振り返ると、遅れて戻ってきた生徒が一人。ただ、先行集団とは違って、その生徒はユニフォームを着用していない。そばを通るときに見た自転車も、使い古された印象だ。
 何の競技用かよくわからない、くたびれたスポーツウェアには、下着の形がうっすらと浮き出ていて、女子だということはわかった。
 仲間の部員たちが、部室の前の地べたに座り、ジャージの前を半分ほど開け、体から湯気を立たせて雑談をしているそばに降り立った彼女は、息を切らせながらヘルメットを取った。
 ショートヘアから汗がしたたり落ちる。
「遅れてすみません」
 謝罪を口にしながら、例の鉄棒にサドルをかけたが、誰も彼女に注意を払おうとはしない。
 棒立ちになっていた彼女の息が整った頃、男子の一人が顔を上げた。
藤阪(ふじさか)先輩。最下位ですし、全員分のメンテ、お願いしますね」
 どこか馬鹿にしたような口調だった。声をかけられた女子は返事をせず、部室へと姿を消し、しばらくして、道具箱のような物を手に再び姿を見せると、中からボロ布を手にして、端の自転車からフレームの汚れを落とし始めた。
 どうやら戻ってきた順位が理由のようだが、体力を含め、他の条件が公平なのかという疑念が、綺里の心に波紋を作る。
 滝井の視界には一人しか入っていないようで、他愛のない話題を、就職の面接のような熱量で話していたが、来客が手持ちぶさたにしていることに気づいたのだろう、清水が綺里に体を向けた。
「江坂先輩、このあとどうします?」
 女子に優しくするよう説教したい、と言いたいところだったが、越権行為にもほどがある。
「だいたい雰囲気はわかったし、今日は帰ろうかな。すごく参考になったよ」
 彼に礼を述べ、すっかりご機嫌になった滝井とともに学校をあとにした。
「お役に立てました?」
「そうだね。やっぱり直接見るっていうのは大事だって思う」
 夕刻の秋空は、来たときより、太陽の光量が減少していた。
 手配してくれた彼女の手前、明るく答えてはみたものの、任務の道筋にかかる霞が晴れたわけではない。
 競技選びはともかく、有力な新人を探し出すなど、一般の大学生に可能な芸当とは、とても思えなかった。
 やはり、この仕事を受けたことが、そもそもの間違いだったのかもしれない――。
 油断すると、すぐに弱気な思考にとらわれる。
 駅直結のショッピングモール。体を寄せて歩く瀧井が、飲食店の前を通るたび、期待に満ちた表情を綺里に向ける姿が、今は救いだった。
「色々と世話になっているからな。食事くらいおごるよ」
「ほんまですか?何かすみません、何か催促したみたいで」
 そう言って、彼女が迷わず入ったのは、有名とんかつ店だ。
「おかわり自由のお店は、女子同士で入るに限りますよねえ」
 味噌汁をがぶ飲みし、キャベツをカバのように口に入れる後輩の姿を見ていて、自転車部での光景が頭に浮かんだ。
 何かが引っかかっているのは、彼女の待遇に対して、だろうか。
 説明のできない、何か別の違和感もあったが――。
 まあいいか。
 二度と関わることのない連中だ。
 食事のあと、滝井と別れ、閉店の準備が始まっていた専門店街の中を駅へと向かっていると、食料品売り場の前に人だかりができているのが見えた。時間は八時になるところで、どうやらタイムセールが始まるらしく、それ目当ての客が集まっているようだ。
 群衆を避けて進もうとしたとき、視界の端に見知った顔があった気がして、思わず立ち止まった。
 大人たちの中にいて、ひときわ真剣な表情だったのは、まさかの、あの女子だった。確か藤阪という名前だっただろうか。制服の上に、なぜか大きめのエプロンをつけている。
 ただの偶然だったが、違和感の正体を確かめるための機会にも思えて、無意識のうちに足が動いていた。
 声をかけようとすぐうしろまで近づき、気迫のこもったその表情のわけを知る。
 そばに立つ綺里に気づかぬほど、彼女は携帯の操作に集中していて、その画面に見えたのは、野菜や卵などの食材、トイレットペーパーや洗剤といった日用品などの一覧表だった。どうやら複数の店の価格を比較しているらしい。
 祖父の元にいたとき、周囲の女性たちはさほど裕福ではなかったが、金にはおおらかだった。
 これまで綺里の周囲にはいなかったタイプで、どうやら、彼女から苦学生の気配を感じたことが、気に留まった理由らしい。
 やがて店員の声とともに、客たちがいっせいに移動を始め、藤阪も群衆の中へと消えた。
 これ以上、関わる理由もない。
 駅へと向かおうとしたとき、彼女が機敏に人波をかきわけつつ、おそらくは目的としていた場所を的確に移動する姿が目に入る。
 こんな競技があれば、きっと好成績を残せるだろうに、などと見入っているうちに、会計を終え、戻ってきた。
 マイバッグに商品を入れ出したのを見て、吸い寄せられるようにそばに行くと、相手は顔を上げ、不安そうに綺里を見た。
「あの……自分、ちゃんとお金払いましたけど」
 不良扱いされたことは数あれど、生まれて初めて万引きGメンに間違われた。
 何と声をかければいいのか、何の準備もしていなかった。
「藤阪さん、だよね。あーしは桜桃女子大の江坂という者なんだ」
「桜桃女子大……の人が何で自分の名前を知ってはるんです?」
「多少込み入った事情なんだけど。今、時間あったりする?」
「え……と。自分、まだバイトの途中なんですけど」
 怯えたような表情に、はっとした。これではただの変質者だ。
「そう、だよね。ごめん、忘れて」
 慌てて手を振り、逃げるようにその場をあとにした。

 帰りの電車で、いったいどうしてあんな行動に出てしまったのか、自らの行動原理に困惑した。
 自転車競技自体には、まるで興味を惹かれなかった。そもそも、高校生に協賛はできないのだから、現役の生徒に声をかける必要などなかったのだ。
 帰宅し、部屋に入ったとき、普段はほとんど景色の一部になっている、ある物に目が留まる。
 書棚の中ほどにホコリをかぶっていたのは、両親からの唯一と言っていいプレゼントで、酔っぱらいに無惨にも蹴飛ばされた思い出の自転車の革製サドル。あとから、ビアンキという、それなりに高級メーカーだったことを知った。
 再び、部活中の藤阪を思い出した。古い自転車に、揃いでないユニフォーム。
 同じアルバイトをする身とはいえ、綺里と彼女では、切実さの度合いに差があるに違いない。
 リビングに移動しテレビをつけ、最近、すっかりおなじみになった手順で、衛星放送の番組表を開く。
 録画予約していた一覧から、スポーツクライミングと自転車を残して、あとは削除した。