彼女と再会したのは土曜日だ。
 この日の予定を報告したとき、なぜか不機嫌になった涼葉も同行してきた。
「何を怒っているのか、一応、教えておいてもらえる?」
 待ち合わせ場所にしていた駅の改札で、気のない様子の彼女は、手のひらで太陽光を遮りながら、空をまぶしそうに見上げた。
「別に怒ってはいません。でも、うちに無断で交友関係を広げないでもらえますか?」
「交友関係って、相手は高校生だよ。だいたい、その理屈ならバイト先はどうなるのさ。涼の知らない人間だらけなんだけど」
「ええ、そうです。だから本来であれば、うちの学習塾で働いてもらいたいんですよ」
 羽虫のようにまとわりつく子供を想像しただけでうんざりした、などと、もちろん悟られるわけにはいかない。
 教育関係者の長時間労働問題に話題をすり替えていると、主役が姿を現した。
「遅くなってすみません」
「全然問題ないから。頼んでいるのはこっちだし。ちなみに、何で制服?」
「女子大に着ていけるような、よそ行きの服がなかったんで……」
 彼女はそう言って、綺里の隣に目をやった。
「紹介するよ。同じ大学で、一年後輩の相川涼葉」
「こんにちは。相川です。綺里姉の秘書……じゃなくて、お目付け役です。ほっとくと、どこ行っちゃうかわからない人なんで」
「大学生って感じですねえ。めっちゃ憧れます」
「その発言はおかしいよね。すでにあーしに二度も会ってるじゃないか」
 軽口に二人が笑い、互いに打ち解けてくれたようだ。
 やってきたスクールバスに乗り込むと、藤阪は「観光バスみたい」だとか「座り心地がめっちゃいいですねえ」などと、無邪気に盛り上がった。
 キャンパスの中ですれ違う学生にも、羨望の目を向ける。
「みんなおしゃれですね。さすが私立の女子大やわあ」
 校内を一通り案内したあと、カフェテリアに入り、改めて、彼女に声をかけた背景を説明した。
「大人って、ようわかりませんね。お金をタダで上げる立場なんやったら、ほしい人、集まれって言うだけでみんな群がると思うんですけど。もし靴を舐めてもらえるんやったら、今すぐ、この場でしたいくらいです」
「宣伝効果っていう見返りが必要なんだよね」
「なるほどですね。でも、自分は広告になるような人間とは程遠いですけど」
 藤阪を選んだ理由の答えは、今も持ち合わせていない。強いてあげれば、男子に囲まれた環境で頑張る健気さと、買い物比較表に心を惹かれたから、だろうか。
「実際に活動してる人の話を聞きたかったんだ。競技としての面白さとか。女子は一人だけみたいだけど、藤阪さんはどうして自転車部に入ろうと思ったの?」
 そう言うと、彼女は目線を落とし、戸惑ったように笑った。
「そんな真面目な質問に答えるのはちょっと恥ずかしいんですけど――。単に自分の個人的な事情なんですよ。高校入ってから、バイトばっかりしてて、受験勉強できる気がせえへんので、どうにかスポーツ推薦を取りたいだけなんです」
「確か大学は受験なしで進学できるよね?」
「授業料さえ払えれば、です」
 高校は、自宅から交通機関を使わずに行ける範囲で選んだだけ。私立だったが、国や府の助成で、経済的な負担なく通うことができた。ただ、大学にかかる費用は、関西でも五指に入るほど高額だという。
「自分の家、母子家庭なんです。母親はずっとパートで生活もぎりぎりで」
 制服もリユース品らしく、見せられたブレザーの内側の刺繍は、別の名前だった。経済的にも学力的にも、大学進学など、夢にも考えたことがなかったが、一年の終わりに、担任からスポーツ推薦という制度があることを聞いたそうだ。実力が認められれば、奨学金の可能性もあるのだと知って、やるだけやってみようと思い立ったらしい。
「それで、二年から始めて、他の人に追いつけそうな種目を探したんです」
 体力にはそれなりに自信があった。各部が新入生を勧誘していたその年の春、自転車部に、余剰の車体があることを知り、希望者はそれを使えるという誘い文句を信じて入部したのだそうだ。
 確かに自転車を借りることはできた。ただ、それは過去の部員たちが残していった部品を寄せ集めて作られた物だったという。本来、身長などからフレームを決めるのが一般的のようだが、今、彼女に与えられているのは、決して適したサイズではないのだそうだ。
 それでも、消耗品は部費で購入できるし、メンテナンスの道具一式も揃っていて、金銭的な面で負担がないことを理由に、惰性で続けているのだと、声を落とした。
 涼葉と目が合う。彼女も綺里も、家庭は経済的には恵まれていて、どう慰めても、説得力にかける気がする。
「今、三年だったっけ。推薦ってことは、インターハイみたいなところで、それなりの結果を残す必要があるんだと思うけど――公式戦とかの成績はどんな感じ?」
 ぼんやりと答えが想像できていたにもかかわらず、うっかり聞いてしまった。
 そして、予想通り、彼女は首を二度振った。
「始めたのが遅かったっていうのもあって……。ダメで元々でしたから。別にええんですけど」
 目を伏せたまま、冷めかけていた紅茶に口をつけた。
 隣を見ると、涼葉のこぶしが、ぎゅっと握られている。彼女は軽く身を乗り出した。
「藤阪さん。仮に新品で体に合った自転車が手に入ったら、推薦の可能性はどれくらいになるの?」
「簡単じゃないとは思います。部活以外の時間で、トレーニングする時間は取れへんし、指導もちゃんとしてもらってないんです」
 入部以来、ユニフォーム代も出せない彼女の扱いに、他の部員たちが困惑している雰囲気を感じているそうだ。
 中には明白に下に見ている人間もいるのだという。
「着替えるとき、女子は自分だけなんで、部室に一人になるんですけど――」
 あるとき、部員の財布の金が減っていると、騒ぎになったことがあるらしい。それが真実だったのかどうか、もはや確かめようもないが、結局、理由はわからず、ただ、その後、男子たちの藤阪に対する態度が変化したのだという。
 苦労していそうだと感じていたが、まさかここまで切実な事情とまでは想像できなかった。支援の対象に推薦してやりたいが、高校生は対象外だ。
 慰める適当な言葉を何も思い浮かばず、いつもは後輩には寄り添った態度を見せる涼葉も、後半は押し黙ったまま、話し合いは終わった。
 入学要項を渡すつもりだったが、桜桃にスポーツ推薦の制度はない。
 藤阪も最初から眼中にはなかっただろう。
 駅まで同乗しようとしたが、「いい思い出になりました」と、スクールバスに駆け込んだ彼女のあとを追う勇気はなかった。
「奨学金制度はあったよな」
「だとしても、そういうのって、成績が相当に優秀じゃないと無理だと思います。うちの大学、偏差値はそれなりに高いですから」
 この時期の空が遠くに感じるのは、物理的に雲の位置が高いからだそうだ。
 青く、広い秋の天空の下で、閉塞感すら覚えたのは、ここ最近の人間関係がどれも不調だったからだと思う。