家に戻ると、詩乃はマスク姿で、家中が散乱していた。
「まさか十島だとは思いませんでした」
「圭太さんをびっくりさせようと思って。前夫から相談されたの。千紘ちゃんからの提案だったんだって。私もあの子には負い目があるし、これで少しでも贖罪になるのならって」
「掃除は、どこをすればいいですか?」
「上の廊下にある物を全部下ろしてくれるかしら?階段、気をつけてね」
二階に上がると、見える範囲すべてに、段ボールや古い雑誌が積み上がっていた。
そして、昔の叔母の部屋の扉が開いていた。
まだ足を踏み入れたことのない場所だ。
掃除のためだ。問題ないだろう。
中をそっと覗くと、部屋の構造は圭太の部屋とまったく同じだった。
壁をはさんで線対称だ。
ベッドも机も同じ物に見える。
本棚はすでにほとんど空になっていた。
一つだけ、お菓子の箱のような物を除いて。
そばに立つと、吸い込まれるように手が伸びた。
中に入っていたのは、古い折り込み広告の束だった。日付は十三年も前だ。
上から数枚を確認したが、商品に統一性は見られない。
「何のために残してあるんだろう」
手にして、すぐに違和感を覚えた。
指先に、ボールペンで書かれたとおぼしき、文字の感覚があったのだ。
裏返して、はっとした。
一面に、青いペンで文字が書かれていた。
何かの記録のようだ。
4月10日
2:30 軟便
3:50 水飲む
8:20 下痢。血が混じる
最初の数行でそれが何かを理解した。
きっと……猫の闘病記録だ。
日付は三月から始まり、広告は全部で三十枚以上あった。
途中、エサの種類が何度も変わり、薬の名前もカタカナから漢字のものまで、いくつも試しているのがわかった。
カプセルにしたけど、飲んでくれない。
注射器で無理矢理流し込む。
獣医、点滴。
この半年、彼女の手伝いでたくさんの猫を見てきた。
どうしてあの程度のことにお金を払うのか、ほとんど理解していなかった。アビーがそばにいるにもかかわらず――。
今、目の前の生々しい記録を読んで、胸が苦しくなる。
日に日に食欲がなくなる中で、五月には、スーパーの魚を全種類買い、焼いて食べさせようとしたようだ。
六月に、あまり好きでなかったはずのチーズを食べるようになったと、喜んでいる様子が手に取るようにわかった。
そして、記録は六月の二十日で終わっていた。
最後の数日は水とチーズが数回書かれているだけだ。
不規則だった投薬は六月の上旬頃から、日に三度、定時に飲むようになっていた。
それも最後の二日は記録がない。薬を飲まなくなったのか、飲ませなかったのか。
丸四ヶ月、ほとんど二十四時間、つきっきりだった。
十三年前と言えば、十島が三歳のときだ。彼女は両親が離婚したときの記憶がないと話していた。父親は確か猫嫌いだとも。
詩乃は、家族を顧みず、実家の猫の最期を看取ったのではないか。
無言で広告を元通りに揃え、丁寧に箱に戻したとき、ミャアという、やけにはっきりした猫の鳴き声が耳元で聞こえ、心臓が止まりそうになった。
「ひぃっ」
声から逃れようとしたせいで、本棚に体が強く当たる。
振り向いた圭太の視線の先に見えたのは、出窓の上にいたアビーだった。
彼女は圭太と視線が合うと、もう一度ミャアと訴えた。そして、彼女のこんなはっきりとした声を聞いたのは初めてだったことに気づく。
「そういえば、ご飯が空っぽだったっけ」
そっと抱き抱え、圭太の部屋に連れ戻った。
ドライフードをカラカラとお皿に追加する様子を、彼女は他人事のように見ていたが、準備が終わると上品に近づく。
食べ始めたのを見届け、階下に下りると、詩乃はホコリの中で格闘しているところだった。
塩崎の言葉を思い出した。
叔母が投薬するとき、まるで猫が取り憑いているかのようだと、そう話していた。
猫好きな彼女が、全身全霊で看病し、あらゆる方法を試して、ようやく投薬の手法を確立した。それらの努力が最後にすべて無に帰したとき、どれだけの絶望を味わっただろうか。あのパイロットのボールペンは、その頃の苦悩をあえて思い出すための神具に違いない。
「圭太さん、さぼってないで手伝って」
指示に動く気配のない圭太を怪訝そうに見た。
「どうしたの?何かわからないことがある?」
「一つ、聞いていいですか?」
詩乃はマスクを取った。
「何かしら?」
「アビーは、いつか僕になつきますか?」
すると、叔母はなぜか悲しげな表情に変わる。
「圭太さん、すごく残念だけど。アビーは千紘ちゃんのほうが好きみたいよ」
「えっ。十島?だってまだ五回くらいしか家に来てないですよね……」
「そうだけど、これは動かしがたい事実なの。きっと一緒に住んだらもっと差が開くと思うわ」
愕然とする圭太に、「だからって世話を放棄しちゃダメよ」と冷たく言い放ち、彼女は掃除に戻って行った。
部屋に戻るとアビーは食事を終え、軽やかにベッドにジャンプするところだった。
視界に入っているはずの圭太にはいつものように興味を示さず、いつものように同じところを二度回ると、丸く収まって目を閉じた。
<了>
「まさか十島だとは思いませんでした」
「圭太さんをびっくりさせようと思って。前夫から相談されたの。千紘ちゃんからの提案だったんだって。私もあの子には負い目があるし、これで少しでも贖罪になるのならって」
「掃除は、どこをすればいいですか?」
「上の廊下にある物を全部下ろしてくれるかしら?階段、気をつけてね」
二階に上がると、見える範囲すべてに、段ボールや古い雑誌が積み上がっていた。
そして、昔の叔母の部屋の扉が開いていた。
まだ足を踏み入れたことのない場所だ。
掃除のためだ。問題ないだろう。
中をそっと覗くと、部屋の構造は圭太の部屋とまったく同じだった。
壁をはさんで線対称だ。
ベッドも机も同じ物に見える。
本棚はすでにほとんど空になっていた。
一つだけ、お菓子の箱のような物を除いて。
そばに立つと、吸い込まれるように手が伸びた。
中に入っていたのは、古い折り込み広告の束だった。日付は十三年も前だ。
上から数枚を確認したが、商品に統一性は見られない。
「何のために残してあるんだろう」
手にして、すぐに違和感を覚えた。
指先に、ボールペンで書かれたとおぼしき、文字の感覚があったのだ。
裏返して、はっとした。
一面に、青いペンで文字が書かれていた。
何かの記録のようだ。
4月10日
2:30 軟便
3:50 水飲む
8:20 下痢。血が混じる
最初の数行でそれが何かを理解した。
きっと……猫の闘病記録だ。
日付は三月から始まり、広告は全部で三十枚以上あった。
途中、エサの種類が何度も変わり、薬の名前もカタカナから漢字のものまで、いくつも試しているのがわかった。
カプセルにしたけど、飲んでくれない。
注射器で無理矢理流し込む。
獣医、点滴。
この半年、彼女の手伝いでたくさんの猫を見てきた。
どうしてあの程度のことにお金を払うのか、ほとんど理解していなかった。アビーがそばにいるにもかかわらず――。
今、目の前の生々しい記録を読んで、胸が苦しくなる。
日に日に食欲がなくなる中で、五月には、スーパーの魚を全種類買い、焼いて食べさせようとしたようだ。
六月に、あまり好きでなかったはずのチーズを食べるようになったと、喜んでいる様子が手に取るようにわかった。
そして、記録は六月の二十日で終わっていた。
最後の数日は水とチーズが数回書かれているだけだ。
不規則だった投薬は六月の上旬頃から、日に三度、定時に飲むようになっていた。
それも最後の二日は記録がない。薬を飲まなくなったのか、飲ませなかったのか。
丸四ヶ月、ほとんど二十四時間、つきっきりだった。
十三年前と言えば、十島が三歳のときだ。彼女は両親が離婚したときの記憶がないと話していた。父親は確か猫嫌いだとも。
詩乃は、家族を顧みず、実家の猫の最期を看取ったのではないか。
無言で広告を元通りに揃え、丁寧に箱に戻したとき、ミャアという、やけにはっきりした猫の鳴き声が耳元で聞こえ、心臓が止まりそうになった。
「ひぃっ」
声から逃れようとしたせいで、本棚に体が強く当たる。
振り向いた圭太の視線の先に見えたのは、出窓の上にいたアビーだった。
彼女は圭太と視線が合うと、もう一度ミャアと訴えた。そして、彼女のこんなはっきりとした声を聞いたのは初めてだったことに気づく。
「そういえば、ご飯が空っぽだったっけ」
そっと抱き抱え、圭太の部屋に連れ戻った。
ドライフードをカラカラとお皿に追加する様子を、彼女は他人事のように見ていたが、準備が終わると上品に近づく。
食べ始めたのを見届け、階下に下りると、詩乃はホコリの中で格闘しているところだった。
塩崎の言葉を思い出した。
叔母が投薬するとき、まるで猫が取り憑いているかのようだと、そう話していた。
猫好きな彼女が、全身全霊で看病し、あらゆる方法を試して、ようやく投薬の手法を確立した。それらの努力が最後にすべて無に帰したとき、どれだけの絶望を味わっただろうか。あのパイロットのボールペンは、その頃の苦悩をあえて思い出すための神具に違いない。
「圭太さん、さぼってないで手伝って」
指示に動く気配のない圭太を怪訝そうに見た。
「どうしたの?何かわからないことがある?」
「一つ、聞いていいですか?」
詩乃はマスクを取った。
「何かしら?」
「アビーは、いつか僕になつきますか?」
すると、叔母はなぜか悲しげな表情に変わる。
「圭太さん、すごく残念だけど。アビーは千紘ちゃんのほうが好きみたいよ」
「えっ。十島?だってまだ五回くらいしか家に来てないですよね……」
「そうだけど、これは動かしがたい事実なの。きっと一緒に住んだらもっと差が開くと思うわ」
愕然とする圭太に、「だからって世話を放棄しちゃダメよ」と冷たく言い放ち、彼女は掃除に戻って行った。
部屋に戻るとアビーは食事を終え、軽やかにベッドにジャンプするところだった。
視界に入っているはずの圭太にはいつものように興味を示さず、いつものように同じところを二度回ると、丸く収まって目を閉じた。
<了>