「――ということで、ここ半年、売上げが伸び悩んでいる理由の一つが、ネットでネガティブな評価が増えていることにあると思われます」
 彼がそう言うと、遠くの席で誰かが机を叩いた。
「それは、わしに対する文句と違うんか」
 副社長の富田だった。
「いえ、決してそういう訳では……。単に現状分析を――」
「分析という名の嫌味なんやろうが」
 隣に立つ彼の足が、小刻みに揺れ出した。手にしていた書類を強く掴み、紙がしわくちゃになる。
「もうええ。今は仲間割れしてる場合と違うやろ。天候不順を甘く見たのは確かなんやし。桜井、続けてんか」
 社長からの救いの手に、彼はあからさまにほっとした表情を見せた。
「それでは……。ネットの評判は定量化するのが難しく、反証しても逆に悪化させる可能性があります。そこで社長のご意見を参考に、社会貢献という形で地道に挽回する方法を模索することにしました。具体的には、スポーツ競技へのスポンサー参加です」
 彼が一通りの説明を終え、脱力したように着席するのを待って、千林が再び口を開いた。
「まあ、簡単に言うたら売名行為や。ネット民に反論するのは利口とは言えんし、攻め手を変えてみようってな」
「それはええですけど……何に協賛するんですか?」
 出席者の一人が手を上げたとき、内線電話が鳴った。
 司会がそばの受話器を上げる。短い時間、小声で会話をしたあと、千林の元へと移動して、何ごとかを耳打ちした。
「ちょっとだけ席外すし。その間に、今のテーマについて、議論してほしいんや」
 社長は質問者に顔を向けながら腰を上げ、桜井のそばを通りすぎるとき、その肩を軽く叩いて、部屋をあとにした。
 扉が閉まると、室内の空気が露骨に弛緩した。そこかしこで雑談が始まる。
「またこんな思いつきで。懲りひん人や」
「失敗して責任を取らされる、こっちの身になってほしいわ」
 会議は終わったのだろうか。
 本をリュックに仕舞い、退席したいという希望を軽く表現してみたが、誰も綺里に関心を寄せる人間がいない。
「おい、経営企画室。あとはそっちでやってくれや。今日はもう終わりでええやろ」
「もちろん詳細は当部門で詰めますが、本日は協賛の承認と、大まかな方向性を決めていただきたいんですけど……」
「予算五百万って、少なすぎるやろ。ゴルフとかサッカーとか、見えへんくらい小さい文字でも千万単位やで」
 一人がそう言って、資料をテーブルに投げた。
「あの、アマチュアスポーツでしたら、例えばユニフォームの胸あたりでも、十万円前後みたいです」
「ほな、卓球。うちの高校生の息子が卓球部なんや」
 桜井はどうにかまとめようとしているが、彼の年齢もあるのか、残りの役員たちは、誰もまともに取り合うつもりはないらしい。
 やがて、副社長が満を持して口を開くと、周囲の役員たちがぴたりと雑談をやめた。
「スポンサーになったら、ええ席で試合見れたりするんやろ。どうせ宣伝の効果なんて期待できひんのやし、それやったらビーチバレーとかにせえや。業務やから、仕方なしにわしが観戦に行ったるわ」
 周りの男たちから、それはいいと声がして、下品な笑い声が広がった。
「富田さん。テニスもええんと違いますか。女子高生のミニスカートを間近で見たら、十歳は若返りますで」
 まるでおもしろくもないのに、桜井と綺里をのぞく全員が口を大きく開けて笑う。
 それから、テニスよりは水泳だとか、陸上も捨てがたい、などと、聞くに堪えない発言が連鎖した。
 両親が離日してから帰国するまでの十年間、綺里の周りにいたのは男たちの欲望を金に変える女性だった。彼女たちを通して、社会の影の部分を多少は理解しているつもりだ。
 だが、他人への気遣いが皆無な人間たちを目の前にして、愉快になれるはずもない。
 時間は十一時半を過ぎていた。
 そろそろ義理は果たしたのではないか。
 そばにいた、どうやら唯一まともな神経の持ち主らしき桜井に、退席の許可を得ようとしたとき、誰かの顔が綺里に向いたのがわかった。
「あんたはどう思う。社外取締役として、何かアイデアはないんか」
 明白に馬鹿にした口調。尊大な態度を取り続けている男、副社長だった。
 再び、下卑た笑い声が会議室に反響する。
 祖父の元にいた頃を思い出した。庭師を丁重に扱ってくれる家もあったが、出入り業者としてしか見なしていない人間も少なくはなかった。
 偉そうな人間の生態は、多少なりとも理解しているつもりだ。祖父は、相手が話し疲れるまでじっと聞いていたが、そんな生ぬるい対応を選択する余裕はなかった。
「発言してもよろしいので?」
 その反応が予想とは違っていたのだろう、相手は真顔になった。
「ほう。何かあるんやったら、ぜひお聞かせ願いたいな」
 そのセリフは、本心から聞く気がないときに使うのだろう。知っているぞ。
「承知しました」
 身長は160センチ。女子の中では平均的だろうが、男どもとは比較にならない。座っていては勝負にならず、再び立ち上がった。
「まず最初に、高校生のユニフォームに企業名を入れることはできない。出資自体は可能かもしれないけど、広告媒体としては明らかに不適格だと思う。これって、そこそこ、知られている事実だと思ってましたけど」
 生徒会の、極めて重要な役割の一つが部費の割り当てだった。総額を学校と交渉し、各部からの怒涛の突き上げをいなしつつ、適切に配分する。国の機関である財務省というところも、似たような作業をしているらしいが、切実さの度合いでいえば、生徒会に軍配が上がるのは間違いない。
 あの当時、どうにか予算を増やせないか画策した。地元の企業に援助を依頼する案も俎上に上がったが、名前を出してはいけないことを知って、あきらめたのだ。
 富田の眉間にあっという間にシワが寄った。
「そうなんか。別にどうでもええわ。ほな女子大にせえや」
 この程度の間違いを指摘されてキレるとは、どうやら大人になって以降、他人からまともな説教をされていないようだ。人は一生勉強だと、祖父がいつも話していた。
「さっきも少し話したけど、今、企業に求められているのはガバナンスと、ダイバーシティでしょ。女性の役員が一人もいないばかりか、取締役会で低俗で猥雑な発言が相次ぐような古くさい会社の、この先なんてたかが知れている」
 どうして、そんなにも相手の神経を逆なでする言葉が思い浮かぶのか、言っている本人が驚いた。
 周囲の男たちの視線がみるみる鋭くなる。まるで打ち合わせたかのように、誰もが腕を組み、口をへの字にしたが、反して、綺里の頭はさらに冷静になる。
 ああ、そうか。
 きっと、テニスという単語を聞いたからだ。
 後輩たちの、ある種幼稚で、しかし純真な態度と、大人たちの薄汚れた煩悩の落差に、感情が揺さぶられたのだ。
「社会のことを何にも知らんヤンキー風情が偉そうに。お前なんか消費するばっかりで、何一つ世の中に貢献してないやろうが。そんなこともわからんのか」
 そう言って立ち上がった副社長の顔が、いつの間にか真っ赤だった。
 すなわち、どうやらここまでの綺里の考察は、的を射ているということだ。
「消費しかしていない。それは正しい。だけど、若いうちに高等教育を受けることは、長い目で見て国家のためになるんだと思う。すなわち、薄くではあるけど、あんたや、あんたの家族に貢献する可能性が、あーしにはあるってこと。副社長は子供も働くべきという思想の持ち主なので?」
「うるさいねんっ。お前ら学生は屁理屈を言えば自分が勝ったと思うてるみたいやけどなっ。世間はそんな甘うないんやっ」
 お前ら学生と、この世の十代をひと括りにするのは横暴だと、さらなる反証を用意したとき、カチャっと音がして、扉が開いた。
「何や、盛り上がってるやんか」
 自分より強い権力者の再登場に、富田は仏頂面に変わり、乱暴に座った。
「出資先の競技は決まったんか」
 そう言って桜井に顔を向ける。彼は慌てたように立ち上がり、首を振った。
「申し訳ありません。議論が……その、白熱しまして」
 言い訳をしながら、その視線が一瞬綺里に向き、それを見て、千林は小さくため息をついた。
「またあんたか。江坂さんやったっけ。手続きの間違いでこんなおっさんたちの中に来て、平然とする度胸は褒めたるわ。そやけど、会社には調和っちゅうのも必要やねん。正論ばっかりでは物事が進まへんことも多い。こんなん言うても、心に響かんやろうけどな。とりあえず、形式的とはいえ、うちとしては、社外取締役を選任したっちゅう実績はできた。このあと、退任の届けにサインしてもらえるか。日付はこっちで適当に処理するから。お礼として、交通費と食事代くらいは出させてもらうし」
 そう言って扉への道を開けた。
 もとより、契約祝儀の一万円が目的で来ただけだ。食事代もきっと千円や二千円ではないだろう。
 充分だ。
 頭ではそう理解していた。