社外取締役に就任して一ヶ月。当初の約束通り、現時点での進捗状況を報告するため、会社を訪れた。
 目的地は役員会議室ではなく、経営企画室だ。
 廊下にある社内電話で来訪を告げると、現れたのは、桜井ではなく、彼と同年代の女だった。
 前髪をおでこのあたりで分けたショートボブに、濃紺のパンツスーツ。ファッション雑誌で、仕事のできる女性特集に出てきそうな雰囲気だ。
 初対面にもかかわらず、まるで万引きを疑っているような鋭い目線が、綺里の頭から靴までを一往復した。
「あの、桜井さんは……」
「本日は休みです」
 そう言った声には聞き覚えが――。記憶をたどっていると、相手が続けた。
「江坂さんですよね。侑希(ゆうき)から聞いています。わたしがお話をうかがいますから。とりあえずこちらへどうぞ」
 そっちも名前を名乗れと思った瞬間、回路がつながった。
 そうだ。失礼ですが、のやつじゃないか。
 人には厳しく自分には甘い、つまり、あまり好きではないタイプかもしれない。
 桜井のことを下の名前で呼んでいたが、いったいどういう素性なのだろう。
 IDをかざして解錠し、パーティションで区切られたオフィス内を、一人さっさと進む名さえ知らぬ女は、やがて壁際に並ぶ会議室の一つへと消えた。
 白を基調とした作りのフロア。何人かが綺里を一瞥したが、この日のために買い揃えていたグレーのスーツのせいか、ほとんど注目されずにすんだようだ。
 どうやら一段、大人の階段を上ってしまったらしい。
 会議室は、小さなテーブルが一つに、椅子が四つあるだけの狭い空間だった。
 彼女は扉を入ってすぐの場所に、腕を組んで立っていた。
「経企の三(みくに)です」
 手品師のような手つきで差しだされた名刺には、係長の文字が見えた。
「桜井さんの上司ですか?」
 そう言って、近くの椅子に座ろうとしたとき、相手の顔が高速で歪むのが見えた。
 直後に聞こえたのは、またしても社会人の洗礼だ。
「噂の通り、常識知らずの子みたいね」
 部屋に入ってまだ三十秒と経っていない。その間、非常識の烙印を再確認されることなどあっただろうか。
 怒りよりは、驚きが先に立ち、口をついたのは文句ではなく、質問だった。
「すみません。あーしのどこがいけなかったのか、教えてもらえますか?」
 できるだけ感情を込めずに言うと、相手は「はあ?」と声を裏返した。
「全部よ、全部。名刺を片手で受け取り、勧めてもいないのに着席しようとし、来客の立場なのに下座を選ぶ。それに、係長が上司なわけないでしょう。管理職は課長から。いったいどんな教育を受けてきたのよ」
 教育か。学歴という意味では、普通は大学を指すのだろう。桜桃女子大は二流の中では上のほうだとは思うが――。今はそれよりも、わずかな時間に四つも違反した自身の行動を、逆に褒めたくなった。
「服だけはまともになったみたいだけど、髪型も化粧もネイルも全然ダメ。そもそも、間違いで来たんなら、その日のうちにさっさと辞めるでしょう。馬鹿を通り越して、もはや大器よね、まったく」
 早口でそう言うと、綺里を立ち上がらせ、空いた場所に腰を下ろした。
「なるほど、そこが下座なんですね。脚を組むのは、マナー違反にはならないんですか?」
 その態度を見て、頭に浮かんだ素朴な疑問を口にしただけだったが、相手にはそう伝わらなかったらしい。
 それまでより、さらに目を吊り上げる。
「それで反撃したつもり?あんたなんか、十年かかったって、わたしに追いつけるはずないでしょ。さっさと用件を済まして帰ってもらえる?こっちは学生みたいに暇じゃないんだから」
 学生の立場にだって、もちろん言い分はあった。
 ただ、これまでの人生、綺里に対してここまで露骨に嫌悪感を表した女はいなかった。
 年配の男たちであれば、横柄な態度に真正面から立ち向かえる自信もあったが、相手が若い同性となれば、事情は違ってくる。
 綺里を見下す理由が、女だから、ではない、別の何かになるからだ。
 それにしても――。会ってからの言動すべて綺里に非があったとして、ここまで好戦的な態度を取られる理由もよくわからないが。
 仕方なく向かいの席に座り、スマホを手にする。状況を伝えようとして、思わず言い訳が口をついた。
「すみません。報告書みたいな物は作ってきてないんですけど……」
 三国はすでに文句を言い疲れていたのか、それまでよりは声調を低くし、投げやりな態度で答えた。
「形式なんてどうでもいいわ。経過を聞くだけなんでしょう?発端だって社長の思いつきらしいし、こんな案件、社内で気にかけてる人なんて、どうせ誰もいないんだから」
 その返事に新たな疑問が浮かぶ。
 言わなくてもいいのに、という抑止力が一瞬働いたが、好奇心がそれを凌駕した。
「あのー。形式にはこだわらないって、それ、矛盾してません?この会社に来てから、知らない規則とかマナーで怒られてばっかりなんですけど」
 また声を大にして説教されるだろうと身構えたが、なぜか彼女は組んだ脚を元に戻し、机に両肘をついた。
「あんた、本当に馬鹿じゃないの?これまでの流れでさ、普通、そんなこと口に出さないでしょ。わたしだったら、おとなしく報告して、さっと帰るわ」
「そうですけど。この先、同じような場面にまた出くわさないとは限りませんし。聞けるときに聞いとくほうが、のちのちのためになるんじゃないかと」
 彼女はしばらくまじまじと綺里を見ていたが、やがて小さくため息をついた。
「形式の度合いによるでしょうよ。名刺を片手で受け取る、なんて、社会人として絶対あっちゃならない。これは日本中のどこの会社に勤めてもそう。上座や下座を知らなかったり、先に座るのは、ギリ許されるけど、いい印象は与えない。それらは当然修正されるべき。対して、今からそっちが話す内容は、完全に個別案件じゃない。侑希との間でどういう約束があったのか知らないけど、素人の書いた、形式だけやたらしっかりしてて、内容がわかりづらい紙を読まされるくらいなら、口頭であっても、短く、要領を得たほうがいいに決まってる。つまり、そういうこと」
 一息にそこまで言うと、唐突に立ち上がり、なぜか部屋を出て行った。
 一人残され、何が起きたのか理解できない。
 いや、それよりも――。
 どうせただ機嫌が悪く、不良っぽい若い女を生理的に受け付けないだとか、そんな理由できつく当たっているのだと予想していた相手からの、想定を遥かに上回っての論理的な説明に、負けた気になった。
 とはいえ、生まれたときから、社会人マナーに長けている人間などいるはずない。彼女も苦労して身に付けたはずだ。であれば、初心者に、もう少し優しく接するという選択があっても良さそうだが。
 不機嫌の理由は体調だろうかと考えていると、手にしていた陶器製のカップから、コーヒーの香りを漂わせながら彼女は再び姿を現した。
「報告があるならさっさとして」
 元いた場所に座り、綺里の目を見ることなく、カップに口をつけた。
 客には出さなくていいのか、思わず抗議しようとして、そんな誰もが思いつくようなミスを、この人間がするはずがないことに気づき、直前で思いとどまる。
 とりあえず、相性が最悪の部類の相手なのは間違いない。これ以上の戦闘を避けるため、調べた競技と、それらを現地で見る作業をしていることを事務的に伝えることに徹した。
 三国はまるで興味なさげにしていたが、綺里が話し終えると、即座にこう言った。
「種目はともかく、お金を出す先はどうやって決めるつもりなの?」
 聞かれては困るリストの一番上にある項目を、真っ先に指摘するとは、この女、もしかして仕事ができるのだろうか。
「現時点では、あーしの人脈に頼る、としか――」
 怒涛の駄目出しがあるのかと、思わず視線を落としたが、机の向こうで声はせず、椅子が移動する音がした。
 そっと顔を上げると、敵は背を向け、すでに部屋を出るところだった。
「辞めるんならさっさと決断して。会社にはたくさんの人が働いていて、組織としてみんな少しずつ関わり合ってる。異物が一つ入り込むと全体に影響が出るんだから」
 うしろを振り返ることなくそう言って、扉は閉まり、やがてコーヒーの芳香も霧散した。
 部屋を出ると、すでに三国の姿はなかった。
 ビルを出て、前の通りに立ったときには頭がじんじんしていた。
 知恵熱、というやつかもしれない。未知の知識を無理やり詰め込まれ、脳の普段使うことのない区域を蹂躙(じゅうりん)された気分だ。
 無意識のうちに近くのカフェに入り、ココアを頼んでいた。
 親や祖父からも、あんな口調で説法を受けたことなどない。
 さらに腹立たしいのは、文句を言うすきを、あとから思い返しても、見つけられなかったことだ。それはすなわち、100パーセント、綺里に非があるということにほかならない。
 少し前までなら、まだ子供だからと言い訳もできたが――成人年齢が引き下げられたことが憎らしい。
 みじめな状況に、帰宅してふて寝したくなったが――これからまだ授業がある。
 駅へと向かいながら、学生と社会人の境界線がいったいどこにあるのか、などと哲学的な命題が頭に浮かんでいた。