過去の圭太なら、人間関係に憂鬱になり、参加することをためらっていたはずの打ち上げ当日、十月の土曜日のことだった。
授業が午前中で終わる。
パーティという、大人びた体験に、教室内の誰もが浮かれているように見えた。
「長坂くんはどうするの?」
「僕は一度家に帰ろうかな。早く行ってもすることないし」
「ね、だったらバイクで送ってくれない?あたしは少し早めに行ってお店の人と段取りの打ち合わせしなくちゃいけないの」
芦川の仲裁と、文化祭を経て、十島とは元通りの関係に戻っていた。
もちろん、完全に以前と同じではないのだと思う。圭太の秘密を明かしたこともそうだが、詩乃と同居していることに、彼女が何か思うところがあるのは確からしい。
「そういえば、OMはどうして早退したか知ってる?」
「いや、聞いてない」
答えてすぐ、ポケットで、携帯が振動した。
「誰?あいつ?」
「ただの広告メール」
そうだった。今日はサプライズで女優も来ることになっていたのだ。それまで、幹事にも秘密を知られてはならない。
バイクで十島とともに八王子に向かい、会場の準備を手伝う。
やってくる女子の中には、私服に着替えている生徒もいて、彼女たちは入り口の貸し切りという文字を見て、いっそう華やいでいた。
だが、打ち上げの開始時間になっても、落居は現れなかった。何度か連絡しているが、メッセージを見てもいないようだ。
「クラス委員が遅刻か?幹事、さっさと始めちゃってよ」
「わかりました。みなさん、グラスは大丈夫ですか?では早速ですが、文化祭の大成功を祝ってかんぱーい」
三十分ほどして、携帯にメッセージがあった。
落居からだと疑わなかったが、芦川だった。
横浜線に乗ったとき、到着予定を聞いていたが、その時間にはかなり早い。電車遅延でもあったかなと思いながらメッセージを見た。
「落居って、あなたの知り合いにいなかったっけ?」
「クラスメートだけど。どうして?」
「やっぱりそうだよね……。珍しい名前だし、もしかしてと思ったんだ。ニュースに出てるから、知らせたほうがいいのかなって」
ニュースだって?!
送られてきたリンクを急いで開く。地域版のページをスクロールしようとして、手がおぼつかない。途中の見出しで息が止まった。
「大月のマンションで男性が落下、重体」
タップする指が震える。
記事には、被害者の名前と、六十五歳という年齢だけが記されていた。
確認しようにも、本人は早退したあと、連絡が取れていない。
「ね、どうかした?そんな顔してさ」
怪訝そうにそばに来た十島を外に連れ出し、事情を説明した。
「病院、どこか調べておいてっ。あたし、荷物取って来る」
「僕のも頼むよ。あとクラスのみんなには――」
「今は言わないわ」
八王子駅でバイクを駐輪場に停め、改札を入ったところで、ちょうど芦川と出くわしたが、十島は驚く余裕もないようだ。
「悪い、せっかく来てもらったのに。僕たち、これから病院に行くから」
「わたしも行くわよ。文化祭のとき、クラス委員だからって、丁寧に挨拶してくれたこと、思い出したの。あの背の高い人でしょう?」
「長坂くん、どの病院かわかった?」
「連絡したけど返事がない。でもたぶん市立病院じゃないかな」
中央線に乗り込み一時間ほど。
幸い、予想は当たっていた。
受け付けで教えられたERに向かう。
その前の廊下に、明るさだけが取り柄の演劇部員は、床に目線を向けたまま、人形のように座っていた。
その先にも見知った顔。彼の兄だ。
落居は圭太たちを見ると、弱々しく立ち上がった。
「お前ら、どうしてここがわかったんだよ」
「ニュースで……見たんだ」
「まじか……。いやー、まいったよ。まさか親父があんな真似するなんてさ。あれ、凛音ちゃん?おいおい、テンション上がるわ」
「お父さん、大丈夫なのっ?」
「お前までいるのかよ、テンション下がるな」
どうにか気丈に振る舞おうとしているようだが、言葉にいつもの威勢は微塵もない。
「それで、どうなんだよ」
「命に別状はないって。落ちたところが奇跡的に植栽だったらしくて。まったくしぶといよな」
長椅子に並んで座ったが、かける言葉が見つからない。やがて落居が消え入るような声で事情を話し始めた。
「欠陥住宅が見つかったんだ」
父親の仕事のほとんどは、大手デベロッパーからの委託による、戸建て建築だそうだ。
「リフォームとかもあるけど、あの性格だろ。ほとんど利益にならないんだ」
一ヶ月ほど前のことだった。
家が傾いていると、客からクレームが入ったと言う。
「家に問題はなかったんだ。ただ地盤改良が正しくされていなかったらしくて。そっちは親父の範疇じゃなかったのに、元請けが大ごとにするのを避けるため、責任を押しつけてきやがったんだ」
彼の父が矢面に立つ代わりに、立て替え費用と示談金を元請けが支払う、ということで合意していたはずだった。
しかし、いつの間にかすべての損害を賠償することになっていたそうだ。
「うちは自転車操業だからな。建て替えの費用なんてとてもじゃないけど捻出できない。それで生命保険で……」
落居はそこまで話したところで、言葉に詰まった。
「ひっどいっ。何、それ。信じられない。どこの会社?わたし、テレビ局の人に知り合いがいるから相談してみるっ」
「僕の知り合いに弁護士さんがいるんだ。聞いてみようか?」
しかし、うなだれた弟の向こうで兄が首を振った。
「法的に勝ち目はないってさ」
無料の弁護士相談にはすでに行ったらしい。
すべての書類は巧妙に仕組まれていたと言う。一連の不祥事から、元請けの名前は完全に消されていた。
「今までさんざん便利にこき使われて、最後は使い捨てだよ。ホント、馬鹿な男だ」
兄の言葉を最後に、全員が沈黙した。
病院のスタッフが、圭太たちの前を急ぎ足に行き交う。廊下の先には、総合待合所が見えたが、病院だというのに誰からも悲壮感が感じられないのが不思議だった。
落居がのろのろと立ち上がり、離れた場所にある自販機へと向かうのを見て、芦川が圭太の耳元に口を寄せた。
「ね、いくらくらいかな、建て替え費用って。募金とかで集められない?」
だが、それは兄にも聞こえていたらしい。
「ありがたいけど無理だ。必要になるのは九千万弱だとさ。俺の給料、二十年分以上だ」
金額を聞いて、気を失いかけた。
十島が憤慨したように立ち上がる。
「この辺の家なのに、いくらなんでも高すぎませんかっ?」
その答えは、兄とは違う方向からもたらされた。震えた声で。
「一時的な移転費用とか、示談金とか。地盤改良のやり直しもこっち持ちだからな。笑っちゃうだろ」
いつから戻っていたのか、体の大きい男子が見せる涙は、女子のそれとは悲哀の度合いが桁違いだ。
いっかいの高校生が、打開できる状況ではない。
兄弟から帰るように諭され、抗うこともできずに圭太たち三人は病院をあとにした。
「ごめん、今日は送れないけど。大丈夫か?」
「もちろんわたしはいいけど。何で二人とも電車に乗ろうとしてるの?」
「バイクを八王子に置いてきたから。十島は来なくてもいいのに」
「一人になりたくない」
八王子で芦川を見送り、それから十島を送り届け、家に着いたのは十時を過ぎていた。
「おかえりなさい。打ち上げ楽しかった?いいわねえ、若いって。私も合コンとかしてみたいわ」
詩乃の気楽さが今は救いだった。
部屋に戻り、猫のご飯を追加する。
彼女が優雅に食べる姿を見ながら、病院での会話を思い返した。
これはいったいどういうことなのか。誰の導きなのだ。何か見えざる力が働いているとしか思えない。
本棚の前に立ち、罪と罰の下巻を取り出し、そっと開いた。
中はくり貫かれていて、冊子が納めてある。
二冊ある通帳の古いほうを開いた。
残高、九千二百万円。
授業が午前中で終わる。
パーティという、大人びた体験に、教室内の誰もが浮かれているように見えた。
「長坂くんはどうするの?」
「僕は一度家に帰ろうかな。早く行ってもすることないし」
「ね、だったらバイクで送ってくれない?あたしは少し早めに行ってお店の人と段取りの打ち合わせしなくちゃいけないの」
芦川の仲裁と、文化祭を経て、十島とは元通りの関係に戻っていた。
もちろん、完全に以前と同じではないのだと思う。圭太の秘密を明かしたこともそうだが、詩乃と同居していることに、彼女が何か思うところがあるのは確からしい。
「そういえば、OMはどうして早退したか知ってる?」
「いや、聞いてない」
答えてすぐ、ポケットで、携帯が振動した。
「誰?あいつ?」
「ただの広告メール」
そうだった。今日はサプライズで女優も来ることになっていたのだ。それまで、幹事にも秘密を知られてはならない。
バイクで十島とともに八王子に向かい、会場の準備を手伝う。
やってくる女子の中には、私服に着替えている生徒もいて、彼女たちは入り口の貸し切りという文字を見て、いっそう華やいでいた。
だが、打ち上げの開始時間になっても、落居は現れなかった。何度か連絡しているが、メッセージを見てもいないようだ。
「クラス委員が遅刻か?幹事、さっさと始めちゃってよ」
「わかりました。みなさん、グラスは大丈夫ですか?では早速ですが、文化祭の大成功を祝ってかんぱーい」
三十分ほどして、携帯にメッセージがあった。
落居からだと疑わなかったが、芦川だった。
横浜線に乗ったとき、到着予定を聞いていたが、その時間にはかなり早い。電車遅延でもあったかなと思いながらメッセージを見た。
「落居って、あなたの知り合いにいなかったっけ?」
「クラスメートだけど。どうして?」
「やっぱりそうだよね……。珍しい名前だし、もしかしてと思ったんだ。ニュースに出てるから、知らせたほうがいいのかなって」
ニュースだって?!
送られてきたリンクを急いで開く。地域版のページをスクロールしようとして、手がおぼつかない。途中の見出しで息が止まった。
「大月のマンションで男性が落下、重体」
タップする指が震える。
記事には、被害者の名前と、六十五歳という年齢だけが記されていた。
確認しようにも、本人は早退したあと、連絡が取れていない。
「ね、どうかした?そんな顔してさ」
怪訝そうにそばに来た十島を外に連れ出し、事情を説明した。
「病院、どこか調べておいてっ。あたし、荷物取って来る」
「僕のも頼むよ。あとクラスのみんなには――」
「今は言わないわ」
八王子駅でバイクを駐輪場に停め、改札を入ったところで、ちょうど芦川と出くわしたが、十島は驚く余裕もないようだ。
「悪い、せっかく来てもらったのに。僕たち、これから病院に行くから」
「わたしも行くわよ。文化祭のとき、クラス委員だからって、丁寧に挨拶してくれたこと、思い出したの。あの背の高い人でしょう?」
「長坂くん、どの病院かわかった?」
「連絡したけど返事がない。でもたぶん市立病院じゃないかな」
中央線に乗り込み一時間ほど。
幸い、予想は当たっていた。
受け付けで教えられたERに向かう。
その前の廊下に、明るさだけが取り柄の演劇部員は、床に目線を向けたまま、人形のように座っていた。
その先にも見知った顔。彼の兄だ。
落居は圭太たちを見ると、弱々しく立ち上がった。
「お前ら、どうしてここがわかったんだよ」
「ニュースで……見たんだ」
「まじか……。いやー、まいったよ。まさか親父があんな真似するなんてさ。あれ、凛音ちゃん?おいおい、テンション上がるわ」
「お父さん、大丈夫なのっ?」
「お前までいるのかよ、テンション下がるな」
どうにか気丈に振る舞おうとしているようだが、言葉にいつもの威勢は微塵もない。
「それで、どうなんだよ」
「命に別状はないって。落ちたところが奇跡的に植栽だったらしくて。まったくしぶといよな」
長椅子に並んで座ったが、かける言葉が見つからない。やがて落居が消え入るような声で事情を話し始めた。
「欠陥住宅が見つかったんだ」
父親の仕事のほとんどは、大手デベロッパーからの委託による、戸建て建築だそうだ。
「リフォームとかもあるけど、あの性格だろ。ほとんど利益にならないんだ」
一ヶ月ほど前のことだった。
家が傾いていると、客からクレームが入ったと言う。
「家に問題はなかったんだ。ただ地盤改良が正しくされていなかったらしくて。そっちは親父の範疇じゃなかったのに、元請けが大ごとにするのを避けるため、責任を押しつけてきやがったんだ」
彼の父が矢面に立つ代わりに、立て替え費用と示談金を元請けが支払う、ということで合意していたはずだった。
しかし、いつの間にかすべての損害を賠償することになっていたそうだ。
「うちは自転車操業だからな。建て替えの費用なんてとてもじゃないけど捻出できない。それで生命保険で……」
落居はそこまで話したところで、言葉に詰まった。
「ひっどいっ。何、それ。信じられない。どこの会社?わたし、テレビ局の人に知り合いがいるから相談してみるっ」
「僕の知り合いに弁護士さんがいるんだ。聞いてみようか?」
しかし、うなだれた弟の向こうで兄が首を振った。
「法的に勝ち目はないってさ」
無料の弁護士相談にはすでに行ったらしい。
すべての書類は巧妙に仕組まれていたと言う。一連の不祥事から、元請けの名前は完全に消されていた。
「今までさんざん便利にこき使われて、最後は使い捨てだよ。ホント、馬鹿な男だ」
兄の言葉を最後に、全員が沈黙した。
病院のスタッフが、圭太たちの前を急ぎ足に行き交う。廊下の先には、総合待合所が見えたが、病院だというのに誰からも悲壮感が感じられないのが不思議だった。
落居がのろのろと立ち上がり、離れた場所にある自販機へと向かうのを見て、芦川が圭太の耳元に口を寄せた。
「ね、いくらくらいかな、建て替え費用って。募金とかで集められない?」
だが、それは兄にも聞こえていたらしい。
「ありがたいけど無理だ。必要になるのは九千万弱だとさ。俺の給料、二十年分以上だ」
金額を聞いて、気を失いかけた。
十島が憤慨したように立ち上がる。
「この辺の家なのに、いくらなんでも高すぎませんかっ?」
その答えは、兄とは違う方向からもたらされた。震えた声で。
「一時的な移転費用とか、示談金とか。地盤改良のやり直しもこっち持ちだからな。笑っちゃうだろ」
いつから戻っていたのか、体の大きい男子が見せる涙は、女子のそれとは悲哀の度合いが桁違いだ。
いっかいの高校生が、打開できる状況ではない。
兄弟から帰るように諭され、抗うこともできずに圭太たち三人は病院をあとにした。
「ごめん、今日は送れないけど。大丈夫か?」
「もちろんわたしはいいけど。何で二人とも電車に乗ろうとしてるの?」
「バイクを八王子に置いてきたから。十島は来なくてもいいのに」
「一人になりたくない」
八王子で芦川を見送り、それから十島を送り届け、家に着いたのは十時を過ぎていた。
「おかえりなさい。打ち上げ楽しかった?いいわねえ、若いって。私も合コンとかしてみたいわ」
詩乃の気楽さが今は救いだった。
部屋に戻り、猫のご飯を追加する。
彼女が優雅に食べる姿を見ながら、病院での会話を思い返した。
これはいったいどういうことなのか。誰の導きなのだ。何か見えざる力が働いているとしか思えない。
本棚の前に立ち、罪と罰の下巻を取り出し、そっと開いた。
中はくり貫かれていて、冊子が納めてある。
二冊ある通帳の古いほうを開いた。
残高、九千二百万円。