それからしばらく、学校生活は何ごともなく過ぎた。
そうなった最大の理由は、当面の懸案だった二人が、次の日から、なぜかあのホームルームでのやり取りがなかったかのように振る舞ったからだ。まるで、両者の間で何かの和解が成立したかのように。
まさか叔母の意見が正しかったはずもないだろうが、彼らの態度に、圭太のことを嫌っている気配は感じられず、その状況で、どんな密約があったのか、あえて問いただす勇気はなかった。
五月に入ると、落居の髪が運動部員並みに短くなり、落ち武者の断髪だと、クラスでちょっとした騒ぎになった。
昼休み、三人のときにも、当然それが話題になる。
「伸ばせるだけ伸ばしてから切ったほうが、散髪に行く回数が少なくて済むからな」
いつもの軽い口調とは違って、どこか淡々とそう言った。
最近、金銭的な話題を、彼はほとんど口にしない。その理由が、あのときの圭太の発言にあるのは間違いない。
三人の空気が微妙になったからか、十島が慌てたように口を開いた。
「長坂くんって、髪染めたりしないの?」
「色んな意味であり得ないかな」
「色んなって、例えば?」
「無駄なお金がかかり、時間も余計に取られて、地肌にも決して良くはなく。それらすべてのマイナス要素を帳消しにするくらい、プラス効果があるとは到底思えない。だいたい、君だって染めてないじゃないか」
「え。これ、色ついてるんだけど――。そっか、わからないんだ。もう少し濃くしようかな」
「大勢に影響ないけどな」
「うるさいわね。この浪士が」
「おお。落ち武者から格上げされたぞ」
「そういえば、叔母さん、何の仕事かわかったの?」
あれ以来進展がない。とはいえ、今以上にヒントを請うことは、自尊心が許さなかった。
「次の出張のとき、準備の様子とかを、詳しく観察しようとは思ってるんだけど――」
その機会が訪れたのは、数日後の夜のことだ。
部屋で一人、ネットの会社四季報を眺めていたときだ。
階段を上ってくる音が聞こえ、続けて圭太の部屋がノックされた。
「はい、どうぞ」
ブラウザを閉じ、入り口に体を向ける。
姿を見せた詩乃はどこか落ち着きがないように見えた。
部屋に一歩入り、視線を合わせないまま、うしろ手に扉を閉める。
「あの、どうかしましたか?」
「――圭太さん。私に気遣って嘘、ついてる?」
そう言って、一瞬だけ目線を上げた。
「嘘ですか?定義にもよりますけど――」
最初の印象そのままに、叔母は悪く言えばうすのろで、良く言っても手際の悪い人だった。
物の置き場所をよく間違え、いつも何かを探していたし、洗顔フォームで歯を磨き、今日はやけに泡立つの、と不思議そうにしたり、外から帰宅し、家の中が薄暗いわねと言ったとき、サングラスをかけていたなんてこともあった。
祖母がそばにいたなら、激しく罵倒したであろう場面に何度も出くわしているが、もちろん圭太が指摘するようなことはない。そのことを指して、本心を隠してる、と言えばその通りかもしれない。
それ以外に思い当たることがなく、相手が何を考えているのか、計らずも興味を引かれる。
「特にないと思いますけど。逆に何かそう思われることがありますか?」
「アルバイト、してないでしょう?毎日学校から真っ直ぐ帰っているし、土日もどこかへ出かけてる気配はなかったわ。お家賃を払うのに、私が気にしないようにそう言ったのよね?」
「いえ、そんなことはないです。別に外に行かなくてもできることだってありますから」
しかし彼女は聞く耳を持たない。
ベッドに腰かけると、その横を軽く叩いた。仕方なく椅子からそちらに移動すると、彼女はいつの間に手にしていたのか、ガラケーを圭太に差し出した。
画面にあったのは、一面の英文だ。
「これ、何ですか?」
「メールにゃ」
「そうでしょうね」
表示がゆっくりと暗くなり、そして消灯した。
詩乃はボタンを押し、もう一度、画面を圭太に向けた。
「これを読めってことですか?」
彼女は黙って頷いた。
何かを依頼する内容のようだ。
となると、仕事関係?キュウヤクシの謎が解けるかもと、思わず身を乗り出した。
書かれていた内容を要約すれば、差出人の知り合いの家に行って、手助けしてくれないか、ということのようだ。
それを伝えると、彼女はほっとしたように圭太を見た。
「やっぱり英語ができるのね。思った通りだったわ」
彼女の前で語学を披露したことなど、皆無のはずだが。
「前にお部屋に夕食を呼びにきたとき、パソコンの画面が全部英語だったでしょう?それで、圭太さんが得意だってこと、わかったの」
ああ、そういうことか。
確かに、英語圏のサイトはよく見ている。投資で成績を上げるには、他人より情報量に勝る必要があったが、国内では、海外のニュースは局所的にしか報道されない。それゆえ、欧米のメジャーな経済サイトの閲覧は、自衛のために最低限必要な行為だった。
「昨年、お客様で外国の外交官だった方がいらして。その方の口利きで、日本語でないメールが少しずつ増え始めてるの。でも、読んでお返事を書くだけで一週間はかかるから。最近は内容にかかわらず、当分予定が空いていませんって、決まった文言をお送りしてばかりだったの……。あら、圭太さん、聞いてる?」
その呼びかけにはっとした。
後半はほとんど耳に入っていなかった。客に外交官がいる、というところで潜考に入ってしまったからだ。
ユダヤ教関係だという十島の予想が当たっているのかもしれない。
興味を持ったことを知られてはいけない。
小さく咳払いをしてから返事をした。
「僕もそんなにできるわけじゃないです。知っている単語は結構偏っていて――」
「それでね、これはウインウインの提案なんだけど」
圭太にとってウインになることがいつ決まった?
「部活もしていないようだし、お仕事を手伝ってもらえたらどうかと思うの。もちろんお給料も払うわ。もしかしたら、お家賃の足しになるかもしれないし。どうかしら?」
返答に困った。
部活をしていないのは確かだ。
しかしずっと部屋にいるから無収入だという、短絡的な結論には思わず反論したくなる――。
いやその前に、だ。
「だったら、先に仕事の内容を教えてくれませんか」
しかし、詩乃は含み笑いを残したまま口を閉じ、前を向くと、少女のように頬を染めながら続けた。
「お客さんのところに行ったら、自然にわかるはずにゃ」
なんだって?!
これは雇用契約だ。それなのに業務内容が知らされないというのか。
一般社会ではあり得ない事態ではあったが、彼女にそんな常識を説いても通用する気がしない。
同居を始めて以降、高まっている自覚はあった。叔母の職業への関心が。
「わかりました。でも、一度お手伝いして、僕には合わないと思ったら、辞めても構わないですか?」
「ありがとう。助かるわ。では最初の依頼です。このメールに、お受けしますと、返事をして下さいにゃ」
そう言って軽やかに立ち上がり、跳ねるように部屋を出て行った。
もう一度、慎重にメールの内容を確認した。
「知り合いからの紹介であなたのことを知った。私の親しい友人がとても困っているので、どうにか引き受けてもらえないだろうか」
あとはジョーイという差出人と、助けるべき相手のシオザキという名前、それに連絡先があるだけだ。
これだけでは、まるでわからない。ユダヤ教とどう関係が?もしかしたら、殺人の依頼の可能性だってあるのではないだろうか。
しばらく考えていたが、まずは任務を遂行することが先決であることに気づく。
「了解しました。いつ伺えばいいか、教えて下さい」
数日の出張と、一階にあるらしいヒントに、外交官というキーワードが加わった。さらに、相手からの返事次第では答えにたどり着ける可能性は高まる。
不本意だったが、期待が高まったせいで、その夜はなかなか寝つけなかった。
そうなった最大の理由は、当面の懸案だった二人が、次の日から、なぜかあのホームルームでのやり取りがなかったかのように振る舞ったからだ。まるで、両者の間で何かの和解が成立したかのように。
まさか叔母の意見が正しかったはずもないだろうが、彼らの態度に、圭太のことを嫌っている気配は感じられず、その状況で、どんな密約があったのか、あえて問いただす勇気はなかった。
五月に入ると、落居の髪が運動部員並みに短くなり、落ち武者の断髪だと、クラスでちょっとした騒ぎになった。
昼休み、三人のときにも、当然それが話題になる。
「伸ばせるだけ伸ばしてから切ったほうが、散髪に行く回数が少なくて済むからな」
いつもの軽い口調とは違って、どこか淡々とそう言った。
最近、金銭的な話題を、彼はほとんど口にしない。その理由が、あのときの圭太の発言にあるのは間違いない。
三人の空気が微妙になったからか、十島が慌てたように口を開いた。
「長坂くんって、髪染めたりしないの?」
「色んな意味であり得ないかな」
「色んなって、例えば?」
「無駄なお金がかかり、時間も余計に取られて、地肌にも決して良くはなく。それらすべてのマイナス要素を帳消しにするくらい、プラス効果があるとは到底思えない。だいたい、君だって染めてないじゃないか」
「え。これ、色ついてるんだけど――。そっか、わからないんだ。もう少し濃くしようかな」
「大勢に影響ないけどな」
「うるさいわね。この浪士が」
「おお。落ち武者から格上げされたぞ」
「そういえば、叔母さん、何の仕事かわかったの?」
あれ以来進展がない。とはいえ、今以上にヒントを請うことは、自尊心が許さなかった。
「次の出張のとき、準備の様子とかを、詳しく観察しようとは思ってるんだけど――」
その機会が訪れたのは、数日後の夜のことだ。
部屋で一人、ネットの会社四季報を眺めていたときだ。
階段を上ってくる音が聞こえ、続けて圭太の部屋がノックされた。
「はい、どうぞ」
ブラウザを閉じ、入り口に体を向ける。
姿を見せた詩乃はどこか落ち着きがないように見えた。
部屋に一歩入り、視線を合わせないまま、うしろ手に扉を閉める。
「あの、どうかしましたか?」
「――圭太さん。私に気遣って嘘、ついてる?」
そう言って、一瞬だけ目線を上げた。
「嘘ですか?定義にもよりますけど――」
最初の印象そのままに、叔母は悪く言えばうすのろで、良く言っても手際の悪い人だった。
物の置き場所をよく間違え、いつも何かを探していたし、洗顔フォームで歯を磨き、今日はやけに泡立つの、と不思議そうにしたり、外から帰宅し、家の中が薄暗いわねと言ったとき、サングラスをかけていたなんてこともあった。
祖母がそばにいたなら、激しく罵倒したであろう場面に何度も出くわしているが、もちろん圭太が指摘するようなことはない。そのことを指して、本心を隠してる、と言えばその通りかもしれない。
それ以外に思い当たることがなく、相手が何を考えているのか、計らずも興味を引かれる。
「特にないと思いますけど。逆に何かそう思われることがありますか?」
「アルバイト、してないでしょう?毎日学校から真っ直ぐ帰っているし、土日もどこかへ出かけてる気配はなかったわ。お家賃を払うのに、私が気にしないようにそう言ったのよね?」
「いえ、そんなことはないです。別に外に行かなくてもできることだってありますから」
しかし彼女は聞く耳を持たない。
ベッドに腰かけると、その横を軽く叩いた。仕方なく椅子からそちらに移動すると、彼女はいつの間に手にしていたのか、ガラケーを圭太に差し出した。
画面にあったのは、一面の英文だ。
「これ、何ですか?」
「メールにゃ」
「そうでしょうね」
表示がゆっくりと暗くなり、そして消灯した。
詩乃はボタンを押し、もう一度、画面を圭太に向けた。
「これを読めってことですか?」
彼女は黙って頷いた。
何かを依頼する内容のようだ。
となると、仕事関係?キュウヤクシの謎が解けるかもと、思わず身を乗り出した。
書かれていた内容を要約すれば、差出人の知り合いの家に行って、手助けしてくれないか、ということのようだ。
それを伝えると、彼女はほっとしたように圭太を見た。
「やっぱり英語ができるのね。思った通りだったわ」
彼女の前で語学を披露したことなど、皆無のはずだが。
「前にお部屋に夕食を呼びにきたとき、パソコンの画面が全部英語だったでしょう?それで、圭太さんが得意だってこと、わかったの」
ああ、そういうことか。
確かに、英語圏のサイトはよく見ている。投資で成績を上げるには、他人より情報量に勝る必要があったが、国内では、海外のニュースは局所的にしか報道されない。それゆえ、欧米のメジャーな経済サイトの閲覧は、自衛のために最低限必要な行為だった。
「昨年、お客様で外国の外交官だった方がいらして。その方の口利きで、日本語でないメールが少しずつ増え始めてるの。でも、読んでお返事を書くだけで一週間はかかるから。最近は内容にかかわらず、当分予定が空いていませんって、決まった文言をお送りしてばかりだったの……。あら、圭太さん、聞いてる?」
その呼びかけにはっとした。
後半はほとんど耳に入っていなかった。客に外交官がいる、というところで潜考に入ってしまったからだ。
ユダヤ教関係だという十島の予想が当たっているのかもしれない。
興味を持ったことを知られてはいけない。
小さく咳払いをしてから返事をした。
「僕もそんなにできるわけじゃないです。知っている単語は結構偏っていて――」
「それでね、これはウインウインの提案なんだけど」
圭太にとってウインになることがいつ決まった?
「部活もしていないようだし、お仕事を手伝ってもらえたらどうかと思うの。もちろんお給料も払うわ。もしかしたら、お家賃の足しになるかもしれないし。どうかしら?」
返答に困った。
部活をしていないのは確かだ。
しかしずっと部屋にいるから無収入だという、短絡的な結論には思わず反論したくなる――。
いやその前に、だ。
「だったら、先に仕事の内容を教えてくれませんか」
しかし、詩乃は含み笑いを残したまま口を閉じ、前を向くと、少女のように頬を染めながら続けた。
「お客さんのところに行ったら、自然にわかるはずにゃ」
なんだって?!
これは雇用契約だ。それなのに業務内容が知らされないというのか。
一般社会ではあり得ない事態ではあったが、彼女にそんな常識を説いても通用する気がしない。
同居を始めて以降、高まっている自覚はあった。叔母の職業への関心が。
「わかりました。でも、一度お手伝いして、僕には合わないと思ったら、辞めても構わないですか?」
「ありがとう。助かるわ。では最初の依頼です。このメールに、お受けしますと、返事をして下さいにゃ」
そう言って軽やかに立ち上がり、跳ねるように部屋を出て行った。
もう一度、慎重にメールの内容を確認した。
「知り合いからの紹介であなたのことを知った。私の親しい友人がとても困っているので、どうにか引き受けてもらえないだろうか」
あとはジョーイという差出人と、助けるべき相手のシオザキという名前、それに連絡先があるだけだ。
これだけでは、まるでわからない。ユダヤ教とどう関係が?もしかしたら、殺人の依頼の可能性だってあるのではないだろうか。
しばらく考えていたが、まずは任務を遂行することが先決であることに気づく。
「了解しました。いつ伺えばいいか、教えて下さい」
数日の出張と、一階にあるらしいヒントに、外交官というキーワードが加わった。さらに、相手からの返事次第では答えにたどり着ける可能性は高まる。
不本意だったが、期待が高まったせいで、その夜はなかなか寝つけなかった。