土曜日。
詩乃は数日前からそわそわしていた。
塩崎がもう怒ってないのか、芦川に買うケーキは何がいいか。
「テレビ、立派なのにしてくれて良かったわ。とても、質流れ品には見えないもの」
「僕は芦川を迎えに行ってきます。塩崎さんはタクシーで来られるそうですので」
大月駅に着くと、彼女はすでに改札前にいた。
「思ったより遠いのね。特急なんて小田急以外乗ったことなかったわ。あなた、いつもこんなところから来てるんだ」
ヘルメットを受け取ると慣れた所作でシートにまたがる。
「塩崎さん、よくこんな田舎まで来てくれるなんて言ったのね」
「アビーの話になったら是非会いたいって。猫なんて住宅街を十分も歩けば、何匹でも見つけられると思うんだけど」
「その心の貧しさはどうやったら治るのかしら。お母さんが聞いたら泣くわよ、きっと」
周囲の喧騒で聞こえなかった振りをして、エンジンをかけた。
家に着いて早々に、女優は態度を豹変させた。
家の外観も内装も素敵だとべた褒めして、それを聞いた家主は小躍りして喜んだ。
この二人は息が合うようだ。
一度部屋に戻り、アビーを連れてリビングに戻る。
「信じられない。すっごい可愛いっ。抱っこさせてっ」
芦川は声調を二段上げた。
「アビーちゃん、どうしてこんな無感情で無愛想な男のところに来ることになったの?かわいそうにね」
「猫をあやす振りをして、本人の目の前で悪口を言うな」
しばらくして、家の前に車が停まる気配がした。
意気投合する二人に居場所を奪われていたところだ。チャイムを待つことなく玄関に向かう。
塩崎を連れ、部屋に戻ると、神妙な面持ちの二人が背筋を伸ばしていた。
「紹介しますね。芦川凛音さんと、叔母の市ノ瀬はいいですよね?こちらが塩崎さんです」
「きゃあ。これがアビー?想像以上に可愛いんですけど。しっぽが長ーい。あ、ごめんなさい。塩崎です。初めまして」
彼女は芦川からアビーを受け取り、頬ずりしながら相好を崩した。
そのまま仕事の話題は友好的に始まった。
「それで、芦川さん、どうしてわたしなんかを指名して下さったのかしら」
「はい、作品を拝見して、すごく素敵だったので。是非撮っていただけたらなって」
だが、塩崎は、態度こそ物腰柔らかだったが、核心に入りそうになると、はっきりしない答えばかり返した。
「人物はほとんど撮ったことがないのよ。芦川さんみたいに可愛い方を、お仕事として失敗するわけにはいかないし」
アビーを脚の上に抱いたまま、会話が少しでも途切れると、すぐに猫を主役にしたがった。
誰の目にも、依頼を受けるつもりがないのは明らかだ。
詩乃はずっと緊張したままで、芦川も、途中からあきらめたのか、殊勝な態度で、話し合いはそのまま平行線をたどった。
ほどなくして、話題も尽きてくる。
このままでは、クラスメートから向けられた期待に応えられない。
「そのカバン、カメラが入ってるんですか?」
「今日はプライベートだから一体型のを、ね、知り合いがリニアの施設を見学したいらしくて、このあと待ち合わせなんだ」
どうにか時間稼ぎをしたかったが、次の予定を言われては万事休すだった。
「いいお返事ができなくてごめんなさいね」
芦川も引き留める気配がない。
仕方ない。
自分の生き方を確立した大人を翻意させるよりは、気の強い高校生を説得するほうが、まだ可能性は高いだろう。
「リニアって都留ですよね。もし良かったら送りましょうか?バイクですけど」
「いいの?じゃあ、お願いしようかな――」
そう言って席を立ったフォトグラファーの表情が硬くなった。
「ねっ、ちょっと待って。そこにあるレンズ、見てもいいっ?」
「ああ、すごく古いですよ。ほとんど価値もないみたいです」
しかし彼女は圭太の言葉をまるで聞いていなかった。
素早く書棚の前に移動すると、息を止めたのがわかる。ガラスケースをもどかしそうに開けた。
「ニッコールの8.5cmF2だ……。えっ、これ、フジノンの5cmF1.2ウソでしょ……。ちょっと待ってっ。こっち、ズノー35mmF1.7?!うそ、うそっ。信じられない。状態、めっちゃいいじゃんっ」
荒い息づかいが部屋中に響く程度に興奮していた。
レンズを慎重に元に戻すと、そばにいた圭太の腕を力強く掴んだ。
「ね、これ誰のっ?」
「誰って。叔母さん……のですよね?」
そう言うと、足がもつれそうになりながら、彼女は詩乃の元に駆け寄った。
「あの、もし使ってないのでしたら譲ってもらえませんかっ?もちろんお金は払います。全部じゃなくてもいいです。一つでも結構ですので」
「珍しいものなんですか?僕もネットで調べましたけど、せいぜい一万円くらいだったような」
「一万円っ?!いったい何を調べたの?」
「カメラです。その端にある本体――」
「本体はどれだけ希少でも、あまりほしがる人はいないよ。骨董品としての価値が出るほど古くはないし、使うには、フィルムカメラはデジタルに比べて使い勝手が極端に悪いのはわかるでしょう。その点、レンズはマウントアダプター経由で最新の機器にも取り付けられるし――」
よほど興奮しているのだろう、単語が聞き取れないくらいに早口だ。
「それで、いかがですか?譲っていただけますかっ?」
「私の、というか父の形見なんです。そうですね、母もいないですし。ああ、でも圭太さんと――千紘ちゃんにも確認したほうがいいのかしら……」
詩乃が悩む様子を見せていたとき、どこかで携帯の振動音が聞こえた。塩崎が、デニムのショートパンツのポケットからはみ出しそうになっていた携帯を取り出す。画面を一瞥したあと、英語で話し始め、条件反射なのか、詩乃が蝋人形のように固まった。
どうやらジョーイが駅に着いたということらしい。
「今日はとりあえずこれで失礼します。もし譲っていただけるようでしたら、ぜひご一報下さい。連絡先は――君が知ってるよね。じゃあ、駅まで送ってくれる?」
彼女は「それじゃあ」と軽い口調で挨拶をして、慌ただしく家をあとにした。
詩乃は数日前からそわそわしていた。
塩崎がもう怒ってないのか、芦川に買うケーキは何がいいか。
「テレビ、立派なのにしてくれて良かったわ。とても、質流れ品には見えないもの」
「僕は芦川を迎えに行ってきます。塩崎さんはタクシーで来られるそうですので」
大月駅に着くと、彼女はすでに改札前にいた。
「思ったより遠いのね。特急なんて小田急以外乗ったことなかったわ。あなた、いつもこんなところから来てるんだ」
ヘルメットを受け取ると慣れた所作でシートにまたがる。
「塩崎さん、よくこんな田舎まで来てくれるなんて言ったのね」
「アビーの話になったら是非会いたいって。猫なんて住宅街を十分も歩けば、何匹でも見つけられると思うんだけど」
「その心の貧しさはどうやったら治るのかしら。お母さんが聞いたら泣くわよ、きっと」
周囲の喧騒で聞こえなかった振りをして、エンジンをかけた。
家に着いて早々に、女優は態度を豹変させた。
家の外観も内装も素敵だとべた褒めして、それを聞いた家主は小躍りして喜んだ。
この二人は息が合うようだ。
一度部屋に戻り、アビーを連れてリビングに戻る。
「信じられない。すっごい可愛いっ。抱っこさせてっ」
芦川は声調を二段上げた。
「アビーちゃん、どうしてこんな無感情で無愛想な男のところに来ることになったの?かわいそうにね」
「猫をあやす振りをして、本人の目の前で悪口を言うな」
しばらくして、家の前に車が停まる気配がした。
意気投合する二人に居場所を奪われていたところだ。チャイムを待つことなく玄関に向かう。
塩崎を連れ、部屋に戻ると、神妙な面持ちの二人が背筋を伸ばしていた。
「紹介しますね。芦川凛音さんと、叔母の市ノ瀬はいいですよね?こちらが塩崎さんです」
「きゃあ。これがアビー?想像以上に可愛いんですけど。しっぽが長ーい。あ、ごめんなさい。塩崎です。初めまして」
彼女は芦川からアビーを受け取り、頬ずりしながら相好を崩した。
そのまま仕事の話題は友好的に始まった。
「それで、芦川さん、どうしてわたしなんかを指名して下さったのかしら」
「はい、作品を拝見して、すごく素敵だったので。是非撮っていただけたらなって」
だが、塩崎は、態度こそ物腰柔らかだったが、核心に入りそうになると、はっきりしない答えばかり返した。
「人物はほとんど撮ったことがないのよ。芦川さんみたいに可愛い方を、お仕事として失敗するわけにはいかないし」
アビーを脚の上に抱いたまま、会話が少しでも途切れると、すぐに猫を主役にしたがった。
誰の目にも、依頼を受けるつもりがないのは明らかだ。
詩乃はずっと緊張したままで、芦川も、途中からあきらめたのか、殊勝な態度で、話し合いはそのまま平行線をたどった。
ほどなくして、話題も尽きてくる。
このままでは、クラスメートから向けられた期待に応えられない。
「そのカバン、カメラが入ってるんですか?」
「今日はプライベートだから一体型のを、ね、知り合いがリニアの施設を見学したいらしくて、このあと待ち合わせなんだ」
どうにか時間稼ぎをしたかったが、次の予定を言われては万事休すだった。
「いいお返事ができなくてごめんなさいね」
芦川も引き留める気配がない。
仕方ない。
自分の生き方を確立した大人を翻意させるよりは、気の強い高校生を説得するほうが、まだ可能性は高いだろう。
「リニアって都留ですよね。もし良かったら送りましょうか?バイクですけど」
「いいの?じゃあ、お願いしようかな――」
そう言って席を立ったフォトグラファーの表情が硬くなった。
「ねっ、ちょっと待って。そこにあるレンズ、見てもいいっ?」
「ああ、すごく古いですよ。ほとんど価値もないみたいです」
しかし彼女は圭太の言葉をまるで聞いていなかった。
素早く書棚の前に移動すると、息を止めたのがわかる。ガラスケースをもどかしそうに開けた。
「ニッコールの8.5cmF2だ……。えっ、これ、フジノンの5cmF1.2ウソでしょ……。ちょっと待ってっ。こっち、ズノー35mmF1.7?!うそ、うそっ。信じられない。状態、めっちゃいいじゃんっ」
荒い息づかいが部屋中に響く程度に興奮していた。
レンズを慎重に元に戻すと、そばにいた圭太の腕を力強く掴んだ。
「ね、これ誰のっ?」
「誰って。叔母さん……のですよね?」
そう言うと、足がもつれそうになりながら、彼女は詩乃の元に駆け寄った。
「あの、もし使ってないのでしたら譲ってもらえませんかっ?もちろんお金は払います。全部じゃなくてもいいです。一つでも結構ですので」
「珍しいものなんですか?僕もネットで調べましたけど、せいぜい一万円くらいだったような」
「一万円っ?!いったい何を調べたの?」
「カメラです。その端にある本体――」
「本体はどれだけ希少でも、あまりほしがる人はいないよ。骨董品としての価値が出るほど古くはないし、使うには、フィルムカメラはデジタルに比べて使い勝手が極端に悪いのはわかるでしょう。その点、レンズはマウントアダプター経由で最新の機器にも取り付けられるし――」
よほど興奮しているのだろう、単語が聞き取れないくらいに早口だ。
「それで、いかがですか?譲っていただけますかっ?」
「私の、というか父の形見なんです。そうですね、母もいないですし。ああ、でも圭太さんと――千紘ちゃんにも確認したほうがいいのかしら……」
詩乃が悩む様子を見せていたとき、どこかで携帯の振動音が聞こえた。塩崎が、デニムのショートパンツのポケットからはみ出しそうになっていた携帯を取り出す。画面を一瞥したあと、英語で話し始め、条件反射なのか、詩乃が蝋人形のように固まった。
どうやらジョーイが駅に着いたということらしい。
「今日はとりあえずこれで失礼します。もし譲っていただけるようでしたら、ぜひご一報下さい。連絡先は――君が知ってるよね。じゃあ、駅まで送ってくれる?」
彼女は「それじゃあ」と軽い口調で挨拶をして、慌ただしく家をあとにした。