彼女からメッセージが入ったのは、それから四時間後だ。
 太陽はしばらく前に木々の向こうに姿を隠していて、橙色の明かりが木漏れ日となり、圭太に近づく無表情な彼女の輪郭を形づくる。
「いくらなんでも遅すぎ――」
「悪かったわよ」
「え……。今、なんて……」
「わたしの映画って、何観たの?」
「いや、そうじゃなくて――」
「横浜に行くわ。このあたりはあまり食べるとこないでしょ。赤レンガに、よく行くお店があるの。そこなら人目を気にしないでゆっくりできるから」
「どうしてそんなに身勝手に振る舞えるんだよ。謙虚って言葉を――」
「仕方ないでしょ。女優として成功するってことは、生活を制限されることなんだから。わたしだって普通の高校生をうらやましいと思うことくらい、いくらでもあるわよ」
 自ら選択した結果だろう、と言いかけ、何かが気にかかった。
 さっきの井出の話だろうか。
 良くも悪くも小学生のときに決めた道。高校生の今、もし後悔があったとして責めることは酷かもしれない。あるいはレールは生まれる前から敷かれていた可能性もある、か。
 そう考えると、文句を言う気は失せ、黙って指示に従うことにした。
 女優が行くような店だからと、多少身構えていたが、案内されたところは、周囲の風景と一体化しているような古い洋食屋だった。
 店主となじみなのか、軽く会釈だけして、奥の半個室のようなところに真っ直ぐ進む。
「店長さん、前に同じ劇団にいた人なんだ。それで?何してたのよ、四時間も」
 憐れむような視線。他人事のような物言い。
 どうしてか、彼女の軽口を冗談と受け取れない。苛立ちを表に出さないよう慎重に答えた。
「別に。ネット見てただけだよ」
 それは本当だった。有料の投資情報サイトを閲覧していたのだ。
 多くは英語のサイトで、読むのに時間がかかる。四時間くらいはあっという間だ。
「インタビューはすぐ終わったのよ。これなら早く帰れるかなって思ってたら、カメラマンの人の手際が悪くて」
 珍しく言い訳めいた口調だった。さすがに待たせて悪いと思っているのだろうか。
 しばらくして食事が運ばれてきた。
 注文はすべて彼女が仕切っていたが、ビフテキやオムライスといったボリュームのある物ばかりだ。
 芦川は黙って小皿に取り分けると、圭太の前にだけ置いた。
「君は食べないのか」
「気は確か?今、撮影に入ってるのよ?こんなにカロリー高いの、食べられるわけないでしょ?」
 無知扱いされ、また頭に血が上りそうになる。それは単なる相づちなのだと、そう解釈するようにして、どうにか平静を保った。
「ちょっと、聞いてるの?」
「聞いてるよ。仕事が大変なことはわかったから。遅くなったことも怒ってない」
「あなたに文句言われる筋合いはまるでないわ。この前のこと、まだまだ謝罪が足りないんだから」
 くっ。
 可愛げ、という絶対的な才能が必要な職業なんじゃないのか。
 だが、怒ったら負けだ。そうでなくとも、彼女の前では何度か失敗しているのだから。
「カメラマンて――そんなに個人差があるもの?」
 必死に話題を変更した。
「そりゃそうよ」
「でも撮るのは機械だろ?しかもプロが使うようなのって、相当に高性能だと思うんだけど。ある程度広い範囲を撮影して、編集のときに加工する、とかじゃダメなのか?」
「は?馬鹿じゃないの?そんな簡単なわけないでしょ。それで済むんなら、どうしてそういう職業が存在できるのよ」
 そして何かが気に留まった。
 最近、まさに同じ疑問を持ったような。
「そういえば、知ってる人に写真を仕事にしている人、いたな」
「誰。としまって人?それとも、らくい?」
「何で勝手にアドレス帳を見てるんだよ――。その二人は同級生だ。しかもどっちも読み方が間違ってる」
「あなた、予想通り友達少ないわね。笑っちゃったわ。アドレス帳のページ、スクロールできなかったんだもん。ちなみにわたし、今、千人くらい。半分は歌手とか俳優さん。誰か会いたい人いたら、間に入ってあげよっか?」
 そのとき初めて、彼女の渇いた笑顔の先にあるのは、強がりなのだと、なぜかそう思った。
「今はいいよ。テレビとか見ないんだ」
「あー……。わたしのことも知らなかったくらいだしね。そのカメラマンの人って、市ノ瀬さんのお客さんだったの?」
「そう。塩崎実花(みか)って人。写真集も出してて、そこそこ有名人みたいだ」
「しおざき?ふーん、知らないわ。有名ってホントなの?」
 日本中の著名人と知り合いでなければ気が済まないのか。
 携帯にあった彼女の名刺の画像を見せると、へえ、とそれっきり口を閉ざした。
 食事が終わったのは夜の八時を過ぎた頃だ。
「悪いけど、家まで二時間かかるんだ。送らなくてもいいかな」
 ずっと手のかからない猫だと思っていたが、今日の井出の話を聞いて、独りにさせておくことが、少なからず不安になっていた。
「うん、ここからならどうやっても帰れるから」
「夕食代、本当にいいのか。またあとから難癖つけるなよ」
「ごめん、難癖がどういうものなのかわからない」
 そう言って無垢な笑顔を見せた。
 それには返事をしないでバイクにまたがる。
 車の流れに飲み込まれたとき、走り去る圭太を見つめる彼女がバックミラーに映っていた。
 帰宅してすぐ猫の確認をしたが、圭太の心配をよそにいつもの場所に丸くなって眠っていた。
 そっと体を撫でると、一瞬ぴくりと顔を上げ、そしてまた同じ格好に戻った。