家に戻ると、今はLDKとなった部屋に十島がいた。
 実母と談笑していた彼女は、圭太を見るなり厳しい表情を見せ、詩乃はそんな娘を横目に、そそくさと部屋をあとにした。
「家に帰ったのかと思ってた」
「別にいいでしょ。お母さんなんだし、両親ともに面会には制限を設けていないんだから」
 わざわざの来訪で、この不機嫌。意味がわからない……。
 相手の顔色を窺いながら正面に座る。
「叔母さんとは、普通に話せるのか?」
 離婚の経緯や背景をまるで知らない。言葉を慎重に選んだ。
「そうね。幸か不幸か今はもっと他に関心事があるから、それどころじゃないのかも」
 関心事って――。
「遅かったのね。渋滞でもしてた?」
「渋滞……?いや、特には。遅いって何を――」
「お母さん、こっそり覗かないでっ」
 振り返ると、詩乃のスカートの裾が扉でひらりと舞った。
「もしかして、相談しないでお金を使ったことを怒ってるのか?」
「まさか。正直、すごくびっくりはしたけど。でも長坂くんが稼いだんでしょ?誰に非難されるわけでもなく、あなたの実力で」
「だったら何をそんなに――」
「本気でわかんないの?」
 ああ――。
 そういえば、以前にも似たやり取りがあったような。
 確かあのときは、彼女の気持ちに圭太が気づいているかどうか、そんな状況だったっけ。
 であれば、今の彼女の関心事というのは――。
「同乗させたという意味では、前に、芦川と二人で君の家に行ったこともあったと思うけど」
「あの頃の凛音ちゃんは、ただの芸能人だったじゃない。でもそれから何度も会ったり、頻繁にメッセージのやり取りだってするようになって。今は知り合いの中で比類なく可愛い女子高生だよ」
「そうだとしても、僕のほうにそんな感情はないんだから――」
「そういえば、まだ答えてもらってないよね。あのときのあたしの質問に」
 答える前に逃げたのは、そっちじゃないか。
 だが、そんなことを指摘しても、相手の感情が鎮まるはずもない。
 さらには、この手の話題は、圭太にとっても、かなり居心地の悪いものだった。
「そういえば、叔母さん……お母さんとは何話してたんだ?楽しそうだったけど」
「再婚するつもりはあるのか、確認してたの」
「それはあるんじゃないのか。まだ若いんだし」
「ならいいけど。甥とはできないわけだから」
 どうにか話題をそらせたかったが、もはや無理なようだ。
「それで?」
 彼女は冷たい視線を圭太に向ける。
「ごめん、それで、何?」
「はぐらかさないで。前の質問。あたしと――お母さんならどっちが好きなの?」
 いったいどこまでが本気なのか。
 まだ猫の気持ちのほうが理解できるのではと、アビーを思い浮かべていると、彼女は機敏に立ち上がり、一人掛けにいた圭太の隣に無理矢理滑り込んで、腕を掴んだ。
「じゃあ、質問を変える。まず、あたしのお母さんと凛音ちゃんならどっちが好きなの?」
「比較対象として、おかしいだろ」
 質問の有意性が極めて疑問だったが、彼女の本気の眼差しに逆らえない。
「それは……叔母さんじゃないかな」
 仕方なく答えると、相手は怯えた表情になった。
「それ、本当なの?好きってどういう意味の好きっ?」
「どういうって。叔母さんが好きっていうより、芦川はあり得ないっていうだけだよ。あんなに強引で傲慢で。それでいて生意気で無神経な人間、好きになれるはずがないだろ」
 そう言いながらバッグを背中とソファの間に移動させようとした。
「何、隠そうとしてるの?」
「別に何も。ただ邪魔なだけで。そうだ、この椅子、一人掛けだし。君が――」
「ちょっと見せて」
 いったい――。
 十島にはどれだけ高機能なセンサーが備わっているのだ。
 彼女は圭太に抱きつくような格好で、背中のバッグに手を伸ばそうとした。
 この状況で写真集を見られるのは、互いにとって不利益になる。
「都留のマンション……」
「え、何?」
「その、続きに興味ないのか?」
 一瞬の間のあと、すぐにその意味を理解したのか、圭太の間近にあった彼女の顔は真っ赤になった。
「それ、本気で言ってるの?あ、あたしの気持ち、わかってて……」
「前にも言ったと思うけど。今まで人を好きになったことがないから、どう応えればいいか、今もよくわかってないんだ。それでも良ければ、だけど」
 彼女はすぐには返事をせず、しばらく潤んだ目を圭太に向けていた。
 やがて、唐突に左手で眼鏡を外すと、片方の膝を圭太の足の間に入れ、両腕をソファの背もたれについた。
 視線が至近距離で交差する。
 素顔の彼女を見るのは二度目だ。
 大人びているようにも、童顔にも思えたその表情に、どこか懐かしさを覚え、その理由が詩乃の面差しだという答えに、簡単にたどり着く。
 確かこんな場面では、双方が目を閉じる決まりなのではないか。
 心臓の鼓動が限界まで速まる。耳に血液が集まるのを感じた。
 彼女の黒目に落ち着かない表情の圭太が映ったのを見て、耐えきれずに目を閉じた。
 それが数秒だったのか、一分だったのか。いつの間にか相手は離れた場所に移動していた。
 本当のキスがどんなものなのか、正解を知るよしもなかったが、たった今、経験した行為がそうでないことだけは確かだと思う。
 単なる唇の圧着だった。
「どんな感じ?」
 心臓が乱鐘のように打っていた圭太に反して、彼女はどこか冷静に見えた。
「どんなって……」
「お母さんの顔、思い出した?」
「あ」
 確かに、思い出す暇がなかった。
「良かった。それなら可能性はあるってことだね」
 彼女はほっとしたように、大きく息を吐いたあと、「ところで」と、声を低くした。
 直前までとはまるで異なる鋭い視線。
「これ、何?」
 背中に回していた右手をゆっくりと戻した、その手にあったのは芦川の写真集だった。