翌週、期末試験が終わったあと、十島が学校を休んだ。二日連続でだ。
彼女と比較的仲の良い生徒からの情報では、どうやら文化祭の集客が心労になっているのではということだった。
「普通そんなことで休むか?ああ見えてくそ真面目だからな、あいつは」
昼休み、落居があきれたように言ったが、立場上、そう簡単に同調することはできない。
最近、心が穏やかになる時間が極端に少ない気がする。何かしら、悩みごとが頭の片隅に常駐しているのだ。
「学校からの予算、いくらくらいオーバーしてるんだろう」
「三十人で割ったら大した金額じゃないだろ、きっと」
クラスで渦巻いている不満。
女子たちは男子の無責任さと非協力的な態度といったところか。対して男子たちは自分たちの意見が通らなかったことと、儲かる見込みがないこと。
高校はかなり広い範囲に一校しかなく、地元住民たちの参加は積極的らしく、地方の高校の文化祭ながら、毎年盛況だということだ。
部活をしている生徒は、先輩たちから過去の栄光を耳にしているらしい。模擬店でいくら稼ぎ、クラスでバーベキューに行っただの、カラオケパーティをしただの。
「つまり売り上げが見込めれば、男子はやる気になり、女子も満足することになるんだろうけど」
午後の授業はあまり身が入らなかった。
十島不在の理由を聞いてしまった以上、圭太が傍観するわけにはいかないからだ。
放課後、一度家に戻ってからバイクで彼女の家に向かう。
インターフォンを押してから気づいた。
先に連絡しておけば良かったことに。
そして、見舞いの品を何一つ持っていないことにも。
父親はまだ仕事の時間なのだろう、応対に出たのは予想通り彼女自身で、あまりの段取りの悪さに自己嫌悪に陥った。
「どなたですか?」
「悪い、僕なんだけど。長坂」
「えっ。長坂くん?ちょ、ちょっと待っててくれる」
顔を見たらすぐ帰るから、と言う言葉は一文字も伝わることなく、通話は切れた。
十分ほどして、制服姿の彼女が顔を出した。
髪がいつになく無造作な雰囲気だ。
「ごめん、急に来ちゃって。それで、なんで制服――」
「気にしないで。家、入る?」
以前と同じく、リビングに通された。
以前と同じく、三人掛けのソファの両側に二人で座る。
以前と違ったのは、彼女の父がいないこと。
十島は見た目、いつもと変わりなく見えた。
「大丈夫なのか、体調とか……」
「心配してくれたんだ。うれしい。体は全然大丈夫なんだけど――。何となくみんなから無能って思われてるんじゃないかって」
「落居も言ってたけどさ、そこまで気にすることないんじゃないか」
その名前を出すと、一瞬苦々しい表情を見せた。
「そうかもしれない。けど、文化祭委員らしいこと、ほとんど何もしてないし。それでいて結果が赤字とかだったら、やっぱり申し訳なくて」
何もしていない、といっても彼女の役割はそれとなく聞いている。
予算の確保に経費の申請、生徒会との連絡役。それら事務作業を行うだけでも、無給であることを考えれば、十分すぎる働きではなかろうか。
「それにさ、うちのクラスだけの努力で来場者がどうにかなるもんでもないだろう」
「それはそうなんだけど。あー……うちのクラスに読モでもいてくれたらなあ」
「今、毒蜘蛛って言った?」
「読者モデルって知らない?」
彼女の説明を聞き、ふと気づいた。
「読モじゃないとダメなのか」
「どういう意味?もし読モがいたら、集客に貢献してもらいたいって、そういう意味で言ってるんだけど」
「それは理解してるつもりだ。例えばだけど――」
どうしてそんな名前を出してしまったのか、後先考えずの行動に、家に帰ってからひどく後悔した。
そもそも、圭太から連絡することが可能なのか。
仮にできたとして、了承してくれるとはとても思えなかった。
さらには、彼女が万一承諾したとして、所属する事務所のような組織も関わってくるのではなかろうか。
ベッドに入ってから悶絶した。
枕に顔をつけ、自身の軽はずみな言動に咆哮した。
やはり無理だと断るため、携帯を手にしては、歓喜した十島の顔が頭に浮かんでため息をつく、という行動を何度か繰り返し、気づくと日付は変わっていた。
長い検討のすえ、あんな態度を取る人間を説得できるはずがない、という結論に達した。
次の日、断るなら早いほうがいいと、心に決めて家を出る。
校門を入ったところに、十島が立っているのを見て、気が重くなった。
だが、圭太を見つけ、小走りに近づいてきた彼女の表情は、予想とは少し違っていた。
前日の喜び方からは想像できない程度に険しい。
挨拶もそこそこに、真横に体をつけ、同じ歩幅で歩き出した。
「長坂くん、昨日のことなんだけど」
「こっちもそのことでちょっと」
「何。そっちから言ってよ」
「え……と、やっぱり芦川に頼むの、無理かもしれないって」
視線の端で、相手の反応を窺った。落胆の表情を予想して。
だが、ほとんど変化がないように見える。
「そっちは?」
彼女は黙って圭太を教員棟の方向へ誘導した。
周囲に人がほとんどいなくなった頃、正面に移動する。
「ねえ、あんな有名人と、どうやって知り合ったの?そういえば、この前買った映画、凛音ちゃんを観るためなの?」
深意を計りかねる質問だった。
「叔母さんのお客さんだったんだ。映画は、会ったときに教えられたからだけど」
「それだけ?」
「それだけ……」
「じゃあ聞くね。客寄せをお願いしようとしたってことは、連絡先、知ってるんだよね。その程度でそこまでの関係になるかな」
そう言うと眼鏡の位置を直した。
光の反射で目が見えなくなる。
視線なしでは、表情が、そして感情が読み取れないことを知った。
「何を聞きたいのか、よくわからないんだけど」
「……特別な関係だったりするの?」
「それって恋人とか、そういうの?あり得ないだろ」
「だったらどういう関係?」
どうして問い詰められているのだ。
「あの映画っていつ公開されたやつか、わかるか」
「よく覚えてないけど。去年だったかな」
「去年公開された恋人が出演している映画を、一年も経ってから家で観るわけないだろ」
「何、それで論破したつもり?知り合ったのが二週間前で、それから急に関係が深まっただけなのかもしれないじゃない」
「ああ、なるほどね……って、いや、どうしてそこまで勘ぐるのか、意味不明なんだけどさ」
「本当にわかんないの?それともわからない振りしてるだけ?」
そう言う声はわずかに上ずっていた。
頬が染まっているように見えたのは、朝の日差しの加減ではないだろう。
文化祭実行委員就任の経緯を持ち出すまでもなく、入学式の日に会って以来、彼女の圭太への態度が、他の生徒と違うことには気づいていた。
それを、単なる親交の表現と呼んでいいのか。
これまで人間関係を希薄なままに過ごしてきた応報を痛感する。
「えーと。こんなことは絶対ないとは思うんだけど……」
芦川に謝るときよりも遥かに、続きの言葉を口にすることが困難だった。
喉が締めつけられる。
十島が視線を落とし、停滞した空気を打開する役目が圭太に委ねられる。
それが同性であったとしても、相手の気持ちを尋ねることは容易ではない。
しばらくして、圭太の脳の回路がショートした音でも聞こえたのか、彼女は大きくため息をつくと、投げやりな口調で沈黙を破った。
「もう、いいよ。一つだけ教えて。長坂くん、誰か好きな人、いる?」
ごくありふれた質問だ。ただ、その言葉に、圭太の中の緊張が、五年前の不快な記憶によって駆逐される。
感情の変化が相手にも伝わったのか、十島は慌てた表情に変わった。
「え……。もしかしているの?もしそうならはっきり言ってほしいっ」
教員棟の先には教師専用の駐車場があり、人の出入りが続いていた。
授業開始までには、時間があるようだ。
周囲を見回したが、校舎の入り口までは距離があって、生徒たちの声は遠くに聞こえるだけだ。
「今から言うこと、絶対秘密にできるって約束できるか?」
予想していた返事ではなかったのだろう、彼女は目を見開いた。
「何、どういう意味?」
「意味は……これから話すから。絶対守れるなら、だけど」
十島はしばらく口を半開きにして圭太を見つめていた。
「OMは……知ってるの?」
「もちろん知らない。他人に言うのは、人生でこれが初めてなんだから」
「だったら、絶対言わないよ。一生。約束するっ」
すでに二人の距離はかなり近かったが、彼女はそう言いながらさらに半歩近づいた。
光の角度が変わり、目がはっきり見える。
「僕は……女の人に興味が持てないんだ。少なくとも今は」
いつかこのことを誰かに打ち明けるときがくるのかと、これまで思い浮かべたことはあった。
そのときはどういう表現にするべきかと。
ある程度は予想していた通り、相手はその目に不安の色を浮かべた。
「それって……あたしを拒絶する目的で、話してるの?」
「もちろん違う。言葉通りの意味だ」
息を止めて相手の反応を待っていたが、やがて彼女は悲しそうな薄笑みを浮かべた。
「そんな展開、予想できないよ……。まさかあたしのほうが一人芝居だったなんて」
そして、「約束は守るから」と、聞き取れるかどうかの声を出し、早足で校舎に姿を消した。
何か違った。
想像していた反応とは。
理由は不明だが、きっと彼女は何か誤解している。
あえて、それを解くべきだろうか。
その日、十島とは昼休みを含めて、ほとんど目を合わせることはなかった。
放課後に、昇降口で彼女が人待ちの気配で立っているのを見たときも、その対象が圭太だとは思っていなかった。
二人分ほど離れて通り過ぎようとしたとき、無言で横に並び、歩調を合わせた。
しばらくしてぽつりと言った。
「あのさ。やっぱりお願いしていいかな。凛音ちゃんに頼むの」
朝の状態なら、きっと断っていただろうが――二人の空気感が微妙に変化したせいで、拒否できなかった。
「やってはみるけど」
「そう。じゃあ、頼んだね」
無理して作ったような笑顔を向け、彼女は去って行った。
「やっぱり――余計なこと言わなきゃ良かったな」
ただ、別の悩みが新たに発生したことで、相対的に、芦川に連絡することへの抵抗が少なくなったのは確かだ。
「ちょっと相談があるんだけど。良かったら、会ってもらえないかな。場所はそっちに合わせるから」
ほとんど悩むことなく、メッセージを送信した。
バスを待っているとき、携帯が振動した。
返信のメッセージかと思ったが、振動が続く。
よくみると詩乃から電話の着信だ。
「圭太さん、ごめんなさい。今、時間あるかしら」
「ええ、どうかしましたか?」
「都留に行ってもらえない?私、別のお客さんとの約束があるのをすっかり忘れてしまっていたの」
「ダブルブッキングですか?行くのは構わないですけど。何もできませんよ」
「とりあえず謝ってもらいたいの。清里さんて方。女性よ。嫌な役目を押しつけてしまって申し訳ないんだけど。今のお客さんの猫ちゃん、あまり具合が良くなくて今日、明日には帰れないと思う。そっちのお客さんが緊急だったら……。そうね、タクシーで往復するしかないわね」
前日に送ったのは国立だ。
都留まで車での往復なら、時間もお金もかなりかかる。
「わかりました。とりあえず向かいます。住所、メールして下さい」
家に戻り、着替えもせずにバイクを出した。
目的地に到着したとき、すでに約束の時間をかなり過ぎていた。
「市ノ瀬です。給薬に伺いました」
「遅いわ。早く上がってきてっ」
苛立った声が途切れるのと同時に、オートロックの自動ドアが開いた。
社会で関わる他人の多くは不機嫌なのかもしれない。
玄関で待ち構えていたのは、ひとまとめにした髪を、片側で結んだ三十代後半くらいの女性だった。主婦という雰囲気ではない。最低限の化粧はしているようだったが、かなりやつれて見えた。
「あなたが……市ノ瀬さん?女の人だって聞いてたけど」
あからさまに、いぶかしげな反応だった。目の前に現れたのが、制服姿の男子高校生となれば、それも当然か。
「申し訳ないのですが、市ノ瀬は別のお客さんのところにいまして。すぐに来れそうにないので、取り急ぎ状況を確認させてもらえればと。僕は助手をしています」
彼女は「助手?」と、繰り返して腕を組み、不信感を隠そうとしなかった。
そもそも聞いたことのない、いかがわしい職業だ。その従者なる者を警戒するのはまっとうな神経だろう。
「急用っていうけど。こっちだって切羽詰まってるのよ」
「あの、本当にすみません。なるべく早くこちらに伺えるようにしますので。それで、猫ちゃんの年齢と症状を聞かせてもらえますか?」
「そうね……。猫は十一歳。雄よ。嘔吐を繰り返して、ほとんど食欲もないの。獣医さんからもらったお薬をどうにか飲ませようとしたんだけど、すごく嫌がって。家族は私しかいないのに、このままだと私のこと、怖がるようになっちゃうから……」
「ちなみに、緊急となれば、獣医さんを頼っていただくことは可能ですか?」
「あのさ、獣医にやらせるくらいなら無理矢理でも私がするわ。そうはしたくないから、頼んでるんでしょっ」
これまで圭太が同行した先で、あの鎌倉の夫婦以外はみな決まって同じことを言った。
猫が薬を飲まない。無理矢理飲ませると、関係が悪くなるかもしれない、と。
どうして専門家ではなく、こんな怪しげな職業を頼るのだろう。
もし詐欺だったらどうするつもりなのだろうか。
そもそも、こんなに需要があるなら、猫が好む味付けの薬を作ればいいじゃないか。
製薬会社の怠惰なマーケティングを不可解に思うしかなかった。
「わかりました。食事をとらなくなってどれくらいですか?」
「ごめん、ちょっと待ってて」
高校生相手に声を荒げたことを恥じたのか、依頼主はやや声音を落として奥に消え、一枚の紙を手に戻ってきた。
「最後に食べたのが一昨日の夜なの。パウチのエサをスプーン一杯だけ」
用紙の内容が目に入った。日付と食事の内容を記してあるようだ。
「ね、ちなみにどうやって薬をやるの?」
その言葉に圭太の思考が停止する。
そういえば――。見たことがない。
飼い主も、あるいは獣医ですらできないことを、どうやって詩乃が遂行しているのか。
「すみません、僕は処置のときには立ち会わないので――」
そのとき、部屋で携帯の振動音が響き、彼女は小走りに中へと消えた。
続けて、課長という単語が聞こえたが、別の部屋に移動したのか、すぐに気配はなくなった。
「給薬の手法か」
叔母のリュックの中は見たことがある。
シリンジという、注射器の針がない物やオブラート、乳児用の粉チーズに、ご飯の振りかけが何種類か。
一つの手法だけで薬を与えているわけではないのだろう。
しばらくして、「えっ、もう来てるんですか?」と、そんな声がしたあと、再び姿を見せた清里は、明らかに慌てた様子だった。
「ごめん、今日はもういいわ。いつ来れるか、また連絡くれる?」
それまでとは違い、早く帰れという気配を体中にまとっていた。
「わかりました。すぐに状況を報告します。その上で改めて叔母……市ノ瀬から連絡させますので」
玄関を出るのと同時に、勢いよく扉が閉まる。
エレベーターへと歩き出して間もなく、行く手から、中年の男性が向かってくるのが見えた。
もしかして、これが理由かと、顔を合わせないよう、視線を落として通り過ぎようとしたときだ。
「な、長坂くん?」
知っている大人の中に、圭太をそんな風に呼ぶ人間はいない。
顔を見て驚いた。
誰かわからなかったからだ。
それはすぐに伝わったのだろう、男は慌てたように胸に手を当てた。
「十島です。千紘の父の」
「ああ。こんにちは……いえ、こんばんは」
「もしかして、今、あの部屋から……?」
不安そうに指を差し出したのを見て、頭が猛回転した。
「違うんです、仕事だったんです」
「仕事って……」
「猫ですっ」
薄暗い通路に意味不明の単語が響く。
直後に、後方から声がした。
「課長、何してるの……?」
とんでもない偶然だった。
二人は、会社の同僚だという。
「私の上司なの」
大人の恋愛事情になど、まるで興味がない。
早々に帰りたかったにもかかわらず、とりあえず入れと言われ、さほど大きくないダイニングキッチンのテーブルに向かい合わせに座らされた。
清里の堂々とした態度とは裏腹に、彼はばつが悪そうにしていたが、やがてぎこちない作り笑顔で言い訳を始めた。
「このことはまだ千紘は知らないんです。いえ、何度も話そうとはしたんですけど……」
「何も悪いことしてないでしょ。独り身なんだから」
彼女は苛立ったように、テーブルの上で所在なげにしていた彼の手を握った。
「それはそうだけど……。このことは、自分の口から伝えたいので、その、千紘には黙っていてもらえますか?」
「ええ、わかりました」
どうして、望んでもいない秘密が増えていくのだ。
マンションを出たところで、大きく深呼吸をしてから、詩乃に電話した。
「三日目ならまだ大丈夫かしら。記録を付けてるってことは、きっと前にも経験がある人なのね。こちらが一段落したら、連絡してみるわ。もしかしたら、迎えに来てもらうことになるかもしれないけど」
「僕はいつでも構いません」
その日の夜、「今日は行かないことになりました」と、メッセージがあった。
彼女と比較的仲の良い生徒からの情報では、どうやら文化祭の集客が心労になっているのではということだった。
「普通そんなことで休むか?ああ見えてくそ真面目だからな、あいつは」
昼休み、落居があきれたように言ったが、立場上、そう簡単に同調することはできない。
最近、心が穏やかになる時間が極端に少ない気がする。何かしら、悩みごとが頭の片隅に常駐しているのだ。
「学校からの予算、いくらくらいオーバーしてるんだろう」
「三十人で割ったら大した金額じゃないだろ、きっと」
クラスで渦巻いている不満。
女子たちは男子の無責任さと非協力的な態度といったところか。対して男子たちは自分たちの意見が通らなかったことと、儲かる見込みがないこと。
高校はかなり広い範囲に一校しかなく、地元住民たちの参加は積極的らしく、地方の高校の文化祭ながら、毎年盛況だということだ。
部活をしている生徒は、先輩たちから過去の栄光を耳にしているらしい。模擬店でいくら稼ぎ、クラスでバーベキューに行っただの、カラオケパーティをしただの。
「つまり売り上げが見込めれば、男子はやる気になり、女子も満足することになるんだろうけど」
午後の授業はあまり身が入らなかった。
十島不在の理由を聞いてしまった以上、圭太が傍観するわけにはいかないからだ。
放課後、一度家に戻ってからバイクで彼女の家に向かう。
インターフォンを押してから気づいた。
先に連絡しておけば良かったことに。
そして、見舞いの品を何一つ持っていないことにも。
父親はまだ仕事の時間なのだろう、応対に出たのは予想通り彼女自身で、あまりの段取りの悪さに自己嫌悪に陥った。
「どなたですか?」
「悪い、僕なんだけど。長坂」
「えっ。長坂くん?ちょ、ちょっと待っててくれる」
顔を見たらすぐ帰るから、と言う言葉は一文字も伝わることなく、通話は切れた。
十分ほどして、制服姿の彼女が顔を出した。
髪がいつになく無造作な雰囲気だ。
「ごめん、急に来ちゃって。それで、なんで制服――」
「気にしないで。家、入る?」
以前と同じく、リビングに通された。
以前と同じく、三人掛けのソファの両側に二人で座る。
以前と違ったのは、彼女の父がいないこと。
十島は見た目、いつもと変わりなく見えた。
「大丈夫なのか、体調とか……」
「心配してくれたんだ。うれしい。体は全然大丈夫なんだけど――。何となくみんなから無能って思われてるんじゃないかって」
「落居も言ってたけどさ、そこまで気にすることないんじゃないか」
その名前を出すと、一瞬苦々しい表情を見せた。
「そうかもしれない。けど、文化祭委員らしいこと、ほとんど何もしてないし。それでいて結果が赤字とかだったら、やっぱり申し訳なくて」
何もしていない、といっても彼女の役割はそれとなく聞いている。
予算の確保に経費の申請、生徒会との連絡役。それら事務作業を行うだけでも、無給であることを考えれば、十分すぎる働きではなかろうか。
「それにさ、うちのクラスだけの努力で来場者がどうにかなるもんでもないだろう」
「それはそうなんだけど。あー……うちのクラスに読モでもいてくれたらなあ」
「今、毒蜘蛛って言った?」
「読者モデルって知らない?」
彼女の説明を聞き、ふと気づいた。
「読モじゃないとダメなのか」
「どういう意味?もし読モがいたら、集客に貢献してもらいたいって、そういう意味で言ってるんだけど」
「それは理解してるつもりだ。例えばだけど――」
どうしてそんな名前を出してしまったのか、後先考えずの行動に、家に帰ってからひどく後悔した。
そもそも、圭太から連絡することが可能なのか。
仮にできたとして、了承してくれるとはとても思えなかった。
さらには、彼女が万一承諾したとして、所属する事務所のような組織も関わってくるのではなかろうか。
ベッドに入ってから悶絶した。
枕に顔をつけ、自身の軽はずみな言動に咆哮した。
やはり無理だと断るため、携帯を手にしては、歓喜した十島の顔が頭に浮かんでため息をつく、という行動を何度か繰り返し、気づくと日付は変わっていた。
長い検討のすえ、あんな態度を取る人間を説得できるはずがない、という結論に達した。
次の日、断るなら早いほうがいいと、心に決めて家を出る。
校門を入ったところに、十島が立っているのを見て、気が重くなった。
だが、圭太を見つけ、小走りに近づいてきた彼女の表情は、予想とは少し違っていた。
前日の喜び方からは想像できない程度に険しい。
挨拶もそこそこに、真横に体をつけ、同じ歩幅で歩き出した。
「長坂くん、昨日のことなんだけど」
「こっちもそのことでちょっと」
「何。そっちから言ってよ」
「え……と、やっぱり芦川に頼むの、無理かもしれないって」
視線の端で、相手の反応を窺った。落胆の表情を予想して。
だが、ほとんど変化がないように見える。
「そっちは?」
彼女は黙って圭太を教員棟の方向へ誘導した。
周囲に人がほとんどいなくなった頃、正面に移動する。
「ねえ、あんな有名人と、どうやって知り合ったの?そういえば、この前買った映画、凛音ちゃんを観るためなの?」
深意を計りかねる質問だった。
「叔母さんのお客さんだったんだ。映画は、会ったときに教えられたからだけど」
「それだけ?」
「それだけ……」
「じゃあ聞くね。客寄せをお願いしようとしたってことは、連絡先、知ってるんだよね。その程度でそこまでの関係になるかな」
そう言うと眼鏡の位置を直した。
光の反射で目が見えなくなる。
視線なしでは、表情が、そして感情が読み取れないことを知った。
「何を聞きたいのか、よくわからないんだけど」
「……特別な関係だったりするの?」
「それって恋人とか、そういうの?あり得ないだろ」
「だったらどういう関係?」
どうして問い詰められているのだ。
「あの映画っていつ公開されたやつか、わかるか」
「よく覚えてないけど。去年だったかな」
「去年公開された恋人が出演している映画を、一年も経ってから家で観るわけないだろ」
「何、それで論破したつもり?知り合ったのが二週間前で、それから急に関係が深まっただけなのかもしれないじゃない」
「ああ、なるほどね……って、いや、どうしてそこまで勘ぐるのか、意味不明なんだけどさ」
「本当にわかんないの?それともわからない振りしてるだけ?」
そう言う声はわずかに上ずっていた。
頬が染まっているように見えたのは、朝の日差しの加減ではないだろう。
文化祭実行委員就任の経緯を持ち出すまでもなく、入学式の日に会って以来、彼女の圭太への態度が、他の生徒と違うことには気づいていた。
それを、単なる親交の表現と呼んでいいのか。
これまで人間関係を希薄なままに過ごしてきた応報を痛感する。
「えーと。こんなことは絶対ないとは思うんだけど……」
芦川に謝るときよりも遥かに、続きの言葉を口にすることが困難だった。
喉が締めつけられる。
十島が視線を落とし、停滞した空気を打開する役目が圭太に委ねられる。
それが同性であったとしても、相手の気持ちを尋ねることは容易ではない。
しばらくして、圭太の脳の回路がショートした音でも聞こえたのか、彼女は大きくため息をつくと、投げやりな口調で沈黙を破った。
「もう、いいよ。一つだけ教えて。長坂くん、誰か好きな人、いる?」
ごくありふれた質問だ。ただ、その言葉に、圭太の中の緊張が、五年前の不快な記憶によって駆逐される。
感情の変化が相手にも伝わったのか、十島は慌てた表情に変わった。
「え……。もしかしているの?もしそうならはっきり言ってほしいっ」
教員棟の先には教師専用の駐車場があり、人の出入りが続いていた。
授業開始までには、時間があるようだ。
周囲を見回したが、校舎の入り口までは距離があって、生徒たちの声は遠くに聞こえるだけだ。
「今から言うこと、絶対秘密にできるって約束できるか?」
予想していた返事ではなかったのだろう、彼女は目を見開いた。
「何、どういう意味?」
「意味は……これから話すから。絶対守れるなら、だけど」
十島はしばらく口を半開きにして圭太を見つめていた。
「OMは……知ってるの?」
「もちろん知らない。他人に言うのは、人生でこれが初めてなんだから」
「だったら、絶対言わないよ。一生。約束するっ」
すでに二人の距離はかなり近かったが、彼女はそう言いながらさらに半歩近づいた。
光の角度が変わり、目がはっきり見える。
「僕は……女の人に興味が持てないんだ。少なくとも今は」
いつかこのことを誰かに打ち明けるときがくるのかと、これまで思い浮かべたことはあった。
そのときはどういう表現にするべきかと。
ある程度は予想していた通り、相手はその目に不安の色を浮かべた。
「それって……あたしを拒絶する目的で、話してるの?」
「もちろん違う。言葉通りの意味だ」
息を止めて相手の反応を待っていたが、やがて彼女は悲しそうな薄笑みを浮かべた。
「そんな展開、予想できないよ……。まさかあたしのほうが一人芝居だったなんて」
そして、「約束は守るから」と、聞き取れるかどうかの声を出し、早足で校舎に姿を消した。
何か違った。
想像していた反応とは。
理由は不明だが、きっと彼女は何か誤解している。
あえて、それを解くべきだろうか。
その日、十島とは昼休みを含めて、ほとんど目を合わせることはなかった。
放課後に、昇降口で彼女が人待ちの気配で立っているのを見たときも、その対象が圭太だとは思っていなかった。
二人分ほど離れて通り過ぎようとしたとき、無言で横に並び、歩調を合わせた。
しばらくしてぽつりと言った。
「あのさ。やっぱりお願いしていいかな。凛音ちゃんに頼むの」
朝の状態なら、きっと断っていただろうが――二人の空気感が微妙に変化したせいで、拒否できなかった。
「やってはみるけど」
「そう。じゃあ、頼んだね」
無理して作ったような笑顔を向け、彼女は去って行った。
「やっぱり――余計なこと言わなきゃ良かったな」
ただ、別の悩みが新たに発生したことで、相対的に、芦川に連絡することへの抵抗が少なくなったのは確かだ。
「ちょっと相談があるんだけど。良かったら、会ってもらえないかな。場所はそっちに合わせるから」
ほとんど悩むことなく、メッセージを送信した。
バスを待っているとき、携帯が振動した。
返信のメッセージかと思ったが、振動が続く。
よくみると詩乃から電話の着信だ。
「圭太さん、ごめんなさい。今、時間あるかしら」
「ええ、どうかしましたか?」
「都留に行ってもらえない?私、別のお客さんとの約束があるのをすっかり忘れてしまっていたの」
「ダブルブッキングですか?行くのは構わないですけど。何もできませんよ」
「とりあえず謝ってもらいたいの。清里さんて方。女性よ。嫌な役目を押しつけてしまって申し訳ないんだけど。今のお客さんの猫ちゃん、あまり具合が良くなくて今日、明日には帰れないと思う。そっちのお客さんが緊急だったら……。そうね、タクシーで往復するしかないわね」
前日に送ったのは国立だ。
都留まで車での往復なら、時間もお金もかなりかかる。
「わかりました。とりあえず向かいます。住所、メールして下さい」
家に戻り、着替えもせずにバイクを出した。
目的地に到着したとき、すでに約束の時間をかなり過ぎていた。
「市ノ瀬です。給薬に伺いました」
「遅いわ。早く上がってきてっ」
苛立った声が途切れるのと同時に、オートロックの自動ドアが開いた。
社会で関わる他人の多くは不機嫌なのかもしれない。
玄関で待ち構えていたのは、ひとまとめにした髪を、片側で結んだ三十代後半くらいの女性だった。主婦という雰囲気ではない。最低限の化粧はしているようだったが、かなりやつれて見えた。
「あなたが……市ノ瀬さん?女の人だって聞いてたけど」
あからさまに、いぶかしげな反応だった。目の前に現れたのが、制服姿の男子高校生となれば、それも当然か。
「申し訳ないのですが、市ノ瀬は別のお客さんのところにいまして。すぐに来れそうにないので、取り急ぎ状況を確認させてもらえればと。僕は助手をしています」
彼女は「助手?」と、繰り返して腕を組み、不信感を隠そうとしなかった。
そもそも聞いたことのない、いかがわしい職業だ。その従者なる者を警戒するのはまっとうな神経だろう。
「急用っていうけど。こっちだって切羽詰まってるのよ」
「あの、本当にすみません。なるべく早くこちらに伺えるようにしますので。それで、猫ちゃんの年齢と症状を聞かせてもらえますか?」
「そうね……。猫は十一歳。雄よ。嘔吐を繰り返して、ほとんど食欲もないの。獣医さんからもらったお薬をどうにか飲ませようとしたんだけど、すごく嫌がって。家族は私しかいないのに、このままだと私のこと、怖がるようになっちゃうから……」
「ちなみに、緊急となれば、獣医さんを頼っていただくことは可能ですか?」
「あのさ、獣医にやらせるくらいなら無理矢理でも私がするわ。そうはしたくないから、頼んでるんでしょっ」
これまで圭太が同行した先で、あの鎌倉の夫婦以外はみな決まって同じことを言った。
猫が薬を飲まない。無理矢理飲ませると、関係が悪くなるかもしれない、と。
どうして専門家ではなく、こんな怪しげな職業を頼るのだろう。
もし詐欺だったらどうするつもりなのだろうか。
そもそも、こんなに需要があるなら、猫が好む味付けの薬を作ればいいじゃないか。
製薬会社の怠惰なマーケティングを不可解に思うしかなかった。
「わかりました。食事をとらなくなってどれくらいですか?」
「ごめん、ちょっと待ってて」
高校生相手に声を荒げたことを恥じたのか、依頼主はやや声音を落として奥に消え、一枚の紙を手に戻ってきた。
「最後に食べたのが一昨日の夜なの。パウチのエサをスプーン一杯だけ」
用紙の内容が目に入った。日付と食事の内容を記してあるようだ。
「ね、ちなみにどうやって薬をやるの?」
その言葉に圭太の思考が停止する。
そういえば――。見たことがない。
飼い主も、あるいは獣医ですらできないことを、どうやって詩乃が遂行しているのか。
「すみません、僕は処置のときには立ち会わないので――」
そのとき、部屋で携帯の振動音が響き、彼女は小走りに中へと消えた。
続けて、課長という単語が聞こえたが、別の部屋に移動したのか、すぐに気配はなくなった。
「給薬の手法か」
叔母のリュックの中は見たことがある。
シリンジという、注射器の針がない物やオブラート、乳児用の粉チーズに、ご飯の振りかけが何種類か。
一つの手法だけで薬を与えているわけではないのだろう。
しばらくして、「えっ、もう来てるんですか?」と、そんな声がしたあと、再び姿を見せた清里は、明らかに慌てた様子だった。
「ごめん、今日はもういいわ。いつ来れるか、また連絡くれる?」
それまでとは違い、早く帰れという気配を体中にまとっていた。
「わかりました。すぐに状況を報告します。その上で改めて叔母……市ノ瀬から連絡させますので」
玄関を出るのと同時に、勢いよく扉が閉まる。
エレベーターへと歩き出して間もなく、行く手から、中年の男性が向かってくるのが見えた。
もしかして、これが理由かと、顔を合わせないよう、視線を落として通り過ぎようとしたときだ。
「な、長坂くん?」
知っている大人の中に、圭太をそんな風に呼ぶ人間はいない。
顔を見て驚いた。
誰かわからなかったからだ。
それはすぐに伝わったのだろう、男は慌てたように胸に手を当てた。
「十島です。千紘の父の」
「ああ。こんにちは……いえ、こんばんは」
「もしかして、今、あの部屋から……?」
不安そうに指を差し出したのを見て、頭が猛回転した。
「違うんです、仕事だったんです」
「仕事って……」
「猫ですっ」
薄暗い通路に意味不明の単語が響く。
直後に、後方から声がした。
「課長、何してるの……?」
とんでもない偶然だった。
二人は、会社の同僚だという。
「私の上司なの」
大人の恋愛事情になど、まるで興味がない。
早々に帰りたかったにもかかわらず、とりあえず入れと言われ、さほど大きくないダイニングキッチンのテーブルに向かい合わせに座らされた。
清里の堂々とした態度とは裏腹に、彼はばつが悪そうにしていたが、やがてぎこちない作り笑顔で言い訳を始めた。
「このことはまだ千紘は知らないんです。いえ、何度も話そうとはしたんですけど……」
「何も悪いことしてないでしょ。独り身なんだから」
彼女は苛立ったように、テーブルの上で所在なげにしていた彼の手を握った。
「それはそうだけど……。このことは、自分の口から伝えたいので、その、千紘には黙っていてもらえますか?」
「ええ、わかりました」
どうして、望んでもいない秘密が増えていくのだ。
マンションを出たところで、大きく深呼吸をしてから、詩乃に電話した。
「三日目ならまだ大丈夫かしら。記録を付けてるってことは、きっと前にも経験がある人なのね。こちらが一段落したら、連絡してみるわ。もしかしたら、迎えに来てもらうことになるかもしれないけど」
「僕はいつでも構いません」
その日の夜、「今日は行かないことになりました」と、メッセージがあった。