会社への二度目の報告の日。
 今回はスーツだけでなく、ネイルも落とし、髪も涼葉の指示に従ってポニーテールにしてある。
 それでも、三国と会うというだけで、胃に痛みを感じていたが、オフィスの前の廊下に現れたのは桜井だった。
「何か……すごく久しぶりな気がします」
「あー。前回は申し訳ない。ちょっと体調不良で」
 そう言う今も、絶好調にはまるで見えない。
「風邪とか……ですか?」
 三国と話した同じ会議室に、疲れたように腰を下ろした彼は、綺里の問いかけにしばらく答えなかった。
「あ……悪い」
 そう言って、口を閉ざした。
 テーブルをはさんで座ったが、報告を伝えるきっかけが掴めない。しばらくして、桜井は、「はあ」と大きなため息をついた。
「最近、ちょっと調子悪くて。医者に通ってるんや」
 尋ねてもいないことを話し出した。しかも、あまり聞きたくなさそうな内容だ。
 やがて彼は、適応障害という単語を力なく口にした。
「子供の頃はただのサボり癖のあるやつって、ずっとそう思われてて。まあ、自分でもそんな感じなんやろうって思うてた。で、どうにか頑張ろうとはするんやけど、朝とか起きれなくてな」
 大人になって、症状に名前がついたが、治療法がはっきりとしているわけでもなく、周囲からは今もやる気のない社員という目で見られているのだそうだ。
 もともと、システム系で採用されたが、時間を守れない人間ということで、社内では日陰とされる、成果のはっきりしない今の部門に異動になったという。
 子供の頃から自信が持てたためしがない、だとか、部活や生徒会で活躍するなんて夢物語だ、などと弱音が連続する。
 取締役会のとき、彼の中に感じた陰の気配は、どうやらそんな背景が理由のようだ。
「あんたにこんな話されても困るよな。悪い。報告、聞かせてくれるか」
 そう言って、自嘲気味に口角を上げた。
 このまま成果に乏しい報告をすれば、この部屋の重力で押しつぶされてしまう。
「前回、ここに来たときに会った、三国って人も、窓際族ってことですかね」
 この場の空気を変えるため、一か八か彼女を踏み台にすると、幸い、彼は歯を見せて笑った。
「そんなはっきり言われると、何か元気出るな。あの人がここに来た経緯はよう知らんけど、仕事はできるから、オレとは違うと思う」
 そう答えた声調が、わずかに高くなったように感じた。
「桜井さんのこと、名前で呼んでましたけど、親しいんですか?」
「オレがこんなんやし、色々気を使ってもらってるんやと思う。ほんま、男として情けない」
 今度は頬を桜色にした。この反応は――まさかそういうことだろうか。
「三国さんって、彼氏とかいるんですかね」
 相手の目を見すえてそう言うと、予想通りというべきか、気の毒なほどに狼狽した。
「そんなん、オレが知ってるはずないやろ。まあ、いても全然不思議はないけど……」
 どうやら確定だ。あんな気の強い女に好意を寄せる人間がいるとは――。大学に恋愛学という講義があれば、彼の特殊な嗜好性を研究課題にしたいところだ。
「そんなことより、本題。経過報告」
 照れ隠しのためだろう、軽く机を叩き、真顔になった相手に、競技を二種目に絞ったことを伝えると、どこか納得のいかないという表情を見せた。
「スポーツクライミングと自転車、ねえ」
「あれ。ダメ、ですか?」
「ダメっていうか。何かもっとこう、斬新なのがやってくるのかって勝手に想像してたんや。クライミングは知らんけど、自転車とか、マンガとかでも取り上げられてるやろ――。って、悪い、丸投げしておいてこんなこというの、反則やな」
「斬新って、キンボールとかフリスビーとかですか?あーしはそれでもいいですけど、ただ、そうなると今度は競技人口の問題があるんじゃないですかね。伸びしろだけは目一杯ありますけど、協賛する価値となるとどうなのか」
「確かにな。それで、対象者まで絞れたんか?」
「実はそのことでご相談がありまして――」
 藤阪を助けたいという、正直な気持ちを伝えてみた。
 相手が、この会社の中ではもっとも話が通じる人間だと信じて、だ。
 だが、彼は「無理やなー」と、まるで感傷を見せずに即答した。
「直接会うて情が移ったんやと思うけど、色んな事情で困ってたり、普通より頑張ってる人なんてそこら中にいてはるしな」
 仮にも営利企業である以上、利益がともなわないことが明らかな活動に出資するなど、決裁が通るはずがないのだという。
 返す言葉がなかった。
「もう少し考えます」
「競技はその二つで問題ないと思うし」
 珍しく彼の気遣うような声を背中に聞きながら、部屋をあとにした。
 前回に引き続いて敗北感を味わうことになり、淀屋橋が嫌いになりそうだ、などと子供じみたこと考えながらエレベーターに向かっていたときだ。
 行く先に人影が見えてなぜか不快な気持ちになり、すぐにその理由を知覚した。
「何や、まだ辞めてへんのか」
 現れたのは、副社長の富田だった。冷ややかな目付きで綺里のスーツを一瞥する。
「どこのキャバ嬢が営業に来てんのかて思うたわ。ほんま、間違いやってわかってんのにな。厚顔って、意味わかるか?お前が今想像したほうと違うで。厚かましいっちゅうこっちゃ。どういう育てられ方したんか、親の顔が見たいわ。ほんでどうやねん、プロジェクトのほうは、順調でっか。ほれ、答えてみいや」
 おそらくは進展がないことを聞いているのだろうが、それにしても、お付きの者がいないからか、品のない本性がだだ漏れだ。
「契約は半年ですし。あと四ヶ月近くありますんで」
 言い争っても現状では勝ち目がない。
 早足に通り過ぎ、廊下を曲がったところで、今度は、壁を背に人が立っているのを見つけ、それが誰かを認識して、心臓が止まりそうになった。
 鬼のような形相をした三国だったのだ。
 尿が少量もれた。
 彼女は綺里の腕を掴んだかと思うと、エレベーターへと進み、ドアが閉じるのを待ちかねて、体が触れ合うくらいに近づいた。
「わかったでしょ?あんたみたいな人間がいると、女全部が馬鹿にされるんだから」
「いやー……。あの人の場合はちょっと特殊じゃないですか。あれで副社長とか、この会社に問題があるとしか――」
「肩書きは人間性を選ばないの。もっと言えば、善人が出世してるの、わたしは見たことない。ネイルと髪型をましにした素直さは認めるけど、もう潮時でしょう。辞職願いの書き方、教えてあげるから、今日であきらめて」
 二人の大人から、罵倒と説教が連続して、やる気を完全に失った。
 一階までがやたら長く感じられる。ドアが開くのを待ちかね、仁王立ちの三国を残して、競歩でエレベーターから逃げ出した。
「あんな人間を好きになるとか、もはや異常としか言えないな」
 頭に浮かんだことを、後先考えずに口に出してしまった直後、うしろでカチカチと何かを激しく押す音が聞こえたかと思うと、閉まりかけていたドアが再び開き、彼女が猛スピードで迫ってきた。
 ひいぃっ。
「今、あなた、何て言った?誰が誰のことを好きだってっ?」
「えーと。何のことでしょう」
「しらばっくれないで。さっきの文脈だと、わたしのことを好きな人がいるってことじゃないの?」
 頬を染めてまくし立てた。
 なるほど、こんな女でも、人並みに恋愛感情があるのか。
 それから、綺里が会った会社の人間はそんなに多くないはずだ、などと自分に言い聞かせるように続ける。
 もしかして、桜井のことを思い描いているのだろうか。
 だとすれば両想いだ。そして、互いに、態度に表している雰囲気ではない、と。
 こんな尊大な態度だが、恋愛については中学生並みということだ。
 いずれにしても、あんたからあなたへ、二人称が格上げされたくらいで、いい思いをさせてやるはずがない。
「話すわけないでしょ」
「え。今、何て?」
「死んでも教えないって、そう言ったんです」
「いや、そこまでじゃなかったわよね……。って、そうじゃなくて。何で言ってくれないのよ」
「三国さんのことが嫌いだからです。あーしにこれまでさんざん厳しい態度をとってきた自覚はありますよね?」
 ああ、なるほど――。
 これまでの、綺里に対するあたりの強さの原因はこれだったのか。桜井に補佐をしてもらうことになり、そのことで、彼女は嫉妬していたに違いない。社長の、あの場の思いつきのせいで、災難に巻き込まれた人間がここにもいた、というわけだ。
「あなた……。そこまで直球を投げれるって、逆に尊敬するけど。わかった、これからちゃんと接するから。それでいいでしょう?」
「いえ、ごめんです。とりあえず今日はもう帰りますから」
「ええっ。本気なの?」
 落胆した声が背中で聞こえたが、構うことなく、その場を離れた。