次の日、帰宅したタイミングで予告通り芦川から連絡があった。
仕方なくバイクを出して駅に向かったが――その段階で、すでに嫌な予感はしていた。
これまで、何度も誰かを迎えた改札口。遠目からも目を引く、白い襟のついた濃紺のワンピースは、彼女をいつも以上に大人びて見せた。
「一人?テレビ局の人は?」
「あなたが言ったんでしょう。無駄だって」
そのあと、さんざん反論したくせに。
「二人で行ってもできることはないと思うけど」
軽い予防線に、芦川は返事をせず、黙ってシートのうしろに乗り込んだ。
落居の家に着くと、十島が待っていた。
「何で――」
「凛音ちゃんから連絡もらったから。二人でOMのとこ行くって」
どこか責めるような口調だ。玄関で話していると、声が聞こえたのか、本人が姿を見せた。
「お前ら……と凛音ちゃん、こんなとこで何してるんだよ」
「お父さんの快気祝いよ。これ、つまらない物ですが」
いつから用意していたのか、芦川は圭太には見せたことのない、あどけなさの残る少女のような笑顔で紙袋を差し出した。
それを見て、彼はほっとしたように表情を緩め、十島は眼鏡の位置を無言で直した。
床の間に通されてしばらく、彼の母親がお盆を手に姿を現した。戦国好きだと聞かされていたことを思い出し、思わずまじまじと見入ってしまう。
「若い人が喜ぶような物が何もなくて。ごめんなさいね」
申し訳なさそうに急須とせんべいを机に置くと、芦川はすぐに立ち上がり、お茶出しを手伝い始めた。
視線の端で十島が、また眼鏡を直すのが見えた。
「お父さんは?もう一人で歩けるの?ラクちゃんも大変ね」
「歩くのはどうにかできるんだけど。今は二階で寝てる。朝まで酒を飲んでたみたいだ」
再びの重苦しい空気が部屋に満たされていく。
「ちょっと。あなた何か言いなさいよ。一番の友達なんでしょ」
誰が一番と決めたんだ。
他人の事情にためらいなく介入する彼女の感情が、真意がわからない。
どう反論しようかと、悩んでいたときだった。
「光成、いるのか?」
以前にも聞いた、少ししわがれた声と同時にふすまが開いた。
左腕を白い包帯で吊った落居の父が姿を現すと、全員に緊張が走る。
「親父、寝てなくていいのかよ」
「お父さん、お邪魔しています」
今度は十島も口を開いたが、先に声を出したのはまたしても芦川だった。
「ああ、みなさんにも迷惑かけたみたいで。子供たちに肩身の狭い思いをさせちまって、生き恥さらしてるようなもんだ」
「親父、つまんねえこと言うなよ」
彼の父は誰を見るでもなく、無言でその場に立ちすくむ。片足では、部屋に入ることも、離れることも億劫なのに違いない。とはいえ、圭太たち高校生に声をかけられるはずもなかった。
居心地が悪い、などという表現ではまるで足りない。物理的に酸素が薄くなっているのかと真剣に疑い始めたときだった。
「あのっ」
声を裏返しながら、十島が突然立ち上がった。
ここに来てからの、どこか気負ったような態度。彼女本来の、空回りしがちな性格を考えると、このあと、前向きな展開になる気がしない。
「あたしたち、みんなで募金しようって言ってたんです。学校とかで……」
自分も何かの役に立ちたいと思っていたのは痛いほどわかった。
だが、人生に絶望した人間は、青くさい高校生の好意を真っ直ぐ受け取れる精神状態とはほど遠かったのだ。
「子供の小遣いでどうにかなる額じゃないんだよ」
最初はただあきれたように答えた。が、彼女はさらに食い下がる。
「でも心臓病の手術とかでお金集めてる人もいますから……。一億円とかなんですよ」
十島なりに色々調べた結果ではあったんだろう、しかしそれを聞いた相手は顔色を変えた。
「ふざけちゃいけねえよ、お嬢さん。家の恥を全国にさらせって言うのかっ。俺はまだいい。あとは死ぬのを待つだけだからな。だけど、子供たちに一生十字架を背負わせるなんて真似、仮にも人の親としてできっこねえだろ。そんなこともわからんのか、今どきの学生さんは」
途中から十島は顔を真っ青にしていた。
良かれと思って言ったことに、まさかそんな強い反論があるとは思ってもみなかったんだろう。
これ以上ない険悪な雰囲気に、落居は慌てて二人の間に立った。
「親父、いいからもう部屋に戻ってろって――」
彼の手が父の肩にかかった刹那だった。
かすかに震えた声が床の間に響いたのは。
「やり方次第だと思います」
脳の制止を無視して、口が勝手に動いていた。
落居は口を半開きにしたまま、驚いた表情でうしろに振り返る。
「長坂、いったい何を――」
十島の危機が、発動の最後の条件だった。
「問題がない、わけじゃない。仕事のやり方に」
全員の視線が、一斉に圭太に集まる。
「何だと?俺の半生を否定しようって言うのかっ?光成の友達だからって聞き捨てならねえ。おい、もう一回、言ってみろっ」
「親父、そういう意味で言ったんじゃないんだ。こいつ、ちょっと変わってるからさ」
「そうなんです。言い方はきつく聞こえるけど、悪い子じゃないんです。早くっ、謝りなさいよ」
芦川は正座していた圭太のそばに素早く移動すると、頭を押し下げようとした。
「間違ったことは言っていません。高校生の言うことに正論はないとお考えですか?」
流れ流され、ついにこんな状況に追い込まれた。だが、押されたスイッチは戻らない。あとは行けるところまで、突っ走るだけだ。
真っ直ぐ目を見据えると、落居の父は圭太を睨み返し、苦労しながら、その場に腰を下ろした。
「いいだろう。十六なんて、昔はとうに元服してた年だ。お前さんの話を聞こうじゃねえかっ」
落居は、父の横に棒立ちのまま、泣きそうになっている。十島と芦川の顔も真っ白だ。
張り詰めた空気で、動くと肌が切れそうだった。
「ビジネス書とか読んだりしますか?色んな本で言われていることに、仕事はできる人のところに集まる、っていうのがあります。身に覚えはないですか?」
何を言われても文句を言おうと身構えていたのだろうが、おそらく想像していた内容とは違ったのだと思う。彼は一度開きかけたその口を閉ざした。
「対象の人が真面目すぎると、その人が破滅するまで仕事は終わらないそうです」
破滅という言葉に全員の顔がひきつった。しかし圭太は構わず続ける。
「ただ依頼を断ることを書いただけの本が何冊もありますよ。特に日本人で昔気質の人は、下手に出た相手を無下に扱えない。身に覚えはないですか?」
「見てきたようなことを言うんじゃねえよ」
「もちろん見たわけじゃありません。落居から聞いた話と、本から得た知識を合わせて適当な作り話をしているだけです。仕事を下ろしてくるハウスメーカーは、あまりいい相手ではなかったんじゃないですか。きっと昔からの付き合いということで、無理を聞きすぎていたことはありませんか。会社は、同じでも担当者はきっと代替わりしてますよね」
「仮にそうだったとしてもだ、元請けはこっちの立場で選ぶことなんてできねえんだ」
「制約のない仕事をすればいいじゃないですか。前にうちのリフォームをしてくれたときみたいに。お世辞の言えない叔母が、心底喜んでました」
「そいつあ、どうも。だけどな、たかが知れてるんだよ。ここいらはどんどん人がいなくなってるんだ」
「ですから、それはやり方次第だと思うんです。こちらのお店に、ホームページはありますか?一見のお客が何を頼りに職人を選ぼうとするか、わかりますか?」
落居の父は口を尖らせたまま、黙り込んだ。
「今回、僕たちは、たまたま知り合いにいたから何もしなかったですけど。見知らぬ工務店の技術力なんてわかるはずない。本当なら口コミとかレビューを参考にしたいところです。最低限、その会社のホームページで、透明性とか誠実さを判断します。もしいい会社だと思ったら多少遠くても、あるいは高くてもお願いしようと考えると思います」
彼は片足だけであぐらをかいたまま、苛立ったように右手で薄くなった髪の毛をくしゃっと掴んだ。
「結構な高説をぶっていただいたんだけどよ。もう遅いんだよ。ああ、そうだな。せめて十年前に教えてほしかったよっ」
最後はそう言うだろうと予想していたのは、圭太だけではなかったと思う。
「まだ……遅くはないと思います」
喉が締まる。声が思い通りに出せない。
陳腐な英雄願望で、人生を無駄にしてはいけない。
芦川への対抗心で、これまでの努力を無に帰してはいけない。
冷静に判断すれば、いや、判断の必要なく損得は明白だ。
周りにいるのは、一人のいとこを除いて全員が真っ赤な他人。
右手をトートバッグに入れたとき、視界の端に不安そうな落居が目に入った。
まさか……こうなることを予見して、四月のあの日、圭太に声をかけたのだろうか。
すべてが演出ではないのか、誰かの意思ではないのか。
今なら引き返せる。
そしていつもの通り、圭太の感情に火を点け、前に押し進めるのは、同じ人間だった。
「ね、もういいから。お父さんに謝って今日は失礼しましょう。わたしたちにできることなんて、ほとんどないんだから」
どうして、いつもいつも自分が正しいという前提で話をするんだ。
「こちらの工務店、屋号ですか?法人成りしていますかっ?」
芦川の声をさえぎるように、思わず声が大きくなってしまった。落居の父も驚いたように一瞬目を見開く。
「何だよ、突然。うちは俺と若いのが二人しか専任の大工はいねえ。売り上げだってたかが知れてる。法人にする必要なんてないんだよ」
「だったらっ。すぐに手続きして下さい。さっきも言った通り、依頼者が会社の信用を測るために必要だからです。合同会社で結構ですから」
「すぐって。お前さんよ……」
「それから。リフォーム専用会社としてホームページを作ります。依頼が多そうな作業については、細かく料金設定をして一覧にします。依頼者は、これとこれ、みたいに組み合わせで選びやすくなりますから」
「おい、長坂。お前、何言ってんだよ。もう無理だってさっきから――」
「僕がっ」
アクセルがべた踏みの状態だった。ブレーキを踏むタイミングはとうに逸していた。
「資本参加しますから……」
全員が無言になったのは、意味がわからなかったのだろう。
「子供が何を言ってる。こっちには返済できない借金があって――」
「資本金は九千万です。法人化と同時に、ほとんどが減資されることになりますけど」
やはり誰からも反応がなかったのは、用語が技術的すぎたからか。
ただ金額だけは伝わったのだと思う。
「あのな、どこからそんな大金が降ってくるってんだ」
父親が吐き捨てるように言った。
「ここにあります」
ずっと握っていたせいで、汗が滲んだ通帳を畳に置いた。
全員の視線が集まる。
最初に反応したのは、芦川だ。彼女は通帳の表紙を見て、首を傾げた。
「長坂真理って、誰?もしかしてお母さんの?犯罪だよ、いくら親子だからって」
「母親は五年前に失踪した。お金は全部僕が貯めたものだ」
「お金って――」
彼女は中を開いたあと、息を止めた。
「ウソでしょ。ホントに九千万円ある……。あなた、いったい何をやったのっ?」
「株への投資。自分で言うのも何だけど、これだけはすごく運があったんだ」
もちろん、銘柄選定には人並み以上に時間をかけ、努力をした自負はあるが、性格的に向いていたのは確かだと思う。目の前に現金があったわけでなく、画面の上の数字が変化していただけという環境や、上等な生活を知らなかったことも理由だろう。AIブームや歴史的な円安も大きく寄与した。
加えて、母親の呪いの影響もあったのではないかと、そんなオカルトも少しは信じている。
ただ、それら全部を考慮したとしても、周囲の大人たちと比較して、これまでにかけた工数の対価として、手にした資産が妥当なのか、最近思い悩む時間が増えていた。
「運があったって。俺に対する嫌味にしか聞こえねえよ。申し出はありがたいが、高校生の情けにすがるわけにはいかねえ。だいたいお前さんのお父ちゃんが、許すはずないだろ」
「父はもっと昔に死別していません。それと、さっきも言いましたけれど、情けじゃなく、資本参加ですから。落居さんの腕を見込んでのことです。この先、あと十年くらいは働けますよね?それで十分回収できると、そう判断しただけです」
今回に限っては、そこまでの試算はしていない。だが、言葉にすると存外に不可能なプランではない気がするから不思議だ。
「長坂、本気なのか、そんな大金……」
「このお金を引き出して、僕が使うのは難しかったんだ。贈与税とか、そういうのがあって。でも出資ならたぶん問題ない」
所在不明な人間が会社の役員になるが――特に中小企業は、名義だけの役員ばかりだと、何かで読んだことがある。
どこかで母がその名前を見つけ、連絡してくる可能性をまるで考えなかったかと言えば、嘘にはなるが――もちろん、この場でそんな未練は口にできない。
両手の拳をぎゅっと握ると、少しして、その上に柔らかい手の感触があった。
「わたしもお仕事で少しは貯金があるから。その計画に加わってもいいかしら」
「あの。だったらあたしもっ。その、お年玉とか貯めてあって――」
「ダメに決まってるじゃないかっ。こんなリスクのある……。あ、いや、そういう意味じゃなくて。落居さんの腕は信頼してますけど……」
しばらく無言だった落居の父は、圭太と目が合ったとき、苦労して正座に座り直した。
「十年どころか死ぬまで働く。それで返せなかったら、せがれのどちらかが、返済を引き継いでくれるはずだ。だから、今回は――今回だけはご厚意に甘えさせて下さい」
そう言って、右腕と額を畳につけた。
「あのですね、さっきから何度も言ってる通り、これはあくまでビジネスであって――」
それからあとのことはあまり記憶がない。興奮と後悔で脳の思考回路が加熱停止していた。
へとへとになりながら彼の家をあとにして、気づいたときには、芦川を大月駅まで送り届けたところだった。
彼女はすっかり慣れた動作でヘルメットを脱ぎながら、バイクから降り立つ。
「今日は少しだけあなたのこと見直したわ」
「少しかよ。僕はすでに後悔で狂い死にしそうだ」
「大丈夫よ。ラクちゃんもだけど、わたしもできるだけのことはするから」
「いや、君は本当に無関係だから。高校も違うし、親戚でもないし」
「そんなの大した問題じゃないでしょう。人のつながりなんて元来希薄で、それでいて不思議と強いものだと思うわ」
同年代にもかかわらず、ときどき重みのある言葉を口にする。きっと、大人の顔色ばかり見て、背伸びして生きてきたのだろう。
ああ――。
それが理由か。
いつも圭太を苛立たせる背景にあったのは。
「自分だけが苦労しているなんて思うなよ」
「そう、だったね。あなたのこと、わたし、何も知らなかったわ。もっと早くに教えてくれれば良かったのに……」
珍しく声を落として目を伏せ、口を閉ざした。
ごめんとでも言うのかと思っていたが、やがて、気を取り直したように、顔を上げると、肩からかけていた大きめの鞄から茶封筒を取り出した。
「これ、まだ発売前だけど、一応あなたも関係者だからあげる。まさか渡せる雰囲気になると思ってなかったから――良かったわ」
差し出されたのは、A5程度の大きさで、硬い感触だ。カタログか何かだろうか。
「見てもいいのよ」
言われるままに中身を取り出すと、そこにあったのは写真集だった。
表紙を見て、瞳孔が全開した。
水着姿の彼女だったからだ。
気づくと、芦川はレーザーのような視線を圭太に向けていた。
「中を見たら?」
即座に断りたかった。
どうして本人の前でこんな……。
しかし先を見るよう、無言の強い圧力に抗えない。仕方なくページをめくる。
「あれ、もしかして手が震えてない?」
「そんなわけないだろ」
写真はすべてモノクロだった。
砂丘に立つ彼女や、廃墟での写真。
中には、貴族が使うようなバスタブ一杯に浮かべた花の中で、何も身につけていないことがわかるカットまである。
写真の中の妖美な少女と、今目の前にいる、上品とも言える秋の装いに身を包んだ彼女がつながらない。
「イヤじゃないのか、こ、こういうの人に見られて」
「撮ってるときは塩崎さんと二人きりだったし。それに――」
芦川はゆっくりと圭太の背中に移動した。
肩に手が置かれた感覚のあと、耳元でささやくように続けた。
「こういう写真を見たとき、みんながどういう反応するのか想像するのが楽しいじゃない」
いったいどんな顔をして言ってるのか。だが、怖くて振り返ることはできなかった。
「で?感想は?」
「え……と。ファンの人たちには、モノクロじゃないほうがいいんじゃないのか。雰囲気を出したいのはわかるけど」
「まあ、あなたじゃその程度よねえ」
再び圭太の前に移動した彼女は、上から目線のときに見せる表情だった。
「何だよ、その程度って。いつもわかったような――」
「わかるわよ、何だって。例えば、今のあなたは、貯金がなくなって自信まで失ってる、とかね」
突然の慧眼に呼吸が止まった。圭太自身が気づいていないことを、的確に言い当てられた気がした。
彼女は得意気な表情を見せ、こほんと咳払いする。
「教えてあげる。雰囲気を出すためじゃないの。レンズに敬意を表してるの。ここ、見て」
そう言ってページの最下部に細い指を滑らせた。
小さなイタリックの文字で、数字とアルファベットが記されている。
「わかる?あなたのところにあったレンズの情報。このカットをどういうレンズで撮ったのかっていう詳細」
「ああ、なるほど」
「塩崎さんが買ったレンズ、どれも1950年代のものなんだって。つまり、どういうことかわかる?」
敬意という単語と、どう繋がるのか、まるで不明だった。
解けないことを認めたくなく、彼女はそんな圭太の反応を楽しむように続けた。
「当時、カラーフィルムはまだ流通してなかったの。だからあのレンズは白黒を前提に作られてたんだって」
声にこそ出さなかったが、想像していたよりずっと説得力のある答えに打ちのめされた。
そう聞いて改めて写真を見ると、気高さすら感じる。被写体はもちろん、撮影者にも。
手の届かない、はるかな高みから、無知を諭されているように思えて絶望した。
「そろそろ行くわ」
無言になっていた圭太にかけられた声は、これまでになく優しげだった。
写真集をバッグに入れ、エンジンをかける。
走り出したバックミラーに映った彼女は、軽く手を上げていた。
仕方なくバイクを出して駅に向かったが――その段階で、すでに嫌な予感はしていた。
これまで、何度も誰かを迎えた改札口。遠目からも目を引く、白い襟のついた濃紺のワンピースは、彼女をいつも以上に大人びて見せた。
「一人?テレビ局の人は?」
「あなたが言ったんでしょう。無駄だって」
そのあと、さんざん反論したくせに。
「二人で行ってもできることはないと思うけど」
軽い予防線に、芦川は返事をせず、黙ってシートのうしろに乗り込んだ。
落居の家に着くと、十島が待っていた。
「何で――」
「凛音ちゃんから連絡もらったから。二人でOMのとこ行くって」
どこか責めるような口調だ。玄関で話していると、声が聞こえたのか、本人が姿を見せた。
「お前ら……と凛音ちゃん、こんなとこで何してるんだよ」
「お父さんの快気祝いよ。これ、つまらない物ですが」
いつから用意していたのか、芦川は圭太には見せたことのない、あどけなさの残る少女のような笑顔で紙袋を差し出した。
それを見て、彼はほっとしたように表情を緩め、十島は眼鏡の位置を無言で直した。
床の間に通されてしばらく、彼の母親がお盆を手に姿を現した。戦国好きだと聞かされていたことを思い出し、思わずまじまじと見入ってしまう。
「若い人が喜ぶような物が何もなくて。ごめんなさいね」
申し訳なさそうに急須とせんべいを机に置くと、芦川はすぐに立ち上がり、お茶出しを手伝い始めた。
視線の端で十島が、また眼鏡を直すのが見えた。
「お父さんは?もう一人で歩けるの?ラクちゃんも大変ね」
「歩くのはどうにかできるんだけど。今は二階で寝てる。朝まで酒を飲んでたみたいだ」
再びの重苦しい空気が部屋に満たされていく。
「ちょっと。あなた何か言いなさいよ。一番の友達なんでしょ」
誰が一番と決めたんだ。
他人の事情にためらいなく介入する彼女の感情が、真意がわからない。
どう反論しようかと、悩んでいたときだった。
「光成、いるのか?」
以前にも聞いた、少ししわがれた声と同時にふすまが開いた。
左腕を白い包帯で吊った落居の父が姿を現すと、全員に緊張が走る。
「親父、寝てなくていいのかよ」
「お父さん、お邪魔しています」
今度は十島も口を開いたが、先に声を出したのはまたしても芦川だった。
「ああ、みなさんにも迷惑かけたみたいで。子供たちに肩身の狭い思いをさせちまって、生き恥さらしてるようなもんだ」
「親父、つまんねえこと言うなよ」
彼の父は誰を見るでもなく、無言でその場に立ちすくむ。片足では、部屋に入ることも、離れることも億劫なのに違いない。とはいえ、圭太たち高校生に声をかけられるはずもなかった。
居心地が悪い、などという表現ではまるで足りない。物理的に酸素が薄くなっているのかと真剣に疑い始めたときだった。
「あのっ」
声を裏返しながら、十島が突然立ち上がった。
ここに来てからの、どこか気負ったような態度。彼女本来の、空回りしがちな性格を考えると、このあと、前向きな展開になる気がしない。
「あたしたち、みんなで募金しようって言ってたんです。学校とかで……」
自分も何かの役に立ちたいと思っていたのは痛いほどわかった。
だが、人生に絶望した人間は、青くさい高校生の好意を真っ直ぐ受け取れる精神状態とはほど遠かったのだ。
「子供の小遣いでどうにかなる額じゃないんだよ」
最初はただあきれたように答えた。が、彼女はさらに食い下がる。
「でも心臓病の手術とかでお金集めてる人もいますから……。一億円とかなんですよ」
十島なりに色々調べた結果ではあったんだろう、しかしそれを聞いた相手は顔色を変えた。
「ふざけちゃいけねえよ、お嬢さん。家の恥を全国にさらせって言うのかっ。俺はまだいい。あとは死ぬのを待つだけだからな。だけど、子供たちに一生十字架を背負わせるなんて真似、仮にも人の親としてできっこねえだろ。そんなこともわからんのか、今どきの学生さんは」
途中から十島は顔を真っ青にしていた。
良かれと思って言ったことに、まさかそんな強い反論があるとは思ってもみなかったんだろう。
これ以上ない険悪な雰囲気に、落居は慌てて二人の間に立った。
「親父、いいからもう部屋に戻ってろって――」
彼の手が父の肩にかかった刹那だった。
かすかに震えた声が床の間に響いたのは。
「やり方次第だと思います」
脳の制止を無視して、口が勝手に動いていた。
落居は口を半開きにしたまま、驚いた表情でうしろに振り返る。
「長坂、いったい何を――」
十島の危機が、発動の最後の条件だった。
「問題がない、わけじゃない。仕事のやり方に」
全員の視線が、一斉に圭太に集まる。
「何だと?俺の半生を否定しようって言うのかっ?光成の友達だからって聞き捨てならねえ。おい、もう一回、言ってみろっ」
「親父、そういう意味で言ったんじゃないんだ。こいつ、ちょっと変わってるからさ」
「そうなんです。言い方はきつく聞こえるけど、悪い子じゃないんです。早くっ、謝りなさいよ」
芦川は正座していた圭太のそばに素早く移動すると、頭を押し下げようとした。
「間違ったことは言っていません。高校生の言うことに正論はないとお考えですか?」
流れ流され、ついにこんな状況に追い込まれた。だが、押されたスイッチは戻らない。あとは行けるところまで、突っ走るだけだ。
真っ直ぐ目を見据えると、落居の父は圭太を睨み返し、苦労しながら、その場に腰を下ろした。
「いいだろう。十六なんて、昔はとうに元服してた年だ。お前さんの話を聞こうじゃねえかっ」
落居は、父の横に棒立ちのまま、泣きそうになっている。十島と芦川の顔も真っ白だ。
張り詰めた空気で、動くと肌が切れそうだった。
「ビジネス書とか読んだりしますか?色んな本で言われていることに、仕事はできる人のところに集まる、っていうのがあります。身に覚えはないですか?」
何を言われても文句を言おうと身構えていたのだろうが、おそらく想像していた内容とは違ったのだと思う。彼は一度開きかけたその口を閉ざした。
「対象の人が真面目すぎると、その人が破滅するまで仕事は終わらないそうです」
破滅という言葉に全員の顔がひきつった。しかし圭太は構わず続ける。
「ただ依頼を断ることを書いただけの本が何冊もありますよ。特に日本人で昔気質の人は、下手に出た相手を無下に扱えない。身に覚えはないですか?」
「見てきたようなことを言うんじゃねえよ」
「もちろん見たわけじゃありません。落居から聞いた話と、本から得た知識を合わせて適当な作り話をしているだけです。仕事を下ろしてくるハウスメーカーは、あまりいい相手ではなかったんじゃないですか。きっと昔からの付き合いということで、無理を聞きすぎていたことはありませんか。会社は、同じでも担当者はきっと代替わりしてますよね」
「仮にそうだったとしてもだ、元請けはこっちの立場で選ぶことなんてできねえんだ」
「制約のない仕事をすればいいじゃないですか。前にうちのリフォームをしてくれたときみたいに。お世辞の言えない叔母が、心底喜んでました」
「そいつあ、どうも。だけどな、たかが知れてるんだよ。ここいらはどんどん人がいなくなってるんだ」
「ですから、それはやり方次第だと思うんです。こちらのお店に、ホームページはありますか?一見のお客が何を頼りに職人を選ぼうとするか、わかりますか?」
落居の父は口を尖らせたまま、黙り込んだ。
「今回、僕たちは、たまたま知り合いにいたから何もしなかったですけど。見知らぬ工務店の技術力なんてわかるはずない。本当なら口コミとかレビューを参考にしたいところです。最低限、その会社のホームページで、透明性とか誠実さを判断します。もしいい会社だと思ったら多少遠くても、あるいは高くてもお願いしようと考えると思います」
彼は片足だけであぐらをかいたまま、苛立ったように右手で薄くなった髪の毛をくしゃっと掴んだ。
「結構な高説をぶっていただいたんだけどよ。もう遅いんだよ。ああ、そうだな。せめて十年前に教えてほしかったよっ」
最後はそう言うだろうと予想していたのは、圭太だけではなかったと思う。
「まだ……遅くはないと思います」
喉が締まる。声が思い通りに出せない。
陳腐な英雄願望で、人生を無駄にしてはいけない。
芦川への対抗心で、これまでの努力を無に帰してはいけない。
冷静に判断すれば、いや、判断の必要なく損得は明白だ。
周りにいるのは、一人のいとこを除いて全員が真っ赤な他人。
右手をトートバッグに入れたとき、視界の端に不安そうな落居が目に入った。
まさか……こうなることを予見して、四月のあの日、圭太に声をかけたのだろうか。
すべてが演出ではないのか、誰かの意思ではないのか。
今なら引き返せる。
そしていつもの通り、圭太の感情に火を点け、前に押し進めるのは、同じ人間だった。
「ね、もういいから。お父さんに謝って今日は失礼しましょう。わたしたちにできることなんて、ほとんどないんだから」
どうして、いつもいつも自分が正しいという前提で話をするんだ。
「こちらの工務店、屋号ですか?法人成りしていますかっ?」
芦川の声をさえぎるように、思わず声が大きくなってしまった。落居の父も驚いたように一瞬目を見開く。
「何だよ、突然。うちは俺と若いのが二人しか専任の大工はいねえ。売り上げだってたかが知れてる。法人にする必要なんてないんだよ」
「だったらっ。すぐに手続きして下さい。さっきも言った通り、依頼者が会社の信用を測るために必要だからです。合同会社で結構ですから」
「すぐって。お前さんよ……」
「それから。リフォーム専用会社としてホームページを作ります。依頼が多そうな作業については、細かく料金設定をして一覧にします。依頼者は、これとこれ、みたいに組み合わせで選びやすくなりますから」
「おい、長坂。お前、何言ってんだよ。もう無理だってさっきから――」
「僕がっ」
アクセルがべた踏みの状態だった。ブレーキを踏むタイミングはとうに逸していた。
「資本参加しますから……」
全員が無言になったのは、意味がわからなかったのだろう。
「子供が何を言ってる。こっちには返済できない借金があって――」
「資本金は九千万です。法人化と同時に、ほとんどが減資されることになりますけど」
やはり誰からも反応がなかったのは、用語が技術的すぎたからか。
ただ金額だけは伝わったのだと思う。
「あのな、どこからそんな大金が降ってくるってんだ」
父親が吐き捨てるように言った。
「ここにあります」
ずっと握っていたせいで、汗が滲んだ通帳を畳に置いた。
全員の視線が集まる。
最初に反応したのは、芦川だ。彼女は通帳の表紙を見て、首を傾げた。
「長坂真理って、誰?もしかしてお母さんの?犯罪だよ、いくら親子だからって」
「母親は五年前に失踪した。お金は全部僕が貯めたものだ」
「お金って――」
彼女は中を開いたあと、息を止めた。
「ウソでしょ。ホントに九千万円ある……。あなた、いったい何をやったのっ?」
「株への投資。自分で言うのも何だけど、これだけはすごく運があったんだ」
もちろん、銘柄選定には人並み以上に時間をかけ、努力をした自負はあるが、性格的に向いていたのは確かだと思う。目の前に現金があったわけでなく、画面の上の数字が変化していただけという環境や、上等な生活を知らなかったことも理由だろう。AIブームや歴史的な円安も大きく寄与した。
加えて、母親の呪いの影響もあったのではないかと、そんなオカルトも少しは信じている。
ただ、それら全部を考慮したとしても、周囲の大人たちと比較して、これまでにかけた工数の対価として、手にした資産が妥当なのか、最近思い悩む時間が増えていた。
「運があったって。俺に対する嫌味にしか聞こえねえよ。申し出はありがたいが、高校生の情けにすがるわけにはいかねえ。だいたいお前さんのお父ちゃんが、許すはずないだろ」
「父はもっと昔に死別していません。それと、さっきも言いましたけれど、情けじゃなく、資本参加ですから。落居さんの腕を見込んでのことです。この先、あと十年くらいは働けますよね?それで十分回収できると、そう判断しただけです」
今回に限っては、そこまでの試算はしていない。だが、言葉にすると存外に不可能なプランではない気がするから不思議だ。
「長坂、本気なのか、そんな大金……」
「このお金を引き出して、僕が使うのは難しかったんだ。贈与税とか、そういうのがあって。でも出資ならたぶん問題ない」
所在不明な人間が会社の役員になるが――特に中小企業は、名義だけの役員ばかりだと、何かで読んだことがある。
どこかで母がその名前を見つけ、連絡してくる可能性をまるで考えなかったかと言えば、嘘にはなるが――もちろん、この場でそんな未練は口にできない。
両手の拳をぎゅっと握ると、少しして、その上に柔らかい手の感触があった。
「わたしもお仕事で少しは貯金があるから。その計画に加わってもいいかしら」
「あの。だったらあたしもっ。その、お年玉とか貯めてあって――」
「ダメに決まってるじゃないかっ。こんなリスクのある……。あ、いや、そういう意味じゃなくて。落居さんの腕は信頼してますけど……」
しばらく無言だった落居の父は、圭太と目が合ったとき、苦労して正座に座り直した。
「十年どころか死ぬまで働く。それで返せなかったら、せがれのどちらかが、返済を引き継いでくれるはずだ。だから、今回は――今回だけはご厚意に甘えさせて下さい」
そう言って、右腕と額を畳につけた。
「あのですね、さっきから何度も言ってる通り、これはあくまでビジネスであって――」
それからあとのことはあまり記憶がない。興奮と後悔で脳の思考回路が加熱停止していた。
へとへとになりながら彼の家をあとにして、気づいたときには、芦川を大月駅まで送り届けたところだった。
彼女はすっかり慣れた動作でヘルメットを脱ぎながら、バイクから降り立つ。
「今日は少しだけあなたのこと見直したわ」
「少しかよ。僕はすでに後悔で狂い死にしそうだ」
「大丈夫よ。ラクちゃんもだけど、わたしもできるだけのことはするから」
「いや、君は本当に無関係だから。高校も違うし、親戚でもないし」
「そんなの大した問題じゃないでしょう。人のつながりなんて元来希薄で、それでいて不思議と強いものだと思うわ」
同年代にもかかわらず、ときどき重みのある言葉を口にする。きっと、大人の顔色ばかり見て、背伸びして生きてきたのだろう。
ああ――。
それが理由か。
いつも圭太を苛立たせる背景にあったのは。
「自分だけが苦労しているなんて思うなよ」
「そう、だったね。あなたのこと、わたし、何も知らなかったわ。もっと早くに教えてくれれば良かったのに……」
珍しく声を落として目を伏せ、口を閉ざした。
ごめんとでも言うのかと思っていたが、やがて、気を取り直したように、顔を上げると、肩からかけていた大きめの鞄から茶封筒を取り出した。
「これ、まだ発売前だけど、一応あなたも関係者だからあげる。まさか渡せる雰囲気になると思ってなかったから――良かったわ」
差し出されたのは、A5程度の大きさで、硬い感触だ。カタログか何かだろうか。
「見てもいいのよ」
言われるままに中身を取り出すと、そこにあったのは写真集だった。
表紙を見て、瞳孔が全開した。
水着姿の彼女だったからだ。
気づくと、芦川はレーザーのような視線を圭太に向けていた。
「中を見たら?」
即座に断りたかった。
どうして本人の前でこんな……。
しかし先を見るよう、無言の強い圧力に抗えない。仕方なくページをめくる。
「あれ、もしかして手が震えてない?」
「そんなわけないだろ」
写真はすべてモノクロだった。
砂丘に立つ彼女や、廃墟での写真。
中には、貴族が使うようなバスタブ一杯に浮かべた花の中で、何も身につけていないことがわかるカットまである。
写真の中の妖美な少女と、今目の前にいる、上品とも言える秋の装いに身を包んだ彼女がつながらない。
「イヤじゃないのか、こ、こういうの人に見られて」
「撮ってるときは塩崎さんと二人きりだったし。それに――」
芦川はゆっくりと圭太の背中に移動した。
肩に手が置かれた感覚のあと、耳元でささやくように続けた。
「こういう写真を見たとき、みんながどういう反応するのか想像するのが楽しいじゃない」
いったいどんな顔をして言ってるのか。だが、怖くて振り返ることはできなかった。
「で?感想は?」
「え……と。ファンの人たちには、モノクロじゃないほうがいいんじゃないのか。雰囲気を出したいのはわかるけど」
「まあ、あなたじゃその程度よねえ」
再び圭太の前に移動した彼女は、上から目線のときに見せる表情だった。
「何だよ、その程度って。いつもわかったような――」
「わかるわよ、何だって。例えば、今のあなたは、貯金がなくなって自信まで失ってる、とかね」
突然の慧眼に呼吸が止まった。圭太自身が気づいていないことを、的確に言い当てられた気がした。
彼女は得意気な表情を見せ、こほんと咳払いする。
「教えてあげる。雰囲気を出すためじゃないの。レンズに敬意を表してるの。ここ、見て」
そう言ってページの最下部に細い指を滑らせた。
小さなイタリックの文字で、数字とアルファベットが記されている。
「わかる?あなたのところにあったレンズの情報。このカットをどういうレンズで撮ったのかっていう詳細」
「ああ、なるほど」
「塩崎さんが買ったレンズ、どれも1950年代のものなんだって。つまり、どういうことかわかる?」
敬意という単語と、どう繋がるのか、まるで不明だった。
解けないことを認めたくなく、彼女はそんな圭太の反応を楽しむように続けた。
「当時、カラーフィルムはまだ流通してなかったの。だからあのレンズは白黒を前提に作られてたんだって」
声にこそ出さなかったが、想像していたよりずっと説得力のある答えに打ちのめされた。
そう聞いて改めて写真を見ると、気高さすら感じる。被写体はもちろん、撮影者にも。
手の届かない、はるかな高みから、無知を諭されているように思えて絶望した。
「そろそろ行くわ」
無言になっていた圭太にかけられた声は、これまでになく優しげだった。
写真集をバッグに入れ、エンジンをかける。
走り出したバックミラーに映った彼女は、軽く手を上げていた。