それなのに――。
 どうしてか足が動かない。
 男たちの表情が、一人、また一人と訝しげに変わっていく。
「一つ、聞いていいですか?」
「ん?何や。まだ何かあるんか」
「2022年の4月に法律が改正されて、18歳以上の契約は有効になったんですよね?」
 高三の卒業式、校長が、祝辞でそのような説法をしていたことをふと思い出した。
「ああ、そうやったな。それが何や」
 彼の声がこれまでになく低くなる。
「本来、社外取締役として雇うはずだったのは、六十前後の弁護士の方だったんじゃないですか?」
「そう……やったかな」
 社長が司会の男に目をやると、彼は小さく頷いた。
「その方は、こちらの会社に就職するより、男性向けエステの社員割引に惹かれたんだそうです。対して、あーしは見た目はこんなんだけど、環境を専攻している志だけは高い大学生。体裁を保つため、建前で社外取締役を選任する程度の企図なのであれば、役員に若い女が増えたほうが、さらに効果的なのではなかろうか」
 勝手に口が動いていた。何が目的か、綺里自身が教えてほしいくらいだ。
 会議室が、カイジの一場面のようにざわつき始める。
「金目当てか。いくら契約がある言うても、今回、締結時に錯誤があったことが明白なんや。出るとこに出たらあっさり無効になる思うけどな」
「お金は、もちろんそこそこにはほしいですけど、きっとそれが理由じゃない」
「ほな何や」
「たぶん、絵に描いたような年配男性の低俗な感性を、どうにか浄化したいっていう根源的な欲求、ですかね」
 副社長を含めた男たちの眼が着火したように感じたが、もはや気にする段階ではない。
 年齢もあるのだろうが、社長のほうが、まだ話し合える余地はありそうだと、無意識にそう判断していた。
「今、どういう状況なんや。整理してくれ」
 社長はしばらく綺里を見て悩んでいたが、そう言って司会のほうを向いた。
「え……と。現在、十一号議案の進行中です。それで、一つ前の議題で、社外取締役として選任された江坂さんが、書類の手違いだったにもかかわらず、職務の継続を希望されていると、そういうことではないでしょうか」
「ふむ、そうか。仮にそうなるとして、会社としてのメリットとデメリットはどうなる?」
 司会があからさまに困惑の表情を浮かべたのを見て、思わず手を挙げてしまった。
「ここは大学か。何やねん」
「メリットは、役員の女性比率を上げられること、さらには平均年齢も下げられる。デメリットは、報酬としてアルバイト程度の費用がかかることくらいじゃないですか」
「それはあんた単体で考えた場合やろ。本来、弁護士を雇うはずやったんや。そこに生じていた価値と、何もできひん女子大生との差はどう埋めるつもりや」
「弁護はできませんけど。若い感性を使って何かあるでしょう。例えばそうですね――」
 余裕のないとき、人は直近の記憶しか参照されないらしい。
 再び、無意識のうちに口をついて出た発言は、まるで予想の範囲の外だった。
「第十一号議案についての提言とか」
 冗談だと思われたのか、会議室のあちこちで冷笑が起きた。だが、社長は真顔のままだ。
「桜井、その話、結局どうなったんや。俺がおらん間に何か進展したんか」
 突然話題を振られたすぐ隣の男は、軽く背筋を伸ばした。
「いえ。それがまだ、何一つ……」
「五百万ごときじゃ、どうにもなりませんで、社長」
 専務が、隣の副社長を代弁するかのように、小馬鹿にした口調でそう言った。
「子供の小遣いやないですし」
 誰かが小声で続く。
 この議題の発案者である千林は、そんな否定的な意見のどれにも反論することなく、綺里の目をじっと見据えた。
「提言って、あんたに何かアイデアあるんか」
「正直に言って、すぐに具体案があるわけじゃないですけど。ただ、予算が限られているのはいつもそうで、その中で最大限の成果を出すようあがくことに、多少の経験はあります」
 生徒会と一般企業で、金額にはもちろん差があったが、構図としては同じはず。過去を思い返しながらそう言うと、またしてもあの男の耳障りな笑い声がした。
「経験があるらしいで。ご立派なことで」
 富田が同意を求めて隣に顔を向けると、彼の部下だと綺里が認識している四人全員が即座にわははと笑った。
「社長、ええんと違いますか。新しい社外取締役さんに任せたら。ここまで偉そうに言う以上、失敗したら、相応の責任は取るんやろうし」
 責任が、取締役を辞めることなのか、裸踊りなのか、はっきりしなかったが――。副社長の最後の発言のあと、綺里の意見に反対する人間がいなくなり、その場の空気もあったのだろう、十一号議案の担当になることが決まってしまった。
 期限は半年。その間の報酬は、交通費などの実費だけだ。
 あとから激しく後悔したが、「お金は、議案を完遂した場合のみで構わないんで」と、勢いだけでそう言ってしまったのだ。