が理解できないという様子だったが、やがて表情を曇らせたように思えた。
「先輩こそ、いったいどうしはったんです?」
その声調に含まれた、かすかな不安。どうやら来訪の意図を察しているようだ。
「お前を探してわざわざ来てやったんだよ。そっちこそ、何してる」
「上から目線で言われる理由がようわかりませんけど……。虫を観察してるんです」
彼の説明によれば、父親が大学で希少種の昆虫を研究しているのだという。
「子供の頃から家の中は標本だらけで、まともに影響受けました。うちの高校に生物部があれば、生徒会には入ってなかったと思います」
大阪の、特に北部の川や山沿いは、自然が多く残っていて、生態系も豊かなのだそうだ。
「まあ、社会への貢献度がよくわからん職業は多いからな。あーしは嫌いじゃないけど」
「けなされてるのか、褒められてるのか、どっちなんですか」
それから涼葉を紹介した。滝井と仲が良いのだと伝えると、予想通り、彼は目線を落とした。
「つまり、それが本題ってことなんだ」
怒っているのではないことを示すため、できるだけ優しい口調で言った。
清水は返事をせず、コンクリートの階段へと向かい、川を見ながら座った。
あとを追って、一段上に腰かける。
「何て言って振ったのさ」
「振ったって……。人聞きが悪いです。高校も残りわずかやし、今はそういう時期と違うって、正直に言うただけですけど」
「お前のところは大学までエスカレーターだろ。説得力がまるでないじゃないか」
バレましたか、などという軽口が返ってくるかと期待していたが、相手はそのまま無言になった。
遠くで雑草を刈る機械のエンジン音が聞こえる中、河川敷をジョギングする人たちをぼんやりと眺めている。
何かを言いたくて仕方ない、という雰囲気の涼葉を片手で制した。
「一つ、教えてほしい。今、誰かと付き合ってるのか?」
「いえ、それは……」
「なら、好きな女子はいる?」
「それくらいは、まあ。普通に」
「同じ三年?」
「そう、なりますか」
「告白は?」
「してない、ですけど――。質問の数、全然一つやないですよ」
おそらく、恥ずかしさもあるのだろう、これ以上深入りしてほしくない、という気配を感じたが、それは無視した。
「今後、するつもりはある?」
その問いかけに、彼は再び口を閉ざした。
「なるほど。一つ、提案があるんだ。滝井と付き合いなよ」
「それ、提案と違うて命令やないですか」
声を弱くして、小さく笑った。
「そもそも、断った理由は何?建前じゃなくて、本音を聞きたいんだ。外見?それとも性格?」
「それは……強いて言えば外見、かな。メガネの子はあんまりタイプやないし……」
「それだけ?」
「ええ、まあ……」
「わかった。携帯出して。今すぐメッセージを送るんだ。週末、デートしようって」
「この流れで何でそうなるんですか。無茶ですよ。さすがにできません」
「あのさ、女子と付き合うことの意味を理解してる?」
「え……。意味って」
「タダでキスできるんだ。しかも、向こうも喜ぶ。この世界に、こんなウインウインの状況は、めったにないだろう」
「さすがに暴論ですよ。そういうのは好きな人とするもんやし――」
口では抵抗を示したが、反して頬がかすかに朱に染まる。
「本命に告白の予定は、しばらくないんだろ?だったらいいじゃないか、練習だと思えば。とりあえず三ヶ月だけ付き合うんだ。それでもまだ滝井が好きになれてなかったら、そのときはあーしが責任を持って関係を断ち切ってやるからさ」
そばの涼葉がハラハラしているのが手に取るようにわかる。
「そんなん、さすがに頼めませんよ……」
「大丈夫だって。あーしを信じなよ。行く大学も別なんだし、会うこともないんだ。あれこれ考えずに、まずは気軽に試してみようよ」
彼はそこでまた口をつぐんだ。
キスという単語を出したときから、動揺していることは把握している。今の沈黙は、おそらく承諾したと解釈可能なはずだ。
「携帯、貸して」
隣に移動し、手を差し出すと、彼はしばらく動きを止めていたいが、やがてポケットからそれを取り出し、無言でロックを解除した。