放課後になり、どちらの元に行くべきか迷った。
 十島のあの発言はおそらく、いや、間違いなく、気遣いからの行動だ。
 落居との関係改善に着手の必要もあったが、まずは彼女に礼を言うべきだと、椅子を引いたとき、その二人が一緒にいる姿が目に入った。
 不穏な気配は多少和らいではいたが、ホームルームでの雰囲気そのままに、あまり友好的には見えない。
 文化祭委員の決定過程が原因だとすれば、彼らが文句を言うべき最初の相手は、圭太であるはずだ。
 それなのに、二人は当事者を一度も見ることなく、教室を出て行った。
 いったい何が起きているのか。
 その後に交わされたであろう会話の内容について、聞けば教えてくれるのだろうか、と悩みながら帰宅すると、詩乃が仕事から戻っていて、別の課題が家にもあることを再認識する。
 すでに部屋着になっていて、衣服から宣教師であるかを確認することはできない。
 他人の言動がこんなにも気にかかったことは、かつてなかった気がする。
 四月分の家賃を準備しながら、遺産を残した祖母を思い出し、そこからの連想で、おそらくは圭太が自立したことと関係あるのだという結論に、ひとまずは落ち着いた。
 夕食の席で、封筒を差し出すと、彼女は頬を赤くした。
「ごめんなさいね。たった一人の身内なのに、こんな――」
「いえ、いいんです。このほうが僕も精神的に楽ですから」
「お金は大丈夫なのかしら?弁護士の方から遺産があったと聞いてるけど、金額までは……」
「はい、お気になさらず。社会に出るくらいまでは、十分な額でしたし、僕もバイトしてますから」
 あまりに彼女が恐縮していたせいだろう、話すつもりのない言葉が口をついてしまう。叔母の目が光ったことに気づいたときには、すでに遅かった。
「アルバイトなんてしていたの?気づかなかったわ。何のお仕事?」
 失踪した母親名義の口座で投資をし、身の丈に合わない額を稼いでいる――などと正直に答えることはためらわれた。
 金儲けとは対極にいそうな人間で、株という概念を知らない可能性だってある。
「それより、相談したいことがありまして――」
 話をそらせるため、ホームルームでの状況を説明すると、詩乃は箸を止め、なぜか満面の笑みを圭太に向けた。
「やっぱりねえ。私の見立て通りじゃない」
「何のことです?」
「つまり、三角関係ってことでしょう?圭太さんを二人が奪い合ってる」
 あまりに的外れな見解に、新喜劇よろしく椅子から転げ落ちそうになった。
「あのですね、ちゃんと聞いてました?一人は男なんですって」
 真面目に相手にするつもりもなかったが、詩乃もふざけている様子が見られない。
「あら、意外に保守的なのね。別にそういうの、関係なくない?」
 保守的という批判が軽くショックだった。
 それだけではない。そうそうに論破しようとしたが、なぜか適当な反証を思いつかないのだ。
「僕がそんなに人から好かれるはずないでしょう」
 最後に残ったのは、そんな自虐の一文だったが、さすがに口にすることには抵抗があった。
「わかりました。参考にさせてもらいます。ところで、お仕事について教えてもらってもいいですか?キュウヤクシっていうのを、よく知らなくて」
 頭を冷静にするため、再び話題を変えると、彼女は楽しげに口角を上げた。
「あら、読んで字のごとくなんだけど」
 まさか解答以外の返事があるとは、想定していなかった。
「実は、どういう字を書くのかもわかってないんです」
「仕方ないにゃ」
 そんな言葉が続くことを期待していたが、思いのほか反応がない。
 彼女は食事を再開し、菜の皿が空になったあたりで想定外の言葉を口にした。
「ヒントをあげるわ」
 どうして……すぐに答えないんだ。
 今日は他人を理解できないことが多すぎる。
「この部屋とか、あとは居間を探せば何か見つかると思うわ」
 楽しそうにそう言うと、詩乃は立ち上がり、食器を流しへと運んだ。
 それをクイズにするということは、やはり、キュウヤクシは、彼女の造語ということのようだ。この状況を楽しむ感性など、備わっていなかったが、まあいい。さほど広くない建屋だ。見ればわかると言うなら、遠からず解決するだろう。
 だが、片付けのあと、一人になり、そんな簡単ではないことに気づく。そもそも、対象物がピアスのように小さい物か、あるいは紙か金属なのかもわからないのだ。
 ダイニングだけでも、食器棚や流し、冷蔵庫など、探す箇所はそれなりにあった。
 居間へと移動して、目につくのは、壁の絵に、書棚とソファ、ローテーブルにテレビ。
 絵画はレプリカだ。窓際にあるテレビは、アナログから地デジになった際に、仕方なく買い換えたとおぼしき古めかしいタイプ。
 可能性があるとしたら書棚だろうか。下段に並んでいるのは、二十冊ほどある百科事典だ。いくつかを手にしてみたが、長らく触れられた形跡がない。
 それ以外では、カメラの雑誌。月刊誌が十年分くらいはあった。祖父の趣味だったのだろう、同じ書棚に、アンティークなカメラが一つと、古いレンズが三つ、ガラスのケースに収められていた。
「現像するまで撮ったものがわからない上に、フィルム代もかかるだって?さっさとやめてしまいな」
 きっと何度もそんな文句を言われたに違いない。よく、彼女を妻に、こんな趣味を続けられたものだと、祖父の胆力に感心した。
 普通の家にないものといえば、それくらいだ。ケースを開くと、ほこりが舞った。そっとカメラを手にする。上部にはCanonの刻印。裏側にはモデルL3とある。
 ネットで検索すると、どうやら五十年以上前の製品らしい。かなりの希少価値があるのではと、続けてオークションの落札相場を調べてみたが、一万円ほどだった。
「思ったより安いんだな」
 売るつもりはもちろんなかったが、身内を軽く扱われたようで、あまりいい気はしなかった。
 他に手がかりになりそうな物は見当たらず、結局、学校での人間関係も、叔母の職業の謎についても解決の糸口が見えないまま、その日を終えることになった。