十島家のインターフォンを押したのはそれから十五分ほどした頃だ。
 一人でないとはいえ、気まずい状況が変わったわけではない。
 これからの展開がまるで読めないことに、緊迫していると、本人が通話口に出た。
「突然ごめん。長坂なんだけど」
「えっ……長坂くんっ?どうしたの?」
「あのさ、ちょっとだけ話せないかな。五分だけでいいから」
 返事がすぐにない。
 迷っているのは、別れ際にした質問の答えを聞きたくないのか、あるいは、それ自体を悔やんでいるのか。
 次にかける言葉を考えようとした直後、芦川が一歩前に出た。
「十島さん、突然ごめんなさい。わたし、芦川凛音です。もし良かったらお話しませんか?文化祭のことで」
 品質の低い回線にもかかわらず、向こうで低くうめき声がし、直後に音が割れるほどの声がした。
「えええっ。凛音ちゃんって本当っ?長坂くんのモノマネじゃないのっ?」
「そんな特殊技能があれば、学校辞めて動画配信で一財産稼いでるよ」
 彼女はちょっと待ってと言ってから、十分以上して姿を現した。
 夏休みまっただ中だというのに、ジャケットを着て、下はロングのスカート。濃紺のパンプスと、首筋の汗が午後の光を反射していた。
「は、初めまして。あたし、十島です――」
 一度も圭太を見なかったのは、わざとではないだろう。
 そして、芦川がただ者でないことを知った。
 輝くような笑顔を十島に向け、両手で彼女の手をそっと握ると、「お話はよく聞いています。お会いできてうれしいわ」と、令嬢がそこにいるのかと錯覚するような振る舞いをしたのだ。
 眼鏡の先で、十島の目が潤んでいるのがわかった。
 芦川がレンズの譲渡と、文化祭に協力できそうだという話題を持ち出していたが、ほとんど上の空で返事をしていた。
 ツーショットの写真を何枚も撮らされたあと、ようやく帰路につく。
 帰宅して、詩乃に状況を知らせ、塩崎にもそのことを報告した。
「良かったわ。十島さんも喜んでくれてたし、塩崎さんはレンズが手に入り、市ノ瀬さんにはお金が、わたしには素敵なフォトグラファー。我ながら、一度にこんなにたくさんの人を幸せにできて、鼻が高いわ。あなたも少しは手伝ったんだから、もっと喜んでいいのよ?」
 おかしいと思わないのか。
 その中心にいて、一番苦労と気苦労をした人間が、何一つ得ていない現実を。
 いや、そうでもないか。
 十島との別れ際、彼女との間にあった気まずさが、芦川の女優としての圧倒的な存在感を前に、すっかり蒸発してしまったようだった。今回に限り、それを報酬として受け取っておこう。