子供の頃からその傾向があるなとは、うすうす感じていた。
大切にしているものほど、簡単に失くしてしまう。
生まれて初めて買った透明でない傘を、最初の雨の日に電車に置き忘れた。
祖母の形見にもらった着物は、一度も着ないうちに、色ヤケして、見るも無惨な状態になっていた。
両親が、海外赴任のお詫びにと買ってくれた空色の自転車にいたっては、乗ることを惜しんで歩道を押して歩いていたにもかかわらず、昼間から酔っていた中年親父に蹴飛ばされ、フレームが歪んでしまった。
そんな不幸体質は、大学生になっても健在らしい。
授業前、廊下を歩いていたところで、ショートメールの着信に気づいた。
「いや、マジか……」
「どうかしました?」
「バイト先が店を閉めたみたいなんだよね」
「それって、時給三千円のとこでしたっけ?南米から届いた郵便物を、小分けにして宅配で送るとかって、超絶怪しげなとこですよね」
「楽な上に高給で、一生の仕事にしたかったのに……。最近、円安が進んでたし、それが原因かもしれないなあ」
「ただの摘発じゃないですか?でなければ夜逃げです。どっちにしても、うちとしては一安心ですけど」
収入源を失って動揺する綺里に、相川涼葉は、ひとかけらの同情も見せようとしない。
「席はいつも通りうしろですか?」
そう言って、大教室の階段をさっさと上がって行った。
ダークブラウンの長い髪が背中で揺れるのを見ながら、頭の中は、未払いの給与がどうなるのかでいっぱいだ。
窓際の好位置を確保し、ネットの法律相談を検索し始めて間もなく、真面目な後輩は、隣で大きくため息をついた。
「もう忘れて下さい。綺里姉が捕まらなかっただけでも、ありがたいじゃないですか」
「万単位のお金、そんな簡単にあきらめられないよ」
だが、彼女は返事をせずに教科書を開き、机に両肘を乗せた。この話はもうしませんと、どうやらそう言っているらしい。
仕方なく、お気に入り登録してある人材紹介会社のサイトを開いた。今回の勤め先を見つけてくれた実績のあるところだ。
給料を立て替えてもらえないのか、FAQのページを探してみたが、見つけられない。
ひとまず次の仕事を探そうと、求人ページを開いた瞬間、横から手が伸びてきて、端末が奪い取られた。
勝手に何かを打ち込まれ、返された画面に表示されていたのは、女子大学生がいかにも選びそうな、カフェ店員や家庭教師、アパレル関係といったまっとうな職種だ。
「時給が安すぎるよ。それに、自分で言うのもアレだけど、あーしに務まるとは思えない」
抗議の意味を込めて体を寄せると、またしても無言で、今度は顔を押し返された。
「綺里姉は一生うちの指示に従っていればいいんです」
普段から綺里に世話を焼く姿はいつも真剣で、今も、不満そうにする横顔は愛らしくはあるが、バイトの選定だけは、簡単に妥協するわけにはいかない。
講義の間、逆側の椅子に携帯を置き、ひそかに調査を継続したが、いくら検索しても、前回のような好条件は見つけられない。表示されるのは、酒を提供する接客業ばかりだ。二十歳まであと半年近くある。年齢詐称しようかとも考えたが、涼葉に知られたときの反応が恐ろしく、あきらめざるを得なかった。
これくらいか、と思われる仕事をブックマークしていたとき、周囲で弛緩した空気が広がり、授業が終わったことを知った。
「お願いですから、お金以外の条件もちゃんと考慮して下さいよ」
バレてたのか。
「うちと同じところじゃダメなんですか?」
「小学生相手の学習塾だっけ――?子供は苦手だしなー」
「またそうやって逃げる。綺里姉は知能も高いし、向いてると思うんですけどねえ」
「なぜだろう、褒められてる気がしないんだけど」
そもそも、両親が二人とも歯科医で、一般的にはお嬢様に分類される涼葉がアルバイトをしているのは、就活のとき、学生時代に力を入れたこと、に答えるためだけだ。
綺里の家庭も、経済的には人並み以上ではあったが、子供に対する扱いは、彼女の家とは雲泥の差があった。
「あーしは、お小遣いを一度も、もらったことがないんだ。うちの母親は、一人娘を若い同居人くらいにしか思ってないんだよ、きっと」
「ご家族への不満と、苦労自慢は聞き飽きてますから。とにかく、決める前に相談して下さい」
時間の制約がなければ、まだまだ説教されそうだったが、幸い、彼女は次も授業で、どうにか解放された。
「とりあえず、直接聞いてみるか」
その場で紹介会社へ電話すると、幸運にも、夕方の予約が取れ、そのまま面接相談に向かうことにした。
大切にしているものほど、簡単に失くしてしまう。
生まれて初めて買った透明でない傘を、最初の雨の日に電車に置き忘れた。
祖母の形見にもらった着物は、一度も着ないうちに、色ヤケして、見るも無惨な状態になっていた。
両親が、海外赴任のお詫びにと買ってくれた空色の自転車にいたっては、乗ることを惜しんで歩道を押して歩いていたにもかかわらず、昼間から酔っていた中年親父に蹴飛ばされ、フレームが歪んでしまった。
そんな不幸体質は、大学生になっても健在らしい。
授業前、廊下を歩いていたところで、ショートメールの着信に気づいた。
「いや、マジか……」
「どうかしました?」
「バイト先が店を閉めたみたいなんだよね」
「それって、時給三千円のとこでしたっけ?南米から届いた郵便物を、小分けにして宅配で送るとかって、超絶怪しげなとこですよね」
「楽な上に高給で、一生の仕事にしたかったのに……。最近、円安が進んでたし、それが原因かもしれないなあ」
「ただの摘発じゃないですか?でなければ夜逃げです。どっちにしても、うちとしては一安心ですけど」
収入源を失って動揺する綺里に、相川涼葉は、ひとかけらの同情も見せようとしない。
「席はいつも通りうしろですか?」
そう言って、大教室の階段をさっさと上がって行った。
ダークブラウンの長い髪が背中で揺れるのを見ながら、頭の中は、未払いの給与がどうなるのかでいっぱいだ。
窓際の好位置を確保し、ネットの法律相談を検索し始めて間もなく、真面目な後輩は、隣で大きくため息をついた。
「もう忘れて下さい。綺里姉が捕まらなかっただけでも、ありがたいじゃないですか」
「万単位のお金、そんな簡単にあきらめられないよ」
だが、彼女は返事をせずに教科書を開き、机に両肘を乗せた。この話はもうしませんと、どうやらそう言っているらしい。
仕方なく、お気に入り登録してある人材紹介会社のサイトを開いた。今回の勤め先を見つけてくれた実績のあるところだ。
給料を立て替えてもらえないのか、FAQのページを探してみたが、見つけられない。
ひとまず次の仕事を探そうと、求人ページを開いた瞬間、横から手が伸びてきて、端末が奪い取られた。
勝手に何かを打ち込まれ、返された画面に表示されていたのは、女子大学生がいかにも選びそうな、カフェ店員や家庭教師、アパレル関係といったまっとうな職種だ。
「時給が安すぎるよ。それに、自分で言うのもアレだけど、あーしに務まるとは思えない」
抗議の意味を込めて体を寄せると、またしても無言で、今度は顔を押し返された。
「綺里姉は一生うちの指示に従っていればいいんです」
普段から綺里に世話を焼く姿はいつも真剣で、今も、不満そうにする横顔は愛らしくはあるが、バイトの選定だけは、簡単に妥協するわけにはいかない。
講義の間、逆側の椅子に携帯を置き、ひそかに調査を継続したが、いくら検索しても、前回のような好条件は見つけられない。表示されるのは、酒を提供する接客業ばかりだ。二十歳まであと半年近くある。年齢詐称しようかとも考えたが、涼葉に知られたときの反応が恐ろしく、あきらめざるを得なかった。
これくらいか、と思われる仕事をブックマークしていたとき、周囲で弛緩した空気が広がり、授業が終わったことを知った。
「お願いですから、お金以外の条件もちゃんと考慮して下さいよ」
バレてたのか。
「うちと同じところじゃダメなんですか?」
「小学生相手の学習塾だっけ――?子供は苦手だしなー」
「またそうやって逃げる。綺里姉は知能も高いし、向いてると思うんですけどねえ」
「なぜだろう、褒められてる気がしないんだけど」
そもそも、両親が二人とも歯科医で、一般的にはお嬢様に分類される涼葉がアルバイトをしているのは、就活のとき、学生時代に力を入れたこと、に答えるためだけだ。
綺里の家庭も、経済的には人並み以上ではあったが、子供に対する扱いは、彼女の家とは雲泥の差があった。
「あーしは、お小遣いを一度も、もらったことがないんだ。うちの母親は、一人娘を若い同居人くらいにしか思ってないんだよ、きっと」
「ご家族への不満と、苦労自慢は聞き飽きてますから。とにかく、決める前に相談して下さい」
時間の制約がなければ、まだまだ説教されそうだったが、幸い、彼女は次も授業で、どうにか解放された。
「とりあえず、直接聞いてみるか」
その場で紹介会社へ電話すると、幸運にも、夕方の予約が取れ、そのまま面接相談に向かうことにした。